2015年12月1日火曜日

誉田山古墳=応神天皇陵


 ≪誉田山古墳=応神天皇陵≫

 出典:保育社:カラーブックス:古墳―石と土の造形―森浩一著
     36~37・40頁

  《誉田山・こんだやま(応神陵)古墳》

  古市古墳群の盟主であり墳丘全長430メートル、

  二重の濠の外側に周庭帯がめぐる。

  東側で濠を内側に大きくゆがめているのは

  前方後円墳の二ツ塚が先にあったからである。

  なお最近の国道工事が古墳の北西端を破壊したが、

  文化財行政に怒りを覚える。
  
  《誉田山・こんだやま(応神陵)古墳の旧拝所》

  前方後円墳と書くと、

  方形部が前、円形部が後ろという先入観をもつが、

  これは蒲生君平が『山稜志』でいいだしたことの影響である。

  この古墳の本来の拝所は後円部の背後にあり、

  今も誉田山神社境内に門と石橋がる。

  石橋と門との間がかっての二重濠にあたるから、

  石橋の手前は周庭帯である。

  写真:誉田山(応神陵)古墳の旧拝所:大阪府羽曳野市八幡

  《誉田八幡宮の石棺》

  石橋のすぐ南東にあるプールから

    埴輪馬の頭が出土している。

  また江戸時代に陪塚の丸山古墳から出土した国宝の馬具類も

  宝物館に陳列されている。

  宝物館前にある石は、長持形石棺の小口板で、

  中期に多く使われている。

  どこにあったのだろうか。

  写真:誉田八幡宮の石棺の棺材:誉田八幡境内

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     日本人のルーツ:16~17頁

  《古墳人は大測量技術の持ち主》

  仁徳天皇陵から応神天皇陵へ直線を引き、

  それをさらにまっすぐに延長して行くと、

  武烈天皇陵を経て崇神天皇陵に達する。

  その直線をさらに東へ延ばして行くと、

  はるかに<伊勢神宮の古い社地>に達するという事実がある。

  この間、仁徳~応神間:11km。

  応神~伊勢神宮旧社地間:110km。

  単に直線上に並べただけでなく、

  その間の距離が11の倍数になるように、

  正確に測定して配置してある。

  この東西線に対して、

  北は京都の下鴨神社から

  奈良大仏殿、崇神陵、景行陵、良助(ろうじょ)法親王墓などを

  貫き通って、

  海抜2000mに近い

  <紀伊山地の聖宝の宿(しゅく)跡などを一直線に結び、

   <熊野の新宮大社>に至る。

  それらの直線は現代の精密な地図で

    測定しても全く誤差がない。

  「図」古墳の<東西線と南北線>

  《古墳の設計はどうなっているか》

  こうした精密な測定と設計は<古墳の配置>だけでなく、

  古墳そのものの設計の上にも見られる。

  その一例として応神天皇陵をここに挙げておく。

  それは単に多数の人民を動員して、

  世界最大の墓を造った、というだけのものではなく、

  当時の日本人が高度の<測量技術>までもった、
  
  高い文明の持ち主であったことを立証しているのである。

  その高い測量器はどんなものを使ったか、などを考え、

  明らかにする必要がある。

  《応神陵を構成する線の謎》

  1-2 磁針による南北線       

  3-4 地軸による真方位の南北線

   1 安閑皇后陵   4 古室山古墳    5 安閑天皇陵

   6 仲津姫皇后陵  7 敏達天皇陵    9 日本武尊陵 

  10 允恭天皇陵  11 聖徳太子墓   12 城山古墳

  15 推古天皇陵  16 城山古墳    17 清寧天皇陵

  19 孝徳天皇陵  22 吉備内親王墓  23 松塚

  24 河内大塚   25 黒姫塚     26 孝霊天皇陵 

  27 大津皇子墓  28 雄略天皇陵 

  32 仁徳天皇陵  35 仁徳天皇陵
   
  などを結ぶ線が陵の形を形成している。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     邪馬臺国の言葉:149~151頁

