2015年12月3日木曜日

百舌鳥古墳群と古市古墳群


 ≪百舌鳥古墳群と古市古墳群≫
 
 出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著
     38~39頁
 
  中期を代表する二つの古墳群は、

  東西に走る二筋(長尾街道・竹内街道)の

   古道でつらなっている。

  古墳群をつなぐ道とは何であろうか。

  律令時代の行政区画では、

  百舌鳥が和泉に、

  古市が河内に属してたため、

  別個の古墳群として扱われてきた。

  ところがこの付図を作るために

   一枚の地図に表してみたら、

  新しいことに気づいた。

  まず、大山古墳と誉田山古墳、

  つまりそれぞれの群の最大の古墳が

   東西の線上に並んでいる。

  当時はすでに土木技術が進んでおり、

  南北の測定や距離の計測をおこなうことができたから、

  これは偶然ではなさそうである。

  この関係は奈良盆地では、
  
  行燈山古墳と巣山古墳、

   渋谷向山古墳と新木山古墳が、

  それぞれ盆地をはさんで

   東西に並ぶのにも共通しそうで、

  将来問題点が見つかるかもわからない。

  つぎに百舌鳥古墳群と古市の南北の範囲である。

  百舌鳥では土師ニサンザイ古墳、

  古市では古市築山古墳が南限にあるが、

  これも東西にほぼ並んでいる。

  北限は百舌鳥で田出井山古墳、

  古市では河内大塚をへて

   市ノ山古墳に至る線が東西に並ぶ。

  津堂城山古墳だけが北へ飛び出すが、

  異常に広大な周庭帯の存在が

   この例外の説明をとく鍵である。

  では以上の三点から何を仮定できるか。

  私(森浩一)はこの二大古墳群は、

  本来は一つの古墳群ではなかったかと考える。

  東西12キロ、南北約3キロの長方形の地域が

  5世紀代の大王家の墓地に選定され、

  その内部で古墳はつくられたのであろう。

  そう仮定すると、

   南限線の中央に黒姫塚があるのも面白い。

  ところがこの墓地に古墳をつくるべき支配者の没落で、

  6世紀中ごろ以後、古墳をここに築かなかったのであろうか。

  「百舌鳥古墳群
  
  「古市古墳群

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     毎日新聞:1994.10.26

  《仁徳陵・被葬者は別人?(後継・履中陵より新しい可能性)》

  宮内庁公開(はにわ比較で確認)・5世紀後半築造か

  大阪府堺市にある世界最大の墳墓・

  仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の築造年代は、

  次代の履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)より遅い

  5世紀後半である可能性が大きくなった。

  25日、宮内庁書陵部が公開した

  陵墓出土のはにわの比較によるもので、

  2陵の築造順が墳丘出土遺物で確認されるのは初めて。

  仁徳天皇は5世紀初めごろ在位したとされるが、

  築造時期と食い違うことから被葬者は

  別人との見方も強まっている。

  公開は考古学や古代史の研究者らが対象。

  陵墓周辺で採集、保管している遺物のうち

  仁徳陵人物形はにわ(女子頭部)など

   既に公開したものを含め194点を展示した。

  履中陵前方部の形象はにわ38点は

  1986年に盗掘直後押収されたものなどで初公開。

  白石太一郎国立歴史民族博物館教授(考古学)によると、

  仁徳陵後円部墳丘上から出土した

   円筒はにわ片の大半は穴窯焼きで、

  5世紀後半に当たるはにわ編年・Ⅳ期の特徴を備える。

  履中陵の円筒はにわ片は黒い斑があり野焼きしたとみられ

  5世紀初めのはにわ編年・Ⅲ期に相当するという。

  履中陵前方部から出土した靭形はにわは、

  奈良県御所市の宮山古墳(5世紀初め)のものと酷似、

  円筒はにわの時期と一致している。

  一方、古田恵二・国学院大教授(考古学)は

  「仁徳陵のはにわは5世紀中ごろと思われ、

  履中陵と同時期の可能性もある」と慎重な見方を示す。

  写真:百舌鳥古墳群の仁徳陵(中央)と

         履中陵(左)大阪府堺市で1992年撮影

  写真:仁徳陵出土の人物形はにわ(女子頭部)と

     履中陵の前方部から出土した靭形はにわ=

         いずれも宮内庁書陵部展示目録

        (毎日新聞:1994.10.26)

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録8:15~16頁

  《考古学界の大変身?ヤマト『政権交替』展!》

  だが、私たちの努力は無駄ではなかった。

  いま奈良県立・橿原考古学研究所の博物館では

   秋季特別展を開いているが、

  そのタイトルは、なんと!

