2015年12月8日火曜日

河内大塚古墳


 ≪河内大塚古墳≫

  出典:保育社:カラーブックス:古墳―石と土の造形―森浩一著
            52頁

  《河内大塚古墳》

  記紀に伝える陵の所在地や規模からみると、

  倭の五王の武、つまり雄略天皇陵説もある。

  後円部の中腹に露出する巨石は、

  横穴式石室の天井石であり、

  6世紀後半の謎の大古墳である。

  周庭帯の上に住居が並んでいる。

  「軽里大塚古墳

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      KOFUN:245~247頁

  《始めて奈良県に入った雄略天皇》

  <済>

  これは百済の済以外にない。

  といっても朝鮮半島のほうではない。

  珎が初めて入った今の大阪市域の前身であり、

  <モヅミ>、<ホヅミ>としての百済であった。

  和泉(いずみ)(倭済(イズミ))に入っている

  百舌耳(もずみ)原などを含む。

  大阪市の東成、西成の地名も、

   本来は東済(なり)、西済(なり)だったのである。

  <興>

  これはうっかりすると高知県あたりを連想するが、

  高知の古名は土佐で関係がない。

  前王たちが紀州と和泉と大阪市域にいたことを考えると、

  どうしても河内の領主だということになる。

  私たちは河内を<カワチ>と発音するが、

  河内は<コーチ>に対する当て字でもあるから、

  <チ>は沖縄音で、標準語に直せば<キ>、

   すなわち興王(キ)という名ができ上がる。

  <武>

  これが本来は九州を意味したことはすでにみた。

  先の四王がいずれも大阪附近にいたのに対し、

  近畿圏にはこの名に合う土地は、ないようにみえる。

  だが古墳をみると、

  480年ごろの武の年代になってこのあたりで

  突然その造営が絶えるというような現象はみられない。

  とすれば残された可能性は、地名に対する先入観、

  河内は必ず<カワチ>と読む、

   とするような固定観念のせいである。

  それをとりさって近畿圏の地名を再検討すると、

  河内からひと山越えれば奈良県の高市郡で、

  これは「タケシ」と読めるし、

  雄略天皇の「大泊瀬(ハツセ)」は大百済(ハツセ)だし、

  大和はヤマトと読むのはムリだが、

   大は<タ>、和は<カ>の音があることに気づく。

  <タカ>は竹の二音ですでにみたように<タケ>でもある。

  倭の五王のうち最後の武が、このとき初めて、

  奈良県を領地に加えたという名乗りになっている。

  <古墳人のスタイル>

  上左・革小礼鎧の北魏武士。

   灰陶製の俑(中国の埴輪〉=洛陽北魏墓出土。5世紀末。

  上中・伽耶琴をひくサニワ。群馬県前橋市朝倉出土。6世紀。

   眼のあいだが開いた アーリア系の人物。(相川考古館蔵)

  上右・中国の西部からチベットにかけて住むロッパ人などが、

   これと同じ革礼(こざね)の甲冑を現代でももっている。

   一名チベット鎧。

  埼玉県熊谷市出土。 5~6世紀。(東京国立悸物館蔵)

  下右・第三章扉の『貢納・貯貝器』の群像の一人。

  頭に衝角つきの兜を被り、

   左の出土品の鎧と同じものを着ている。

   ズボンは埴輪のものよりもさらに後世の

  日本の武士のものに近い。

  下左・肩甲と頸甲と短甲。

   大阪府藤井寺市、野中古墳出土。古墳時代中期。(大阪大学蔵)

  <武人埴輪>

  『貢納・貯貝器』の武士と同じ型式の衝角つき兜を被り、

  左はそれと近い型甲の鎧を着ている。

  紀元前1世紀の雲南の人々と、

    古墳時代人が非常に近いことを証明する埴輪である。

  「倭の五王

  「雄略天皇

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:248~249頁

  《行方不明の安康、雄略天皇陵》

  しかし、これは大問題である。

  もし雄略に至って初めて大和に都を移したのなら、

  彼は神武天皇級の天皇、初国しらす天皇として、

  のちの大和朝廷に崇敬されたはずで仁徳、

  応神級の巨大陵が造られる。

  ところが巨大陵どころか、雄略天皇陵は無い。

  『記・紀』ともに多治比(たじひ)の高鷲(わし)

   (大阪府羽曳野市高鷲)に葬ったとあるが、

  いまそこへ行ってみると、

  雄略陵とされているものは陵の型式もなにもない

   ただの盛り土にすぎない。

  その大きさも応神陵の小さな陪塚よりもはるかに小さい。

  これではとても雄略陵とはいえない。

  では雄略陵はどこにあるのだろう?

