2015年12月5日土曜日

大仙陵古墳=仁徳天皇陵


 ≪大仙陵古墳=仁徳天皇陵≫

 出典:保育社:カラーブックス:古墳―石と土の造形―森浩一著
     44~47頁
  
  《大仙陵古墳》

  誉田山古墳を空から見ると古式と神厳を感じる。

  この大仙古墳は左右の均斉が整いすぎているため

    神厳さはないが、

  雄大さと力量感が上空から見下ろす私をひきこみ、圧しさる。

  現在三重にめぐる濠は、かつては二重で、

  明治30年ごろに三重濠は完成した。

  明治5年9月、大仙陵古墳の前方部に土くずれがあり、

  竪穴式石室の中に長持形石棺が発見された。

  東京から大阪まで汽車のない時代であるから、

  役人が処理にくるまで時間がかかったことは当然考えられる。

  ボストン美術館に、

  この古墳から出土したと伝える

    立派な鏡や刀の柄頭があるけれども、

  明治5年に持出された可能性がある。

  石室内にあった甲(かぶと)や冑(かぶと)などは

  模写してから埋められ、

  また二個のガラス器の存在は文章で記録されている。

  昭和38年に、奈良県新沢千塚から出土したガラス器は、

  それを推定する資料となった。

  「写真」ガラス器と皿:奈良県新沢千塚126号墳


  《前方後円墳の設計》

  最近、古墳の設計技術や使用されていた物差しの研究が

    盛んである。

  前方後円墳といえば、誰でも細長い平面形を考えるが、

  5世紀後半になると、

  墓域、つまり兆域が正方形に設計された古墳があり、

  当時すでにその地域全体の方格地割があったので、

  当然古墳地割も影響をうけたのではないかと考えている。

  これは椚(くぬぎ)国男氏の提唱する方法も応用したが、

  くびれ部で交差する十字線を基準にすると、

  東西・南北ともに濠の幅を含めた長さが等しい。

  「図」土師ニサンザイ古墳の設計復原:大阪府堺市土師町

     ①周庭帯をいれると周囲がもう一目盛ずつふえる。

     ②大方格が4個で、そのそれぞれに16

      (周庭帯をいれると25)ある小方格は、

      一辺が晋尺の200尺である。

  「大仙陵古墳
  
  「名称の変遷と混乱


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:KOFUN:144~147頁

  《兎という名が解いた謎》

  もうおわかりのように、

  未斯許(ミシキヨ)または堤上は倭人(ワニ)をだまして海を渡り、

  だました者は捕まって殺されてしまう。

  『三国遺事』では堤上は『脚下之皮』を

    剥がれたことになっている。

  まさに歌のとおりである。

  この対比はさきにもお話しした私(加治木義博)の

  『異説・日本古代国家』(193ページ以下)に、

  詳しく解説してあるので、ここでは要点だけをあげておこう。

  シロウサギは素兎と書かれている。

  素人と書いてシロウトと読むよみ方である。

  このシロは色の白でなく、

    新羅の古名「斯盧(シロ)」を表している。

  <イナバ>は志賀島の金印で有名な委奴国(イナマ)のことで、

  国を<マ>といった時代の名残りがここに見られる。

  しかし肝心のウサギに当たるものは

    どこにも出てこないではないか?

  とお思いであろう。

  実はもうとっくに出ているのである。

  新羅の訥祇王はトッキ王と読むが、

  トッキとは朝群語でウサギのことなのである。

  しかし彼は倭人をだまして海を渡った当人ではない。

  海を渡ったのは王弟の未斯欣と堤上だったではないか?

