2015年12月26日土曜日

古墳群と群集墳

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 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
       古墳―石と土の造形―森浩一著
    78~79頁

 《古墳群と群集墳》

 佐紀盾列古墳群、馬見古墳群、百舌鳥古墳群などでは、

 大型・中型の古墳が数キロにもおよぶ広範囲に点在し、
 
 巨視的にとらえると古墳群を形成している。

 ところが近畿では6世紀になると、

 直径十数メートル、高さ約2、3メートルの円墳が

 狭い範囲のなかに次々と築かれ、

 約1世紀の間にるいるいと古墳が密集した。

 このような古墳群を群集群とよんでおり、

 すでに見た岩橋千塚も墳集墳である。

 日本の古墳全体の大半が、

  群集墳に属する小型古墳である。

 群集墳を構成するのは、円墳が大部分であるが、

 前方後円墳や方墳をまじえるもの、

 時には方墳ばかりの場合もあり、

 それぞれの群集墳をのこした

  手段の政治的な性格を示している。

 埋葬施設は石材の入手が困難な土地では

  木棺を墳丘内に埋めるが、

 たいてい横穴式石室を築いている。

 小型円墳の横穴式石室でも、壁や天井石には、

 数トンから数十トンの石を用いるから、

 現代の一家族の労働ではとうて構築できない。

 群集墳が全国各地で爆発的な勢いで出現した背景は、

 多数の家族がそれぞれの墓を営み、

 もとうとしたことである。

 では群集墳家族の復原となると、

 男女二体の合葬墓から、

 数世代にわたる十数人の成人遺骸を葬ったものまであって、

 全国の平均的実態はなかなか示せない。

 このような家族は、

 農業・塩・須恵器生産などで

  経済的に発展してきたのではあるが、

 有力な家族長が想うままに墓を営めたものではなく、

 大和朝廷が政治的秩序として拡大しつつあった

 カバネ制(オミ、ムラジ、キミなど)に組みこまれ、

 カバネを与えられた人のみ造墓が

 許されたとする見解がある。

 「写真」猪ノ子谷古墳群:岡山県邑久郡長船町西須恵

 「写真」八ツ塚:愛媛県松山市恵原町

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
   全国の古墳巡り
  『天皇陵』 
   『古墳マップ』 
  『古墳』
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