  私たちには『御歳』という味方がある。

  まずそれで、

   現在の高鷲のものがどうなっているか

   確かめることから始めよう。

   30    52   124
  日本武尊 - 仲哀 - 雄略。

  83   78   124  64   78   124
  仁徳 - 允恭 - 雄略。 履中 - 允恭 - 雄略。


  いずれも駄目である。

  では雄略陵があるとすれば、どの辺りになければならないか。

  それを『御歳』で逆算してみよう。

  64   60    124
  履中 + 反正  = 雄略

  これでいけば、

  今はない三国ヶ丘(みくにがおか)陵(幻の反正陵)を

   考えにいれると、

  いま堺市三国ヶ丘町にある反正陵とされているもの、

   ということになる。

        49   75   124
  このほか、 安寧  +推古  =雄略
  
  という数式が成立するが、推古-安寧の線上に、

  それに相当するものを見つけることはできない。

     43   81   124
  また 継体 + 允恭 = 雄略

  の数式もあるが、これまた現在の允恭陵、

  恵我之荘大塚を結ぶ線上には、

   ともにそれらしい古墳は見つからない。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           KOFUN:250~251頁

  《関東にあるのか? 雄略天皇陵》
  
  だとすれば、今ひとつの推理が成り立つ。

  それは理由あってのことである。

  その理由とは、安康天皇陵もまた無いからである。

  これもまた『記・紀』ともに菅原の伏見

  (奈良市菅原町伏見)にあるとしている。

  しかし現実には、それらしいものさえない。

  いま奈良市にあるそれは、

   どこにでもある低い山の尾根の端っこにすぎず、

  陵どころか、古墳の型式にもあてはまらない。

  だが読者は、

   それを別に不思議とは思われないにちがいない。

  允恭と安康はもともと一人の天皇なのだから、

  允恭陵がある以上、さらに安康陵があれば、

   それこそ不思議だからである。

  全く同じことが「雄略」「武烈」両天皇とその間に並ぶ

  「清寧」「顕宗」「仁賢」の五天皇の上にも見られる。

  一人であったはずの倭王・武が

   分裂した形になっているのである。

  やはりある方が不思議ということになる。

  ただこの場合は、応神陵と崇神陵の間にある武烈陵もまた、

  とても陵墓とはいえないものだという違いがある。

  本当の武の墓は一体どこにあるのであろう?

  武の<タケ>が大和の<タカ>でないことは、

   この陵の状態ではっきりわかる。

  武は間違いなく五王の最後の王として実在したのだから、

  墓もどこかに実在するはずである。

  その場所は「武」の名をもった地域でなければならない。

  武の名はまず筑紫を意味し、大和も意味したが、

   また武蔵(むさし)も意味する。

  近畿圏に雄略の墓がないとすれば、

   それは九州か関東にあるのである。

  すると、思い浮かぶのは1978年(昭和53年)に

   発見された

  埼玉県の稲荷山鉄剣銘だ。

  それは武の即位直前、471年に作られた。

  武と乎獲居(オワケ)は同時存在である。

  そして共に、倭建(うわいたけし)を祖にもつ同族である。

  稲荷山古墳は5世紀末か6世紀はじめに造られたという。

  その前後には乎獲居たちは間違いなく武蔵に住んでいた。

  その乎獲居は獲加多支鹵(ワカタキシ)王と同時代人である。

  とすれば、世上いわれたように、

  この大王が雄略で、武で、

   それは武蔵を意味した可能性がさらに高まる。

  「安康天皇
  
  「安康天皇陵

  「雄略天皇雄略天皇
  「雄略天皇陵
  
  「清寧天皇
  
  「清寧天皇陵
  
  「顕宗天皇
  
  「顕宗天皇陵
  
  「仁賢天皇」  
  「仁賢天皇陵
  
  「武烈天皇」  
  「武烈天皇陵

  「稲荷山古墳」 
   
  「金錯銘鉄剣」=稲荷山鉄剣


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