  ということになる。

  『三国史記』[百済本紀]をみると、

    と同時に腆支王という王がいる。

  この王の本名は直支と書いてトッキで、

    やはりトッキ王なのである。

  『日本書紀』には、応神天皇の八年に百済王が、

  先王の好みを修めるために王子直支を天皇のもとへ送った、

    とあり、

  十六年に百済の阿花王が死んだので、

  天皇は直支に王位をつげと命じて百済へ帰したとある。

  その次の条には葛城襲津彦がまだ帰らないので

  平群木菟宿祢(ヘグリづくノすくね)らを加羅に派遣して

    新羅を討たせた。

  新羅王は降伏して弓月(ゆづき)の人夫をひきいて

    襲津彦と共にやってきたとある。

  [神功紀]と[応神紀]とに分かれているが、

    実はこの話は同じものだとわかる。

  名も、登場者も、時代も、

    国へ海を渡って帰ったという出来事も一致するからである。

  まだある。

  応神天皇の皇子、

    仁徳天皇は大雀命と書いて普通<オオサザキ>と読んできた。

  大は沖縄発音ではりで<ウサザキ>。

  これもどうやら本当は<ウサギ>であった予感がすると思う。

  仁徳陵は今も大仙陵と呼ばれる。

  <セン>の発音は関西では山と書いて

    <セン>と読むものが多いから、

  これは本来は大山陵で、ウサン陵、ウサの陵となる。

  <ウサ>とは<ウサギ>の略称で、

  ことに鹿児島語では「ウサッ」が正しい名なのである。

  この仁徳天皇の大雀という命名の由来が

  『日本書紀』の仁徳元年正月の条に出ている。

  それによると、天皇が生まれたとき、

  産殿(うぶどの)に木菟(ヅク=ミミヅク、

  その姿が耳の長い<ウサギ>に似ているので

    (木菟と書く)が入ってきた。

  翌日、父の応神天皇が大臣の武内宿祢(すくね)を召して、

  何の前徴だろうとたずねると、

    大臣は「大変おめでたいしるしです。

  実は私の妻も昨日男の子を生みましたが、

  私共の産屋(うぶや)にも雀が入ってきました。

  実に不思議なことが重なりましたね」と答えた。

  天皇は喜んで、二人が同時に生まれ、

  同時に鳥が飛びこんできたというのは何としても珍しい。

  これは天の啓示(まえじらせ)に違いないから、

  これを忘れないために、その鳥の名をとって子どもに名づけ、

  その名を互いに換えてつけようではないか」といって

  太子に大雀(サザキ)、大臣の子に木菟(ズク)とつけた。

  これがのちの平群木菟宿祢で、平群臣(おみ)の始祖だとある。

  少し形は違い、木の字が一字多いが、ともかく、

  仁徳は名を換える前は<ウサギ>という名を

   もっていたのである。

  では木菟は全く<ウサギ>とは

    縁がないかというとそうではない。

  やはり鹿児島方言で、木菟を<トッコ>と呼ぶ。

  人によっては<トッキョ>鳥(どい)という。

  これは朝鮮語の<トッキ>・兎と全く同じで、

  この兎鳥の方が、木菟よりよほど適切な表現である。

  また同じ鹿児島では<ムササビ>も<トッキ>と呼ぶ。

  これは前足から後足にかけて両脇に羽状の皮膚があり、

   うまく木から木へ飛ぶ。

  羽のある<ネズミ>が<コウモリ>なら、この<トッキ>は

  大きさや姿がまさに飛ぶ<ウサギ>なのである。

  この<トッキ>は語源をすぐ考えることができる。

  鹿児島弁では飛ぶことを「トッ」という。

  木から木へ飛ぶ動物。すなわち<トッキ>なのだ。

  こうみてくると、

  語源の不明な朝鮮語の<トッキ>はむしろこの

  「飛ッ木」が、いつのまにか<ウサギ>のことに

   転化してしまったと見るほうが論理的だ。

  というのは朝鮮語中には日本の古語が

    大量に混じっているからである。

  次にそれをかいつまんでご覧にいれよう。

  <上左・ミミズク=トラフズク>

  体長40cmほどの中型のフクロウ。
  
  ほぼ全国に分布するが移動して本州中部以北で繁殖。
  
  <上右・イナバの白ウサギ(斎藤五官枝 画)>

  <下・今も生きている弥生時代の梯子>

  右の古い梯子は静岡県山本遺跡出土の

    弥生中期のものである。

  左の婦人が上がっているのは、