  《壮大な倭人の測量文化》

  これらのことで、はっきり意識しておいて戴きたいのは、

   <倭人>は<中国系文明>でなく、

  <インド系文明>の持ち主だったという点である。

  また海を越えて50数km先の距離を湘定する方法すなわち

  <三角法>または<天測法>を知っていたということである。

  三角法は

  ギリシャの天文学者ヒッパルコス(B.C190~B.C124年)が

  創始者とされているが、

  これは地球と月の距離や、月の直径、百個の恒星の詳細、

  <地球の歳差運動>などの測定といった驚くべき業績によるもので、

  彼がこれだけの応用をなしとげたどいうことは、

  彼に至るまでに、

    三角法の発達の歴史があったということである。

  だがそれは余談にわたる。

  ここでは<3世紀の倭人>が、

  それを実地に役立てていたという事実が、

  それ程不思議でもないということを知って戴く参考になれば
 
  それでいいのである。

  では<倭人>は、どんな器具を使って、
 
  そんなに精密な測量ができたか。

  現存する遺物ではそれは<鏡>しかない。

  鏡面の反射で、その位置を確認すると同時に、

  その背面にある目盛りを分度器として用いれば

  立派に測量ができる。

  三角法を御存知の読者にはその使い方を

  今さら説明する必要はあるまい。

  だから<倭人>がこのシステムを使うほかに方法のない

  <大土木工事>を、

  実際に行っていたという証拠を簡単に御覧にいれておこう。

  それは卑弥呼の墓を出発点とする古墳の築造である。

  筆者は40年前に、

  奈良県の古墳が直線上に並んでいるという事実を

    発見して以来、

  これにとり組んできたが、

  それは図ではっきりお判りのように、

  山脈を越えて正確に配列している。

  それは山間に隠れた広川寺の西行墓や、

  聖徳太子墓などを余すことなく貫いているだけでなく、

  遠く伊勢神宮に及んでいるのである。

  これは鏡による光通信なくしては行い得ない文化所産である。

  また、応神、仁徳などの大陵は、その重要な点と線が、

  すべて他の陵墓や、池中の島などと結合している。

  これも本書ではとうていお話しすることは不可能であるから

  いずれダイジェストしてご覧に入れることにして、

  小さくて不鮮明だが、略図で御辛抱戴くほかない。

  <図:古墳造営は壮大な設計と測量に基づいでいる>

  (実際には数百の線が交叉しているが省略)加治木原図

  ① <N>仁徳天皇陵→<O>応神天皇陵→<S>崇神天皇陵。

   この3陵を結ぶ線は東進して伊勢神宮に達している。

  ② 奈良(大仏殿)天理→崇神天皇陵→景行天皇陵→桜井→

    良助法親王墓を結ぶ線は

    南進して熊野大社(新宮)に達している。

  ③ <J>神武天皇陵 <K>欽明天皇陵

    <1>神功皇后陵 <2>成務天皇陵 <3>磐之姫命陵

    <4>元正天皇陵 <5>島の山古墳 <6>衾田陵

    <7>景行天皇陵 <8>箸墓 <9>崇峻天皇陵

    <10>良助法親王墓 <11>石舞台古墳 <12>橿原神官

      <13>宜化天皇陵 <14>斉明天皇陵

    <15>孝安天皇陵 <16>孝昭天皇陵 <17>大津皇子墓

      <18>飯豊天皇陵 <19>孝霊天皇陵

    <20>聖徳太子墓 <21>推古天皇陵 <22>敏達天皇陵 

       <23>雄略天皇陵 <24>帝塚山古墳

