2012年2月11日土曜日

万葉仮名(6)



 《万葉仮名
 《万葉仮名


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 《ジャックが示す古代オリエントと日本

 『倭人章』の「読み提出」にあたって参考記述すると

 ユニオン・ジャックの名乗りが示す通り

 九州以南、南海の諸島から港を通じて倭人の国は世界に繋がっている。

 東南アジアから行き着く先は、

 古代のギリシヤ、シュメル、メソポタミア地方、アナトリア半島、地中海沿岸地帯、

 エジプトなどの国々である。

 紀元前後の日本を見てもこうした国々と密接な関係にあるのは断片的によく見て取れるが、

 文化の類似や発掘品の示すところよりも、

 私達の使用している「日本語」が如実にその深い関連を物語っている。

 それらの国々との「共通言語」が最大の証拠である。

 例えば

 『記・紀』、『万葉』は「ア=水」という言語認識のもとに表現されているが、

 全アジアから地中海にかけて

 「ア=水」で「ア=a=水」の言語を使用しているのは「s~umer」一国と日本のみである。

 この「s~umer」と日本の相関は唯一「言語」において証明できるが、

 「s~umer」という言葉の持つ意味を別述脱稿しておいたがその結論部分のみ紹介すると、

 一般にシュメール(shumer)と表現するのは「マチガイ」で

 本当は「シュ・メ・ル(ラ)」というもので「シュメル」と表現すペきものである。

 「シュメル」の「シュ」は「主」の意味で

 「シュ=主」の表現が使用されていたという事実である。

 この「シュ=主」はむしろ外国の学者には解りにくい事なのである。

 「メ=me」は<シュメル>でも重要な言葉で

 「存在・出生・芽生える・愛でる」などの意味である。

 「ル」は「人々の事」で国を表している。

 「シュメル」は

 「主の存在する国」「主の出世の国」「主の愛でる国」などの

 解釈が成立して従来<シュメール>と呼ばれてきた言葉の本来の意味がそこにある。

 
 《アンドレー・ミラーの日本の学界批判

 過去の『魏書倭人章』をめぐる「説」は、基礎になる土地なしで、

 いきなり「空間に建物を建てる」という、現実には絶対に実行不可能な、

 「砂上楼閣」以上に常識はずれなもので、必ず失敗することがわかりきった、

 いい加減な手法のものばかりだった。

 それはとんでもなく馬鹿げたことだが、日本の学者は一人もそれに気がつかなかった。

 それをはっきり指摘して批判したのが、

 戦後の米国では有数の日本語学者・ロイ・アンドリユー・ミラーで、

 その名著『日本語』の中で、

 「日本の学者は『魏書倭人章』を研究するのに、

  その漢字で書かれた名詞を、

  自分勝手なやりかたで、

  日本だけでしか通用しない発音で読んで、

  中国語でも万葉ガナでもない全然システムの違うものを、

  好き勝手にごちゃ混ぜにして使って……」

 と、呆れはてている。(加治木義博の『邪馬臺国の言葉』参照)。

 それは彼でなくても誰が考えても確かにそのとおりで、その幼稚さ加減はすぐわかる。

 ところがさらに驚くことに、それほど馬鹿扱いされながら、その後もそのまま、

 まるで他人事のように放置したまま、

 その恥ずかしい「説」が今なお平気な顔で本屋の店頭にならんでいる。

 実に情けないことだが、日本の古代史学界がどの程度のものか、

 どんなに世界の笑いものになっているか、そして私たちの仕事がなぜ必要なのか、

 よくおわかりだと思う。


 《「ヒガシ」の語源は「日向」

 日向は今の宮崎だが、蝦夷が宮崎にいただろうか?…。

 『旧唐書』の「日本」は

 鹿児島県以外には当てはまらない特徴を多敷備えているが、

 その東と北の境に大山があり、その向うは「毛人」の国だと書いてある。

 その大山は霧島山塊に当たるが、

 「キリシマ」とは「毛人之国」の一つの読み方である。

 そして「毛人」と「蝦夷」は同じ人々を指す呼び名なのだ。

 唐の時代になってもまだ、宮崎は「蝦夷の国」だったのである。

 しかし宮崎を果して「東」と言ったか?という疑問が最後に残る。

 この答えは「ヒガシ」というもう一つの発音である。

 「日向」は「ヒュウガ」と発音しているが、

 これはどこかの訛りの一つで、本来は「ヒムカ」だった。

 これに「之国」をつけると、「ヒムカ之国」で、これは「ヒムカシ国」と読める。

