2012年2月7日火曜日

万葉仮名(2)



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海外学者による批判

邪馬臺国の問題は日本の古代史であるから、

日本人だけの問題だと考えられがちであるが、

言語、人類、史学などの諸学では、国境を超えた対象を扱うので、

当然、世界中に関心をもった人々があり、欧米にも研究者は多い。

その一人で米国有数の日本語学者ロイ・アンドリュー・ミラー氏は、

その著書「日本語」の中で、次のように批判している。

「日本の学者は、「魏志」を研究するに当たり、それらの漢字で書かれた名詞を、

全く自分勝手な型(パターン)とやり方で、日本だけでしか通用しない因襲音にあてはめ、

単語そのものを古代日本語として扱ってきた。

こうした伝統によって、中国語でもなく、

万葉ガナ表記の日本語でもなく、

全くシステムの異つた要素を、おかまいなしに組み合わせて、

その発音を古代日本語らしくするために当てはめた。

こうした習慣は魏志によってせっかく遺された古代の語彙を、

学問的に全く価値のないものにする現代の日本式漢音でよむ結果に導き、

根本的な問題を一層わからなくしてしまったのである。

 それらの単語を書く際、中国側が、その数世紀あとに奈良朝の御用学者が

考案する万葉ガナ方式を、前もって知っていたということはあり得ない。

だからある漢字、例えば「支」は万葉ガナの<キ>を表わそうと思ったわけでなく、

今の日本語の<チ>に近い音として使ったはずである。

≪このチは古代日本語中にはなかったことを、充分信じていい発音である≫―中略―

日本の学者は、万葉ガナであろうが現代音であろうがおかまいなしに仮定に使っているが、

これらは総て時代錯誤であって、すでに明らかになっている古代日本語の知識と

全く一致しない無茶なものである」

筆者の訳文がまずくて申しわけないが、意味はおわかり戴けたと思う。

この批判はたしかに過去の学者の痛い所をついている。

日本でも同じ意見の人があり、

当時の発音で読むべきだという論文もある事はすでに話した。

だが、ミラー氏のこの意見は、

一見非常にまともに見えながら、幾つも具合の悪い所をもっている。

第一は、

この文字をあてた人物を中国側の人だときめてかかっている点である。

そうきめるためには充分な研究によって動かぬ結論を先づ出さねばならない。

ところが従来そんなものはどこにもない。

とすればミラー氏は応神天皇以前は、倭人は文字を知らなかった、

という日本の迷信をそのまま信じて、それに従ってこの批判をかいたとするほかない。

だが倭人は少くとも前漢代から以後、

毎年のように中国と往来していると、前漢書他が証言している。

第二は、

いま私たちが使っている漢音を、現代のものとしている点である。

私はそれを日本式漢音と呼んでいるが、これはいつ日本に入ってきたか、どこのものか、

従来これまた結論の出ていないものなのである。

さきに述べたとおり、中国では、古代から現代の北京音に至る、はっきりした変化が、

同じ文字の上に起った。それが政権の交代によるものであることは、

あとでお話しする清朝の例でもよくお判りになるはずである。

しかし日本式漢音は、そんなに古代と現代との間に変化があったかどうかも不明のままなのである。

ミラー氏はここでも

「現代の発音で古代のものを読んではいけない」と未検討のものであることを忘れている。

第三に

氏は方言の存在を無視している。

私たちはすでに日本内地音の<キ>が沖縄音で<チ>と発音されることを、多くの実例で見てきた。

氏がわざわざ≪≫を付けて特につけ加えた部分は、

かえって魏志の謎ときをさまたげる結果になりかねないものなのである。

こうした間違いが、なぜ日本人以上に日本語に詳しい学者に起ったのか、

次はそれを考えてみょう。


用字の発音分析

邪馬臺国政権との関係が単なる他人のそら似でないことが、おわかりであろうか。

むしろ逆に、余り候補が多すぎて、かえって頼りない感じがあると思う。

それは、先ず似たものをできるだけ集める、

という仕事の性質上やむを得むことで、この中から、

どれが完全に一致するか検討して選び出すのである。

これほど類似が見られたということは、非常に有望といえる。

疑問を抱かれた『記・紀』用字の読み方について注釈を加えるから、

その理由をよく理解して戴きたい。


1  伊玖<米>を<マ>としたのは、<マイ>の頭音使用である。万葉集などでおわかりの通り、

日本語の五十音と漢字の発音とは一致しないが、字音の頭声たは尾韻(びいん)だけを

使って日本語を写した時代が、カナ文字誕生まで続いている。『記・紀』が書かれた

時代もそのうちに入る。

ここにあげた名前は、双方とも当時なんと発音されていたのか不明なのだから、

対照文字どうしの、最大公約数を求めるしかない。頭音使用とみるのは無理のない

方法の一つである。

2 伊<玖>米>の音、<キュウ>の頭音と支の音、<キ>とをそろえてみた。

3 活<目>は古語で<マ>とも発音された。

4 倭<彦>命の音は<ゲン>、その頭音ほ<ゲ>である。濁音を清音にする習慣を用いると
<ケ>とも読める。

5 <彌>馬升は我が国では<ミ>、<メ>、<ヤ>の音に使って来たがサンズイのついた瀰(ビ)で わかる

通り<ビ>の古音をもっている。それは美が<ミ>と<ビ>の両音をもっているのと同じである。

6 <彌>馬升:<ビ>の清音の文字を選んだ可能性がある。


7 御間<城>は御垣守の名が宮城守護者の職名であったように、本来垣で囲われた場所を

意味し、それが大規模になったものである。だから城と書いて<カキ>、<ガキ>と読み、

この<ガ>を助詞とみて落とし、<キ>ともよんだ。崇神紀では皇居を、<ミズガキ>の宮と

よんでいるが、これは<ミマキ>を水国城とした結果で、城を<カキ>とよんだ痕跡を

はっきり止めている。

8 <目目>微を<メマ>とよむのは<ミマキ>に対応するからで、

目は沖縄弁で<ミ>、古語で<マ>。

9  <中城><ナカジョウ>:重箱よみは『記・紀』万葉では普通。

10  渟中城<入>:<キ>は沖縄弁では<チ>。

11 渟葉田<瓊>:入<之>と<瓊>は助詞とみると、読まないでもよくなる。

除去して合う場合の例。

12 <豊>鉏入:頭音使用。東京都豊島トシマ区

写真:古事記の崇神系譜一部(加治木原図)