   今ベトナム山地に住むモイ人のものである。

  この人々はベトナム人とは多くの点で異なっているが、

  その梯子だけでなく風習も弥生時代の日本人と

    多くの共通点をもっている。


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:KOFUN:182~185頁

  《大国『百済』が上古大阪に実在した》

  分裂した人々が、祖先を自分たちだけのものと思うのは、

  さきにみたウサギの名をもった王たちも同じである。

  そこでは日本の仁徳天皇と、

    新羅訥祇王と百済の直支王が同時代に、

  ともに同じ名をもっていたのをみた。

  このうち日本と新羅の場合は、

    少なくとも同じ祖先をもっていることを知った。

  残る百済王のこの同名も、

    分裂以前の同祖を示す可能性が強い。

  ”兎という名が解いた謎”のところで、

  仁徳天皇陵の名は大山陵で、

    天皇の名とウサギという発音が一致するというお話をした。

  実はこのウサギに最もよく一致する神がある。

  それは愛媛県の大三島神社の祭神「大山祇の神」である。

  これは大山陵よりも、よっぽどお話が楽である。

  説明無用。

  一見して大山祇(ウサギ)だからである。

  大三島もウサシマである。

  この神名は一般にはオオヤマツミの神と読まれてきている。

  『釈日本紀』の巻六に引用されている

  [伊予国風土記]逸文の御(み)島の分には、

  「宇知郡御島に坐(いま)す神の御名、大山積の神。

    一名、和多志大神なり。

  この神、難波高津の宮御宇天皇(仁徳)の御世に

    顕(あら)われましき。

  この神、百済国より渡り来て、津の国の御島に坐しき」とある。

  仁徳天皇と同名の人物が、同じ時代に現れて、

  天皇のいたとされる摂津の国に住み、しかも百済から渡って来たというのである。

  考えようによっては、

  日本、新羅、百済3国の同名の王は、

  この百済から来たという大山積の神から分化したのではあるまいか?

  しかし、百済は朝鮮半島だけにあったのではない。

  『ジンム』にそれが種子島地方にあって、

  ヒミコの領地の一つだったことが詳しく書いてあるが、

  その地域から出土する遺物の年代測定によって
  
  3世紀から5世紀にかけての大阪市域は、

  実は「高津の宮」の存在も危ういような細長い半島状のもので、

  後世の百済という地名の一帯が中心にあったばかり、

   他はほとんど水底に没していた。

  今の大阪城の高台が最北端で、

   その東は生駒山まで一面の湖で、西は大阪湾であった。

  今の大阪市域が形成されたのは第一次大戦以後で、

  18世紀ごろの大阪市はまだ現在の5%にも満たなかったのである。

  だから、難波高津の宮が実在したとしても、

  それは百済の一部にあったとしか考えようがない。

  ただし百済はそれ以南にも拡がっていて

  少なくとも今の堺市から南、泉州一帯が領地の中にあった。

  それは地名が教えてくれるからである。

  仁徳陵のある所は百舌鳥(もず)の耳(みみ)原と

    呼ばれているが、

  これは古事記では毛受耳(もずみ)原となっている。

  助詞の「の」をとって読むとモズミハラとなる。

  この発音は次のように百・(モ)済(ズミ)韓(ハラ)と

    完全に一致する。

  百済は朝鮮半島にもたしかに実在したが、

  大阪府下にも、その実在のあとが

    幾重にも残っているのである。

  当時の大阪市域が海と湖に狭まれた狭い半島だったことは、

  畏友梶山彦太郎氏らの永年にわたる

    地底遺物調査で立証されたもので、

  貝類や藻類の遺体の出土状況と

    その炭素14法による年代測定の賜物である。

  これはさきにあげた私の本に紹介してあるので

    参考にしていただきたい。

  だが、大阪府下に百済が実在しても、

  一般の学者は、

  それは後世の百済からの帰化人の遺跡で

    別に不思議でもなく、

  調査しても無駄だと考えていたらしい。

  私(加治木義博)がこの事実を発表して20数年たつが、

    何の反響もない。

  では、大山積の神は帰化人だったのであろうか?

