2012年2月24日金曜日

マレー語に関する章(9)



 《マレー語人居住の立証

 これだけでは合理的な説明がついたというだけで、

 マレー語が借用語でないという確証があったわけではない。

 言葉だけが輸入された漢語と比較してみて、

 言語以外の何かが、どの程度存在するか、

 それはマレー語人が移住してこなくても、

 言語のように輸入文明として入ってくることができたか、

 調べてみる必要がある。

 まず頭に浮ぶのは稲作の共通性である。

 しかし、これは一と握りの種子をもった一人の農業技術者が渡ってくれば、

 それで充分はじめとすることができるから、何のきめ手にもなりはしない。

 インドネシア各地では、我国のものと全く同型の「虫やらい」行事が見られる。

 しかしこれも一人の農業技術者が教えれば、それは幾らでもひろがる。

 こうした移入時代不明の習俗や行事などを、余り重視しすぎると、

 正しい答えは見失なわれてしまうのである。

 現在、我国に大量のキリスト教徒がおり信仰習慣が厳守されているからといって、

 それをヘブライ族との混血に結びつけるのは無茶なのと同じく、

 古代習俗であるからといって、血統証明になるわけではない。

 それらは幾らでも借用され、輸入されて、

 血液とは何の関係もなく民族を覆うからである。

 土俗や民族、宗教といった学問にたずさわる方々は、

 その学問内容の二次的性格を充分認識していなければならない。

 借用漢語の場合、それは先進文明をとりいれる必要上、

 もっとも便利であるから、

 言語と文明が抱き合わせになってはいってきたのである。

 これは現在の欧米語と欧米文明とが抱き合わせで

 はいって来た状態と全く同一の現象である。

 マレー語が大量に借用語としてはいって来たものなら、

 それは必らず<より高度の文明>と共にはいってきたはずである。

 借用語かどうかのきめ手は実にこの点にかかっているのであって、

 文明ぬきでより低いものの言語だけを借用するということはあり得ない。

 文明が欠けていれば、それは借用ではなく、

 言語をもった民族そのものが移動したことを証明するのである。

 それは同時に時代の証明にもなる。

 現在までの私達の考古学知識で比較に便利な文明は、弥生期の建築である。

 これにはその時代の建築物図鑑が現存しているから、

 他のどんな史料にも勝るのである。

 奈良県北葛城郡河合村から出土した高名な家屋文鏡には当時の4種類の建築が、

 その様式と材料を充分に物語る精度で描写されている。

 これは静岡の登呂その他の弥生期住居址等と総合することによって、
 
 当時の建築がどんなものであったかを復原してみせてくれる。
 
 それらをみると、一般民衆の竪穴(たてあな)住居から柱をもった<平屋建築>、

 さらに高い床(ゆか)をもった<高倉らしいもの、

 その上にさらに柱をもった二階建建造物ともいうべき<宮殿>までが、

 同時に存在していたことを物語っている。

 高度のものと低度のものが共存するのは、現代でも同じであって、
 
 一方に西欧式ビルが立ならぶ大都会に、
 
 他方では江戸時代と余り変らぬ<瓦茸木造建築>が軒をつらねているのである。

 こうした建築技術もまたたしかに教育という手段によって、
 民族とは関係なく借用することができる。

 しかし、稲作の伝播の場合のように、一人だけ、というわけには行かない。

 なぜなら、これらの太柱を使用した建築は、金属製の道具を使用して穴をあけ、

 切りこみをして始めて組み立てることのできるもので、

 石器では容易に作ることのできない構造になっている。


 現在までの私達の考古学知識で比較に便利な文明は、弥生期の建築である。

 これにはその時代の建築物図鑑が現存しているから、他のどんな史料にも勝るのである。

 奈良県北葛城郡河合村から出土した高名な家屋文鏡には当時の4種類の建築が、

 その様式と材料を充分に物語る精度で描写されている。

 これは静岡の登呂その他の弥生期住居址等と総合することによって、
 
 当時の建築がどんなものであったかを復原してみせてくれる。
 
 それらをみると、一般民衆の竪穴(たてあな)住居から柱をもった<平屋建築>、

 さらに高い床(ゆか)をもった<高倉らしいもの、

 その上にさらに柱をもった二階建建造物ともいうべき<宮殿>までが、

 同時に存在していたことを物語っている。

 高度のものと低度のものが共存するのは、現代でも同じであって、
 
 一方に西欧式ビルが立ならぶ大都会に、
 
 他方では江戸時代と余り変らぬ<瓦茸木造建築>が軒をつらねているのである。

 こうした建築技術もまたたしかに教育という手段によって、

 民族とは関係なく借用することができる。

 しかし、稲作の伝播の場合のように、一人だけ、というわけには行かない。

 なぜなら、これらの太柱を使用した建築は、

 金属製の道具を使用して穴をあけ、

 切りこみをして始めて組み立てることのできるもので、

 石器では容易に作ることのできない構造になっている。
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2012年2月23日木曜日

マレー語に関する章(8)



 《日本語~マレー語:分裂対立していた共通語

 <アイ>は『魏書倭人章』に「噫」とある。

 有る、在らぬは万葉に多出する。

 歩くは万葉。<以下、( )に万とする>)

 粗(あら)(万)

 荒海(万)

 天津(記紀万)

 あぐ(万)

 麻(万)

 振る(万)

 力(記紀万)

 つかむ(万)

 攻む(紀)

 せめく(字鏡、名義抄)

 千鳥(万)

 つつく(記紀)

 つけ=調(つき)(記紀万)。

 近(記紀万)

 ええっ(記)

 えらく(万)

 御主(紀)

 からい(紀)

 暗う(紀)

 浜(記紀万)

 払う(万)

 鄙(ひな)(万)

 行く(記紀万)

 帰る(万)

 イサチる(記紀)

 良からぬ(万)

 去る(万)

 九十余語のうちの約三分の一、三十語ほどしか見当らない。

 もっと詳細に行なえば多少の増減はあるが、

 この大数が、それほど変るものではない。

 これは明らかに、

 万葉時代の日本語は、マレー語は含むが、そればかりでなく、

 他の要素が別に実在したことを物語っている。

 物事を深く考えない人は、ここでマレー語は借用語である。

 と結論を出してしまいたいところであろうが、

 果してそれでいいだろうか?