江戸時代の三国幽眠「古訓古事記」

中央部に後述の大入杵命が明記されている。

この時代になると非常に立派な印刷になっている。


甲類乙類音の適用範囲

日本語はこれまでウラル~アルタイ語系の言語らしいとされてきた。

そのウラル~アルタイ語に分類された

蒙古語、ツングース語、トルコ語などには

母音が七つも八つもあって、その使い方を詳しく調べてみると、

一定の法則があることがわかったのである。

七つまたは八つの母音は、一つの単語中に自由に使われているのでなく、

複数のグループにわかれていて、

一つの単語には一つのグループの母音だけしか使われない。

別のグループのものを混ぜ合わさない。

という法則がはっきり認められる。

これと同じ法則が日本語のうちにもあったのである。

それは万葉集の研究から、当時の日本語には母音が八つあったという

橋本進吉氏の発見

(これは甲類、乙類という分類で、過去の邪馬臺論にも、しばしば登場するもの)にはじまり、

古文献に残る単語を分析した結果、はっきり実在したことがわかったのである。

これを活用して、魏志中の名詞にも母音調和があったと決める人があるが、

これは根本から間違っている。

なぜなら、すでに見たように、倭人官名の大半は沖縄弁を含んでいたが、

沖縄弁は八母音どころか、アイウエオの五母音ですらなく、エオを絶対に用いない

三母音のことばなのだからである。

甲類、乙頼も全く同じ理由で倭人伝の地名、官名を束縛する権利はない。

なぜこんな誤りが生れたか、

それは日本語学者たちの古代語に対する呼び名が、

いわゆる「日本語」式の無考えな、曖昧なものであるからである。

彼等は万葉語も、『記紀』中の語も、中には平安時代のことばまでも一緒くたにして

「古代日本語」と呼ぶ。

ところが、御承知の通り、日本語は時代によって激しい変化がある。

万葉時代にあった甲・乙の厳しい区別は平安時代にはもうなくなっており、

現代標準語には八母音も、母音調和もない。

これらは厳密に区別すべきものなのに、それをしないから、無学な邪馬臺論は、

はるか古代の3世紀のことばに、万葉語の甲類、乙類を絶対的な条件としたり、

母音調和を主張したり、中には母音調和の何たるかを知らずに、

語尾変化をすべて母音調和だといってごまかしたりする者まででてくることになったのである。

私たちは語尾を母音として分析して、

バラバラなもの=死物=として考えるのではないから

母音調和や甲類、乙類をこの段階で持ち出しても使い道はない。

卑弥呼という生きた名前と、兕馬觚という有機的な名とを比較して、

その漢字がもっている能力のうちの「発音」の生態を調べ、

この二つの名に見えるものを生み出した人々と、その事情を探り出すのであって、

言語学は死体を解剖するのに対し、私たちは生き物が元気よく発展し、

新しいものに進化して行った姿をとらえようとしているのである。

言語学と同じような材料を扱っても、正反対のものであることを再確認しておいて戴きたい。


借用語か否かの鑑別

単語には「借用」ということがある。

今では私たちは漢字なしでは生活できない程に、

古い発音の中国語を大量に使っている。

しかし、それは文字と言葉だけが輸入されたのであって、

言葉の量に比例する中国人が混血したわけではない。

日本語の中に大量にマレー語が見つかるからといって、

