2012年2月12日日曜日

万葉仮名(7)



 《万葉仮名
 《万葉仮名


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 《根本から異なる言語復原史学と在来史学との格差

 この大学講座は、もともと、会員が論文をお書きになる際、

 どう表現するのがいいかという講座である。

 文体や配列などについては、もう一通りご覧いただいた。

 しかし論文そのものの本質は書体や言い回しとは無関係で、

 その実質が充実していなければ何にもならない。

 では実質とはどんなものか?、

 私たちの言語復原史学の実質とは、

 動かぬ証拠群によって史実が何処まで復元できるかということである。

 今回はそれを、これまで見てきた倭の五王を主題に、

 さらにあらゆる角度からみた証拠群で補強するという形で、

 すこしくどいが過去の知識こさらに新しいものを加えて、

 実例を挙げ、実地に追及してご先に入れた。

 在来の、我が国の史学界で取られてきた明治以前からの手法。

 他の学者の論説を紹介してそれを取捨選択して

 「私は、これが正しいと思う」

 という個人的主観を並ペるという手法は、他の学者から

 「それは貴方だけの独断だ。私はこちらが正しいと思う」

 という反論が幾らでも出てきて混乱を生むだけだった。

 それは古文献の文言が、

 例えば非常に破究が進んでいると思われている『万葉集』でさえ、

 これが絶対だといえる読み方はまだ確定していないからであり、

 もっと身近な実例は、研究が最も進んでいるはずの、卑弥呼が治めた国名でさえ、

 今頃まだヤマタイコクなどと呼んで平気でいる大家?がいるという惨状を皇している。


 《卑弥呼の記念すべき聖地「芦花部

 基肄(きい)が中央だと、帯方郡使がそこを起点にして、

 わざわざ書き加えた「水行二十日」の投馬国は、

 「水行十日・陸行二十日」の邪馬壹国よりも、

 はるか南の島だとわかる。

 当時の交通事情を考えると、

 そんな所に領土をもっていても往来するだけでも大負担で、

 決して利益にはならない。

 それなのに『魏書倭人章』が、

 宗主国の邪馬壹国と並べて特記したのは、

 そこが並々ならぬ重要な土地=卑弥呼の聖地だったことを教えているのである。

 ではそこは一体?

 何処なのであろう?。

 いま奄美大島の首都・名瀬市に「芦花部」という地名がある。

 これが前号のご挨拶の中で「予告」させて戴いた「たった1つの地名」なのである。

 『万葉集』などでご承知のように、古語の仮名(カナ)として読めば、
 
 芦はア、花はカでアカ=赤。部はべで「アカベ」、

 幼児語の「あかべ!(あかんベー!)」でもある。

 伊都国を中心にすれば北の高句麗と似た位置に、この南の赤がある。

 卑弥呼が比売碁曽で阿加流比売(明姫)であることは、

 『古事記』が天の日矛のところで書き、もう私たちには常識だから、

 彼女は南の国でピューティヤをしていて、皇子に見染められて逃げたことは、

 周知の事実だといっていい。この南島地域には他に赤に相当する地名がない。

 だからここがその彼女の故郷であり、

 最盛期のアカイヤに当たることは、まず間違いない。


 《壮大な帝国が実在していた豊富な痕跡!

