2015年12月23日水曜日

鏡・玉・武器

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 ≪鏡・玉・武器≫

 出典:保育社:カラーブックス:
      古墳―石と土の造形―森浩一著
      118~121頁

 《前期古墳の特色》

 前期古墳そのものを特色づけるのは

 前方後円墳や前方後方という

 日本独自の墳形であろう。

 この形の起源論として、

 梅原末治博士の前方部祭壇説が再検討されており、

 そのほかは紹介するに足る学説がないのは

 残念である。

 数年前までは、

 桜井茶臼山のように前方部が先でひらいていない形

 -その平面形は江戸時代に使われていた

  柄鏡(えかがみ)に似ているので

  柄鏡式などとよばれることもある-

 が古いとされていた。

 ところが岡山県の備前車塚(前方後方)や

 兵庫県の養久山(やくやま)一号墳の発掘で、

 前方部先端が

 左右へ角ばった形がより古いのではないかと

 近藤義郎氏は考えている。

 起源を論じるには、

 最古の形態をつきとめることが必要条件であるが、

 今の段階では前方後円墳の最古の形態は決めにくい。

 大和にについていえば、

 箸墓のような角ばった三味線の撥形の前方部は、

 すでに同一水面でめぐる濠をもった古市古墳群の

 岡ミサンザイ古墳にも名残りを認めることができる。
 
 この古墳は4世紀末の築造と推定されるので、

 撥形前方部はここまで続くようである。

 したがって、

 大和では桜井茶臼山の墳形箸墓よりも先行した形態と

 一応考えられるが、

 発生期から前期にかけては、

 まだ古墳の構築技術が

 統一されていたわけでなしから、

 地域ごとに特色があってもよい。

 《副葬品と時代の習俗》

 ある古墳の形が、他の地域へとひろがることは、

 文化の伝播現象でも説明することはできる。

 ところが、

 死者にもそえる品物の種類や遺骸のおさめ方などは

 古墳へ葬られている人間の属していた集団の習俗を

 示す可能性がつよい。

 大和とその周辺の前期古墳の副葬品は、

 銅鏡と鉄製の刀・剣などの武器が

 セット関係になっている場合と、

 さらにそこへ勾玉、管玉などの玉類が

 加えられことがあるが、

 副葬品の基本的組合せは銅鏡と攻撃用武器の二種、

 または玉を加えた三種である。

 過去の盗掘で遺物の一部を失った古墳をのぞくと、

 学術調査で発掘された

 前期古墳の副葬品の組合せ関係が、

 以上の二種の原則をはずれることは

 まずないようである。

 前期古墳文化の狙い手たちの共通した習俗を

 そこに見出すことができるし、

 『日本書紀』にも支配者たちがもっていた

 この組合せの宝器が散見している。

 畿内での弥生式墳墓は、最近、兵庫県の猪名川水系、

 大阪の淀川水系の流域で組合せ式木棺墓が

 発掘されている。

 ところが副葬品はほとんどなく、

 田能で玉類と銅製腕輪が
 
 それぞれ別の棺から発掘されているにすぎない。

 弥生式時代における畿内では、

 銅鏡の愛好は実例のうえでは、

 指摘できないし、まして墳墓の中へ、銅鏡、武器、

 あるいは玉をセット関係にして死者に副える

 習俗の存在は証明できない。

 すでに少し説明したことであるが、

 北九州の弥生式中期への甕棺の墳墓では、

 時として豊富な副葬品をもつ墳墓が、

 副葬品をもたない多数の甕棺と同じ墓地に

 埋められている点が

 高塚古墳での在り方と異なっている。

 さて、問題を副葬品に限ると、

 福岡県の三雲、須玖、

 佐賀県の桜馬場の墳墓のように

 銅鏡、攻撃用武器、玉の三種をもつ場合と、

 立岩での四基の甕棺のように

 玉を欠く二種組合せがあることがわかる。

 そこでそれぞれの最初の発見地名をとって、
 
 三種組合せを三雲型、

 二種組合せを立岩型と名づけた。

 要するに、

 前期の古墳文化を特色づける遺物の組合せ関係は、

 北九州の1世紀ごろに実在した

 小国家の支配者たちが、

 すでに習俗にしていたことがわかるのである。

 《銅鏡について》

 支配者たちが銅鏡を愛好する習俗は、

 弥生中期の北九州と、

 高塚古墳の前期にはほぼ日本全土に

 濃厚に認められるが、

 これは東アジア全体でも珍しい。

 たとえば朝鮮半島の新羅や百済では、

 銅鏡はいくらも使っていただろうけれども、

 おびただしい古墳から全部で数面が

 発掘されているにすぎない。

 つまり韓民族のあいだでは、

 墓に銅鏡をいれる習俗はなかったと考えられる。

 倭人伝でも、

 魏の明帝が卑弥呼にあたえたと詔書の中で、

 儀礼的な下賜品を列挙したあと、

 特別に銅鏡百面があたえられたことを記録し、

 それを「汝の好物」と表現している。

 3世紀の日本で、

 銅鏡が異常に愛好されていたことは

 魏にまで知られていたのである。

 銅鏡愛好の習俗は、日本ほどでもないにしても、

 漢代の中国に源流を求めることができる。

 中国において銅鏡がたんなる化粧道具ではなく、

 霊力をもつ品であることは、

 しばしば古典にあることは、

 しばしば古典にあらわれ、

 洛陽の古墓でも死者の横または上、

 つまり特別の位置におかれたものが多い。

 しかし日本でのように、

 一人の死者に数十面を副葬する例は知られていない。

 これは、『魏略』に記されていることだが、

 3世紀ごろの倭人が、

 古くから自らを中国人系の子孫とする

 伝説をもっていた。

 この関係についてはここでは深入りはしないが、

 銅鏡愛好の習俗の源流を説明するのに

 無視できない記事である。

 北九州の弥生中期には中国から

 舶載された銅鏡が用いられていた。

 しかし、2世紀になって後漢が衰退し、

 またわが国でも動乱の状態が続くと、

 中国からの銅鏡の輸入数は減少したようである。

 この時期に出現するのが、

 主に北九州で鋳造された小型の?委製鏡である。

 この種の鏡にたいして、

 小型斜行櫛歯文鏡の名をあたえている。

 もし平原の古墓が、この時期に近いと仮定すれば、

 直径46センチという超大型鏡も

 わが国の技術で鋳造されていたのである。

 この時期の日本製の小型鏡は、

 一墳墓に一面位しか副葬されていないが、

 銅鏡を副葬する墳墓の分布範囲が

 ひろがりはじめている。

 銅鏡愛好の習俗は、

 銅鏡の輸入が困難になった時期に

 ますます異常にたかまり、

 やがて、

 それが政治支配の道具にまで拡大されたのである。

  「古墳」
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  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
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