すぐ、日本人はマレー語人が大量に混血している、とはいえないのではあるまいか?

この答えは、マレー語が、

どういう方法で日本語の中に加えられたか、によって左右される。

中国語の場合は、文字と、それによって書かれた書物と少数の人々によって、

言葉だけが海を渡って来たといっていい。

マレー語の場合はどうだったか。

それはまず、いわゆる日本の古語と、マレー語とを比較してみて、

マレー語以外のことばが、どれ位い残るかを見ることから始める。

なぜなら人間生活は言葉なしでは営なむことのできないものだから、

借用語を輸入しない前も、言葉が無かったとは考えられない。

日常の社会生活に必要な言葉が、実在していたはずである。

このことは、借用語である中国語や欧米語を日本語からとり去っても、

かなりの量の言葉が残り、表現に困るものはあっても、

古代なみの社会生活を営なむのには事欠かない。

という事実が、裏づけになる。

この点残念ながら、8世紀以前のものと考えられる日本語は、従来不明のままであった。

『記・紀』に僅かに原型のままらしい言葉が見られるが、

これは果して原型のままか、いつのものか未検討のものばかりである。

今のところ3世紀のものといえば、魏書倭人章と、

本書で始めて明らかになった崇神垂仁紀のものが大半ということになる。

以後大きな空白を残して奈良朝とされる万葉時代にとぶ。

しかし、万葉語と比較しても、ある程度の目的は達せられる。

マレー日本共通の1万を超える単語は、万葉語をほとんど除去するに足る量といえるからである。

もちろん、それは実際にやってみなければわからない。

しかし、仮りに、万葉語の大半や、奈良朝語の大半が、

マレー語と共通であるということになれば、それを引き去った残りの語だけで、

社会生活が営なめるかどうか、すぐ判定できるはずである。

生活できるものが残れば、

マレー語は、補充用に、言葉だけが、文字と書物という形で、

はいって来た可能性があり、さらに当時どんな文字があったか、

それはいつどうしてはいって来たか、

という新しい研究を必要とすることになる。

逆に、残りの語が、ごく僅かであれば、

マレー語は生きた人間が運んできたもので、

決して単なる輸入語ではない、ということになるからである。

さきにあげた例を使ってやってみよう。


日本語~マレー語:分裂対立していた共通語

<アイ>は『魏書倭人章』に「噫」とある。有る、在らぬは万葉に多出する。

歩くは万葉。<以下、( )に万とする>)。粗(あら)(万)。荒海(万)。天津(記紀万)。

あぐ(万)。麻(万)。振る(万)。力(記紀万)。つかむ(万)。攻む(紀)。

せめく(字鏡、名義抄)。千鳥(万)。つつく(記紀)。つけ=調(つき)(記紀万)。近(記紀万)。

ええっ(記)。えらく(万)。御主(紀)。からい(紀)。暗う(紀)。浜(記紀万)。払う(万)。

鄙(ひな)(万)。行く(記紀万)。帰る(万)。イサチる(記紀)。良からぬ(万)。去る(万)。

九十余語のうちの約三分の一、三十語ほどしか見当らない。

もっと詳細に行なえば多少の増減はあるが、この大数が、それほど変るものではない。

これは明らかに、万葉時代の日本語は、マレー語は含むが、

そればかりでなく、他の要素が別に実在したことを物語っている。

物事を深く考えない人は、ここでマレー語は借用語である。

と結論を出してしまいたいところであろうが、果してそれでいいだろうか?

