2012年2月10日金曜日

万葉仮名(5)



 《万葉仮名
 《万葉仮名


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 《お話も名前もなぜこんなに変わるのか?

 でもなぜこんなにも、人の名前や話が変るのであろうか。

 それを永年かかった調べてみると、

 やはり先にお話した沖縄語などの言葉によるものだったのである。

 このツヌガアラシトという人物は、

 ヒミコその人ではないので本題からそれるが、

 ヒミコとは最後まで重大な関係にある人物なので、

 もう少し詳しく、しかし手みじかにお話しておこう。

 「ツヌ」これは沖縄語では「角」のことである。

 「ガ」はいうまでもなく「○○が…」というときに使う助詞である。

 「アラシト」は、

 この「角が…」という言葉を受けているのだから「有る人」の訛ったものだとすぐ分かる。

 人をシトと発音するのは、東京周辺や南九州では今も日常、耳にする言葉である。

 ここで少し古代の言葉について新しい情報を提供しておこう。

 それは「我(ガ)」は、古代には「カ」と濁らずに発音していたという話である。

 お正月に付き物の『小倉百人一首』には、一つも濁点が打ってない。

 「淋しさに、宿を立ち出で眺むれば、いづこも同じ秋の夕暮れ」は、

 「さひしさにやとをたちいてなかむれはいつこもおなしあきのゆふくれ」と書いてある。

 今の言葉なら幾つ濁点が抜けているか数えてほしい。

 このことは平安時代の人たちが書き残した他のものでも分かるし、

 またそれ以前の『万葉集』でも分かる古い日本語の特徴なのである。

 また沖縄語では「ツ」を「チ」と発音する場合も多い。

 「天津乙女」は「アマチウチミ」と聞こえる。

 先の「都怒我」は沖縄語で読むと1チヌカ」なのである。

 この「チヌカ」も耳で聞くと「チンカ」に聞こえる。

 そこで今、沖縄の人に「チンカ」と言って、

 それを漢字で書いてもらうと、十人が十人みな「天下」と書く。

 これで分かることは、

 沖縄の人たちには「都怒(チヌ)」と「天(チヌ)」とは同じなのである。

 ここまでわかると「日」もまた「カ」という発音をもっている。

 「天日矛」の「天日」は「都怒我」と同じものだったのである。

 では残る「矛」はどうなる? これも何かと同じなのだろうか。

 これを説明するには、先にもう一つの別名

  「蘇那曷 叱智(ソナカシチ)を片付けるほうが便利である。これを見やすいように

  「都怒我阿羅斯等」と並べて、見て戴きたい。 
 
   ソナカ シチ(阿羅の部分がない)

   ツヌカ シト

 よく似ていることは一見して分かる。

 しかし<ソ>と<ツ>が同じ言葉から変化するだろうか?

 分かりやすいようにだれでも知っている英語の「The」を使って説明しよう。

 このスペルをローマ字読みすると「テヘ」か「テ」としか読めないのに、

 実際には「ザ」とか「ジ」とか「ゼ」と読んでいる。

 この式でいくと「タ」「チ」「テ」とも読めることになる。


 《同時通訳だった『古事記』の筆者

 これで古来、日本の歴史で最高のナゾとされてきた問題

 「高天原はどこか? というナゾ」は完全に解けた!

 それは『古事記』筆者が、

 せっかく親切に書いておいた注意を、

 まるで実行しなかった連中の、

 ばかげた読みソコナイがナゾを作りだしていただけで、

 なんのことはない、ごく分かりやすい地名への簡単な当て字にすぎなかったのである。

 ではなぜ『古事記』筆者は「熊毛」と書かなかったのだろう?

