2012年2月9日木曜日

万葉仮名(4)



 《万葉仮名
 《万葉仮名


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 《上代日本人の高度な文化

 蘇我への様々な当て字は先にも見た。

 しかし、そうした当て字が、なぜ作られたかまでは分らなかった。

 だが当時の人が政治を批判し、それを風刺した童謡に託して子供に歌わせるという、

 高度な文化人であったこと知ると、

 それらの「変え字」もまた一つの高級な「遊び」であったことが分る。

 その「遊び」は「早」を「草」の「クサ冠」を刈ったという意味で

 「クサカ」と発音するような『字謎(ジナゾ)』として、

 すでに『記・紀』に沢山見つかるし、

 『万葉集』にも徹底した「風刺暗号歌」の境部王の歌(巻十六、三八三二)などがみられる。

 (北河内地域文化誌『まんだ』第十二号から三回連載の、

  加治木義博寄稿『まんだの語源と万葉歌』。参照)。

 他にも漢字を分解して謎をかける『割り字謎遊び』などが当時の文献に多く残っている。

 『記・紀』編集者は別に自分で頭を使って「創作」しなくても

 「既成品」の中から選べばよかったのである。

 『記・紀』の「神武東征」では「饒速日の命」には

 「宇麻志麻遅(ウマシマジ)の命=古事記」という息子がある。

 蘇我氏にも「ウマシ」と読める有名な「馬子」がいる。

 彼は稲目の息子である。

 稲目は天智天皇に先行した大和の支配者であり、

 饒速日の命も神武天皇に先行して大和の支配者になっていた人物である。

 『日本書紀』は「宇麻志麻遅」を「可美真手(ウマシマデ)」と書いている。

 これは「ウマシまで」が本当の名という暗号かシャレとみることもできる。

 学者の中には語尾の「麻遅・真手」を「貴(ムチ)」という敬称とする人もあるが、

 これは「馬子」を「マジ」と発音したものに合う。

 同じ例は先に「蘇我石河」など沢山あったので理解ずみだと思うが、

 『記・紀』には同じ名前の方言差などを重ねて書く一種の習慣が見られる。

 すると馬子は稲目の子であるから、稲目が饒速日の命だということになる。

 それでは天智天皇が殺した入鹿からみても曽祖父に当たり、時代も話も食違ってしまう。

 ことに『日本書紀』の系譜からいけば天智天皇は、稲目の曽孫(ヒマゴ)押坂彦人大兄王の、

 そのまた曽孫ということになるから、とても同時代だとは考えられないし、

 入鹿とでも四世代離れている。

 こうしたことは系譜が間違っていることの新しい証拠で訂正が必要である。


 《地域によって違う漢字の発音


 しかしなぜ、こんな重要な事実が1000年以上も不明のままでいて、

 しかもなぜ、私に解けたのでしょう?。

 それは歴史言語学を応用した私たちのシステム

 「言語復原史学」が威力を発揮したからなのです。

 こういうと何かむつかしそうに聞こえるかもしれませんが、

 それはそんなに面倒な、四角ばった学問ではありません。

 今の中国語では、上海を<シャンハイ>と読み、

 香港を<ホンコン>と発音することは、日本でも常識になっています。

 これで漢字の発音は「国によってちがう」ことがよくわかります。

 ところが国が同じでも、日本の中でも地域によって発音がちがうことに気づかない人がいます。

 たとえば「大」を、

 関西の人は「オオ」と発音しますが、

 沖縄の人は「ウ」か「ウフ」と発音します。

 またそれを私たちは「ダイ」と音読しますが、

 鹿児島の人は「デ」と発音して、

 たとえば「大根」を「デコン」と呼んでいます。

 この大を「デ」と発音するのは、国が違うのに朝鮮半島でも同じです。

 有名な政治家・金大中さんはキム・デジユンと発音します。

 もっともこのことは、

