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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪河内大塚古墳≫
出典:保育社:カラーブックス:古墳―石と土の造形―森浩一著
52頁
《河内大塚古墳》
52頁
《河内大塚古墳》
記紀に伝える陵の所在地や規模からみると、
倭の五王の武、つまり雄略天皇陵説もある。
後円部の中腹に露出する巨石は、
横穴式石室の天井石であり、
6世紀後半の謎の大古墳である。
周庭帯の上に住居が並んでいる。
「軽里大塚古墳」
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:245~247頁
KOFUN:245~247頁
《始めて奈良県に入った雄略天皇》
<済>
これは百済の済以外にない。
といっても朝鮮半島のほうではない。
珎が初めて入った今の大阪市域の前身であり、
<モヅミ>、<ホヅミ>としての百済であった。
和泉(いずみ)(倭済(イズミ))に入っている
百舌耳(もずみ)原などを含む。
大阪市の東成、西成の地名も、
本来は東済(なり)、西済(なり)だったのである。
<興>
これはうっかりすると高知県あたりを連想するが、
高知の古名は土佐で関係がない。
前王たちが紀州と和泉と大阪市域にいたことを考えると、
どうしても河内の領主だということになる。
私たちは河内を<カワチ>と発音するが、
河内は<コーチ>に対する当て字でもあるから、
<チ>は沖縄音で、標準語に直せば<キ>、
すなわち興王(キ)という名ができ上がる。
<武>
これが本来は九州を意味したことはすでにみた。
先の四王がいずれも大阪附近にいたのに対し、
近畿圏にはこの名に合う土地は、ないようにみえる。
だが古墳をみると、
480年ごろの武の年代になってこのあたりで
突然その造営が絶えるというような現象はみられない。
とすれば残された可能性は、地名に対する先入観、
河内は必ず<カワチ>と読む、
とするような固定観念のせいである。
それをとりさって近畿圏の地名を再検討すると、
河内からひと山越えれば奈良県の高市郡で、
これは「タケシ」と読めるし、
雄略天皇の「大泊瀬(ハツセ)」は大百済(ハツセ)だし、
大和はヤマトと読むのはムリだが、
大は<タ>、和は<カ>の音があることに気づく。
<タカ>は竹の二音ですでにみたように<タケ>でもある。
倭の五王のうち最後の武が、このとき初めて、
奈良県を領地に加えたという名乗りになっている。
<古墳人のスタイル>
上左・革小礼鎧の北魏武士。
灰陶製の俑(中国の埴輪〉=洛陽北魏墓出土。5世紀末。
上中・伽耶琴をひくサニワ。群馬県前橋市朝倉出土。6世紀。
眼のあいだが開いた アーリア系の人物。(相川考古館蔵)
上右・中国の西部からチベットにかけて住むロッパ人などが、
これと同じ革礼(こざね)の甲冑を現代でももっている。
一名チベット鎧。
埼玉県熊谷市出土。 5~6世紀。(東京国立悸物館蔵)
下右・第三章扉の『貢納・貯貝器』の群像の一人。
頭に衝角つきの兜を被り、
左の出土品の鎧と同じものを着ている。
ズボンは埴輪のものよりもさらに後世の
日本の武士のものに近い。
日本の武士のものに近い。
下左・肩甲と頸甲と短甲。
大阪府藤井寺市、野中古墳出土。古墳時代中期。(大阪大学蔵)
<武人埴輪>
『貢納・貯貝器』の武士と同じ型式の衝角つき兜を被り、
左はそれと近い型甲の鎧を着ている。
紀元前1世紀の雲南の人々と、
古墳時代人が非常に近いことを証明する埴輪である。
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:248~249頁
KOFUN:248~249頁
《行方不明の安康、雄略天皇陵》
しかし、これは大問題である。
もし雄略に至って初めて大和に都を移したのなら、
彼は神武天皇級の天皇、初国しらす天皇として、
のちの大和朝廷に崇敬されたはずで仁徳、
応神級の巨大陵が造られる。
ところが巨大陵どころか、雄略天皇陵は無い。
『記・紀』ともに多治比(たじひ)の高鷲(わし)
(大阪府羽曳野市高鷲)に葬ったとあるが、
いまそこへ行ってみると、
雄略陵とされているものは陵の型式もなにもない
ただの盛り土にすぎない。
その大きさも応神陵の小さな陪塚よりもはるかに小さい。
これではとても雄略陵とはいえない。
では雄略陵はどこにあるのだろう?