 それは彼にも本当のことが分からなかったからである。

 その筆者は『古事記』の序文を書いた

 「太安萬侶(おおのやすまろ)」だとされているが、

 その序文にはこう書いてある。

 「稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱する古いお話を細かく拾い集めて編集しましたが、

  昔の言葉は素朴で、それを文章にするのに苦労しました。

  そのまま書いても何のことか分からないでしょうし、

  そうかといって詳しく説明していては、長ったらしくて読みづらいでしょう。

  だから便宜上、重箱読みも使うし、

  「音」だけを万葉ガナで書くこともしたのです」

 今、私たちが疑問に思ったことを全部説明している。

 彼はヒエダのアレが暗記していた話を、

 同時通訳して、

 それを元に『古事記』を編集しただけだったのだ。

 だから「アレ」の言葉がなにを意味するか、

 分からないまま「音」に当て字したものも多かったのである。


 《奇妙に入りくんだ弥馬獲支のなぞ解き

 次の官名の弥馬獲支は(メマクワシ)と読んだものに、

 崇神妃の遠津年魚眼々妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)(紀)が合い、

 ミバカシと読んだものに貴行天皇妃の美波迦斯比売(みばかしひめ)(記)、

 御刀媛(みばかしひめ)(紀)が合う。

 眼は古語で<マ>の発音もあるから、眼々と書いてメマと読ませる。

 『記・紀・万葉』時代にはやった洒落た言葉遊びの一つである。

 また沖縄方言なら眼をミと発音するから、ミマとなり一層、弥馬によく合う。

 妙または微(記)はクワシと読む。

 また刀の古い名はハカシ・ハカセで、

 御(ミ)がついて濁音のバになり、ミバカシになるのである。

 垂仁妃(ひ)にも、ちょっと分かりにくいが該当者がある。

 分かりにくいのは何人もに分裂してしまっているからである。

「垂仁天皇記」では
                  [円野、阿邪美、歌凝]という三人の妃としている

 が、崇神妃を隣に並べるとこうなる。[遠津、年魚眼、妙 ]

 このなぞ解きをしてみると、円と遠はどちらもエン。

 野と津はどちらも助詞のノとツ。

 阿邪美と年魚眼はアヤミとアユミ。

 歌凝はカキで獲支と同音。

 妙も獲支に対する当て字で一致する。
 
 遠津年魚眼々妙媛と円野阿邪美歌凝比売とは、もともと同じ官名だったのである。

 ついでにいうと、この円野を『日本書紀』は円をマドカと読み誤って真砥野と当て字している。

 これからは正しい復元は不可能で、ここでは『古事記』のほうが正しい。


 《大阪・和歌山にまたがる広大な百済

 これまで何げなくみてきた木、紀という姓は、

 実は国を意味する羅を省略したもので、

 木津羅すなわち木の国<クダラ>を意味していたのである。

 これは沖縄語によって木を<ク>と発音している。

 また助詞の「の」の位置に<ダ>があるのは、

 <ナラ>を諾羅(ダラ)(『国造本紀』)と書いたり、

 娜を<ナ>と<ダ>の両様に(『万葉集』)読んだりする人々によって、

 クダラと発音され、沖縄系の人々が百済の主流だったことを証明している。

 葛城が<クダラ>そのものだったことは多くの傍証をもっている。

 『姓氏録』から一つ拾い出してみると、

 左京諸蕃下の小高使主の祖は「毛甲、姓、加須流気(カスルキ)」とある。

 姓が加須流気で名が毛甲ということである。

 [高句麗本紀]をみるとこの人が何をしたかがわかる。

 長寿王二四年、魏が燕を討った。

 燕王は高句麗に救援を求め、

 長寿王は葛盧孟光に将兵数万をひきいて出陣させ、

 燕の都は焼けたが、魏軍は勝てないで引きあげた。

 この<カツロモウコウ>は加須流気毛甲と同音で、

 それが「蒙古王」という名乗りであることもすぐおわかりと思う。

 この加須流気の姓はもう一人の名を思い起こさせる。

 それは蓋鹵王が、『日本書紀』では加須利君と書かれているからである。

 蓋鹵王がなぜそう当て字されたのかこれまで謎だった。

 しかしもう説明の必要はないと思う。

 百済としての阪和(大阪・和歌山)をみると、

 3世紀未には古墳が出現しはじめ、

 その東境には聖なる葛城山(かつらぎざん)がある。

 この本の最初でお話しした私が「古墳直列」を発見した、

 あの山である。

 その東の山麓こそ饒速日命にぎはやひのみことを祖とする

 物部(もののべ)、穂積(ほずみ)両氏の本貫地だった。

 河内の竹内(たけのうち)、奈良の葛城はやはり「高」の一族だったのである。


 《このとき初めて「大和」が生まれた

 従来の常識どおり、

 それより少なくとも5~6世紀も前だとされてきた

 神武天皇の東征以来「大和」はヤマトと呼ばれていたのであろうか?