 日本の古文や万葉集などの古語ではヒガシでなく「ヒムカシ」と発音している。

 それが次第に「ヒガシ」に訛ったのだから、

 その語源は間違いなく「日向」だったのである。

 しかし古代日向は宮崎県だけではなかった。

 鹿児島県も日向に入っている。

 このことはヒムカシという言葉が生まれた時代が、

 宮崎だけが日向になった後だという証明なのである。

 武内宿祢はそこへ「西の国」から視察に行った。

 宮崎の西には鹿児島県しかない。


 《己百支(しぶし)に一致する鹿児島県志布志

 しかし己だと「 sieg シェ・シ・セ」だから全く異なった地名になる。

 己百支 sieg bak tieg シェバチ、シェバキ、シポチ、シボキ、シボシ

 己百支はシェバキ、シボチ、シボシなどと幾とおりにも読めるが、

 このシボシの大隈発音だと、ボがプになるのでシプシ。

 現在ある鹿児島県曽於都志布志町の名と完全に一致する。

 それにいちばん近い国造の候補は「親治国造(志賀高穴穂朝)である。

 これはシムジ・シムチと読めるので、その発音だけが残っていた後世に、

 沖縄発音のプを南九州発音でムと発音して、それに合わせて当て字した可能性がある。

 このプとムの変化は、武・無などの文字が両方の発音をもっていることは周知の事実だから、

 志布志シプシと親治シムチは方言差への当て字めちがいだけなのである。

 親の字はシンという漢音をもつから新治と書き替えたものがあり、

 ついで「ニイバリ」と発音されて、茨城県の地名とされ、

 『日本書紀』はわざわざ古風な万葉ガナを使って

 「珥比磨利、菟玖波塢須擬弖、異玖用伽邇菟流…、新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる…」と書き、

 『古事記』はさらに発音に合わせて「邇比婆理、都久波衰須擬弖、伊久用加泥都流…」と

 補正している。

 なぜそんなことをしたのか。

 その答は『旧唐書』がよく説明している。

 「日本国は倭国の別種…日本はもと小国、倭国の地を併せたりと…

  その入朝者は多く自ら衿(きょう)大(偉そうにしていて)実をもって対(こた)えず

  (本当のことを言わない)」。

 当時の日本人遣唐使は、唐に対して非常にコンプレックスをもっていて、

 侮(あな)どられまいとして、

 態度が固く尊大で、事実を率直に語らず、すべてに嘘が多い。

 と書いている。

 『日本書紀』は漢文で書いてあることで明白なように、

 唐に対する宣伝用の文書である。

 朝鮮半島の百済植民地と大国高句麗を滅ぼしたのは、

 新羅を援助した唐の軍事力だったから、

 その唐の同盟軍だった天智天皇系政権を倒して皇位についた天武天皇は、

 その唐を牽制することに全力を傾けた。

 その謀略戦の最大の武器が『日本書紀』だったのである。

 その時、生まれたばかりの彼の日本国は弱点だらけだった。

 とくに彼等は南九州からやってきたよそ者で、

 わずかに奈良と周辺を守るだけの味方しかもっていなかった。

 唐がそれにつけこんで、侵略してくれば、ひとたまりもない。

 それをさせないためには、彼天武天皇は、

 広大な日本列島の太古からの天皇家の後継者であって、

 彼のためには全国民が総力戦を戦うと唐の政治家たちに思わせねばならない。

 だから日本武尊は小地域の英雄ではなく、

 東北地方にまで名の轟いた偉大な皇子で、

 天武はその血をうけた貴い後継者である必要があったが、

 まるっきりの嘘は通用しないから、

 史実や伝承をできるだけ拡大して編集したのである。

 これで親治国造が志布志の統治者だったことが、

 一層よく理解できたと思う。


 《伊声耆の領地だづた旁国の空白域

 卑弥呼は疑いなく天照大神でもあるから、

 その両親はイザナキ・イザナミの両神である。

 その同じ両親をもつ彦五十狭芹彦が、

 父と同じ名乗りをもつのは2世だからだとわかるが、

 よく注意すると発音が微妙に違っている。

 父はイザナキだから沖縄の伊是名王という名乗りに合うが、

 息子のほうはそれには合わないで、イサの王を意味している。

 鹿児島県には今も伊佐郡があり、首都は大口市である。

 この大口という名は「真神」の枕言葉として使われていて、

 『万葉集』1636にも「大口の真神の原に降る雪は、いたくな降りそ、家もあらなくに」

 という歌がある。(「舎人娘子 雪の歌一首」)