  彼はいま見たように摂津の国の三島郡にいたようにみえる。

  しかも仁徳と同時代、同名で、多くの点で互いに重なり合う。

  また、大は文字を変えると意冨(オホ)で、

  イツミすなわち和泉になるが、

    これは堺を含む摂津の隣国の名でもある。

  はたして帰化人が世界最大の墓とされる

    大仙陵のある土地を百済と変え、

  仁徳が都していたとされる難波高津一帯を百済と変え、

  さらに南に広く拡がる地域を和泉に

    改名することができただろうか?

  新羅最盛期の景徳王ですら、地名を改めたといっても、

  旧名がそのまま残るような”形だけの改名”しか

    実施できなかったことを考えると、

  これらの百済や和泉の名は、

  後世になってから旧名を消去した上で新しくつけた名ではなく、

  もともと日本の建国初期に名づけられたもので

    なければならない。

  地名を改めることは、

    小字(こあざ)や無名の小地域なら別だが、

  当時は国名だった難波や和泉という大行政圏では

    不可能である。

  それができる可能性があるのは、

   先住民が力を失ったときに限る。

  天災による全滅か革命による政権交替時かであって、

  片隅に小さくなっていた帰化人にできることではない。

  <水底にあった難波>

  (梶山彦太郎・市原実共著
     「大阪平野の発達史」/1972年12月)
     地質学論集第7号による)(加治木原図)

  5世紀の大阪市城はほとんどが水底にあり、

  わずかに大阪城附近まで伸びた高台が半島を形成、

  それから北方へ次第に砂州が発達しつつあった。

  後世の百済と住吉の一部(現在の東住吉)があるばかりで

  東成、西成はまだ生まれていない。

  中心は明らかに百済であり、

   百済大寺とは四天王寺の前身だということになる。

  守口・梅田・東成・城・西成・(百済)・住吉・東住吉・八尾市・

   堺市・松原市・柏原市・生駒

  ○現在の百済の位置<四天王寺の位置>

  <器台須恵器>

  左・韓国新羅時代。
    5世紀後半~6世紀。
    出土地不明。(韓国国立中央博物館蔵)

  右・大阪府大東市寺川堂山一号墳出土。
    5世紀(大阪府教育委員会蔵)


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:KOFUN:244頁

  《チンが占領した大阪百済》

  角(つの)は沖縄発音だとみると関西では<トノ>になるが

  木菟の宿祢は「木菟の(キトノ)」で「紀角(キツノ)」

    と同一人物だということになる。

  これは標準語の<ト>は沖縄語の<ツ>だという

    事実の応用だが、

  本当の沖縄語では角は「チヌ」で「珍(チヌ)」と同じ発音である。

  彼は紀を名乗る<チヌ>の領主である。

  それが泉州の堺にまで領土を拡のは、

    そんなに難しいことではない。

  記録が混乱していることはすでに確認ずみだから、

  これが讃が死んで珍が継いだ時だとすると、

    先代の応神天皇が四一年に死んでいる。

  『三国史記』の王たちも大半が前後にズレていて、

    王名と内容が食い違っている。

  応神・仁徳の記事も、

    武内宿祢が3百歳にもなる大きなズレがある。

  だから間違っているのは『日本書紀』で、

  『宋書』でそれを修正すると、

  讃が治世41年で死に、

    木菟宿祢こと紀角宿祢がそのあとの天皇になった。

  これが「珍」と著名して宋に手紙を送った

    倭王・珍(チン)だった、ということになる。

  それでは「弟」という条件に合わないと思う方もあると思うが、

    弟には義弟もある。

  しかしそれよりも「菟道の(チヌ)稚(和歌)郎子太子」

   と同一人だった可能性が考えられる。

  名替(なかえ)の話はコンガラがつているが、

  真相は天皇と太子は双子だったということのようにみえる。

  しかし堺に大仙陵があることからみて、

  このとき初めて大阪に入ったという事実は動かない。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
               講演会:(毎日新聞:1994.10.26)

