2012年2月16日木曜日

マレー語に関する章(1)



 《「弥生人の仲間」水稲とっいしょに来た弥生人

 弥生文化が水稲といっしょにやって来たことは、だれでも知っている。

 いまタイ国からビルマへかけての山地民族を調査してみると、

 そこでは細長いタイ米(上・インディカ種)ではなく、

 日本米(下・丸いヤポニカ種)よりさらに見事な、丸々とした大粒の米(中)が作られている。

 日本の初期水稲遺跡は自然の湿地帯を求めて開かれている。

 マレー語で水田をサワというが、まさに沢(さわ)こそ初期の水田だったのである。

 タイの山地民族はこの沢を利用して水田を作る。

 密林は火をかけて焼き払う。

 日本も当時は森林に覆われていたから、石斧で開くことは不可能だ。

 やはり焼くことから始まったと考えるほかない。

 「写真」

 1 米:インディカ

 2 米:タイ山地米

 3 米:ヤポニカ(江州米)


 《焼酎文化史:アワムーリは梵語か

 今われわれが泡盛と呼んでいる酒が、

 タイのラオ・ロンと同じものであることは疑いないが、

 それだとなぜ、沖縄でもラオ・ロンと呼ばずに、泡盛と呼んだのであろうか。

 泡盛という名の語源については様々な想像説があるが確定的な定説はない。

 だがその一つに、梵語(古代インド語の一つで、サンスクリットの一型)では

 酒をawamu~ri(アワムーリ)というから、それが入ったものだとするものがある。

 正確にいえば梵語にはW(タブリユー)音はなく、

 それに代るものはV(ブイ)音であるから、

 この説もすでに間違いを含んでいるが、

 太古にインド経由の人々が、沖縄に移住してきたことは、

 遺物、言語、地名などに多くの証跡が発見されており、事実と認められるから、

 アワムーリ説を偶然の一致だとか、コジツケだとかいって排斥することは、

 つつしまねばならない。

 「写真」サンスクリット語辞典 awamur~iはない

 けれども、泡盛と呼ばれているものが、タイからの技術導入によって生れたことを考えると、

 今のタイ語のラオ・ロンか、またはそれに近い名がそのまま使われそうなものなのに、

 別の名がついているということは、

 16世紀当時のタイでの呼び名が、アワムーリだった可能性もある。

 タイ国は一般には仏教国とされているが、

 実はヒンズゥ教の強い影響が今も残り、その言語にもインド語が大量に混りこんでいる。

 そしてタイ国が今の姿になるまでは様々な民族による王朝が生れ、滅びて、国の版図も様々に変った。

 16世紀の暹羅(シャム)の王朝と今の王朝とは民族的にも別物なのである。

 また16世紀に沖縄に泡盛製造技術を伝えたのが暹羅(シャム)人であったとは限らない。

 というのはマレー語ではビルマをアワと呼ぶからである。

 当時の暹羅(シャム)はビルマから進入したシャン族とモン族の国であり、マレー人からみれば確かにアワの国だったからである。

 しかし、こうした語源探しに最も肝心なことは、

 泡盛ははたしてアワモリと発音されていたのかどうか?という疑問から解いて行かねばならない、

 ということである。

 なぜなら当の沖縄語ではアワモリという発音が存在しないからである。

 本来のばかりでなく、

 泡や粟などのアワはウウと発音して決してアワとはいわない。

 盛や守や森もモリではなくムイである。

 泡盛と書いてあっても、ウウムイと読むのが正しい読み方であり、ふりガナの仕方なのである。

 このウウムイは「思い」のウムイに近い。

 有名な「オモロ」という沖縄の誇る古歌集の名も、

 本当はこの「思い」ウムイを、

 本土語化する時に誤って訳したもので

 ”おもろさうし”とは”思い草紙(そうし)”というよりは”思い草”を

 誌したものとするほうが良いものである。

 ということは、泡盛という当て字もまた、

 このオモロと同じく、

 誤った本土語化が生み出したものでないとは今の段階ではいい切れない。

 なぜなら泡盛という字は寛文一〇年(1670)に琉球王尚貞(しょうてい)から

 4代将軍徳川家綱にあてた上表文中のものが最初で、

 それまではすべて焼酒と書かれているからである。

 だが泡盛の語源探しがいくら面白くても、それは本書の主題とするところではない。

 それは別著に譲って、

 肝心の焼酎がどういうコースで日本へやって来たかを物語る

 台湾高山(こうざん)族の焼酎甑の話に移ろう。

 「写真」台湾高山族の木の盃
     誓いを交す時2人一緒に飲む


 《焼酎文化史:早苗饗