 なぜ大口が、神にかかる枕言葉なのかというと、

 古来、狼のことを「大口の神」と呼んでいたためだという。

 狼はオオカミで大神だとすると、伊佐の大口は伊勢の大神と同じ意味になる。

 鹿児島語は a を e に発音するから、伊佐も本来はイセに対する当て字だったのである。

 これで伊勢の出発点は沖縄の伊是名島で、

 それが鹿児島の伊佐に移り、

 さらに三重の伊勢に移った事実が大層よくわかる。

 また伊声耆が伊佐の王だったことがわかると卑弥呼の旁国に、

 この伊佐郡とその周辺が入っていなかったのは、弟の領地だったからだと、

 旁国空白の理由が完全にわかる。

 大学講義録15の地図と百襲姫の名乗りには、はっきりそこに空白域がある。

 伊勢のルート:沖縄の伊是名島→鹿児島の伊佐→三重の伊勢


 《崇神天皇夫妻は壹與政権に残ったか?

 弥馬升の mimamsa ミーマンサーはインド古来の祭祀法のことであって、

 それを集大成した「弥曼蹉経(ミーマンサきょう)」もある。

 卑弥呼政権から壹與政権に変わって、仕事の内容は仏教からシンドゥ教に変わっても、

 どちらも祭祀は欠かせないからその職名は変わらない。

 このことがわからないと、

 この弥馬升は崇神天皇と皇后の名乗り「御間城」に一致するから、

 伊支馬を首班とする内閣に前政権の天皇か皇后が、なお留任していたようにみえる。

 ところがこのパーリ語による真相がわかってみると、

 それは官職名であって個人名でないことは明瞭だから、

 何も崇神天皇やその皇后が、邪馬壹国政権に居残ったのではないことが、よく理解できる。

 奴佳鞮はパーリ語の発音は「 no 確実 kedara 農耕=ノケダラ]だが、

 南九州語ではダはデに、ラはレになり、そのレも r 音を失うので、

 ノケッディェというカールグレン式の発音と一致する。

 ところが奴佳鞮という漢字は、

 唐代には「ヌォ・カイ・ダィ」と発音が変わったから、

 「額田(ヌカダ)という当て字に変わってしまった。

 しかしこの当て字でも「田=農耕・額=額(ぬかず)く」で、

 豊作を祈る女王または女官を意味し、

 無意味に変えたのではないとわかる。

 『日本書紀』に額田姫王が天智・天武両天皇の恋女房として記録され、

 『万葉集』にも彼女の歌が残っているが、

 それらは7世紀でも同じ国名が生きていたことの証人である。


 《香椎はカシヒ=愛・慈悲への当て字

 インド名の訳ではないとすれば、では誰が?、いっ?、

 原文にありもしない「観」の字を使って、

 「観世音」などという意味不明の名をつけたのだろう?。

 観世音を何か意味のある当て字と考えて、

 『日本書紀』に使われている感じ発音を使って頭音使用の万葉読みにすると

 「観=カ、世=シ、音=イ」という読み方ができる。

 なぜそう読むかといえば、「カシイ」は

 卑弥呼と切っても切れない言葉だからである。

 卑弥呼という名の語源がパーリ語の「pemaka 愛・慈悲」であることは、

 倭人の墓であることが確認できている古墳に、

 可愛山陵とかアイノ陵(董野陵=大阪府茨木市)といった名がついており、

 pemaka を沖縄発音に直すと、

 「卑=pieg,弥=miar,呼=ka」にピッタリ合っていて、

 彼女の祭政一致の理念が「愛・慈悲」で表現される不殺生・不戦でなければ、

 好戦的ナショナリズムの女王・壹與=日本のジャンヌ・ダルクとしての

 神功皇后に敗死することもなかったことなど、

 動かぬ証拠群が立体的な構造になって存在している。

 その「愛・慈悲」のマレー語が「kasih カシイ・カシヒ」なのである。

 このカシイには、もう一つ動かない証拠が今も厳然として残っている。

 それは卑弥呼の夫・ソナカ=仲哀天皇の「廟」であった

 福岡市香推(かしい)にある元官幣大社の「香椎宮」である。


 《卑弥呼の「鏡が好物」の真相

 卑弥呼は、さらに大きな影響を、

 今なお、愛する日本の女性たちに与え続けているというお話しを、

 ここでどうしても付け加えておきたい。

 それは日本の女性名の最大の特徴である「〇〇子」というスタイルこそ、

 世界に類を見ない最高の命名方式であって、

