2015年12月9日水曜日

大谷古墳と馬具


 ≪大谷古墳と馬具≫

 出典:保育社:カラーブックス:古墳―石と土の造形―森浩一著
     53・56・57頁

  《大谷古墳と馬具》

  倭五王時代には時として大陸製品を集中している古墳がある。

  朝鮮半島への出兵で品物をもちかえられたのか、

  それとも渡来者があったのか議論のわかれるところである。

  唐草文で飾った鏡板は、馬の頭部につく装置であるが、

  高句麗製の逸品である。

  馬の銅部につり下げる杏葉(ぎょうよう)には

   鈴をつけているが、

  この唐草文は中国北朝のものに趣が通じている。

  「写真」馬具鏡板:和歌山市大谷古墳
  
  「写真」馬具杏葉:和歌山市大谷古墳

  「大谷古墳

  《大谷古墳の装身具》

  5世紀の支配者は馬に乗り、鉄製甲冑で身を固め、

  大量の鉄製武器を保持しているが、

  金、銀、ガラスなど華美な品物を愛好した。

  鉄製甲冑を横に埋めた死骸が、

  金銀の長い耳飾りをつけていることも珍しくない。

  大谷古墳の被葬者はその典型的人物で、

  おびたただしい装身具を埋めている。

  古墳時代にはガラス容器は製作できなかったが、

  ガラス玉は豊富に作っている。

  ガラス玉をつけた銀製の四葉形の飾りは

  死者にちりばめたのであろうか。

  「写真」ガラス製勾玉とガラス玉をつけた銀製の飾り:
           和歌山市大谷古墳

  「写真」ガラス製小玉:和歌山市大谷古墳

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学院講義録19:22頁

  《麒麟はギリシャ人のイメージから生まれたか?》

  麒麟は、あくまで中心がギリシャであることを表現するための、

  ギリシャ系大隅人たちの着想だった。

  では、それにアフリカのジラフは、関係しているのだろうか?。

  もちろん日本列島の原日本人も、

  古代中国人もアフリカ産のそんな獣は知らない。

  だから、中国製の麒麟像がジラフと懸(か)け離れているのは

   当然だともいえる。

  しかしエジプトの首都をアレクサンドリヤにもつギリシャ人は、

  ジラフについても幾らか聞いていて、

  黄色くて首の長い偶蹄類だという程度の

    知識はもっていたから、

  それに想像を交えて異様な麒麟に仕立てることもできる。

  だから異様ではあるものの

   多くの点でジラフとの共通点が多い麒麟像は、

  ギリシャ人の発想で完成したと見るしかない。

  そうすると日本を起源とする

  『四神』と『五彩圏』が、

  後世の隋代に造られた銅鏡に明瞭に存在する理由が、

   より明確に納得できる。
  
  またそれが架空のものでも、知識があったことは間違いない。

  では銅鏡の麒麟像はいっ中国に現われたか?。

  隋以前の古鏡には紐を麒麟像にしたものは愚か、

   獣にしたものもない。

  そうした様式が現われたのは隋唐以後で、

  この時代に鏡背図案の様式がガラリと変わり、

  獣と葡萄唐草(ぶどうからくさ)文が絡(から)まった

  「海獣葡萄鏡」などが作られるようになった。

  在来の学者も、それは西方文明の影響だと、

   はっきり認めている。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録19:23頁

  《ギリシャ人を立証する信仰の形=葡萄唐草文様》
  
  この葡萄唐草文様は、

  ギリシャから中近東にかけて盛大だった

  酒の神・ディオニュツソス信仰の産物である。

  葡萄は酒の母体であり神の賜物であった。

  それは健康と快楽と長寿繁栄をもたらす霊草だった。

  それに配された馬は海神ボセイドンの象徴であり、

  その実体は海馬=竜の落し子(タツノオトシゴ)で、

  これはギリシャ海人たちが、

   守護神として頼る信仰の証しである。

  この信仰が中国の技術と結合してこの鏡が生れた。

  しかし職人が中国人のため霊物の姿も

   中国人の常識に置き換わった。

  鳥獣などの表現が全て

   ギリシャ文明そのままというわけではないが、

  その最大のモチーフである葡萄唐草文は、

   永くしっかりと守り続けられている。

  ギリシャ生れのこの信仰が、

   これで中国に入ったことが確認できたのである。

   その時期が隋唐時代だというのは、

   まさに大隅ギリシャ人の発展を裏書きしている。

  大隅を都に発展し、

   3世紀には7万戸の大都市国家を造った彼等は、

  大隅から溢れ出てウースンと呼ばれながら北上し、

  鮮卑(朝鮮の日人)と呼ばれながら

   中国を制圧して隋・唐政権をつくった。

  そしてそんな鏡をっくるまでに繁栄した。

  こうみてくると「たかが鏡」だなどとはいえない、

  強力な証拠力をもった俸大な文化財であり、

  それが記録しているギリシャ信仰や文明の、

  動かし難い完璧な物的証拠として、

  あらゆる反対を吹き飛ばす大きな役割を果したのである。


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