 焼酎が稲作と共に日本に渡来したことを証明するものは、

 日本における焼酎原産地である鹿児島地方での言語である。

 この地方では焼酎を飲もうと人を誘うのに

 「祭(まつ)んそや(お祭りをしましょうよ)」という。

 この祭りの真意は、収穫した米を神々に供えたあと、

 その米で焼酎を造り、それをまた神に供えてから、

 晴れてみんなでいただく祭り、

 すなわち冬の間に造りはじめてから次の田植えに間にあった焼酎によって、

 今年の豊作を祈る「早苗饗(さなえあえ)」祭りをさしているのである。

 この地方ではそれを「サナブイ」という。

 これを正確に分析してみると、それは「サナエウエ」早苗植え)であって、

 「サナエアエ」(早苗饗え)ではなかったことがはっきりわかる。

 サナエアエなら、この地方では「サネエ」と発音する。

 どこの方言にも一定した原則があって、それから、はずれては言語として役に立たないのである。

 鹿児島方言の古音は、ウはヴ(V)音のものが多い。

 しかし、アがヴに変ることはない。

 「ウエ」は「ブイ」と聞こえるのである。

 これを「サノポイ」と発音して「サノポリ」が語源だと思いこんでいる者もあるが、

 これは「ナ」は「ノ」の訛りだと早がてんしたために、「ノブイ」となり、

 意味をつけようとして「プ」も「ボ」に改めて、

 「昇り」(ノポリ)にコジつけた結果、生れた奇妙な人工語である。

 方言に対する劣等視が、無知と複合して生み出したもので、似た例は全国的にみられる。

 この早苗植えの語は孤立しているのではなくて、

 『南島雑話』には奄美大島では「さうり遊び」というと記録している。

 「さうり」が何を意味するかについては、

 『琉球国由来記』に「さうり、とは、苗植え始め申す事」とあるから、

 「サナエウエ」が「サウリ」と短縮したものとわかる。

 また正確にいうと、鹿児島から沖縄にかけての南九州方言には、

 「リ」のような「ラ行音」はなかった。

 これも記録者が「サウイ」を「さうり」と誤訳して書いたものである。

 この地方ではエはイに、オはウに変る。

 だから「植え」は「ウイ」と変る。

 ところが、この誤訳の「さうり」が、

 はるかに飛んで遠州(静岡県)に分布していたことが『俚言集覧』に出ている。

 この理由を考えてみると、この地方は登呂遺跡が証明するように弥生稲作地帯であり、

 この語の分布はこの地域の弥生人たちが、沖縄、奄美地方からの移住者であったと考える以外にない。

 同じ『俚言集覧』はさらに上総(千葉県)では「五月初めて苗を植るをサオリという」と書いている。

 「ウ」が「オ」に変って、一層、東国方言化してはいるが、

 それが沖縄からの一連の言語であることはいうまでもない。

 「写真」まだ全国的に使われている曲木蒸篭

 五月を「サツキ」というが、五月が水稲の苗を植える月であることを考えると、

 サツキのサは、このサウイ、サウリ、サオリのサであったことも疑いの余地がないであろう。

 またこのことはサとは決して早いことではなく、水稲そのものであることも教えている。

 サナエとは早い苗ではなく、水稲の苗であったから、「水稲(サ)植え(ウイ)」だったのである。

 決して「早植え」ではない。

 このサは、マレー語で田のことを「サワ」ということと同じ語源をもっているのである。

 このことを拡大して考えてみると

 「サツマ」は「サ(水稲)ツ(津=古語の助詞の之(の))マ(古語で国のこと)」

 すなわち「水稲之国」になる。

 そこが焼酎原産地だということは決して偶然ではない。

 しかもさらに焼酎工場の本州分布をみると出雲、信濃、伊勢といった神話圏と、

 静岡、千葉、茨城、福島といった日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承の分布地に

 かたよって一致することがはっきりする。

 これは途中の伝承が断絶してはいても、焼酎そのものが、

 数々の証拠と共に弥生時代に分布したとしか、考えるほかない形を示している。

 焼酎もまた謎の古代史を解明する重要な文化財であるとする筆者の考えは無理であろうか……。

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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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