 日本文化の高さを象徴する偉大な文化財なのだということである。

 欧米の命名様式は、単に故人名を踏襲するだけであるのに対し、

 「〇〇子」は女性語尾の「子」だけを規定し、

 個性を表わす「〇〇」部分は各自の創意工夫に任せて自由にしてある。

 これなら無限大に新しい名が創造できる。

 欧米のように同じ名がひしめき合っているような無残なことには、

 原則としてならないからである。

 それが卑弥呼の名の影響だという好例は、

 光明皇后の裸名「光明子」である。

 光ヒカル・明 ミョウ・子コという万葉ガナだ。

 アヴァ ロキ テスヴァラ の最初の訳語「光世音」と光明子は二重に重なって、

 あることを教えてくれる。

 ヒカルとは「日借る・火借る」という関西語で、反射光のことである。

 これは鏡が最大の機能をもつ。

 卑弥呼はこの鏡の機能を、比喩として上表文に使った。

 それを魏帝らは「鏡が好物」と誤解したことがわかる。

 光明子の名はこれだけの真相を物語る。

 日本中の〇〇子さんも同じ機能をもっているのである。


 《高御産巣日の神は武内宿祢だった

 ビシュヌーの代表的な変身は

 クールマ=亀で高麗国(クールマ)、高句麗(クールマ)国の語源だったとわかる。

 『四神」の玄武の本当の読み方と意味は「クロタケ=黒高=句麗(クロ)・高(タケ)で、

 そのトーテムは亀(キ)と蛇(ダ)の清音で「キタ=北」、

 これらの全てが「北の国」を意味する倭人文化である。

 このクールマ=カルキ神の別名の一つは「 Niskalanka ニシュカランカ」で、

 これに漢字を当て字すると「爾支王(ニシュ) 韓の神(カランカ)」になる。

 この高麗・高句麗の人々の出身地はパビロンのカルデアで、

 いま中近東に住むクルド人や、インドのクル族、

 またミャンマーからタイ国、中国南西部に住む

 カリエン人たちと同族の人々だが、

 クル族は、やはりビシュヌー神の変身・クリシュナ(句驪主国(クリシュナ))を

 信奉する人びとで、

 「神様」の南九州語「カンサー」と同音の、

 「カンサー王」という有名な王がいた。

 次の神名は万葉読みして助詞の津を挟めば解けるが、

 沖縄語ではその津を「チ」と発音することも謎解きの重要なカギである。

 高 御  産  巣 日 神

 タケウ  ウミ ス ニッ

 タケウ津 ウミ ス ニッ

 タケウチ 大臣 足 尼 (宿祢の沖縄発音)

 武 内     宿 祢


 《淡路はヤマトと共に大移動した

 そこで入念に細かく考えてみると、

 そこの地名は茅沼(チヌ)の海でチヌは天やウチナ=沖縄でもある。

 伊弉諾・伊弉冉の二尊も伊是名(イゼナ)島に合う「沖縄名乗り」をもっている。

 己凝(オノゴロ)島は後世人がつけた名だから、あとに残るのは淡路洲だけだ。

 これは兵庫県の淡路島以外には侯補地はないのだろうか?。

 淡路の万葉読みは「タンジ」。

 前にみた丹児(ご)のタンジと同じものへの当て字であり、

 それは淡路(タンジ)→種子(タネジ)→丹児(タンジ)という当て字で表わせる地名だ。

 それは南西諸島から次第に大型化しつつ北に東に分布して、

 決して兵庫県の淡路島だけが独占している固有地名ではない。

 その移動は次ページの地図で一目瞭然だが、この地図では四国にだけ、

 このタンジがないように見える。

 だが、それこそ淡=アワ=阿波=徳島であり、問題の淡路島だったのだ。

 そこでは余りにも巨大化が激しく進んでいたために、

 サカ→サタという渡海点からは見落とすほど距離がありすぎたのだ。

 卑弥呼時代には種子島にあって、

 壹與時代に大移動が始まった奴国(ノマ)=野間は、

 野の漢字音はヤだから、野(ヤ)間=ヤマで野間人はヤマト。

 それは海(ハイ)人=ハイトと対立した山人=山幸で、

 山上(カミ)王とも書かれた位宮をも指すから、

 彼の政権もヤマト=日本と呼ばれた。

 この呼び方は『日本書紀』が冒頭の「創世紀」で、

 「日本は耶麻謄(ヤマト)と読め」と指示している。

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