 まだまだ考えなければならないものが残っているはずである。

 まず、残りの三分二の共通語は、

 万葉以後に日本語に入ったことになる。

 ということは、

 漢字と同じように、

 マレー文字が大量に、日本へことばを運んできた、

 ということになるのだが、一体そんな事実があったのであろうか?

 私たちの知る限りでは、

 日本にはマレー語の古文書など残っていない。

 マレー文字がどんなものであるかさえ知っている人はほとんどない。

 しかも、間違いなく、

 万葉時代以後に加わった大量のことばが実在する。

 この謎をとくためには、残りの三分の二の観察が必要である。

 各語の特徴といえば、方言型がみられたことであった。

 それを念のため、各語に附記して行こう。

 現在標準語化しているものは空白のままとするが、

 その語が、

 ある方言から出ていることが明らかな場合は、

 その方言名をいれて区別した方が手がかりが多くなる。

 また方言名は、できるだけ簡噸化して、全体が見やすいようにした方がいい。


 武=武家語

 幼=幼児語

 東=関東弁

 西=関西弁

 和=和製漢音語

 南=南日本弁

 沖=沖縄弁

 ?注意を要するもの


 あれへ(武)

 ばっちい(幼)

 坊や(東)

 番外(和)

 べちゃつく(西)

 ベラ(南)

 バット(南)

 ぶらり(南)

 ぶるぶるがくがく

 ぼろい(西)

 不恰好(西、和)

 ちょびっと(西)

 辛か(南)

 ちょろまかす(西)

 ちょっと、好かん(南)

 黙いやん(南)

 談判(和)

 …で

 黙れ

 ジンキ(<悋気>)(南)

 どおぞ(南)どお

 ツラ(〈面>)(南)

 ずるい(南)

 いじった(西、南)

 ウンチュ(<御主>)(沖)

 雛=女性(?)

 カタ(<抵当>)

 カラ(<空>)(南)

 我慢(和)

 がみがみ(南)

 カンカン(南)

 がんたれ(南)

 がしんたれ(西)

 かろい籠(こ)(南)

 苦労(和)

 頑張る(南)

 拳骨(和)

 錐

 飯場(西)

 半端(西)

 おはん(南)

 はんつ(西)

 はつ(<鉢>)(南)

 ひまつ(<始末>)(南)

 鼻糞

 行こまい(西)

 いのう(<帰ろう>)(西)

 十六夜(いさよい)

 邪悪(和)

 矢来

 やる(南)

 掠う(南)

 去っ(南)

 じやち(<だとサ>)(南)

 ずばー(南)

 ジェジェー(南)

 辛れえ(東)

 自若(和)

 じろい(南)

 じやが(武)

 ちょいと(東)

 ジュジョな(南)

 一見して特徴的なのは、非常に<南日本語>が多いということである。

 これは、ごく大まかな分類で、正確には、

 他の表記のものも南日本語中に含まれているものが大半であるから、

 これは、

 南日本に、万葉人以外のマレー語人が存在した、と考えるほうが、

 仮空のマレー文字や、マレー文書、借用語の大群を考えるよりも、

 はるかに合理的である。

 私たちはもうすでに<倭国>と<日本国>が二つの別の国であり、

 唐書以後合併して一つの<日本国>として扱かわれるのを見た。

 この一方が<万葉国>であり、

 他方がこの<南日本方言国>であったと考えると、

 言語の合体も、別に不思議ではなく、

 むしろ当然のことであって、

 この事実に気づくのが遅すぎた、

 といわねばならないほどである。

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2012年2月22日水曜日

マレー語に関する章(7)



 《借用語か否かの鑑別

 単語には「借用」ということがある。

 今では私たちは漢字なしでは生活できない程に、

 古い発音の中国語を大量に使っている。

 しかし、それは文字と言葉だけが輸入されたのであって、

 言葉の量に比例する中国人が混血したわけではない。

 日本語の中に大量にマレー語が見つかるからといって、

 すぐ、日本人はマレー語人が大量に混血している、

 とはいえないのではあるまいか?

 この答えは、

 マレー語が、どういう方法で日本語の中に加えられたか、によって左右される。

 中国語の場合は、

 文字と、それによって書かれた書物と少数の人々によって、

 言葉だけが海を渡って来たといっていい。

 マレー語の場合はどうだったか。

 それはまず、

 いわゆる日本の古語と、

 マレー語とを比較してみて、マレー語以外のことばが、

 どれ位い残るかを見ることから始める。

 なぜなら人間生活は言葉なしでは営なむことのできないものだから、

 借用語を輸入しない前も、言葉が無かったとは考えられない。

 日常の社会生活に必要な言葉が、実在していたはずである。

 このことは、借用語である中国語や欧米語を日本語からとり去っても、

 かなりの量の言葉が残り、表現に困るものはあっても、

 古代なみの社会生活を営なむのには事欠かない。

 という事実が、裏づけになる。

 この点残念ながら、8世紀以前のものと考えられる日本語は、

 従来不明のままであった。

 『記・紀』に僅かに原型のままらしい言葉が見られるが、

 これは果して原型のままか、

 いつのものか未検討のものばかりである。

 だから、今のところ3世紀のものといえば、『魏書倭人章』と、
 
 本書で始めて明らかになった崇神垂仁紀のものが大半ということになる。

 以後大きな空白を残して奈良朝とされる万葉時代にとぶ。

 しかし、万葉語と比較しても、ある程度の目的は達せられる。

 マレー日本共通の1万を超える単語は、

 万葉語をほとんど除去するに足る量といえるからである。

 もちろん、それは実際にやってみなければわからない。

 しかし、仮りに、万葉語の大半や、奈良朝語の大半が、

 マレー語と共通であるということになれば、それを引き去った残りの語だけで、

 社会生活が営なめるかどうか、すぐ判定できるはずである。

 生活できるものが残れば、

 マレー語は、補充用に、言葉だけが、文字と書物という形で、

 はいって来た可能性があり、さらに当時どんな文字があったか、

 それはいつどうしてはいって来たか、という新しい研究を必要とすることになる。

 逆に、残りの語が、ごく僅かであれば、

 マレー語は生きた人間が運んできたもので、

 決して単なる輸入語ではない、ということになるからである。

 さきにあげた例を使ってやってみよう。

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2012年2月21日火曜日

マレー語に関する章(6)