    <25>履仲天皇陵

          枚岡神社 玉租神社 法隆寺 石上神官 大神神社 

          談山神社 三輪山 鳥見山 香具山  国見山

  <図:応神陵の構成要素と各陵墓の関連性(加治木原図)>

  ① <1>安閑皇后陵 <2>正北 <3>安閑皇后陵 

           <4>古室山古墳 

       <5>安閑天皇陵 

    <6>仲津姫皇后陵 <7>敏達天皇陵を経て藤原武智磨墓

  ② <9>日本武尊陵 <10>允恭天皇陵 <11>聖徳太子墓

      <12>城山古墳 <13>日本武尊陵

    <14>千塚 <15>推古天皇陵 <16>城山古墳 

       <17>応神天皇陪塚を経て清寧天皇陵

  ③ <18>古室山古墳 <19>孝徳天皇陵 <20>城山古墳

      <21>応神天皇陪塚 <22>吉備内親王墓

    <23>松塚 <24>河内大塚 <25>黒姫塚 <26>孝霊天皇陵

      <27>大津皇子墓
  
    <28>雄略天皇陵 <29>野中寺伽藍跡 <30>文珠院西古墳

      <31>河内大塚

    <32>仁徳陵円頂部中心 <33>東首舌鳥古墳

       <34>島の山古墳

      <35>顕宗天皇陵

    <36>河内大塚 <37>大座間池中之島を経て野尻古墳跡

  ④ <38>孝霊天皇陵 <39>牧野古墳 <40>仲哀天皇陵

      <41>大座間池を経て平岡古墳

  ⑤ <42>孝霊天皇陵 <43>来目皇子墓 <44>吉備内親王墓

      (実際はこの二倍以上の線が関連しているが、

       本章の証明にはこれで充分であり、

         繁雑で専門的に過ぎるので省略した)

  <写真:直線上の古墳(加治木原図)>

  空から見ると古墳が直線上にならぶことが

   一と目でわかるものもある。

  相互の距離と大きさが

  写真のピントの 合う範囲にあるものは少ないが。

  《これは山の辺陵墓群のうちの手前から景行陵。

   崇神陵。手白香墓(衾田陵=継体皇后墓)。

    乙木社の森。》前々図の7、S、6参照。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     邪馬臺国の風雲:74頁

  《古墳時代の倭人里遺跡》

  この約55メートルに当たる倭人里は、

  古墳時代でもなお日本の重要な尺度だったことは、

  筆者(加治木義博)が昭和11年(1936)に発見した

  古墳直列によっても証明される。

  その年、奈良県の葛城山(カツラギサン))に登った際、

  多数の古墳が直線で結ばれている事実を発見し、

   引続いて研究する内に、

  その古墳間の距離がメートル単位に非常に近いことを

   知って驚いたのである。

  代表的な例を挙げると、

   仁徳天皇陵と応神天皇陵との距離は約11キロメートル。

  その同じ直線上にある崇神天皇陵と応神陵との距離は

   約22キロメートル。

  さらにその直線上にある伊勢神宮古社地まで、

   仁徳陵から約110キロメトルある。

  お気付きのとおり、すべての遺跡間間隔が、

   ほぼ55メートルの倍数になっている。

  これは

 11キロメートル÷55= 200倭人里(仁徳陵……応神陵)

 22キロメートル÷55= 400倭人里(応神陵……崇神陵)

 110キロメートル÷55=2000倭人里(仁徳陵…伊勢神宮古社地)

