2015年12月22日火曜日

高地性集落と前期古墳

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 ≪高地性集落と前期古墳≫

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    115・116・117頁

 静岡市登呂・奈良県唐古・尼崎市田能など

 弥生式文化の代表的な農耕集落の遺跡は、

 原則として低地にある。

 これは稲を栽培する文化の集落としては

 当然のことで、

 その後の日本の農村立地の基本型でもある。

 大阪や奈良の現代の農村をながめると、

 平地のすぐ背後に低い山や丘陵があっても、

 集落の場所としては平地が選ばれている風景は

 いくらも眼にすることができる。

 この集落の在り方は、水田や他の集落への交通の便、

 水の問題などがもたらした

 自然の形といってよかろう。

 弥生集落や各時代の農村は基本的には低地にあるが、

 最近になって新しい事実がわかってきた。

 それは峻しい山の頂上の平坦地や、

 山地形のない地域では、丘陵の上にも、

 弥生中・後期には集落が営まれていることで、

 高地性集落と呼称されている。

 もちろん、地域の条件で、

 山地形と丘陵地形との相違はあるが、

 発生の事情は同じであろう。

 高地性集落は、大分県から瀬戸内沿岸地方、

 さらに兵庫、大阪、和歌山、奈良、京都などに

 分布しており、

 発生期の古墳の分布地にほぼ重なっている。

 さらに弥生中・後期に集中していて、

 古墳時代とくに中期以降には、

 その存在は知られていない。

 香川県紫雲出(しうで)、

 兵庫県会下山(えげやま)、

 大阪府鷹塚山、観音寺山、

 京都府天神山、

 奈良県東大寺山などは、

 調査はされた高地性集落である。

 このような農村立地の原則からはずれた

 高地性集落は、

 分布地域と、存続の期間が限定されているので、

 特殊な歴史的状況で発生した異形な集落であると

 結論づけられる。

 高地性集落を畑作集落として説明する

 研究者もいるが、

 私(森浩一)は賛成できない。

 《高地性集落の性格-日本とヨーロッパ-》

 昭和43年、大阪府の観音寺山の集落を調査した。

 約百戸の竪穴式住居が丘陵上に密集し、

 その周囲に鋭い空濠を二重に掘鑿している。

 つまり丘陵の斜面をほぼ登り切ったところに

 一重目の濠、

 さらにその上に接して

 二重目の濠がとり囲んでいて集落を防御している。

 集落は東西の長さが560メートルもあるから、

 濠の総延長は2キロ以上に達している。

 このような大集落は畑作で支えられるものではなく、

 明らかに防御集落であり、

 私(森浩一)は、非常事態が発生した時に、

 平地にある集落の住民を収容するための

 逃げ城的性格とみている。

 ヨーロッパでは、

 農耕文化が発達して第2期になると、

 各地におぼただしい高地性集落が営まれ、

 その遺跡が古くから研究されている。

 興味深いのは、

 ゲルマン諸族のように他に侵略することの

 多い集団の居住地では高地性集落は少なく、

 侵略される側が主に築いている。

 ギリシアのアテネの町の背後には

 有名なアクロポリスの神殿があるが、

 その地下でも高地性集落の跡が発掘され、

 かってはアテネの町の背後にあった逃げ城が、

 のち聖地化したのであろうといわれている。

 日本でも、ヨーロッパにおいても、
 
 農耕文化が発達した段階になると、 

 土地が、戦争という手段で奪ったり、

 また逆に守る対象となるわけであるが、

 日本での農耕文化の第2期は、

 弥生後期以降になると私(森浩一)は考えている。

 簡単にいえば、

 道具としての石器が

 ほとんど消滅していて鉄器にかわったばかりか、

 農耕魏樹そのものの進歩がめざましい。

 さらに登呂にある板でかためた
 
 水田遺構に現実に見られるように、

 水田への労力の集中と、

 配水だけでなく、排水も可能な灌漑施設など

 土地への働きかけは想像以上のものがある。

 ヨーロッパでの例を参考にすると、

 弥生中・後期における動乱は

 必然的に発生したものであり、

 そのような動乱を通じて、

 各地で国家連合への急速な

 動きがあったと考えられる。

 中国の歴史書である『魏志』や『後漢書』では、

 2世紀後半(後漢書では桓帝、霊帝のころ)に

 倭国に大乱があったことを記録している。

 この大乱の中から、卑弥呼が王になるのだが、

 動乱は完全におさまったのではなく、

 247年には狗奴国と戦争状態になり、

 その直後に女王は死んでいる。

 その後の事情を倭人伝では、

 「男王を立てしも国中服せず、

  更々(こもごも)相誅殺し、

  当時千余人を殺す」

 と記しており、

 動乱の状態が

 3世紀中葉にもとづいたことを記している。

 高地性集落を生みだした歴史的背景が、

 長期にわたる動乱であっても、

 それを中国史書の伝える
 
 倭国大乱に限定する必要はない。

 おそらく2・3世紀におよぶ

 長期のものであっただろう。

 《前期古墳と高地性集落の関連》

 高地性集落が営まれている時期は、前期以前である。

 桜井茶臼山の後円部に埋置されていた有孔の壺は、

 弥生式後期より後の土師器であり、

 その形態も瀬戸内地方に源流を求めることができる。

 そればかりか、高地性集落が廃絶した上に、

 故意か偶然にかは分からないが、

 前期古墳が築かれて例が、

 大阪府玉手山などに見られ、

 明らかに時間的経過を示している。

 私(森浩一)には

 高地性集落がもはや存在しなくなった状態、

 いい換えれば、

 それまでは各集落ごとで防御していたのが、

 各地域での国家連合の成立によって

 その必要がなくなった時点で、

 前期の大古墳が出現したと考えている。

 発展期の古墳を築かせた政治勢力が

 西方から移動してきたものであると仮定することは、

 毫も弥生式時代における近畿の生産水準を

 軽視していることにならない。

 伊達宗泰氏は、弥生集落と関係させながら

 奈良盆地の水系ごとに耕地面積を計算しているが、

 それによると奈良盆地での耕地面積は

 他のどの地域より広かったという。

 奈良盆地での

 弥生式時代の農業生産力が抜群であったことは、

 その地で自生的な政治勢力を

 生み出す場合の条件にもなるが、

 他からの侵略をひきおこす原因にもなる。

 いずれにしても、

 観音寺山集落や奈良東大寺山集落の

 空濠の掘鑿に投入された労働力と、

 土木技術、およびそれを実現させた組織力は、

 すでに大墳丘を築くための前提となる

 諸条件をととのえていたのである。

 「高地性集落

 「登呂遺跡

 「唐古・鍵遺跡

 「紫雲出山

 「会下山

 「東大寺山古墳

 「大和天神山古墳

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
   全国の古墳巡り
  『天皇陵』 
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