 《日本語~マレー語:共通単語の証言

 方言以外まったく説明を必要としない言葉が、ずらりとならんで、

 これまで日本独得のことばと思っていたものが、

 海の向うで現在も話されているという事実に、

 今更のように感銘があつたと思う。
 
 しかもこれはからまでの部分の中で、対応の状態が複雑なもの、


 方言化や変型のみられるものを除外した残りだけである。


 その総量がどれ位になるかは想像できると思う。


 次は、


 順番に拾っただけのこの材料を使って、


 これらの共通語がどういう特徴や傾向をもっているかを調べてみょう。


 これは量としては少いが無作為に集めたものだけに、


 充分全体の状態を代表していると考えられるからである。


 まず眼につくのは古い日本語の型をもっていることである。


 有らぬ、在らす、あれへ、あまつさえ、荒る、振りすつる。


 といった言葉は、


 一見しただけで古い時代のもので近世の交流によるものでない事がわかる。


 次に印象的なのは番外地などの<番外>という単語をはじめ、


 <不恰好>、<悋気>、<我慢>、<苦労>、<拳骨>といった


 日本製漢語のようなものが、ちゃんとあったことである。

 もちろん、

 マレー語圏には古来中国の人々が多数移住して重きをなしているから、

 中国語が沢山まじっている。

 しかしそれらは発音に特徴があるため、

 過去のマレー語学者もちゃんと見分けていて、

 出自が中国であることを、辞書などでも明記しているので、はっきり区別でき、

 それらは、他の語源のものと共に除いてあるのである。

 第三に特徴的なのは、

 鹿児島方言との近似性が特に高い、という点である。

 また、<ツ>を<チュ>と発音するのは沖縄弁で、

 さらにハッキリ河内や和歌山弁、

 いわゆる江戸っ子弁も見あたる。

 これらは、

 ざっと見て<黒潮域>の人々のもの、

 あるいは<隼人系>とでも分類すべき人々の居住地域、

 表日本語とのつながりを証明しつつある。


 第四に

 これらの単語は、一つ一つが、さらに他の日本語の語源的役割を果していることがわかる。

 <有>と<在>の<アル>は、日本語ではさらに<所有>と<居住>の、

 ありとあらゆる語に関係しており「粗い」「荒い」も、<粗末>から<暴力>、<波乱>の意味に

 広い機能を発揮している。

 さらに新しい単語を一つ例にあげると、<カタング>=(背負籠、肩掛袋など)。

 という単語は、

 一方では鹿児島方言の担(かた)ぐと結びつき、

 それは肩(かた)という単語と

 結びつき、担ぐの語源が「肩上(かたあ)ぐ」であったことと、

 いま「担(かつ)ぐ」といっている標準語の方が、

 <カタグ>よりもさらに靴って方言化したものだ、ということなどがわかるのである。

 また<カタング>の語尾の<グ>と、

 さきに見た<ガリング>(からい寵)の<グ>とは共に<籠>を意味している。

 このことで<カゴ>という音は、<ング>と対応することがわかる。

 <カ>と<ン>は、助詞の「ガ」と「ヌ」であつて、ともに「の」にあたることばであったから、
 
 <ン>が<ガ>になりさらに<カ>になったものと、

 <グ>が<ゴ>になったものであることをつきとめられるのである。

 では<ヌ>と<ガ>、<グと<ゴはどこで交替したか。

 これはもうすでに沖縄語と鹿児島語との対比で幾度も幾度も見てきた所である。

 マレーの<ングが沖縄で<ヌグ>になり、さらに鹿児島で<ガゴ>になり、

 さらに<ガ>だけが清音化して<カゴ>になったのである。

 ところが、この籠は古く<コ>と発音されたことも多く記録に残っている。

 これは、<ガゴ>の<ガ>を助詞として取去ったものを、

 さらに清音化した人々がいたことを物語っている。

 それは一体だれであったか?

 これもまたよく御存知の<カコシマ>と発音する人々、

 鹿児島に建国したのち、

 朝鮮半島へ移住した天孫降臨神話の持ち主たちだったのである。

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2012年2月20日月曜日

マレー語に関する章(5)



 《日本語~マレー語:共通語の実在

 「地図:マレー語圏の拡がり」(加治木原図)

 地図を一見して戴いただけでマレー語圏の広大さがおわかり戴けると思う。

 これは最近の研究結果によるもので、これはさらに拡大されても、小さくなることはない。

 もっとも言語だけでなく、あらゆる分類というのは、僅かに標準が変っただけで、

 ガラリと揺れ動く不安定なものである。

 これが絶対に正しいといえる分類など、この地球上には一つもない。

 あくまで。

 大体の、おおよその、ほぼといった形容詞が必要なもので、必ず主観が混入している。

 ことに言語の分類は、境界のない地球上を、人為的に区切って、

 常に移りかわる人の流れと時の流れを止めて、仮の基準を作り出したものにすぎない。

 マレー語、ポリネシア語、インド語といっでも、

 その中には互いに同じ共通語をもっているのであることを、

 心にとめておいて戴きたい。

 このおおまかに拡げた網の中に入る単語約7万ほどの中から、

 古来のものと考えられるもの約1万6千を選び出し、

 これを日本語と比較してみた結果、

 日本語と直接間接に関連性をもっているものは半数以上の1万語をこえている。

 この共通語辞典は近刊の予定で整理を進めているから、詳細はそれに譲って、

 本書進行上必要なものだけを抜粋して御覧にいれ、

 さらに巻末の抄辞典で補なうことにしてある。

 この言語はその地域の広さから、すぐ察しがつくように、

 150から200種におよぷ方言を含んでいる。

 しかし、いま読者が求めているものは分類でも、語学でも会話の習得でもなく、

 日鮮語との関連を手短かに検討するという一点だけであるから、

 間接的で面倒なものは一切抜きにして、一見してわかる形で、カタカナ表記にする。

 これは以後の各語に対しても同様で以後は一々ことわらないから御注意戴きたい。

 『日本マレー共通語の一例』「マレー語」=「日本語」の順 ()内はマレー語の意味

 アイ=あい(ハイ=そうです)