まだまだ考えなければならないものが残っているはずである。

まず、残りの三分二の共通語は、万葉以後に日本語に入ったことになる。

ということは、漢字と同じように、マレー文字が大量に、

日本へことばを運んできた、ということになるのだが、一体そんな事実があったのであろうか?

私たちの知る限りでほ、日本にはマレー語の古文書など残っていない。

マレー文字がどんなものであるかさえ知っている人はほとんどない。

しかも、間違いなく、万葉時代以後に加わった大量のことばが実在する。

この謎をとくためには、残りの三分の二の観察が必要である。

各語の特徴といえば、方言型がみられたことであった。

それを念のため、各語に附記して行こう。

現在標準語化しているものは空白のままとするが、

その語が、ある方言から出ていることが明らかな場合は、

その方言名をいれて区別した方が手がかりが多くなる。

また方言名は、できるだけ簡噸化して、全体が見やすいようにした方がいい。

武=武家語。幼=幼児語。東=関東弁。西=関西弁。和=和製漢音語。

南=南日本弁。沖=沖縄弁。?注意を要するもの。

あれへ(武)。ばっちい(幼)。坊や(東)。番外(和)。べちゃつく(西)。ベラ(南)。バット(南)。

ぶらり(南)。ぶるぶるがくがく。ぼろい(西)。 不恰好西、和)。ちょびっと西)。辛か(南)。

ちょろまかす(西)。ちょっと。好かん(南)。黙いやん(南)。談判(和)。…で。黙れ。

ジンキ(<悋気>)(南)。どおぞ(南)。どお。ツラ(〈面>)(南)。ずるい(南)。いじった(西、南)。

ウンチュ(<御主>)(沖)。雛=女性(?)。カタ(<抵当>)。カラ(<空>)(南)。我慢(和)。がみがみ(南)。

カンカン(南)。がんたれ(南)。がしんたれ(西)。かろい籠(こ)(南)。苦労(和)。頑張る(南)。

拳骨(和)。錐。飯場(西)。半端(西)。おはん(南)。はんつ(西)。はつ(<鉢>)(南)。

ひまつ(<始末>)(南)。鼻糞。行こまい(西)。いのう(<帰ろう>)(西)。十六夜(いさよい)。

邪悪(和)。矢来。やる(南)。掠う(南)。去っ(南)。じやち(<だとサ>)(南)。ずばー(南)。

ジェジェー(南)。辛れえ(東)。自若(和)。じろい(南)。じやが(武)。ちょいと(東)。ジュジョな(南)。


一見して特徴的なのは、非常に<南日本語>が多いということである。

これは、ごく大まかな分類で、

正確には、他の表記のものも南日本語中に含まれているものが大半であるから、

これは、南日本に、万葉人以外のマレー語人が存在した、と考えるほうが、

仮空のマレー文字や、マレー文書、借用語の大群を考えるよりも、はるかに合理的である。

私たちはもうすでに<倭国>と<日本国>が二つの別の国であり、

唐書以後合併して一つの<日本国>として扱かわれるのを見た。

この一方が<万葉国>であり、他方がこの<南日本方言国>であったと考えると、

言語の合体も、別に不思議ではなく、

むしろ当然のことであって、この事実に気づくのが遅すぎた、

といわねばならないほどである。


邪馬臺国の発音と意味

邪馬臺とは何を意味し、何と発音するのが正しいかという問題である。

<邪>という字は、<ヤ>、<ジヤ>、<ヨ>などと日本で使われてきたが、

北京音では<シェ>、広東音では<ツェ>、呉音では<ゼ>、上海音が<ジャ>である。

また明(みん)音で<スウ>と使われている。

カールグレンの研究によると、この邪の発音は二系統があり、

上古音<ディオ>と<ディア>。

中古音<ヂウォ>と<ヂァ>。

近世音<スウ>と<シェ>に分れている。

 お気づきのように<ヤ>と発音するものはない。

では日本で<ヤ>と用いられた例はいつからか。

記紀万葉時代にありそうに思われるかも知れないが

中田祝夫氏の新選古語辞典によれば、<ヤ>の音に用いられたのは

<夜>、<移>、<也>、<野>、<耶>、<楊>、<椰>、<揶>、<瑯>、<八>、<矢>、<屋>の

十二文字であって邪はヤ行はもちろん、他の仮名としても全く使われていない。

筆者があげた<ヤ>という使用例は、邪馬臺以外には、はるか後世まで無い。