  ということであって、

   すべて倭人里を使った測量の遺跡だったのである。

  その後調査が進むにつれて同じ性格をもった遺跡は

   全国的に分布していることが分ったが、

  邪馬壹国の遺跡である鹿児島県の姫木を

    中心にした地域では、
  
  この倭人里測量の遺物として、

   小さな神社群が残っていること、

  そのメートルとほとんど一致する尺度の単位は、

  シュメール文化にまで遡るものであることなどを、

   南日本新開に連載したことがある。

  この古代測量文化について、

   ここでこれ以上お話ししていては脱線するから、

  ご興味のある方は近刊の拙著『謎の古墳直列』

  その他(簡単な解説は保育社発行の

  私(加治木義博)著カラーブックス

  『日本人のルーツ』(1983)にも収録。)を御覧戴きたいが、

  倭人里1里が約55メートルであることは、
 
  こんなふうに大量の証拠が揃っているのである。

   『出典』言語復原史学会・加治木義博:
             HIMIKO:116~119頁

  《倭人里の1里は55メートル》

  では対馬国と一大国の二つの定点を使って、

   「倭人里のメートル換算率」を割出してみよう。

  この場合疑問なのは、国は広いから、

   どこからどこまでが千余里なのかという点である。

  この答は『魏書倭人章』の記事と

   地図とを見くらべてみると出る。

  ヒントは

  「朝鮮半島~(千余里)~対馬国~(千余里)~

    一大国~(千余里)~末盧国」と、

  三つの距離が三つとも「同じ距離」になっていることである。

  もしこの千余里に国の大きさが含まれているとすれば、

  対馬と壱岐とではずいぶん大きさが違うから、

   三つとも同じ距離になることはない。

  それが同じだということは、

   この距離は国の大きさを含まない距離。

  すなわち海上の距離、もすこし分かりやすくいうと

  「港から港まで」の距離だということを示している。

  それは原文にもはっきり書いてある。

  「始めて一つの海を渡ると千余里で対馬国に至る」

  「また南に一つの海(澣海(カンカイ))を渡ると

     千余里で一大国に至る」

  「また一つの海を渡ると千余里で末盧国に至る」

  皆、千余里が「海上の距離」であることを、

  「渡る」という言葉で表示している。

  そのことは地図をみてもよく分かる。

  朝鮮半島の南のはしから対馬までの「最短距離」と、

  対馬から壱岐の今の主な港どうしの

  「最短距離」とを見くらべてみると、ほとんど同じ距離だ。

  ところが次の壱岐と末盧

  (佐賀県から長崎県にかけて、

   北の海岸線は全部「松浦(マツラ)である)の間は

   これに比べるとやや短い。

  これは伊万里湾の奥深く、伊万里川まで入ったか、

   または唐津のほうへまわって、

  川幅の広い松浦川を川奥まで入ってから、

   さらにかなりさかのぼって上陸したものとみると、

  他の二か所と同じくらいになる。

  もちろん原文が「…余里」とあいまいに書いてあるのだし、

  3世紀の外国人「魏の帯方郡の使者」が、

   いちいち測量して書いたとは思えないし、

  土地そのものが人間が計って、

   千里ずつの場所に港を造ったわけでもないから、

  多少の長短があるのは当たり前である。

  三つの等距離が、ほぽ倭人里の千里なのだから、

  そのうち一番間隔の測りやすい

    対馬と壱岐の間を測ってみると、

  対馬の首都である厳原(いづはら)港、

  これと向かい合っている壱岐の表玄関である

   勝本港との距離は55.65キロメートルある、

  これが千余里なのだから、千で割ると「約55メートル」。

  これが倭人里の1里と同じ距離。

   すなわちメートル換算率なのである。

  (『魏書倭人章』か「…余里」という概数で書いてある。

    それをより細かく「センチ単位」まで

   精算しようとするのは一種のノイローゼ)
  
  《邪馬壹国行程明細地図》

  対馬国→一大(壱岐)→末盧(唐津)→伊都(牛津)→山門→

   八代→邪馬壹国(姫木)

    澣海   玄界灘  松浦川    有明海    球磨川

  壱岐 ~松浦川  南船   千余里  55.0km

  松浦川~牛津  東南陸行  五百里  27.5km

  牛津 ~八代   南水行  十日   82.5km

  八代 ~姫木    陸行  一月  150.0km

   (km数は大体の目安)

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          KOFUN:19~21頁

  《古墳時代に日本に実在したメートル単位!?》

  古墳が一直線上に並んでいるというこの原則は、

  大和だけでなく、全国のすべてのものに及び、

   朝鮮半島の古墳にも及んでいる。

  貧しい私(加治木義博)は

   現地へ出かけて踏査することは不可能だったが、

  陸地測量部の地図によって充分調査することができた。

  そのうちに、さらに新しいことがわかってきた。

  直線上に並んでいるのは、単に古墳だけでなく、

  霊山とされている山や、神社、時には仏閣や、

  臣下とされている人々の墓までが含まれていることである。

  さらに重ねて新しいことがわかった。

  それはいささか意外な事実だった。

  古墳と古墳の間隔(相互距離)や、古墳の大きさが、なんと、

  メートル法に合うという事実だ。

  メートル法はフランスで生まれた。

  フランス革命の直前に度量衡を統一しようという要求が起こり、

  1791年の国民議会で

  「地球子午線の4千万分の1を長さの単位とすること」

   が決定された。

  しかし実際にそれが定着したのは1837年で、

  国際的な統一単位になったメートル条約の締結は1875年。

  日本が加盟したのは1886年(明治十九年)のことである。

  一方、古墳は少なくとも4世紀はじめには造り始められている。

  メートル法のアイデアが考え出されるより15世紀もはやく、

  日本にはメートル法と同じ長さの単位があったのである。

  私が使った陸地測量部の地図は、

    今、国土地理院の地図として、

  だれでもどこでも買える地図である。

  もちろん、今の方がより正確に精密になっているはずである。

  その縮尺も5万分の1、2万5千分の1といったふうに、

  ミリメートル、センチメートルの定規で

   ピッタリ計れるようになっている。

  地図上だからといって、

   計りまちがいの起こらない相手なのである。

  疑わしければ、どなたでもご自分でお計りいただけばいい。

  それはだれがやっても同じ答えが出るもの、

   すなわち真実なのである。

  一例をあげてみよう。

  大阪府堺市の大仙陵(仁徳天皇陵とされるもの)から、

  同じく羽曳野市の誉田(こんだ)陵(応神天皇陵とされるもの)