 アラン=有らぬ(意味や値打のない)

 アラス=在らす(居られる)

 アレヘ=あれへ(位置、方向を変える)

 アレク=歩く(往来する)

 アッライ=粗い(大きい)。

 アルウン=荒海=鹿児島弁のアラウンに一番近い(怒涛)

 アマツ=天津(最上。その上に)。

 アングット=あげた=嘔吐した(悪酔)

 アングット=あがった=ぼんやりした(恍惚状態)

 アル=荒る(騒乱)

 アサ=麻(麻)

 バチル(下痢)バチソ(悪臭)=ばっちい=汚い

 バユィ=ぼ-や(赤ん坊)

 バンガイ=番外(放棄)

 べチャク=べちゃつく(泥だらけの)

 ベラバット=ベラは「木竹片、枝」のバットは「木刀」の共に鹿児島弁(木刀)

 ブラレイ、ブライ=ぶらりハ象の鼻)

 ブルグガク=ぶるぶるがくがく(震えてがくがくする)

 ブロレー=ぼろい(儲け)

 ブルスツル=振り捨つる(不和になる)。

 ボンコク=ぶかくこう(不恰好)

 チュカル=ちから(カ)。

 チュカム=つかむ(つかむ、つまむ)

 チュビト=つめった、ちょびっと(つまむ)

 チュラカ=つらか<鹿児島弁>(辛い)

 チェモク=せめぐ(争う)

 チョーリン=チドリ(千鳥)

 チョラン=チョロまかす(ごまかす)

 チョテク=ちよっと(少し)

 チュチョク=つつく(つつく)

 チュケ=つけ(年貢、代金、税金)

 ダイウスカン=だいすかん(嫌いと罵る)

 ダマイ=ダマイやん<鹿児島弁で「黙れ」>(静かに)

 ダゥムパン=談判(誇大にいう)

 ヅカット=直か(近く)

 ディ=……で(……で)

 ディアム=ダマれ(黙れ)

 ジンキス=ジンキ<鹿児島弁>(悋気・嫉妬)

 ドオ=どおぞ(何卒)

 ドオ?=どお?・(如何?)

 ヅリャ=つら(面)

 ヅルヤナ=ずるいやナ(ずるい、悪い)

 エエッ=ええッ!(驚きの声)

 エジット=(いじった)

 エロク=えらく(大変、素敵)

 ウンチェ=おぬし(御主)

 ヒナ=お雛様(女性、娘)

 ガダ=カタ(抵当)

 ガラ=カラ<=ソラ=空>(空、空間)

 ガマン=我慢(我慢できない)

 ガムガム=がみがみ又はかんかん(怒る)

 ガンタ=がんたれ<鹿児島弁>がしんたれ<河内弁>(駄目な)

 ガラ=からい(塩からい)

 ガリング=かり-こ<鹿児島弁>(背負い籠=担ぐ籠)

 グラフ=くらう(暗う)

 クロー=苦労(苦労、ため息をつく)

 グムビラ=がんばれ(頑張れ、鼓舞する)

 ゲンガム=拳骨(げんこつ)

 ギレク=キリ(錐)

 ハマギガス=ホラ貝<ギガスはラテン語で大きい=ホラ貝の学名>(浜の大貝)

 ハラウ=払う(追い払う)

 ハンバ=飯場(労働者)

 ハムパス=半端もの(屑、かす)

 ハン=おはん<鹿児島弁>(あなた)

 ハンツ=はんつ<大阪弁>(できそこない)

 ヒマツ=しまつ(節約)

 ヘングス=鼻糞(鼻糞)

 ヒナ=ひな(鄙、卑賎)

 イコー=行こう(行こう)

 イコマイ=行こまい<和歌山弁>(行こう)

 イクッ=行くっ(ついて行く)

 イノー=いのう<関西弁>(帰ろう)

 ケーレ=け-れ<関東その他>(帰れ)

 イサク=いさちる<日本古語、3~10世紀>(泣く)

 イサ=いさよい(夕方)

 ジャガラン=よからぬ(不良)

 ジャライ=矢来(竹垣の一種、竹やらい)

 ジャハッ=邪悪(邪悪)

 ジャレ=やる(有能な)

 ジャラフ=さらう(掠う)

 ジャッ=去ッ<鹿児島弁>(去る)

 ジャチ=じゃち<鹿児島弁>(本当だそうだ)

 ズバー=ずばー<鹿児島弁>(沢山)

 ジェジェー=じ上じエに(徐々に)

 ジェロー=じろっと(にらむ、鋭く見る)

 ジュレー=つれ-<関東弁>(辛い)

 ジジャク=自若(態度が不変)

 ジュガ=じやが(だが)

 ジュジョー=じゅじょ<鹿児島弁>(かなり、相当長く、手軽でない)

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2012年2月19日日曜日

マレー語に関する章(4)