  《仁徳陵・被葬者は別人?(後継・履中陵より新しい可能性)》

  宮内庁公開(はにわ比較で確認)・5世紀後半築造か

  大阪府堺市にある

    世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の築造年代は、

  次代の履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)より

  遅い5世紀後半である可能性が大きくなった。

  25日、宮内庁書陵部が公開した

    陵墓出土のはにわの比較によるもので、

  2陵の築造順が墳丘出土遺物で確認されるのは初めて。

  仁徳天皇は5世紀初めごろ在位したとされるが、

  築造時期と食い違うことから

    被葬者は別人との見方も強まっている。

  公開は考古学や古代史の研究者らが対象。

  陵墓周辺で採集、保管している遺物のうち

  仁徳陵人物形はにわ(女子頭部)など既に公開したものを含め

  194点を展示した。

  履中陵前方部の形象はにわ38点は1986年に

   盗掘直後押収されたものなどで初公開。

  白石太一郎国立歴史民族博物館教授(考古学)によると、

  仁徳陵後円部墳丘上から出土した

    円筒はにわ片の大半は穴窯焼きで、

  5世紀後半に当たるはにわ編年・Ⅳ期の特徴を備える。

  履中陵の円筒はにわ片は黒い斑があり野焼きしたとみられ

  5世紀初めのはにわ編年・Ⅲ期に相当するという。

  履中陵前方部から出土した靭形はにわは、

  奈良県御所市の宮山古墳(5世紀初め)のものと酷似、

  円筒はにわの時期と一致している。

  一方、古田恵二・国学院大教授(考古学)は

  「仁徳陵のはにわは5世紀中ごろと思われ、

  履中陵と同時期の可能性もある」と慎重な見方を示す。

  写真:百舌鳥古墳群の仁徳陵(中央)と
              履中陵(左)大阪府堺市で1992年撮影

  写真:仁徳陵出土の人物形はにわ(女子頭部)と
      履中陵の前方部から出土した靭形はにわ=いずれも
            宮内庁書陵部展示目録
         (毎日新聞:1994.10.26)

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学講義録30:20頁

  《佐賀の関と佐田半島は仁徳天皇の遺跡》

  仁徳天皇陵として周知の堺の大仙陵は、

  その陵の主が

     「大山祇(おおやまつみ)=大=ウ・山=サン・祇=ギ」で

  ウサギと読める天皇だと証言している。

  すると仁徳天皇の名乗りの当て字は「大雀」で、

  これまでオオサザキと読まれてきたが、

  これも大隅語に短縮すると「ウサギ」である。

  また御陵と書いてミササギと読むから、

  これも「御=ウ、陵=ササギ」でやはり「ウサギ」 になる。

  御陵は大仙陵が巨大古墳として最初に作られたために、

  それらの代名詞になったという語源の構造を証言している。

  この天皇はいうまでもなく倭の五王の讃だから、

  讃もサン、山もサン、仙は山の別音センへの当て字。

  大山祇は

    大は淡(オフ)=阿波、

    山祇(サンギ)=讃岐(サンギ)への当て字、

  それは菟狭王(うさギ)・宇佐王と書いても同じく

  「ウサギ」と読む名乗りだから、

  宇佐は彼の出発点。

  阿波讃岐は彼の最終本領。

  大仙陵はその死後の墓だったのである。

  彼は5世紀初めに実在して

  中国・宋(劉宋)の

  永初2年(421年)と元嘉二年(425年)に

  宋へ遣使し、その直後に死んでいる。

  だから彼が大分から四国へ渡ったのはそれ以前である。

  倭王・武の上表文は

  「祖先は自ら鎧兜に身を固めて山川で戦い休む暇もなかった」

    と書くが、

  『日本書紀』にはそんな記事はまるでなく、

  その治世年数も信用できないので、

  これ以上の詳細はわからないが、

  このサカ~サタば疑いなく倭王・讃当時のものだと断定できる。

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