  『政権交替』-古墳時代前期後半のヤマト-である

    (2002/11/24)。

  その図録の巻頭で河上邦彦館長はこう述べている。

  「最近の研究では大和政権が

    3世紀初め頃に成立したと考えています」。

  戦前は、

   神武天皇が紀元前660年に即位して

   大和政権を創始した聖地として、

  太平洋戦争に一役買った橿原市だったが、

  戦後から近年まではそれが訂正されて

   紀元前後に即位したことになっていた。

  それが今また、さらに変更されて

  「3世紀初め頃に成立した」

   と信じているというのである。

  だとすればこれは2世紀から3世紀にかけて

   実在したことの確かな卑弥呼は大和政権とは

  無関係だという宣言なのである。

  卑弥呼は神武天皇の子孫、孝霊天皇の皇女で、

  『記・紀』では倭迩迩日百襲姫というのがその名乗りとされ、

  その墓は同考古学研究所が担当する地域にある

   「箸基古墳」だとされてきた。

  これもまた、すべてが否定されてしまうのである。

  それ以上に神武天皇の存在そのものが否定されている。

  近鉄・橿原神宮前駅の近くにある同研究所が、

  隣接する橿原神宮と畝傍陵の存在まで

   否定してしまったのである。

  《やっと私たちに追随し始めた考古学界》

  同館長はさらにいう。

  「そして4世紀末までの期間を

     前期古墳の時代としています。

   この時代は大和政権が部族国家から脱して

     統一国家へと発展していく時期であります」

  4世紀末までは大和政権は

   部族国家に過ぎなかったというのである。

  なぜなら今回の展示が示すように、

   その期間の出土品は貧弱で、

  とても統一国家の首都の面影もないからなのである。

  そして館長はこう続ける。

  「そして前期の後半から末、

     この政権の内部が変質するようです。

   新しい段階に入るための摸索の時期であるのでしょう。

   これを「政権交替」という言葉で

     言い表すのが妥当か否かはともかく、

   大きな変化が見られるようになります。

     今回の展示はこの変化を捉えようとしています」

  館長は、

   その大変化を「政権内部に生じた変質」

   だと想像しているので、

  それを「政権交替」と言いきるのはどうかと迷っているが、

  私たちはもう早くから、

  奈良県にあった政権が次々に外圧に潰されては

   交替して行った事実を知っている。

  それを頑強に否定し続けてきた考古学界の重鎮が、

  今やっと『政権交替』を看板にする所まで

   追随してきたのは痛快である。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学院講義録8:17~18頁

  《政権交替を立証する展示内容》

  河上館長の表現は遠慮勝ちだが

   古い体質の考古学界では、実に勇気のいる大決断だ。

  改めて敬意を表したい。

  因習に囚われず真実に眼を開いた人たちがいること。

  しかも過去最悪のナショナリズム拠点・

   橿原でという事実は、

  祖霊の実在と勇気づけのようにさえ思えた。

  だがそれにも増して嬉しいのは、

   今回の『政権交替』の展示物がすべて、

  私たちがこれまで発見し続けてきた

   史実を裏書きしていることである。

  展示内容は

  Ⅰ 墳型・埋葬施政の変化 ① 前期後半の大型前方後円墳の変遷
               ② ヤマトに於ける円・方墳の出現
               ③ 主体部の変化

  Ⅱ 副葬品の新要素    ① 前期後半の鏡 ② 武器・武具
               ③ 製品の変化  ④ 特異な文物

  Ⅲ 器材埴輪の成立    ① 器材埴輪の構成とその配置
               ② 器材埴輪   ③ 家型埴輪

  Ⅳ ヤマト、前期後半の変動…そして河内へ
               ① 古墳時代前期後半のヤマト
               ② 河内へ一津堂城山古墳

  Ⅴ 前期後半の威儀具の形象 ① 簡型右製品  ② 琴柱型石製品
                ③ 董型石製品
  といったものである。

  《前期後半の大型前方後円墳の変遷》

  その表題でご想像がつくように、

  展示物は図録・図鑑でよくご存じのものが大半である。

  ただ、

   それが今上のようなテーマで

   選別されて集められたことは、かってなかった。

  在来は、それらが当然のように、

  大和朝廷の実在を示す遺物として

  天平文化にまで続く一連の文物、

  天皇独裁、万世一系の父子相続を

  証明する証拠物件として

  疑わなかったからである。

  しかし真実でないものは必ず挫折する。

  信頼が深ければ深いはど、

   その崩壊は救いようがなくなる。

  そのときフランス革命の悲劇のように、

  罪なき者も真に価値あるものも

   巻き添えをくって抹殺されてしまう。

  私たちはそれを最も恐れるのである。

  本題から逸れるので関連牲の強いものだけ

   簡単に展示の説明をしてみよう。

  「大型前方後円墳の変遷」は

  大半が陵墓に指定されていて調査比較ができない。

  そこで墳丘測量図が展示されている。

  その特徴は

   墳丘部が段々に積み重ねた形になっていることであるが、

  それが時代とともに高さを増して、

  2段から3段になり、

   3段が定型の河内古市古墳群につながる。

  大きさは

  渋谷向山302m、五社神276m、宝来山226m、

   佐紀石塚山220m、佐紀陵山208m、

  津堂城山208m、巣山204、

  摩湯山200m、網野銚子山195m、島の山195m、

  五色塚194m、 神明山194mで、

  これら同時代の200m級の大型前方後円墳の分布は、

  古市1、和泉1、播磨1、丹後2で、奈良が7である。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         大学院講義録8:19~21頁