 《どちらが祖先か日鮮両語

 三国遺事は、朝鮮の坊さんが1227年に、

 朝鮮に伝わる伝説、逸話などを集めて記録したものである。

 だから新羅建国からは少くとも1000年以上経過しているとみなけれはならない。

 それにもかかわらず、いま謎ときができるだけの、

 しつかりした中身を伝えていたのである。

 著者、僧一然氏は、殆んど700年日にあたる今、

 彼の仕事がこんなにも認められて、泉下で大いに満足していると思うのである。

 こうして、作為なく、収録者も話者も真相を知らぬままに話し、

 書き綴ったものが、

 新羅神話とは、日本神話と同じ天孫降臨の変型したものであることを証明した。

 新羅の始祖は半島でなく鹿児島に住み、

 その名も赫居(カゴ)之王と名乗っていたのである。

 とすれば後世朝鮮半島に住み、

 新羅の国を発展させた人々は血液も言語も、日本人と共通であったはずである。

 日鮮同祖論はここで新らしい大きな証拠によって、その正しさが証明されたことになる。

 ただ従来は半島から日本列島へ、人々が移り住んだと全く反対に考えられてきた。

 日鮮語の類似は、朝鮮語が日本へ入ったためだ、とされてきた。

 だが、どうやらそれは完全に間違っていて、

 正反対に日本から半島へ流入したとせねばならないようである。

 それを確かめるのは、別に難事でも何でもない。

 日本人は、すでにみたように、

 混成民族であることがはっきりしているから、

 日本語もまた、海外の言語が混入しているはずである。

 朝鮮語は、三韓が九州から移動したのであれは、

 共通語があって当然だから反対側の国々、

 南西諸島からさらに南西にひろがるマレー語圏のことばと、

 日本のことばを比較すれば、日本を中心にして、

 どちらからどちらへ移動したか、かなりの精度でつかむことが可能なはずである。

 このことはまた当然、

 これまで日本式発音だけで検討してきた官名などが、

 どういう構造になっているかを確かめるのにも役立つはずである。

 また日本語でとけない名詞。

 ヤマトとかアスカとか邪馬臺とか狗奴国とかの正体を、

 明らかにする手がかりが得られるかもしれない。

 沖縄の向うにはすぐ台湾があるが、その土着の言語はマレー語圏に属する。

 マレー語にはクリという発音で毛を意妹する語がある

 粟野はマレー語とすれば「毛の」を意味し、

 霧島の山ふところにあって毛人の国にさらに有力な証拠を加えることができる。

 まず大きく網をひろげて、さらに飛躍した証拠群を捉えるためにも、

 マレー語は重要な対象であり、それは大きな収穫を約束してくれている。

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2012年2月18日土曜日

マレー語に関する章(3)



 《倭人は混成文化の持主

 倭人はなぜ、当時としては信じられないような測量ができたか?

 本当にそんな国文明をもっていたのであろうか?

 それは一体、どうして得られた知識であったのか?

 この疑問に対する答えは倭人伝の中にもありそうである。

 それには倭人の習俗や生活、習慣、産物などが、簡潔にではあるが、豊富に記録されている。

 また視点をかえてみると今や定説化している「北方騎馬民族説」がある。

 日本人の先祖が朝鮮半島を経て移住した北方人であるのなら、

 その知識は北方人の知識だったことになる。

 このことを頭において、

 魏書倭人章の記事のうち、

 その文明の由来を教えてくれるものがないか、

 幾つか検討してみることにしよう。

 「田」

 倭の筆頭にあげられた対馬以下、田について記載がある。

 良田がないので船で南北へ米や穀物を買い出しに行くとある。

 このことは倭人が北方騎馬民族ではないことを証明している。

 北方人は遊牧民で乳肉が主食であり田は作らない。

 倭人が魚介や海藻を食べるということと共に、

 東南アジア系の食習慣の持主であることを証拠立てている。

 「文身」

 入墨の習慣も南方系のもので、倭人章ではそれが中支系のものであろうと書いている。

 「蚕桑」

 カイコを飼って絹織物を織っているのも、

 北方の毛皮を着る人々のものではない。

 これは衣服の描写や、牛馬も羊もいないという記事と共に、

 遊牧民ではないことを証明している。

 はだしの習慣も南方人である。

 「朱丹」>

 倭人は赤土を、中国人の白粉(おしろい)のように使うとある。

 これはインドで今でもみる習慣で色絵具で手足に模様を描いたり、

 マレー語圏で顔などに赤土をぬったりする風習と同じである。

 これらはすべて、倭人が南方系であることを、はっきり証明しているというほかない。

 「喪」

 死者があると十余日喪に服し、肉類を食べない。

 これは見すごされているが、大きな問題を含んでいる。

 なぜなら、喪に服して肉食をしない、というのは仏教徒の教義に従っていることを示すからである。

 私たちがよく知っている精進料理しか食べないということは、

 これまで6世紀ごろに百済から始めて仏教が伝わったとされてきた考えと食いちがうように思われ、

 拒否反応があると思うが、はつきり明記されているのである。

 これも倭人はインド系か、

 それに近い南方人だったことを示すものといえる。

 「搏手」 

 長上に会うと手をうって敬意をあらわす。

 今では神を拝む際だけに残っているが、

 倭人章が嘘を書いていない証拠といえる。

 合掌の一種で、やはりインド系の習慣である。

 「一夫多妻」

 この習俗は現在では回教徒の間に広く見られるが、

 回教が生れたのは7世紀で、

 それ以前のアラビアの習慣をうけついだものであり、

 倭人はインド西部からアラブにかけての慣習を もっていた可能性がある。

 「土下座」

 一般人が長上に会うと土下座をして敬意をあらわす、という別の表敬法も記録されている。

 これもインド系の人々のほかにアラブ系の人々が多いことを物語っている。

 中国系は立礼で土に手をつく土下座はアラブ系だけである。

 「殉葬」

 卑弥呼を葬ったとき、男女百余名を一緒に葬ったとある。

 これは垂仁紀にも殉死記事があるのと支え合っている。

 この慣習は古くはメソポタミアにあり、やや下つて中国の殷(商)にもみられる。

 こうみてくると、

 倭人は広くアジア全域につながりがあるが、

 ことにインドを中心にした南国慣習がみられ、

 大和か九州かといった浅薄な対象でほなく、

 もっと国際的な広い視野が必要なことを示している。

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2012年2月17日金曜日

マレー語に関する章(2)



