2012年2月18日土曜日

マレー語に関する章(3)



 《倭人は混成文化の持主

 倭人はなぜ、当時としては信じられないような測量ができたか?

 本当にそんな国文明をもっていたのであろうか?

 それは一体、どうして得られた知識であったのか?

 この疑問に対する答えは倭人伝の中にもありそうである。

 それには倭人の習俗や生活、習慣、産物などが、簡潔にではあるが、豊富に記録されている。

 また視点をかえてみると今や定説化している「北方騎馬民族説」がある。

 日本人の先祖が朝鮮半島を経て移住した北方人であるのなら、

 その知識は北方人の知識だったことになる。

 このことを頭において、

 魏書倭人章の記事のうち、

 その文明の由来を教えてくれるものがないか、

 幾つか検討してみることにしよう。

 「田」

 倭の筆頭にあげられた対馬以下、田について記載がある。

 良田がないので船で南北へ米や穀物を買い出しに行くとある。

 このことは倭人が北方騎馬民族ではないことを証明している。

 北方人は遊牧民で乳肉が主食であり田は作らない。

 倭人が魚介や海藻を食べるということと共に、

 東南アジア系の食習慣の持主であることを証拠立てている。

 「文身」

 入墨の習慣も南方系のもので、倭人章ではそれが中支系のものであろうと書いている。

 「蚕桑」

 カイコを飼って絹織物を織っているのも、

 北方の毛皮を着る人々のものではない。

 これは衣服の描写や、牛馬も羊もいないという記事と共に、

 遊牧民ではないことを証明している。

 はだしの習慣も南方人である。

 「朱丹」>

 倭人は赤土を、中国人の白粉(おしろい)のように使うとある。

 これはインドで今でもみる習慣で色絵具で手足に模様を描いたり、

 マレー語圏で顔などに赤土をぬったりする風習と同じである。

 これらはすべて、倭人が南方系であることを、はっきり証明しているというほかない。

 「喪」

 死者があると十余日喪に服し、肉類を食べない。

 これは見すごされているが、大きな問題を含んでいる。

 なぜなら、喪に服して肉食をしない、というのは仏教徒の教義に従っていることを示すからである。

 私たちがよく知っている精進料理しか食べないということは、

 これまで6世紀ごろに百済から始めて仏教が伝わったとされてきた考えと食いちがうように思われ、

 拒否反応があると思うが、はつきり明記されているのである。

 これも倭人はインド系か、

 それに近い南方人だったことを示すものといえる。

 「搏手」 

 長上に会うと手をうって敬意をあらわす。

 今では神を拝む際だけに残っているが、

 倭人章が嘘を書いていない証拠といえる。

 合掌の一種で、やはりインド系の習慣である。

 「一夫多妻」

 この習俗は現在では回教徒の間に広く見られるが、

 回教が生れたのは7世紀で、

 それ以前のアラビアの習慣をうけついだものであり、

 倭人はインド西部からアラブにかけての慣習を もっていた可能性がある。

 「土下座」

 一般人が長上に会うと土下座をして敬意をあらわす、という別の表敬法も記録されている。

 これもインド系の人々のほかにアラブ系の人々が多いことを物語っている。

 中国系は立礼で土に手をつく土下座はアラブ系だけである。

 「殉葬」

 卑弥呼を葬ったとき、男女百余名を一緒に葬ったとある。

 これは垂仁紀にも殉死記事があるのと支え合っている。

 この慣習は古くはメソポタミアにあり、やや下つて中国の殷(商)にもみられる。

 こうみてくると、

 倭人は広くアジア全域につながりがあるが、

 ことにインドを中心にした南国慣習がみられ、

 大和か九州かといった浅薄な対象でほなく、

 もっと国際的な広い視野が必要なことを示している。

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

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 ウワイト(倭人):大学講義録
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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