2012年2月4日土曜日

パーリ語とサンスクリット語(3)


 ◎パーリ語人ソナカらが残した現存する遺物

 丹波がパーリ語の地名から生まれた地名だとすると、

 他にも同じようなものがなくてはならない。

 それを宣布団のリストから拾い出してみよう。

 スバンナ=周防の国(スバゥンナ)・諏訪の国。

 ヨナカ=与那国。

 ヤナカ=柳河・谷中。

 マハーラッタ=真原田。

 マヒサカ=舞阪(静岡県浜名郡)。

 カスミーラ=香住国(カスミーラ)(兵庫県城崎郡香住町)、霞ヶ浦。

 ガンダーラ=カンダハル=神田・上田原。

 パーリ語の発音だと、日印の地名がどれだけ近いか、

 パーリ語を話す人たちが渡来した事実がこれでよくおわかり戴けたと思う。

 その渡来者を『古事記』も記録している。

 崇神天皇の名乗りは 御真木 入日子 印恵 命 だ。

 「御=オ=ウ」「真=シン」「木=キ=王」で、「ウシンキ=牛の王」。

 朝鮮語では牛は「ソ」だから、「ソナカ=ソの人」は「牛の人」だと誤解される。

 これがソナカシチがウシキアリシチという別名をもっている理由だとわかるが、

 この名は一層よく御真木(ウシキ)入彦に合う。

 インドは発音者の言語差によって、sind シンド、Hind ヒンド、Ind インド と変化するが、

 日本語も発音差で

 「入り=ハイリ→アイリ→アリ」

 「ヒコ→日木=ヒキ→シチ(大隈語)」と変化する。

 ソナカと御真木は同一人物の名乗りだったのだが、

 『古事記』編集者が正しく理解できずに、

 まるで別人に見えるように歴史を「創作」してしまったのである。 

 ◎日本語の中に大量に発見される古代インド・パーリ語の痕跡

 「アショカ仏教が日本に来た」という何か証拠があるだろうか。

 加治木義博は第二次大戦末期には鹿児島県北部の栗野国民学校の教師をしていた。

 当時、考古学の大家として全国的に知られていた

 寺師見国(てらすみくに)医師が隣接した大口市におられたので、

 お訪ねしたついでにこの話もした。

 すると

 「ここには曲田(マガタ)という姓がありますが、

  それは関係ありませんかネ……」というヒントをいただいた。

 なぜそれがヒントになったかというと、

 アショカ王は「マガダ(Magada)国王」だったからである。

 ご存じのように「田」は「ダ」と発音する。

 このマガタは「マガダ」さんだった可能性が非常に高い。

 しかしこれ一つでは「他人のそら似」で証拠にはならないから、

 そんな国名や地名に共通するものがほかにないか、

 さがし始めた。

 最初にお話した鹿児島語とインド語の共通性はこうしたことから

 研究しはじめた結果だったのである。

 ところがインド、

 ことに古代にシヤカ(釋迦)が使った言葉であったパーリ語が、

 日本語に大量に入っていることが分かった。

 (詳しいことは加治木義博の『邪馬臺国の言葉』コスモ出版刊=1976年の付録参照)。

 そのパリー語ではギリシャ人のことを「ヨナ」と呼んでいる。

 まずその「ヨナ」から見ていこう。

 これは日本の南西諸島の中でも、

 いちばん南西にある島である「与那国島」の「ヨナ」と同じである。

 この島に限ってわざわざ「ヨナ国」と国の字がつけてある。

 これは周辺の島々の住民とは違った人間が、独立国として存在した名残りである。

 ではなぜ、パーリ語はギリシャと呼ばずに「ヨナ」と呼んだのだろうか?

 ギリシャは古来、大きくなったり小さくなったりしている。

 ご存じのとおりアレッサンドロス(英語なまり=アレキサンダーの時代には、

 それはエジプトからインドにまで拡大した。

 しかしアレッサンドロス自身が、それまでのギリシャ人からみれば、

 東のほうから流れてきた「マケドニア=マケド国」国民で、

 それが父王ピリッペ(英語なまり=フィリップ)の時代に、

 隣接したギリシャを「勢力下におさめた」ということだったのである。

 マケドニアは今はユーゴの中に入っているが、

 当時は今のシリア一帯の「イオニア」もその勢力下にあり、

 それらをひっくるめて、ギリシャと呼んでいたのである。「ヨナ」というのは、

 このイオニアをパーリ語流に、短く縮めた発音なのだ。

 「ソナカ~パーリ語~ヨナ国」と見てくると、

 私たち日本人の血には、どうやらこれまで余り縁のなさそうだった

 「遠い国」からやってきた血が流れている、と思わないわけにはいかなくなってくる。

 それは日本のいちばん南西のはし、そしてヨーロビアンの容貌をもった人たちがたくさんいる

 鹿児島~沖縄地方なのだ……。

 ◎仏教宣布団より前に来たイオニヤ人

 イオニヤ人の移住がアショカ仏教宣布団の渡来とは別だという証拠はまだほかにもある。

 それは仏教宣布団の言語であったパーリ語では、イオニヤを「ヨーナ」と発音して決して

 イオニヤとは発音しないという動かない重要な条件があるからである。

 このヨーナという発音からは、どんなにしても魚類を「イオ」と呼ぶ発音は生まれない。

 またヨーナの名は全く別の名詞として現在まで残っている。

 それは「与那国島」という島の名や

 「与那原・与那嶺・与那覇」という地名や姓として沖縄県に現存している。

 仮にイオニヤ人がバーリ語を話す仏教宣布団の一員としてやってきたのなら、

 それは先にみた生物名の命名原則に従って魚類を「ヨーナ」と呼ばねばならないのに

 「イオ」と呼んできた。

 これはイオニヤ人が別に渡来して、

 すでに新たな日本語を作りつつあった後に仏教宣布団が到着して、

 イオニヤ人の住む島を「ヨーナ国」と呼んだという以外に説明がつかない。

 では彼等はいつ、どんなコースでやってきたのか…。

 古くB.C.E.3世紀の秦の始皇帝の時代に、

 すでに台湾は「蓬莱=ホーライ=ギリシャの季節の妖精の名」と呼ばれていた。

 またギリシャ神話には金毛の羊皮を求めて、ラコーン(タイから中国南部の古名)や

 マラヤの岬(マライ半島)という地名のある沿岸を東に遠征した

 「アルゴ船」の有名な記録がある。

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