 《単語比較の早わかり

 たとえ外来語であろうが借用語であろうが、捨ててはならないことは、お判り戴けたと思う。

 では、その単語をどう処理するか。

 先の本の著者は、単語の比較の方法として

 『類似点が多いか少いか、大切な点が一致するかしないかを、まず形式的に比較する。

  そして共通な単語を探し出す。

  この比較にあたっては、心得なければならないことがある。

  Aの言語とBの言語とで、

  まったく同じ形をしているものだけが共通な単語だと思ってはならないことである。

  例えば、ドイツ語で、名前のことをナーメという。

  日本語では、関東で、名前をナメーということがある。

  こういう共通の単語があるからドイツ語と日本語とはずっと昔に関係があった、

  というようなことを考える人があるが、それはどうか。

  そういう形と意味の似た単語は、何千という単語をつき合わせて行けば、

  その中に、いくつかは数えられるに決まっている。

  ごく普通に使われる単語だけで3000はあるのに、

  音の数は現代日本語では100である。

  偶然似た形の単語があるのほ無理もない。

  英語で笑うことをラフという。

  日本語では昔、ワラフといった。

  これは共通な単語である、というのなども、誤りである。

  勝手にワラフの<ワ>を取り去って比較してはならない。

  そんなことをするのは、笑話には適当でも、

  言語の系統の比較には、してはならないことである。

  世間で行なわれている日本語の系統論の大部分は、こうした笑話のたぐいである。

  単語の比較で大切なことは、同じ形をしているものを発見することではない。

  音韻の対応を発見することである。』

 これは原文のままである。

 私達の名詞の比較の場合、AとBが、まったく同じ形をしているものはほとんどない。

 違っている中に共通点を発見しなければならない。

 だが、ナーメとナメーのように類似したものは、偶然だなどといって捨ててはならない。

 「笑う」と「ラフ」くらい似ているものは必ず何らかの関係があると考えて、

 勝手に偶然だなどと取りのけてはならない。

 私たちが取りあつかっているものは実に様々に変型している。

 そこには余分なものがくっついたり、大事なものが欠けたりしている。

 それを取りのぞいたり埋めたりして復原するのである。

 歴史というのは時間の経過に比例して、風化したり苔がついたりするのが当り前なのである。

 ① namae         ナマエ    日本語
   na          ナ      日本語

 ② nirwm        ニルム    古朝鮮語 
   (irwm)        (イルム)    (朝鮮語)

 ③ mim         ミン         中国(北)語

 ④ mijo-            ミョー    中国(南)語

 ⑤ nama         ナマ     マレー語(インドネシア)

 ⑥ nan         ナン      ビルマ語

  ⑦  na-ma            ナーマ    サンスクリット語
      na-mna-          ナームナー  サンスクリット語

 ⑧ ma          ナ      パンジャブ語

 ⑨ anun             アヌン    アルメニア語

 ⑩ namo             ナモ     ゴート語

 ⑪ ο-νομα     オノマ     ギリシャ語

 ⑫ nomen      ノメン    ラテン語

 ⑬ nombre      ノムブレ      スペイン語

 ⑭ name       ネーム    英語

 ⑮ na-me            ナーメ    ドイツ語

 代表的なものをあげてある。

 この他にも多数の同源語が分布している。(加治木原図)

 それを、この言語学の方の常識?

 に妨げられて逆のことをしては、

 それこそ笑い話にもならないのである。

 なおこれは余分なことかも知れないが、

 この引例のナーメとナメーは、

 日本のナマエを東端に朝鮮のイルム、マレーのナマ、ビルマ語のナソ、

 サンスクリットのナーマ、アルメニアのアヌン、ゴートのナモ、

 ラテンのノメン、スペイソのノムプレ、

 イギリスのネーム等々々、

 解き上げるのが、わずらわしい程の対応をもっており

、日本人とドイツ人はともかくとして、

 日本語とドイツ語が、

 共通の祖先をもっている部分があることが実証できる。

 その類似は偶然などではなく、

 研究すればするほど関係は深くなるばかりなのである。

 これで学問の研究分野と研究法はお互いに助け合うことのできないものであることが、

 お判りになったと思う。

 私達は同じ言語に属する名詞を扱うからといって言語学をやっているわけではない。

 それは同じ魚を使って

 一人は刺身を造り、

 一人は中華料理の揚げ物をつくり、

 一人は煮魚、

 一人は塩焼、

 一人は洋風のバター焼きをつくる、といったようなものである。

 めいめいが得意の腕をふるってこそ美味い料理ができるのであって、

 一人が魚料理はオレにまかせろといって全部油で揚げては、どの料理も台なしになる。

 学問も同じである。自分だけが専門家のつもりで、

 ああしてはいけない、こうすべきだ、と、

 他の分野に口出しをすることは、科学者のすることではない。

   言語復原史学会
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2012年2月16日木曜日

マレー語に関する章(1)



 《「弥生人の仲間」水稲とっいしょに来た弥生人

 弥生文化が水稲といっしょにやって来たことは、だれでも知っている。

 いまタイ国からビルマへかけての山地民族を調査してみると、

 そこでは細長いタイ米(上・インディカ種)ではなく、

 日本米(下・丸いヤポニカ種)よりさらに見事な、丸々とした大粒の米(中)が作られている。

 日本の初期水稲遺跡は自然の湿地帯を求めて開かれている。

 マレー語で水田をサワというが、まさに沢(さわ)こそ初期の水田だったのである。

 タイの山地民族はこの沢を利用して水田を作る。

 密林は火をかけて焼き払う。

 日本も当時は森林に覆われていたから、石斧で開くことは不可能だ。

 やはり焼くことから始まったと考えるほかない。

 「写真」

 1 米:インディカ

 2 米:タイ山地米

 3 米:ヤポニカ(江州米)