  《首長派遣や勢力分布を示す遺物「古墳」》

  この丹後の2という数字は、先の用明天皇の名乗り

  「橘=但馬国(タチバナ)」との関連を

  思わせるが、時代差が大きくて直接の関係はない。

  しかし一見、辺境に見えるこの地域が

   早くから重要な地域であり、

  有力首長が派遣されていたことは、

   但馬最大の盆地に豊岡という地名を残して、

  橘豊日の名乗りを説明するように、

   史実の復元には絶大なカをもっている。

  こういう視点をもつことができれば、

   次の古墳の形態分類とその分布も、

  実に有力な史実の記録として、

   重大な証言をすることになる。

  「ヤマトでの円墳と方墳の出現は

     前期の中葉から後半の現象で、

   同時に前方後円墳は終焉に向かう。

   方墳は出雲、丹後、三島地域などに

     前期後半から造られるがヤマトにはみられない」

  という説明は、本講座でお馴染みの地域が、

  特徴ある葬制をもつ勢力の支配下にあった

   事実を裏書きして、

  言語だけによる復元を

   強力に補強してくれる快適なサンプルである。

  「円墳は、比較的多く盆地各所に築造される」各地に

  「実態が不明な円墳状のものがみられ、

     前期前半の円墳の存在を否定するわけではない。

   このような前期後半の円・方墳の出現は、

     墳形に表示される規制とも捉えることができ、

   墳形での明確な序列化がはじまったと考えられる」

  と結論しているが、

  これは統一大和朝廷だけしか考えられない人の説でしかない。

  《墳型の様式や主体部の変化の真意》

  墳型という重大な様式を単なる官吏序列の表現とみるのは

  官僚の自惚れと傲慢の現われで、

   いまだに皇国史観がくすぶっている。

  単一民族とか統一国家といったテーゼで

   盲目になっているからとしか言いようがない。

  『記・紀』が記録している官僚の序列表現は、

   聖徳太子の偉業に数えられているほどに、

  はるかに後世のもので、

   統一朝廷さえ存在しない前期にそんな序列があるはずがない。

  それは例えば神武天皇に抵抗した

   長髄(ながすね)彦のような先住民のもの、

  完全な他部族の遺物と考えられないようでは、

   少なくとも学者の中には入らない。

  と思うのだが、いかがであろうか……。

  「主体部の変化 

     前期後半になると主体部にも変化が現れる。

   すなわち大型前方後円墳における石棺の採用と

   中小古墳における粘土槨(かく)の出現である。

   また、この時期には前方後円墳において、

     前方部に埋葬施設が設けられる例も顕著になる」

  というが、続く-「石棺の採用」-をみると

  「前期後半のヤマトで、

    調査により石棺の使用が確認されているのは

    櫛山古墳のみである」

  「しかし佐紀古墳群西群の大型前方後円墳は

     石棺が使用されているようである。

   佐紀石塚山古墳・宝来山古墳においては

     幕末の盗掘事件の詞書からいずれにも

   「亀の形二相成」とされる石棺が存在した記述があり、

   佐紀陵山古墳には石棺の蓋のような屋根形右がある」。

  《特に注目してほしい合手(ごうす)形石製品》

  あとは前記のとおり副葬品の鏡や武具や、

  筒形や琴柱(ことじ)形や合子(ごうす)形、

   鍬(くわがた)形、紡錘車(ぼうすいしゃ)形、

  るつぼ(柑)形、農耕具形などの石製品、

   曲玉や管玉などの装飾品。

  特殊な文物として家屋文鏡や環頭と、
  
  きぬがさ(蓋)形埴輪を代表とする

   器材埴輪といったものが展示されている。

  この中で特に重要なのが合子(ごうす)形石製品である。

  合子(ごうす)は現在も寺院で

   香器として使われているものと全く同じといっていい

  蓋付きの円形容器で、短い脚がついている。

  この姿は戦前まで、まだ使われていた、

  花見などの行楽時に弁当などを天秤棒で担いでいく

  道具の「行器(ほっかい)」にそっくりでもある。

  ただ内容物が違うから大きさが変わるだけである。

  行器(ほっかい)は

   薄く軽く削った木を曲げて造った漆器であるから、

  合子(ごうす)も本来は漆器だった時代の姿を、

   その脚に残していると考えていい。

  仏教の香具はいうまでもなく

   死者を弔うためのものである。

  それが副葬品の中に

   必需品として入っているのは当然のことだが、

  それらが遺品として存在するということは、

   被葬者が仏教徒であり、

  その文化がインドからのものであることを証言している。

  私たちはすでに古墳が

   仏教のスツーパ(塔・卒塔婆)であることを知り、

  奈良には大太郎法師・ダイタラポッチの

   ウッタラが早く布教して、

  銅鐸などを残したことを知っている。

  前記の円墳・方墳以前の前方後円墳は彼等のものである。
  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

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