 殷人は間違いなく、常陸の稲敷を聖地=故郷として崇める縄文日本人だった。

 とすれば、その『干支圏』は、その周辺にも存在していなければならないが、

 果たして3000年後の現在まで、その痕跡が残っているであろうか?。

 東は卯で、これはりとボウと読む。

 するとウには羽(う)前・羽後という国名が合う。

 またボウには房州という国名が近くにある。

 東南東は辰でこれはタツとシンである。

 館林・館山などがタツ、信州・新町(群馬県)・神奈川(シンナセン)などがシンに合う。

 南南東は巳で、これはミとシ。

 三島はミ・シ国(ま)。

 これを三浦半島と三保がぴったりの位置に挟んでいる。

 シも静岡(シ津岡)・島田が合理的な位置に並んでいる。

 これらは少しずつ拡大移動したことによって複数に殖えた痕跡だとみるべきである。

 すると当然、ミは水戸へも移る。

 東北東は寅で、これはトラとエン。

 トラは登呂と取手がある。

 豊浦も万葉読みだとトラで、

 北海道に飛ぶと、そこには遠別(えんべつ)・遠軽(えんかる)というエンも

 あるから無関係ではないが、

 エンが遠のの遺物なら遠野(岩手県)・

 遠苅田(とおがった)(宮城県)もまたこれに合う。

 北が北海道まで含むとすれは、

 西が中国の華北平原に伸びても不思議はないが、

 それなら広大な日本海や黄海を湖水のように抱えた、

 壮大な帝国が実在していたことになる。


 《名乗りの書き替えが生む『古事記』不信

 倭の五王時代も、倭=優婆畏=女性仏教徒で、

 それが連邦の代名詞になっている国。

 『倭国』とは、

 やはり卑弥呼時代以来の「女王国家」だったことが、はっきり証明された。

 以上で『記・紀』は、名乗りの「読み損ない」で、

 何がなんだかわからなくなっているが、

 それを解決すれば、すっきりした史実が復元できることもまたわかった。

 ところが見逃してはいけない重要な問題がある。

 それは同じ五王なのに、

 ハセとナガタニ双方の名乗りが、皇后の名として使われている点である。

 これは天皇たちが、敵・味方入れ換わったと言うことなのか?。

 そうではない、それは『記・紀』の基になった記録に、

 「長谷」という漢字が使われていただけなのである。

 それを書き写した複数の筆記者がいて、

 それぞれナガタニとハセという異なった読み方をし、

 それを自己流の当て字で表現したためだったとわかる。

 すると何故?そんな書き替えが必要だったか?という新たな疑問がわく。

 この答はそれは日本人にではなく、

 唐の皇帝や役人に読ませることが主目的だったからだ、とわかっている。

 だから、そこで読み方をミスった。

 あるいはわざと読み替えたということになる。

 なぜなら、特に『古事記』のものは万葉式にカナ化してあるが、

 それは真実とはできるだけ引き離した、

 「意図的な書き方」になっている。

 『古事記』は全面的に信頼してはいけないのである。


 《『日本書紀』は720年「成立」ではなくて「浮上」

 さっきの話「法」は「ことば」によって成立している。

 現代でも同じである。

 「紀記」「万葉集」にしろ「ことば」によって「そこに何が書かれているのか」

 まずそれを読み取ることが大事である。

 さて「続日本紀(797)」は養老四年の条で

 『一品舎人親王、勅を奉たまわり日本紀を修。

  是に至功成り奏上紀州巻系図一巻なり』とあり、

 今までこの記事を読みマチガッテ720年日本書紀成立としてきた。

 しかし、先に答えを言うと。

 「真相」は、成立ではなく、打ち続く「戦争・戦乱の要請」による必要から

 「浮上」して来た事にあった。

 それは持統天皇以前から続く「蝦夷の反乱」が720年前後には激化し、

 柵戸(兵士)を集めて配置する。

 722年千人、776年二万人、789年討伐不能となる。

 791年政策転換、坂上田村麻呂を征夷大将軍にして懐柔策をとる。

 この「戦乱の要請」から「対処体勢、体制の再建」の必要性から、

 「日本書紀・浮上」の急務、機運に遭遇したのである。

 奏上が「紀」のみならず、紀州系図を伴っているのは意味深長である。

 元正天皇時代だが、元明天皇の動きとも関連している。

 翌年、講義、注釈の催し「日本紀講」がすぐ始まったのも「浮上」を裏づけている。

 「三十巻もの書記」と「系図」勅があってすぐ奏上できるものではない。

 「書写・奏上=浮上」だと思われる。

 親王はずっとそれを懐に暖めてきたのであった。


 《国常立尊

 漢字の当て字=国常立尊

 パーリ語で都市をプラという。

 卑弥呼当時は、『魏書倭人章』(魏志倭人伝というのは間違い)に、

 「国」として書かれている伊都国や多くの旁国はみな、

 今の都市に当たるから都市は国を意味している。

 そこで、この神名の「国」に「プラ」を当てて、パーリ語の熟語を見てみると、

 プラジャーターという形容詞がある。

 国にプラ、常にジャー、立にターで、万葉式にジャーに常(ジヨー)を、

 ターに立(タ)を当て字していると見ると非常に合理的だし、

 プラジャーターとは「光り輝く」という意味だから、

 『旧約聖書』の「初めに光ありき」とも完全に同じである。

 しかしまだ「まさか『記・紀』編集当時の我が国に、

 パーリ語があったとは信じられない方も多いと思うので、

 まずその疑念から払っておこう。

 大化改新当時の考徳天皇の皇居は、

 大阪市にあって「長柄豊崎の宮」と呼ばれているが、

 このナガラという地名もまたパーリ語の「ナガラ=都・都市・市」に一致する。

 長柄豊崎の宮とは、二つの地名を二重に重ねたものでなく、
 
 今の東京都式に「豊崎都」という首都を表現する名だったのである。

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