 《焼酎文化史:アワムーリは梵語か

 今われわれが泡盛と呼んでいる酒が、

 タイのラオ・ロンと同じものであることは疑いないが、

 それだとなぜ、沖縄でもラオ・ロンと呼ばずに、泡盛と呼んだのであろうか。

 泡盛という名の語源については様々な想像説があるが確定的な定説はない。

 だがその一つに、梵語(古代インド語の一つで、サンスクリットの一型)では

 酒をawamu~ri(アワムーリ)というから、それが入ったものだとするものがある。

 正確にいえば梵語にはW(タブリユー)音はなく、

 それに代るものはV(ブイ)音であるから、

 この説もすでに間違いを含んでいるが、

 太古にインド経由の人々が、沖縄に移住してきたことは、

 遺物、言語、地名などに多くの証跡が発見されており、事実と認められるから、

 アワムーリ説を偶然の一致だとか、コジツケだとかいって排斥することは、

 つつしまねばならない。

 「写真」サンスクリット語辞典 awamur~iはない

 けれども、泡盛と呼ばれているものが、タイからの技術導入によって生れたことを考えると、

 今のタイ語のラオ・ロンか、またはそれに近い名がそのまま使われそうなものなのに、

 別の名がついているということは、

 16世紀当時のタイでの呼び名が、アワムーリだった可能性もある。

 タイ国は一般には仏教国とされているが、

 実はヒンズゥ教の強い影響が今も残り、その言語にもインド語が大量に混りこんでいる。

 そしてタイ国が今の姿になるまでは様々な民族による王朝が生れ、滅びて、国の版図も様々に変った。

 16世紀の暹羅(シャム)の王朝と今の王朝とは民族的にも別物なのである。

 また16世紀に沖縄に泡盛製造技術を伝えたのが暹羅(シャム)人であったとは限らない。

 というのはマレー語ではビルマをアワと呼ぶからである。

 当時の暹羅(シャム)はビルマから進入したシャン族とモン族の国であり、マレー人からみれば確かにアワの国だったからである。

 しかし、こうした語源探しに最も肝心なことは、

 泡盛ははたしてアワモリと発音されていたのかどうか?という疑問から解いて行かねばならない、

 ということである。

 なぜなら当の沖縄語ではアワモリという発音が存在しないからである。

 本来のばかりでなく、

 泡や粟などのアワはウウと発音して決してアワとはいわない。

 盛や守や森もモリではなくムイである。

 泡盛と書いてあっても、ウウムイと読むのが正しい読み方であり、ふりガナの仕方なのである。

 このウウムイは「思い」のウムイに近い。

 有名な「オモロ」という沖縄の誇る古歌集の名も、

 本当はこの「思い」ウムイを、

 本土語化する時に誤って訳したもので

 ”おもろさうし”とは”思い草紙(そうし)”というよりは”思い草”を

 誌したものとするほうが良いものである。

 ということは、泡盛という当て字もまた、

 このオモロと同じく、

 誤った本土語化が生み出したものでないとは今の段階ではいい切れない。

 なぜなら泡盛という字は寛文一〇年(1670)に琉球王尚貞(しょうてい)から

 4代将軍徳川家綱にあてた上表文中のものが最初で、

 それまではすべて焼酒と書かれているからである。

 だが泡盛の語源探しがいくら面白くても、それは本書の主題とするところではない。

 それは別著に譲って、

 肝心の焼酎がどういうコースで日本へやって来たかを物語る

 台湾高山(こうざん)族の焼酎甑の話に移ろう。

 「写真」台湾高山族の木の盃
     誓いを交す時2人一緒に飲む


 《焼酎文化史:早苗饗

 焼酎が稲作と共に日本に渡来したことを証明するものは、

 日本における焼酎原産地である鹿児島地方での言語である。

 この地方では焼酎を飲もうと人を誘うのに

 「祭(まつ)んそや(お祭りをしましょうよ)」という。

 この祭りの真意は、収穫した米を神々に供えたあと、

 その米で焼酎を造り、それをまた神に供えてから、

 晴れてみんなでいただく祭り、

 すなわち冬の間に造りはじめてから次の田植えに間にあった焼酎によって、

 今年の豊作を祈る「早苗饗(さなえあえ)」祭りをさしているのである。

 この地方ではそれを「サナブイ」という。

 これを正確に分析してみると、それは「サナエウエ」早苗植え)であって、

 「サナエアエ」(早苗饗え)ではなかったことがはっきりわかる。

 サナエアエなら、この地方では「サネエ」と発音する。

 どこの方言にも一定した原則があって、それから、はずれては言語として役に立たないのである。

 鹿児島方言の古音は、ウはヴ(V)音のものが多い。

 しかし、アがヴに変ることはない。

 「ウエ」は「ブイ」と聞こえるのである。

 これを「サノポイ」と発音して「サノポリ」が語源だと思いこんでいる者もあるが、

 これは「ナ」は「ノ」の訛りだと早がてんしたために、「ノブイ」となり、

 意味をつけようとして「プ」も「ボ」に改めて、

 「昇り」(ノポリ)にコジつけた結果、生れた奇妙な人工語である。

 方言に対する劣等視が、無知と複合して生み出したもので、似た例は全国的にみられる。

 この早苗植えの語は孤立しているのではなくて、

 『南島雑話』には奄美大島では「さうり遊び」というと記録している。

 「さうり」が何を意味するかについては、

 『琉球国由来記』に「さうり、とは、苗植え始め申す事」とあるから、

 「サナエウエ」が「サウリ」と短縮したものとわかる。

 また正確にいうと、鹿児島から沖縄にかけての南九州方言には、

 「リ」のような「ラ行音」はなかった。

 これも記録者が「サウイ」を「さうり」と誤訳して書いたものである。

 この地方ではエはイに、オはウに変る。

 だから「植え」は「ウイ」と変る。

 ところが、この誤訳の「さうり」が、

 はるかに飛んで遠州(静岡県)に分布していたことが『俚言集覧』に出ている。

 この理由を考えてみると、この地方は登呂遺跡が証明するように弥生稲作地帯であり、