 「大和」……これが第9のキーである。

 よくおわかりのように、これはどんなにしても「ヤマト」とは読めない漢字である。

 それなのに古来「ヤマト」と読むことになっている。

 これは存在したことが確実な古代統一政権の名である以上、

 私たちにとって捨ててはおけない大きな謎である。

 だがその発音を考えてみると、一つだけ、はつきり理解できることがある。

 それは「大」は「タ」、「和」は「カ」という発音をもっていることで、

 これはこれまで問題にしてきた「高市」という地名に結びつく。

 なぜなら同じ地域に、「高」族の最初の国としてつけられたのが「高市」で、

 それは「武」と同じ意味をもつ出身国または部族の「高」を表している。

 それまで倭王が治めていた地域に、初めて出現した「高」の国。

 それに対する万葉がな式の当て字の一つとしてなら、

 「大和」は良い文字として選ばれたということが理解できる。

 それは過去の敵同士が「大きな和解をして一つになった国」という意味も持つ。

 その理想どおりにいったかどうかは別として、

 「タカ」という新国への当て字として新国王が選んだ国名だとすると、

 それはよく考えた傑作だといえる。

 それは最初は「ヤマト」などという発音ではなかった。

 それは当然で「ヤマト」と読めといっても誰も読めない。

 現在のように義務教育で、全国民にムリヤリにでも教えこんで、

 憶えさせられるのならそれでもいいが、古墳時代にはそんな教育はムリである。

 いくら天皇が強権で、読めない当て字を読めといってもなんにもならない。

 ムリなことを押しっけても憎まれて、

 政権が危険にさらされるだけで、利益になることは一つもない。

 それに漢字の国名は、当時ほとんど文字が読めなかった自国の国民ではなく、

 漢字が読める唯一の相手である中国人に読ませるためにつけるのである。

 これはどこからみても「ヤマト」ではなく、

 中国人に漢音で「タカ」と読ませるためにつけた当て字なのだ。

 それが「ヤマト]と読まれるようになったのは、

 さらに後世の何かの変動によるものなのだ。

 その時は「大和」という漢字が、すでに国の名として定着してしまっていた。

 そのため文字を取り替えることが不可能で、

 発音だけが、新しい発音の「ヤマト」に変わった。

 この場合以外に「ヤマト」とは読めない文字が、

 ヤマトと読まれるようになるわけがない。

 その「ヤマト」の語源が何だったかは

 『コフン』ですでに明らかになっている。

 それは遠くバビロンの昔にさかのぼる。

 「ヤマ」と「ヤマト・バル」という神名と地名がそこにあって、

 バビロン崩壊とともにその地域の人々が、

 インド、東南アジアを経由して日本列島から朝鮮半島へと移動し拡大したのだ。

 これで今後はこの問題に疑問が残ることはまず考えられない。


 《蘇我の当て字が多い理由

 このほかにも蘇我にはさまざまな当て字があることは先にも見た。

 他の氏族にもいくつかの当て字があることは当然だが、蘇我ほど多いものはない。

 このことも、それが蘇我氏という氏族の姓ではなく、

 広域に君臨していた連邦皇帝の称号だったことを証言しているのである。

 しかし、そうしたたくさんの当て字が、なぜ作られたのであろう?