 これまでの位宮=神武天皇のお話で、もうそれほど不思議でも、

 奇妙でもなくなっているとは思います……。

 いま私たちに必要な

 『魏書倭人章』や『記・紀』や『三国史記』などの文章は、

 すべて漢文で、漢字ばかりで書かれていますから、

 そこに出てくるすべての名詞は、万葉集のように、

 発音に合わせて漢字を当てた「当て字」ばかりです。

 「それが書かれた当時の漢字の正しい発音」をまず調べねばなりません。

 そうしないとそれらの名前の正しい発音がわからないからです。

 それがわかると、その発音のクセによって、それがどこで書かれたかがわかります。

 たとえば「大根」がその名だとしますと、

 関西人は<ダイコン>か<オオネ>といい、

 沖縄の人は<ダイクン>か<ウフニ>といい、

 薩摩の人なら<デコン>か<ウネ>といい、

 大隅の人なら<ヂクン>か<ウフネ>といいます。

 大隅も鹿児島県の中に入っているのに、薩摩側とは発音が違うのです。

 大隅語では鹿児島語と共通の部分と、沖縄語と共通の部分が入り混じっています。

 ですから日本神話の舞台になっている「日向」は大きくみると南九州ですが、

 その中でも大隅か薩摩か沖縄かで「漢字で書かれた名」は、

 それが神様であろうが人間であろうが地名であろうが、

 すべてその地域がどこだったか正確にわからないと、正しく読むことができません。

 少しの間違いも許されないのです。

 また反対に名前の発音さえ先にわかれば、

 それだけで必要な地域を特定することができます。

 だから「ヤマタイコクはどこだ?……」と探す人たちは、

 まずこの発音の解明が必要で、これなしの説では意味はゼロに等しいのです。


 《『浦島太郎』

 『浦島太郎』

 ♪むかし むかし浦島は 助けた亀に連れられて

  竜宮城にきてみれば 絵にもかけない美しさ

 ♪乙姫様の御馳走に タイやヒラメの舞い踊り

  ただ面白く美しく 月日のたつのも夢のうち

 ♪遊びに飽きて気がついて おいとまごいもそこそこに

  帰ってみれば こは いかに 元いた村も家もなし

 ♪途方にくれて浦島は 土産にもらった玉手箱

  開いてみれば白煙り 太郎はたちまち おじいさん

 これは戦前の「小学唱歌」の歌詞ですが、

 短い言葉で物語の全貌を伝えています。

 浦島太郎のおとぎ話を聞いたことのない人でも、

 この歌でその内容を知っていました。
 
 しかし古い伝承文学として残っている

 『御伽草子(おとぎぞうし)』の『浦島太郎』と、

 この唱歌とは、本当はだいぶ違っているのです。

 例えば唱歌では亀が浦島を竜宮城に連れていくのに、

 『御伽草子』では、小船に乗って流れてきた美女が、

 その故郷の竜宮城まで太郎に送ってもらい、

 そこで太郎を引き止めて結婚するというお話だからです。

 唱歌のほうは竜宮城に乙姫がいて、

 御馳走はしてくれるが結婚はしません。

 こんな違いがあるのはやはり元になった実話に、

 つけ加えた脚色が異なるためだとわかります。

 浦島の話は、

 8世紀に編集された

 『日本書紀』や『風土記』にも載っていますし、

 『万葉集』にも浦島をよんだ歌がありますので、

 かなり古い時代のものだとわかります。

 それ以後も時代とともに幾種類もの物語が作られて、

 内容も変化していますし、

 その名前も、

 古い『日本書紀』のものは「瑞(ミズ)江浦島子」ですが、

 『風土記』では「水江浦嶼(シマ)子」で、

 のちには「浦島の子の浦島太郎」に変わっています。


 《亀の正体は「丹波の道主命」


 まず位宮は「どこを通ってどんなふうに琉球まで行ったか?」を見てみます。

 彼は「助けた亀」に連れられて行ったのですから、その「亀」とは誰だったか?