私たちには『御歳』という味方がある。
まずそれで、
現在の高鷲のものがどうなっているか
確かめることから始めよう。
30 52 124
日本武尊 - 仲哀 - 雄略。
日本武尊 - 仲哀 - 雄略。
83 78 124 64 78 124
仁徳 - 允恭 - 雄略。 履中 - 允恭 - 雄略。
仁徳 - 允恭 - 雄略。 履中 - 允恭 - 雄略。
いずれも駄目である。
では雄略陵があるとすれば、どの辺りになければならないか。
それを『御歳』で逆算してみよう。
64 60 124
履中 + 反正 = 雄略
履中 + 反正 = 雄略
これでいけば、
今はない三国ヶ丘(みくにがおか)陵(幻の反正陵)を
考えにいれると、
いま堺市三国ヶ丘町にある反正陵とされているもの、
ということになる。
49 75 124
このほか、 安寧 +推古 =雄略
という数式が成立するが、推古-安寧の線上に、
このほか、 安寧 +推古 =雄略
という数式が成立するが、推古-安寧の線上に、
それに相当するものを見つけることはできない。
43 81 124
また 継体 + 允恭 = 雄略
また 継体 + 允恭 = 雄略
の数式もあるが、これまた現在の允恭陵、
恵我之荘大塚を結ぶ線上には、
ともにそれらしい古墳は見つからない。
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
KOFUN:250~251頁
KOFUN:250~251頁
《関東にあるのか? 雄略天皇陵》
だとすれば、今ひとつの推理が成り立つ。
だとすれば、今ひとつの推理が成り立つ。
それは理由あってのことである。
その理由とは、安康天皇陵もまた無いからである。
これもまた『記・紀』ともに菅原の伏見
(奈良市菅原町伏見)にあるとしている。
しかし現実には、それらしいものさえない。
いま奈良市にあるそれは、
どこにでもある低い山の尾根の端っこにすぎず、
陵どころか、古墳の型式にもあてはまらない。
だが読者は、
それを別に不思議とは思われないにちがいない。
允恭と安康はもともと一人の天皇なのだから、
允恭陵がある以上、さらに安康陵があれば、
それこそ不思議だからである。
全く同じことが「雄略」「武烈」両天皇とその間に並ぶ
「清寧」「顕宗」「仁賢」の五天皇の上にも見られる。
一人であったはずの倭王・武が
分裂した形になっているのである。
やはりある方が不思議ということになる。
ただこの場合は、応神陵と崇神陵の間にある武烈陵もまた、
とても陵墓とはいえないものだという違いがある。
本当の武の墓は一体どこにあるのであろう?
武の<タケ>が大和の<タカ>でないことは、
この陵の状態ではっきりわかる。
武は間違いなく五王の最後の王として実在したのだから、
墓もどこかに実在するはずである。
その場所は「武」の名をもった地域でなければならない。
武の名はまず筑紫を意味し、大和も意味したが、
また武蔵(むさし)も意味する。
近畿圏に雄略の墓がないとすれば、
それは九州か関東にあるのである。
すると、思い浮かぶのは1978年(昭和53年)に
発見された
埼玉県の稲荷山鉄剣銘だ。
それは武の即位直前、471年に作られた。
武と乎獲居(オワケ)は同時存在である。
そして共に、倭建(うわいたけし)を祖にもつ同族である。
稲荷山古墳は5世紀末か6世紀はじめに造られたという。
その前後には乎獲居たちは間違いなく武蔵に住んでいた。
その乎獲居は獲加多支鹵(ワカタキシ)王と同時代人である。
とすれば、世上いわれたように、
この大王が雄略で、武で、
それは武蔵を意味した可能性がさらに高まる。
≪歴史関連リンク≫
KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
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