 この語の分布はこの地域の弥生人たちが、沖縄、奄美地方からの移住者であったと考える以外にない。

 同じ『俚言集覧』はさらに上総(千葉県)では「五月初めて苗を植るをサオリという」と書いている。

 「ウ」が「オ」に変って、一層、東国方言化してはいるが、

 それが沖縄からの一連の言語であることはいうまでもない。

 「写真」まだ全国的に使われている曲木蒸篭

 五月を「サツキ」というが、五月が水稲の苗を植える月であることを考えると、

 サツキのサは、このサウイ、サウリ、サオリのサであったことも疑いの余地がないであろう。

 またこのことはサとは決して早いことではなく、水稲そのものであることも教えている。

 サナエとは早い苗ではなく、水稲の苗であったから、「水稲(サ)植え(ウイ)」だったのである。

 決して「早植え」ではない。

 このサは、マレー語で田のことを「サワ」ということと同じ語源をもっているのである。

 このことを拡大して考えてみると

 「サツマ」は「サ(水稲)ツ(津=古語の助詞の之(の))マ(古語で国のこと)」

 すなわち「水稲之国」になる。

 そこが焼酎原産地だということは決して偶然ではない。

 しかもさらに焼酎工場の本州分布をみると出雲、信濃、伊勢といった神話圏と、

 静岡、千葉、茨城、福島といった日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承の分布地に

 かたよって一致することがはっきりする。

 これは途中の伝承が断絶してはいても、焼酎そのものが、

 数々の証拠と共に弥生時代に分布したとしか、考えるほかない形を示している。

 焼酎もまた謎の古代史を解明する重要な文化財であるとする筆者の考えは無理であろうか……。

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2012年2月15日水曜日

漢字の時代別発音(2)



 政権交替ごとに変わった中国の公用語
 政権交替ごとに変わった中国の公用語 

 これで日本列島に統一政権が生まれたのは、670年だったこと。

 その統一者は「日本]で、それはそれまで鹿児島県にあった政権だったこと。

 それ以前は日本列島は分割統治時代だったことが疑問の余地なく明瞭になった。

 だが鹿児島県程度の小勢カが、あの巨大古墳群を築き、

 大規模な須恵器産業を背景にした強大な大国・倭国を、

 本当に滅亡に追いこんだのだろうか?

 鹿児島県が3世紀当時の邪馬臺・邪馬壹国に当たることは、

 もう私の読者には完全に理解していただいていることである。

 この二つの国に共通している名詞「邪馬」は、

 中国の政権が変わるたびに発音が変化した。

 漢字が今の字形になった漢代から六朝時代までは、

 私たちが今も使っている「邪魔」の漢音と同じ「ジャマ」だったが、

 8世紀の唐代になると大きく変化して「ヤマ」と読むように変わった。

 だから今一般に使われている「ヤマタイ」とか「ヤマイチ」という読みかたは、

 『魏書倭人章』が書かれた3世紀の発音ではない。

 こうした中国の漢字の発音変化史は、

 私が初めて日本に紹介したスウェーデン人の中国文化総合的研究者、

 B・カールグレンの長期にわたる研究をもとにして、

 私たちの言語復原史学会でさらに細部まで

 検討改訂を加えて完成したものである。

 カールグレンは漢字音の時代変化を、

 漢魏時代のものを上古音、

 唐代を中古音、

 清朝以後を近世音として三つに分けた。

 私たちはその後の言語学者の研究を踏まえてさらに細分化して、古いほうから、

 夏(か)音、

 殷(いん)音、

 春秋北(ほく)音、

 春秋南(なん)音、

 春秋西(せい)音、

 漢魏(かんぎ)音、

 東晋(とうしん)音、

 六朝(りくちょう)音、

 洛陽(らくよう)音、

 唐音、

 唐長安(ちょうあん)音、

 宋音、

 元朝(げんちょう)音、

 明(みん)朝音、

 北京(ペきん)音、

 広東(かんとん)音、

 福建(ふつけん)音に大別している。

 こうした発音の変化が起こるのは、

 時代を経たために発音が変化したわけではない。

 広大な中国のことだから、

 地方には古代から数多くの方言があったのであり、

 ある政権を他の地方政権が倒すと、

 新しい政府を構成する王族や大官や家臣の一族が、

 その地域から大量に首都に移動したために、

 その地方の方言がその政権の公用語になり、

 標準語になったのである。

 だからこうした区別は、

 その時代に首都とその周辺で記録された公文書類、

 ことに正史を読むのに必要なのであって、

 もちろん『三国志』の『魏書倭人章』も例外ではない。

 「邪馬董」をヤマダイと読んだのは、

 中国に唐政権ができて、

 皇帝や大官たちが自分たちの発音を公文書に使った7世紀以後の読みかたである。

 だから3世紀に

 『魏書倭人章』に編集された魏の帯方郡使の報告書は、

 当時の「漢魏音」で発音したもので、

 絶対に8世紀の発音ではなかった。

 これを知らずに「ヤマタイ」などと発音しながら、

 それは

 「ヤマトとも読めるから、ヤマタイコクはいまヤマトといっている奈良県にあったのだ」

 などといっているのが、

 学者としては、どれくらい無知で恥ずかしいことか、よくおわかりになると思う。

 『参考』

 「中国の歴史」
 「中国の歴史」

 「中国史関係記事一覧」
 「中国史関係記事一覧」

 「中国帝王一覧」
 「中国帝王一覧」
 「中国帝王一覧」

 「中国史時代区分表」
 「中国史時代区分表」

 「夏商周年表」
 「夏商周年表」

 「魏晋南北朝表」
 「魏晋南北朝表」

 「中国の首都」
 「中国の首都」

 「元号一覧 (中国)」
 「元号一覧 (中国)」
  
 「二十四史」
 「二十四史」

 中国正史
 中国正史

   言語復原史学会
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