 それから調べてみましょう。

 日本の神道がインドのシンドウ教の一種であることは、

 伊勢神宮の建築様式が

 東南アジア各国のシンドゥ教徒の建築様式と共通していること、

 ことに宗教的象徴である「千木(ちぎ)」が、

 東南アジア各地に、原型から同形のものまで今も大量にある事実と、

 日本全国の祭り様式が、

 京都の祇園祭はじめ、

 各地の山鉾(やまぽこ)、山車(だし)、山笠に至るまで、

 インドから東南アジア各地に共通のものが一杯あって、どれ一つ疑う余地がありません。

 また古代もそうであった証拠は、

 『古事記』のいちばん最初に、

 「天地はじめて開けたるとき、高天原に成る神の名は天(アメ)の御中主神(ミナカヌシノカミ)」

 と書いてあることでわかります。

 シンドゥ教の最高神は「ビチュヌウ=毘紐縫神」です。

 これに万葉ガナでルビをふってみますと「美中奴宇真」といったものになります。

 これは読み手によって「ミナカヌウシン」と読み

 「御中主神」と当て字をする者、

 「ミチュヌウシ」と読んで「道主・道の大人」と当て字をするもの、

 「ビチュヌウジン」と読んで「尾輿の大臣」と書く者が実在しました。

 中でも『古事記』は[開化天皇記]の中で

 「丹波(タニハノ)・比古多多須(ヒコタタス)・美知能宇斯(ミチノウシノ)王」

 と当て字しているから、いちばん「ビチュヌウシン」に近い。

 こうしたものが、いずれも『記・紀』に記録として残っています。

 <チ>と<シ>、<ヌ>と<ノ>の違いは沖縄の方言差だけなのです。

 インド神話の一つ『乳海撹拌』のお話では、

 大洋をかき混ぜるための棒にするマンダラ山を引っこ抜いて運ぶとき、

 ビチュヌウ神は巨大な「亀」に姿を変えて背負って運びます。

 だからビチュヌウ神は「亀」とも呼ばれますが、亀はインド語で「クールマ」です。

 重いものを乗せて運ぶものを日本で「クルマ=車」というのは、

 このインド語なのです。

 日本神話の山幸彦が結婚した豊玉姫とその妹・玉依姫の父は、

 歴史では垂仁天皇の皇后・日葉酢姫の父・丹波の道主ですから、

 浦島の亀とはこの道主のことだったのです。

 丹波は後世には京都府の中にありますが、それは人々の移動によるもので、

 3世紀当時は「旦国=タンマ=丹馬=タンバ」で今の種子島の名でした。

 道主は崇神天皇によって「四道将軍」の一人に任命されて、そこへ赴任しています。

 だが言語復元を知らなかった従来の学者は、

 それを「天御中主神」とは全然無関係な別人だと思いこんでいました。

 だが全く同じ時代に、同じ地域に同じ名乗りをもった神と、

 王との二人の別人がいるわけがないので、これは同一人だとわかるのです。

 さらに位宮の記事でできている『神武天皇紀』をみますと、

 やはり「道臣」という将軍が、

 天皇から

 「汝は忠勇で、先導者として功績があった、だから名を改めて道臣にせよ」と、

 その称号をもらったのだという由緒が書いてあります。

 この名も「道の大臣」だと「ミチヌウシン」と読めます。

 すると彼は間違いなく位宮の先導者として功績があったのですから、

 どこからみても「浦島を竜宮へ連れていった亀」そのものだったのです。

 こうしてみると浦島の物語が歴史にもとづいていることがおわかりになると思います。

 こうしたことは「物語作者」がどんなに歴史に詳しくてもできることではありません。

 「史実」から変化したものだったからこそ、こんなに真実の証拠が揃うのです。


 《「月の世界」とは何だったのか?

 話が固くなりましたので、この章の最後はまた夢のようなお話に戻りましょう。

 それは脚色に使われた「月の世界」「月の宮居」という考えが、なぜ取り入れられたのか?……

 その知識の源はどこか?

 といったことです。

 実は位宮は「月」とは切っても切れない人物なのです。

 彼は八俣大蛇(やまたのおろち)=天照大神=卑弥呼を倒した政権の王なのですから

 「スサノオノミコト」に当たります。

 『古事記』にはそのスサノオは、天照大神が父から天の仕事をあてがわれたのに、

 彼は「海原を治めろ」といわれて、気にいらないで命令に従わずに泣きわめき、

 「僕は[根の国]に行きたい」とすねたので、父は怒って追放してしまったと書いてあります。

 これを位宮の史実と比較してみると、

 海原は海の中の国、すなわち沖縄で、位宮の名乗り「琉球王」に一致し、

 「根の国」は地下の「暗い国」すなわち「クライ=高麗、黒の国=北の高句麗」に一致します。

 スサノオはまた別の部分で

 「韓=カラ=インド語で黒」へ行って戻ってきた神だとも書いてありますが、

 これも位宮にぴったり一致します。

 ではなぜ「月」なのでしよう……?         

 『古事記』ではスサノオが海原を治めろと命令されたとき、

 もう一人「月読尊(つきよみのみこと)」という兄神がいて、

 彼は「夜食国」を治めよと命令されて月の王になったと書いてあります。

 この不思議な名の国はどこにあるのでしょう?

 これは当て字ですから別に夜食専門の深夜営業店なんかではありません。

 万葉ガナと同じことで、

 「夜=ヤ・食=クウ」と読みさえすれば「屋ヤ・久ク・王ウ」だとすぐわかります。

 彼は屋久島の王になったのです。

 『備後国風土記』の「疫隅国社」の話が元になって、

 彼は別名「疫(え)の神」と呼ばれていますが、

 これはいいかえれば「疫病神(やくぴょうがみ)」のことです。

 「疫(やく)」と「屋久(やく)」で、

 これは「屋久の王」がもとになってできた悪名だとすぐわかります。

 さらにこの屋久は古くは「邪久」と書かれています。

 7世紀の唐代より前には「邪」は「ジャ・ジォ」と発音しましたから、

 「天の邪鬼」の「ジャク」もこの名から出ていますし、

 3世紀当時の「邪久」は「ジキュウ」への当て字で、

 今の鹿児島語でも「琉球」のことを「ジキュ」と発音します。

 おわかりのように「月読尊」とスサノオは同一人で、

 「琉球王」位宮の説話が分裂して二人の神に見えたものだったのです。

 「月の満ち欠けを読む」のは海の大潮・小潮を予知することで、

 それは「海原の神」の仕事です。

 山幸彦はその力を得て海幸彦を倒しました。

 その月読みの神の宮殿が「月の宮居」と呼ばれるのは少しも不自然ではありません。

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