   へ直線を引き、

  さらに葛城山脈の北部を越えて、その直線を伸ばして進むと、

  崇神天皇陵に達し、その途中、正確に武烈天皇陵を通過する。

  崇神天皇陵からさらに、東進すると竜王、初瀬の山波を縫い、

  赤目(あかめ)、香落(かおち)の山峡を越え、

  高さ千メートルを超える倶留尊山(くるそんざん)をかすめて、

  伊勢の宮川河口に達する。

  この間の距離は仁徳陵から応神陵11キロメートル。

  応神陵から崇神陵まで22キロメートル。

  仁徳陵から宮川まで110キロメートル。

  応神~武烈陵間も7.5キロメートルで端数が出ない。

  この東西線に、崇神陵で交わる南北線がある。

  これは京都市の下鴨神社(賀茂御祖神社)から南下して、

  奈良の大仏を通過し、崇神、景行両陵を横断して、

  良助法親王の墓を通り、紀伊山地の最高峰、

  八剣山の2千メートルに近い肩をかすめて、

   新宮の熊野速玉(はやたま)大社に至る。

  この間、

   下鴨~大仏    39   キロメートル。

  大仏~崇神陵   14.5  キロメートル。

  崇神~景行       750 メートル。

  大仏~速玉大社 110   キロメートル。

  (ここでも110キロがみられる)
  
