2015年12月25日金曜日

銅鏡と古墳の年代

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 《参考:年表・資料》


  出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著
       122~126頁

 《古墳の時代区分》

 古墳の古さをいいあらわす方法が二つある。

 前期古墳というのは、相対的な関係を表現しており、

 4世紀の古墳というのは実年数で表現している。

 われわれの日常の経験でも、

  自動車の形は刻々変わるし、

 一昔前には農村でごくありふれていた

  藁葺屋根の家が激減した。

 このような変化をとらえるのに、

 考古学では形式という尺度を用いる。

 先ほど問題にした桜井茶臼山と

  箸墓の前方部の型式の相異は

 その一例である。

 古墳や副葬品の型式を整理すると、

 数え切れない前後関係が発見できるが、

 それを総合すると

 次のようになる。

 発生期・前期・中期・後期・終末期

 この時期区分は私が使っているもので、

 研究者によっては中期を作らず、

 その代わり前期を細かく分けている。

 ここでは概略を示すのが目的であるから、

 各時期の細分はひかえておこう。

 形式学を駆使して古墳の時期区分がおこなわれても、

 それに実年数があたえられないようでは

  歴史の中へは入りようがない。

 日本の古墳には、

  中国の古墳のように墓の主の姓名や没年などを記した

 墓誌をいれることは、

  終末期になって少しあるだけであり、

 直接にその年代を知ることはできない。

 そこで、副葬されている中国製の遺物などから

 間接的に古墳の年代をわりだす方法がとらえている。

 《古墳の年代を割り出す方法としての銅鏡》

 しばしば例にだす弥生中期の北九州の甕棺墳墓では、

 中期の場合には前漢時代の銅鏡、

 そして中期の墳墓では王莽の「新」および

 後漢前半の銅鏡に限られている。

 後者の墳墓の一つ、福岡県の井原では、

 方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)という

 形式の鏡ばかりが二十数面も副葬されていて、

 それ以前の鏡をまったく混じえていないのである。

 余談になるが、弥生中期や後期の年代は、

 実はこの各時期の中国鏡の年代から

 推定しているのであり、

 その推定にあまり不安が伴わないほど

 型式がわりだした甕の時期と、

 中国鏡の王朝ごとの変化が一致している。

 中国では、後漢の後・晩期に

 内行花文鏡(ないこうかもんきょう)が

 盛んに製作され、

 朝鮮半島の楽浪郡の古墳からも発掘され、

 かなりの数は日本へもたされている。

 ところが、

 この形式の鏡ばかりがかたまってもたらされている。

 ところが、

 この形式の鏡ばかりがかたまって

 副葬された例がなく、

 このあたりから銅鏡で古墳の年代を知ることは

 困難になってくる。

 後漢の後・晩期の内行花文鏡には、

 「長宜子孫」の銘を鋳造し、

 また花文の数が八つであるが、

 この特色ある銅鏡は私が発生期の古墳の候補にした

 北九州の古墳(112頁)にみられるほか、

 兵庫県加古郡播磨町の大中弥生集落址で、

 破砕後、利器に転用された破片が知られている。

 つまり、分布圏が東に拡大しているのである。

 「表」(112頁):主要な前方後円墳の墳丘規模(全長)