 それは支配下にあった小国の数が多かったためである。

 各国ごとに発音や解釈が異なり、当て字が異なったからなのである。

 このこともそれが連邦皇帝をさす称号だったことを裏書きしている。

 単なる氏族の姓なら、その氏族自身が選んだ文字が使われる。

 こんなにマチマチになることはない。

 こうしたことはまた、

 当時の人々が、文字についても豊富な知識をもっていたことを示す。

 ことに今のお話のように、当時の人々が政治家を批判し、

 それを風刺して作った童謡を子供に歌わせるという、表現の自由、

 批判の自由に目覚めた高度な文化人であったことを知ると、

 それらの別字の本質は、手当たり次第の字を当てたのではなく、

 意識して作った「変え字」であり、

 それもまた当時の高級な「遊び」の一つであったこともわかると思う。

 その遊びの仲間には「早」の字を「草」の「クサ冠(かむり)」を刈ったものという意味で

 「クサカ」と発音するような『字謎=アナグラム』遊びがあり、

 すでに『記・紀』の中にもたくさん見つかるし、ほかにも漢字を分解して謎をかける

 『割り字』遊びなどが、当時の文献に多く残っている。

 また『万葉集』にも徹底した風刺暗号歌がある。

 これは『まんだの語源と万葉歌』の題で境部(さかいべ)王の歌(巻十六、三八三二)を解読して、

 大阪府の地域文化誌『まんだ』

 (第十二号から三回連載、=昭和55年)に掲載してあるのでご覧いただきたい。

 だから『記・紀』などの編集者は、べつに自分の頭を使って「創作」しなくても、

 こうして当時大量にあった「既成品」の中から選べばよかったのである。

 『日本書紀』の編集者たちはその中から「蘇我」を選んでほぼ統一して使った。

 後世の教育者によって、「我」の字の発音が、「ガ」に固定された結果、

 「ソガ」と読むのが正しいとされてしまったが、すでに答えが出ているとおり、

 それは「ソナカ・アショカ」という称号の、語尾の「カ」に対する当て字の一つなのだから、

 「ソガ」などと発音するのではない。

 天智以前はそんな発音を聞くこともなく、ソガなどという氏族も、地名も存在しなかった。

 鎌倉時代に曽我兄弟の仇討ちという有名な事件があったために、

 それと同じ発音の「蘇我氏」がいかにも古代から実在していたような錯覚を作ってしまったが、

 曽我は奈良県にもあるが、アスカと同じソナカ仏教遺跡につけた後世の当て字地名にすぎない。

 そこから蘇我氏が発生したのだという短絡説があるが、

 時代差を知らない空想が史実を歪曲する例の一つである。


 《神武天皇が詠んだ「蝦夷」の和歌は7世紀の作品

 次は、『記・紀』に記載されている神武天皇と天智天皇との混乱を整理してみよう。

 重要な手掛かりは、やはりこの「名乗り」である。

 『日本書紀』[神武天皇紀]即位前三年十月の部分は、歌がいくつも出てくるので有名だが、

 その最後の歌はその歌が作られた時代を考証するのに非常に役に立ったのである。

 それはいわゆる万葉ガナで書かれている。

 わかりやすいように読みと訳を揃えてご覧にいれる。

 「愛瀰詩烏、毘擡利、毛々那比苔、比苔破易陪迺毛、多牟伽毘毛勢儒」

 「エミシを、ひとり、ももなひと、ひとはいへとも、たむかひもせす」

 「蝦夷 を、一人、 百 の 人、人 は言えども、手向かいもせず」

 「エミシは大層強くて、一人で百人と戦う、とこれまで言っていたが、開くと見るとは大違いだ。

 この戦さでは、大した抵抗もせずに降参したぞ!」

 という意味である。

 問題はこの「愛瀰詩」を何と読むかだが、古来これに「夷」の字を当てて、
 
 エミシまたはエビスと読み、野蛮な敵のことだとしてきた。

 これまではそう読む以外に、この歌の解釈法がなかったからである。

 だが今では、これを「エミシ」と読むと、新しい大問題に発展する。

 それはすでに完全な結論が出ている。

 エミシは他の当て字で書くと「得目子」で、これは「ウマコ」とも読める。

 「ウマコ」は蘇我蝦夷の父の馬子などとして、

 同時代に多数の当て字が登場する名詞だから、

 それらはすべて当て字の読み変えだとわかっているからである。

 日本語に、3世紀より前から、野蛮人をエミシとかエビスとか呼ぶ名詞があったのではなく、

 それはいわゆる蘇我氏の滅亡以後に、

 「大国子(ウマコ)」という呼び名から「エミシ」という発音の名詞が派生し、

 後世にそれが方言化して「エビス」が生まれたのである。

 神武天皇記事

 (それには時代の異なるいくつかの歴史がミックスされている)の中の3世紀の部分

 (=垂仁天皇による卑弥呼政権奪取)にはそんな名詞や言葉があるはずがない。

 とすれば、これは間違いなく7世紀の天智天皇時代に作られた歌なのである。