3世紀当時、ヤマト論者のいうように邪馬臺国がヤマトと発音されていたのなら、

魏人はこんな文字よりも<ヤム>という発音の<奄>や<淹>や<掩>、<厭>、<弇>に

<ト>とはっきりした音の<土>、<吐>、<堵>、<稌>など幾らでも選んで用いることができた。

それをしていないということは、魏使たちが耳にし、語りあっていた邪馬臺の発音は、

ヤマト以外のものだったという動かない証拠なのであるる。

これはヤマトが実在しなかったということではない。

ただ邪馬臺とは別のものかまたは邪馬臺がヤマトに変ったとしても、

それは後世のもので、倭人章の邪馬臺でないことだけは、はっきり断定できるのである。

<邪>と同じく<臺>も上古音<ダグ>、中古音<ダイ>、近世音<タイ>である。

3世紀当時はせいぜい<ダ>までで、とうてい<ト>ではない。

こうした奇妙な間違いがなぜ横行してきたか、

それは字音が時代によって大きく変ったという事実や、

字音の内容について無知であった江戸時代の学者たちが、

いい加減につけた読み方が、似たような人々によって、

何の疑問ももたれずに現在まで踏襲されたということである。

ヤマタイコクなど実在しなかったのだ。

実在したのは邪馬の用字が示す<ディオマ>、<ディァマ>あるいは<ヂウォマ>、<ヂァマ>に

近い発音をもった国名であった。

これは一見<ジョオウ>(女王)によく似ている、

だが<女>は上古音<ニョ>、中古音<ニゥォ>または<ヌヂウォ>で、

<ディ>または<ヂ>という強い頭音をもっていない。

これは女王以外の、官名や伊勢や諏訪や祇園や賀茂、

そのほか実に多くのものが一致して示した

<ジワ>が<邪>の字の本体であり国称の<マ>が<馬>の字の意味するものであったというほかない。

なぜなら、

それだけの痕跡を今に伝える国の名がジワマと呼ばれたであろうことは

当然といえるのに他にそれに当るものがない。

さらにこれには中国側からの証拠といえるものがある。

写真:カリー女神像(加治木原図)

この像は北インドのものである。

シバ大神の妻であったカリーは、

仏教にとりいれられて訶梨帝菩薩と変化し新らしい縁起を与えられた。

日蓮はこれを鬼子母神と訳したが、

一方ではインド亜大陸の南海地方で慈母聖母としての愛の女神「カシー」となり、

観世音の文字があてられた。

奈良朝の厚い崇敬にもかかわらず香椎廟が当時の重要な

祭政施行令であった延喜式の神名から除外されているのは、

神功皇后を観世音すなわち仏と見ていたことの一証である。

なお前出の観世音菩薩鏡の像と見比べて戴けば

相互の類似が単なる空似でないことを御理解戴けよう。(加治木義博所蔵)

それは中国で「邪教」という用字で呼ばれた起りが、

やはりこのジワ教を意味したという事実である。

文献に登場する邪教淫祠、または邪神というのは、いずれもヒンドゥ系の信仰を意味する。

このことはインド各地の石窟寺院の実態を知る私たちには、すぐ納得のいく事実である。

注意を要するのは、この<邪>という用字が、

本来は<ジワ>に対する当て字であったということである。

それは別に非難の意味で用いられたのではない。

邪が悪の意味に転化したのは、儒教や仏教が猛烈に排撃非難した影響で、

それ以前は善神と信じられたからこそ祭られていたのである。

こうした事実を知らず、

邪を卑字であるとして、

女王国にわざわざこの悪い字を選んで使ったのは中国人の中華思想のあらわれである。

と称してそれを軽蔑する人があったが、

それは彼自身の無知と下司の勘ぐりを曝露しただけで、

邪の字は別に倭人を卑しめて用いたのではなく、

ジワ教の名に一番適切な名で、しかも中国での呼び名を用いるという、

ごく当り前なことをしたまでなのである。

同じことは卑弥呼の卑の字についてもいわれるが、

これも本来は卑でなく、卑という別字が使われている。

無知プラスいい加減な想像がどんなに恥かしいものであるか、

ということをよく噛みしめておきたい。

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