2015年12月21日月曜日

天王塚古墳

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 《参考:年表・資料》

 ≪天王塚古墳≫

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著71~75頁

 天王塚は井辺八幡山とともに岩橋千塚の双璧である。

 規模はどちらも全長約90メートル、

 後期古墳では吉備や出雲でも最大級の大きさである。

 明治時代に後円部の横穴式石室が

 英人マンローによって紹介されたが、

 その後埋まっていたものを

 昭和39年春に再調査した。

 明治時代には

 天井石のすき間から入っていたので改めて

 入口から発掘を進めた。

 後円部を掘下げると、

 羨道の入口にある羨門に達した。

 ここでは巨大な一枚石扉にして、

 死者の世界とこの世とを分けていたが、

 かつて侵入した盗人によって、

 扉石は下の一部をにこして破砕されていた。

 羨門を入ると羨道である。

 外に眼をやると明るいが、

 石室の奥のほうはすいこれるような闇の空間である。

 左右の壁は割石積であるが、

 大きな天井石が頭上にのしかかる。

 「写真」天王塚:和歌山市岩橋千塚

 「岩橋千塚古墳群
 
 「井辺八幡山古墳

 《天王塚の装飾付須恵器》

 5世紀から6世紀の前半にかけて、

 須恵器に人や鳥などの小彫刻が飾られている。

 埴輪のように大きくはなく、

 また独立した作品でもなく、

 たいてい掌に入る位の大きさで、

 器台や壺、さては耳皿などにつけられている。

 その源流は大陸にあるけれども、

 和歌山県や兵庫県などで異常に発達した。

 天王塚は井辺八幡山よりは

 約半世紀のちに築かれたが、

 ここでは水鳥、鹿、犬、裸の男などが出土している。

 もとは器台の縁を飾っていた。

 八幡山は埋葬施設は未調査であるが、

 西側の造出しにおびただしい埴輪類とともに

 装飾付須恵器が使用されており、

 葬送の特殊な用途であったことが知られる。

 ここでも、男、鹿、犬、猪、水鳥が大部分であるが、

 その群が全体として何を意味しようとするのかは、

 まだ解明されていない。
 
 「写真」埴輪付須恵器:天王塚

 「写真」装飾付須恵耳皿:和歌山市井辺八幡山

 「写真」装飾付須恵器台:和歌山市井辺八幡山
 
 《天王塚の石室》
 
 羨道を奥へ進む。

 やがて天井が低くなり、左右の幅も急に狭くなる。

 羨道が終わる。

 ここにも巨大な扉石が閉塞していたのだが、

 今は羨道のほうへ倒れている。

 羨道と玄室との間に短いが別の空間が設けてある。

 私は玄室前道と名づけたが、

 この設備のある横穴式石室は大和にはない。

 玄室前道をくぐりぬけると、

 そこには暗黒の世界がある。

 天井までの高さが約6メートル。

 日本の横穴式石室では、

 熊本県の大野窟とともに傑出の高さである。

 死者のために、

 なにゆえこれほど高い空間が必要だったのか。

 黄泉の世界とは底知れぬ深さがあったのか。

 玄室の壁を支えるため、

 八本の石梁が右から左へと架せられている。

 これはもう一大建造物である。

 奥壁には組合せ式の石棺が散乱しており、

 その上方の奥壁に石棚がつけられている。

 「写真」天王塚の石梁のある玄室を見上げる。

  「古墳」
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  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

  ≪歴史関連リンク≫
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