 これが7世紀の歌であるという証拠はまだある。

 それはこの歌が『万葉集』のものよりも新しい型式、

 すなわち『和歌』の原則と韻律をきちんと備えていることである。

 「エミシはひとり、ももなひと、ひとはいへとも、たむかひもせす」

     七      五      七       七       二十六文字

 これが、五、七、五、七、七の形式で後世される三十一文字(みそひともじ)の『和歌』の、

 初めの五文字が脱落したものであることは、一見してすぐわかる。

 蝦夷と書いて「エミシ」と読むことはご存じの通りだが、

 この歌は蘇我蝦夷こと孝徳天皇が大阪に都していて天智天皇軍に敗れた当時の歌である可能性が

 一番強い。

 そこで、この脱落部分を

 「浪速・     大阪・     豊日国」などを使って

 「なみはやの……、おおさかの……、とよしまの……」などで補うと、

 「とよしまの、エミシはひとり、ももなひと、ひとはいへとも、たむかいもせす」

 「豊日国 の、蝦夷 は一人、 百 の人、 人 は言えども、手向かいもせず」

 と完全な本来の和歌に復元する。

 しかし、豊日国などが入っていては困るから削ったのだ。

 さらにこれらの歌には

 「志良宜(シラギ)歌だ」とか「来目(クマ=日)歌だ」という説明もついている。

 これはどこからみても『和歌』の創始者とされる前新羅王で日人(クマビト)の天智天皇が

 7世紀に詠んだ歌であって、絶対に1世紀や3世紀のものではない。

 「神武天皇作「蝦夷」の和歌」

 3行目の一番下の「愛」から始まる。

 こうして神武天皇には確かに天智天皇が混入していることが確認できる。

 ついでに「アイ」という発音の文字が「エ」と発音されていた事実も再確認してほしい。


 《同じ両親と同じ妻をもった二人

 ニニギのミコトは

 『日本書紀』の[神代下]の[一書]の一つに、

 天饒石・国饒右・天津彦・火・瓊瓊杵・命という名乗りが出てくる。

 これは『先代旧事本紀』巻第六[皇孫本紀]

 (「または天孫本紀ともいう」と標題の下に書きこみがある)に、

 彦の字が「彦彦」とダブっている以外、これと全く同じ名乗りが出ており、

 『古事記』もこれを採用して、

 万葉ガナに直して

 「天邇岐志・国邇岐志・天津日高日子・番(ホ)・能・邇邇芸・命」と書いている。

 ニギ速日のミコトのほうは

 『日本書紀』[神武天皇・即位前記・戊午・十二年]の部分に

 櫛玉・饒速日・命と出ているが、

 やはり『先代旧事本紀』巻第五[天孫本紀]がいちばん詳しく、

 「天照・国照・彦・天・火明・櫛玉・饒速日・命」のほかに

 これを省略した別名を並べているが、

 最後に

 「膽(たん)・杵・磯・丹(たん)・杵・穂・命」という別名をあげている。

 そして彼は天照大神の子・天押穂耳のミコトが

 「豊秋幡(はた)・豊秋津・師姫・栲(たく)幡・千々姫」を

 妻にして生んだ子だというが、

 この両親は、ニニギのミコトと全く同じなのである。

 だからこのニニギとニギ速日は、

 別人だとみても兄弟であることは間違いのない関係にある。

 これで

 「まさか『天孫降臨』の主人公と、

  7世紀の蘇我蝦夷が、同時存在だなどと考えられるか……」

 という反論は成り立たなくなってしまった。

 記録の『原典』そのものに

 「ニギ速日のミコトとニニギのミコトとは兄弟だ」

 と明記してあるのだから、それを否定するには、それを覆す力をもつた、

 より正確と認められる別の記録が必要だが、そんなものはどこにもないからである。

 私たちはすでに、ニギ速日が7世紀の誰だったかも、

 その妻が木花開耶姫であったことも確認している。

 その姫は『記・紀』ともにニニギのミコトのお后であると書いている。

 ニニギとニギ速日は同じ女性の夫であり、同じ両親を持っている。


 《「天孫降臨」という言葉の真意

 最後に『天孫降臨』という言葉の、本当の意味は何だったかという、

 一つ残った未解決の問題を片づけて、本書の締めくくりにしよう。

 まず「天(てん)」とは何かを分析してみよう。

 それには当時の天皇たちの名乗りが皆この「天」で始まっていることを見逃してはならない。

 それを整理してみると

 孝徳  天萬豊日        天之萬(テシマ) 豊島 豊日国   天=中央政権・天子

 天智  天命開別        金春秋     金=黄ノ     天=中央政権・天子

 天武  天渟中原瀛(オキ)真人          天ヌ中原(ヌ=の)天=中央政権・天子

 天武の中原(ちゅうげん)も国の中央だから、

 「天」はいずれも中央政権を意味していたことがわかる。

 では「孫」は何か?