 《三角縁神獣鏡》

 前期古墳にずばぬけて多い銅鏡の形式として、

 三角縁神獣鏡と画文帯縁神獣鏡がる。

 両形式とも、

 弥生墳墓にはまったく存在しない形式である。

 このうち、

 とくに古代史にたいしても

 関係深いのが三角縁神獣鏡である。

 この鏡は、

 縁の断面が面の反対方向へ三角状に突き出ていて、

 文様には西王母(せいおうば)や東王母の神仙と、

 竜虎などの獣をえがき、銘文をめぐらすことが多い。

 なぜこの鏡が古代史にとって重要化といえば、

 日本の考古学者が

 三国時代の魏の鏡だと断定しているからで、

 もしその通りとすれば、

 魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼にあたえた鏡も

 この形式である可能性がつよく、

 この鏡がもっとも多く分布している地方が

 邪馬台国であった可能性があるばかりか、

 前期古墳の年代を決定する資料になるのである。

 ところが、この鏡の研究は、

 中国大陸での古墳の学術調査の少ない時代に

 日本の学者が

 机上の研究でつくりあげてしまったもので、

 それは研究を進めるうえでの

 一つの作業仮説にすぎなかったのである。

 太平洋戦争が終わり、

 中国人学者の手で
 
 中国本土の各時代の古墳の発掘がおこなわれ、

 おびただしい鏡が検出されたが、

 不思議なことに三角縁神獣鏡は

 中国大陸では発見されていないのである。

 そればかりか、

 日本には一部の学者が魏の製品と断定している

 三角縁神獣鏡だけで約三百面もある。

 しかもこの鏡は一面約1キログラムあるから、

 大変な銅の量である。

 さらに注意してほしいのは、

 古墳から発掘してわれわれが数えあげているのは、

 古墳に埋められていた、

 あるいはまだ埋まっている総数の

 ごく一部にすぎないということである。

 おそらく、当時あった三角縁神獣鏡の総数は、

 数千面という数にたっするだろう。

 三角縁神獣鏡にたいして私がいだいている疑問点は、

 すべて

 『古墳時代の考古学』(学生社・昭和45年)で

 表明した。

 前期古墳の年代は、

 この鏡にたいする解釈によって

 大きくゆれうごくわけだが、

 やはり中国大陸で出土するまでは

 断定を保留しておくべきであろう。

 中国大陸に出土しないのは、

 本来、日本向けの輸出品として

 特別に製作したから当然だという説明が

 最近なされているけれども、

 なぜ日本が三角縁神獣鏡を欲したか、

 まったく説明されていない。

 江戸時代に覚峰という学者が河内に住んでいた。

 覚峰は偶然に国分茶臼山出土の三角縁神獣鏡を見て、

 その銘文についての自説を述べている。

 その銘文とは、今日もよく議論されている

 「用青銅至海東」という一説である。

 最近の学者はこの文意を、

 中国より日本へ輸出したことを

 示すかのようなに解釈しているが、

 覚峰は

 「鋳工銅を侍して我国にて鋳たるもしるべからず。

  漢土にては日本を海東諸国の中に入申也。」

 と書いている。

 私は三角縁神獣鏡の大半を日本製と仮定し、

 その母鏡になった優品の製作地として、

 公孫氏が建国していた遼東を仮定しているのだが、

 これについてもここでの詳述ははぶこう。

 《画文帯縁神獣鏡》

 昭和26年、

 大阪府の黄金塚から発掘された

 6面の銅鏡のうちの一面に、

 魏の景初3年の年号があった。

 この魏の年号鏡は、

 三角縁でなく平縁の画文帯縁神獣鏡である。

 現在、

 魏の年号を鋳造した鏡は中国本土のものを加えると、

 十数面が知られていて、

 魏時代の鏡の形式を知る手がかりとなる。

 それによると画文帯縁神獣鏡や獣首鏡が大半を占め、

 三角縁神獣鏡は昭和47年に

 島根県神原神社の古墳で出土した一面がある。

 また□始元年の年号の三角縁神獣鏡が

 群馬と兵庫の古墳から出土していて、

 欠失部分は

 正(魏の正始)か

 泰(晋の泰始)であると推定される。

 これらの年号のある神獣鏡の文様構成は、

 大部分の三角縁神獣鏡の文様構成と大きく異なり、

 区別して扱われている。

 また年号鏡の年号も、

 確実に年号の示す年に造られたのか、

 それとも後世になっての偽称かの問題がある。

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
   全国の古墳巡り
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   『古墳マップ』 
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