 「マゴ」と読むと「馬子(マゴ)=大国(ウマ)の王子(コ)」になる。

 これで「降」も「降(くだ)る=下(くだ)る=都から離れる」という意味になる。

 これを通して読むと、

 「中央政権の天子の王子が、都から地方に下った」という普通の意味になる。

 何も「天空から舞い降りた」とか「宇宙人だった」とか、

 幼稚な空想をして眼を丸くするような問題ではなかったのである。

 最後に残った「臨」も、

 その意味は「臨む=のぞむ」で「身分の尊い者が卑しい者の所に行く」=

 臨席・臨場・臨御・臨幸といった使い方と、

 「見る」というだけの=

 臨検・臨写・臨終・臨時・臨機などがあるが、

 この「のぞむ」の外に「戦車=兵事」の意味もある。

 これらを総合してみると、

 確かにニギ速日は「身分の尊い者が卑しい者の所に行った」のであって、

 それは「戦さ」によって負けたことが原因であり、彼は逃げたのだから、

 「降臨」とは、それによって「卑しい身分になり下った」ということでもある。

 もっと細かく考えるなら、彼が戦争用の車に乗って地方へ下(さが)った可能性も、

 「天(あま)の磐(いわ)船に乗り」という表現から、

 これを「臨」の字で表現したとしても別に悪くはない。

 どちらにしても彼は「逃げた」のであることは間違いない。

 また「天から」も鹿児島語の「…から」は、「…を通って」という意味になるし、

 「磐(いわ)船」も

 「倭和(いわ)船=倭(イ)人と和(ワ)人(カリエン)たちの船」にたすけられて、

 それに乗って「アマ=海を通って=海路」を落ちのぴた、という意味にもなる。

 すると同時に彼がなぜ「ニギ速日」という名で呼ばれているかの謎も解ける。

 『古事記』[神武天皇記]には彼は天皇に降参して、

 「天津瑞(あまつみず)=さきの天は中央政権の天子のことだとすると、

 その象徴となる宝=三種の神器」を献じた、とあるから、それ以後に逃げたことになるが、

 そこには「邇芸速日の命」と書いてある。

 「邇芸」は沖縄発音で読むから「ニギ」だが、普通に読めば「ニゲ」である。

 「日」は関東や鹿児島では「シ」と発音する。

 これを合わせると「邇芸速日」の発音は「ニゲハヤシ」になる。

 漢字をいれると「逃げ速し」という言葉になる。

 『記・紀』には彼とニニギのミコトのこととして、いろいろな異説が書いてあるが、

 彼が「速やかに、逃げた」ことは間違いない。

 うろうろしていたのでは、

 斉明天皇のような目にあうか、殺されていたに決まっているからである。

 だからそれを風刺(ふうし)して人々は「逃げ速し」と半ば誉め、

 半ば嘲(あざけ)ったのである。

 これは想像ではない。

 当時の日本人は、遠慮なく政府や高官を風刺した。

 その歌が和歌であったことは先にもお話しした通りである。

 『日本書紀』が記録したその一つ解説に蘇我入鹿を「林の臣」と書いでのがあり、

 また聖徳太子のことを書いた『法王帝説』にも入鹿の別名を「林太郎」と書いてある。

 この「林=速日であり、速し」である。

 これらも「速日=ソナカ=蘇我」から読替えたものが、

 パロディとして通用していたことを示している。

 だが、こうしたことはその親族である持統から元明に至る天皇たちには、

 嫌なことの一つだったことは間違いない。

 けれど国民はそれをよく知っている。それを消し去ることはできないから、

 それを彼女らの肉親のことではなく、

 はるか古代の人のことにするという苦肉の策を採ったということもありうる。

 そう割り切ると、「ニギ」は「逃げ」だから、「ニニギ」は「二・逃げ」で、

 同一人がもう一度逃げたか、

 あるいはもう一人の別人が続いて逃げてきたかのどちらかになる。

 『古事記』は反政府文書だから、こうしたことがよくわかるように、

 わざと「邇芸」と書いて「逃げ」とわかるようにしたとみていいが、

 『日本書紀』はそれを「饒」という、

 まるで何のことかわからない文字に変えてしまっている。

 肉親たちの苦心がわかるのである。

 いずれにしてもこうしたことは、

 当時の日本人が風刺の利いた「戯れ歌」を公表し、

 また文字やその発音を巧みに捉えてパロディを作って楽しみ、

 相手が天皇であろうが高官であろうが遠慮せず批判した民主的な人々だったことを、

 はっきり記録している。

 非常に言語知識の豊富な、そして言葉とその音感に敏感な、

 高度の知性と感性を備えた人でなければ、そんな歌を作れないし、

 また聞いても何のことか理解できない。

 当時の日本人が現在の日本人に勝る文化人であったことは、

 当時の大きな文化遺産である『万葉集』をみてもわかる。

 だがそれにもまして評価する必要があるのは、批判きれた政府側が篇集した

 『日本書紀』にそれを載せた高い民主的知性である。

 私たちは祖先を誇っていい。

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