  ペルーのナスカ高原は、空からみて初めてわかる直線や、

  鳥や人の絵があることで有名である。

  しかし長い線でも、せいぜい数千メートルにすぎない。
  
  これとはだいぶ性質は違うが、

   古墳群のあいだにみられる直線は、

  このように100キロを超えるのである。

  こうした直線を造りあげたわれわれの祖先は、

  なかなか気宇壮大な人たちだったといわねばならないし、

  当時すでに大文明があったこともわかる。


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:KOFUN:32~34頁

  《応神陵に支配されている陵墓群》

  古墳が直線上に配列されているのは、
 
   疑う余地のない事実である。

  しかし、これは最初に造られた二基の時点では

    何の意味ももたない。

  三基が直線上に並んだとき以後、意味をもったのである。

  しかし第四基目が、この直線からはずれた位置に

   造営されたとすると、

  これはまた意味をもたない。

  原則に合わせるためには、

   さらにもう一基を、三基で一直線になる位置に

   造らねばならない。

  応神天皇陵は、

   こうした意味で非常に貴重な指標になる古墳である。

  なぜなら、次の図でおわかりのように、

  その設計の要所要所が、

   すべて他の陵墓と「精密なつながり」をもっているからである。

  一見すると応神陵は、

   すべてあらかじめ定められた線に従って

    建設されたように見える。

  しかしそれは逆である。

  一つの陵がいかに重要であるとしても、その設計のために、

  一本の線を作るために二つの古墳を造営するということは、

   大変なことである。

  まして機械力のない時代、

   それも人口の少なかった時代には実行不可能である。

  これらの線上の古墳は応神陵のもつ線を役立てて、

  大半が応神陵より後に造られたものであることは

    ハッキリしている。

  <応神陵の構成要素と各陵墓の関連性(加治木原図)>

  1 安閑皇后陵 2 正北 3 安閑皇后陵 4 古室山古墳

   5 安閑天皇陵 6 仲津姫皇后陵 

  7 敏達天皇陵を経て藤原武智麿墓  9 日本武尊陵

  10 允恭天皇陵 11 聖徳太子墓 

  12 城山古墳 13 日本武尊陵 14 千塚 15 推古天皇陵

  16 城山古墳 

  17 応神天皇陪塚を経て清寧天皇陵 18 古室山古墳

  19 孝徳天皇陵 20 城山古墳 

  21 応神天皇陪塚 22 吉備内親王墓 23 松塚 

   24 河内大塚 25 黒姫塚 26 孝霊天皇陵

  27 大津皇子墓 

  28 雄略天皇陵  29 野中寺旧伽藍跡 30 文珠院西古墳

  31 河内大塚 32 仁徳陵円項部中心 

  33 東百舌鳥古墳 34 島の山古墳 35 顕宗天皇陵

  36 河内大塚 

  37 大座間池中之島を経て野尻古墳跡 38 孝霊天皇陵

  39 牧野古墳  40 仲哀天皇陵 

  41 大座間池を経て平岡古墳 42 孝霊天皇陵

  43 来目皇子墓 44 吉備内親王墓。

  (実際はこの2倍以上の線が関連しているが、

    本章の証明にはこれで充分であり、
  
   繁雑で専門的に過ぎるので省略した)

  応神陵は仁徳陵などの左右対称型と違って、

  前方部から見て左角は鋭角にとがっているが、

  右角は円くなっている。

  私はこれを「曲玉(まがたま)型」と呼んでいる。

  この曲玉が抱きかかえる位置に、

  小型の前方後円墳があり、

  応神陵陪塚(ばいちょう)と呼ばれている。

  応神陵の変わった形は、この陪塚が先にあったため、

  やむなくこうした形になった、とする説があるが、

  それならそれで

   反対側も対称型にすればいいのにそれをしていない。

  わざわざ角を円くしたり側線を直線にしたりしている。

  それに、世界最大の墓を造ることのできた大王である。

  何もそんな邪魔な塚のある位置を選んで、

  ケチのついた変型した陵を造る必要はどこにもない。

  幾らでも広大な土地があるのである。

  これは始めから、この形に意味があったのである。

  図でご覧のとおり鋭角側の側線は正確に南北線になっている。

  これは偶然一致することはあり得ないから、

  まず最初に、この線が決定され、

  それが曲玉の先端を形づくるように設計されたのである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         KOFUN:35~37頁

  《八幡様はなぜ巴印か?》

  なぜそんな形が選ばれたか。

  それは応神天皇の紋章である巴に関係がある。

  三つ巴(ともえ)は

   全国どこの八幡様でもみられるトレードマークである。

  この天皇の名は誉田別(こんだわけ)、

  または品陀和気(ほんだわけ)で、

  その名の由来は、[応神紀]の冒頭にある

     (誉はホムが正しい)。

  天皇が生まれると、その腕に鞆(とも)のようなコブがあった。

  これはきっと御母の神功皇后が、

   男装し武装して柄をつけていたので、

  そのためそんなものができたのであろうと、

  鞆をホムダというところから、

   ホムダワケと名づけたのだとある。

  『古事記』では一名を大鞆和気(おおともわけ)と書き、

   同じ鞆の話をのせている。

  巴の字は象形文字で曲玉型のものを現し、

  中国ではこれが二つ組み合わさった

   天極(てんきょく)図が道教の象徴として用いられている。

  この字を日本でトモエと発音するのは、

  鞆に応神天皇にあやかるようにと

   巴(ともえ)を画くのがしきたりとなり、

  鞆絵(ともえ)と巴は一つのものを意味したからだとされる。

  こうみてくると、この天皇の陵の特異な形は、

   すなわち巴を意味し、

  それは私たちが知る曲玉と共通の象徴でもある。

  筆者(加治木義博)が曲玉型と呼ぶのは

   巴は三つ巴などに見るとおり、

  長く尾を引いて互いに抱かえ合って、

   この陵の形とはやや遠いため、

  あえて近似の曲玉を名に選んだのである。

  (なお前記恵我大塚は周濠だけだが、

     やはり曲玉型をしている)

   図をよくご覧いただくと、いかに多くの陵墓が、

  この大陵を基点としているかが、おわかりいただだけると思う。

  と同時に、たとえば西側の外濠(そとぽり)にある橋状部までが、

  一つは仁徳陵の後円部の中心と応神陵の同じ中心とを

    結んだ線、

  またその中心と野中寺とを結んだ線と一致するという、

  完全設計ともいえる形になっていることまで明らかになる。

  念入りに見ていただけば、

   実に愉しい推理と発見に満ちた設計図だと思うのである。

  応神陵が左右対称でない理由は

    これでご納得がいったと思うが、

  こうした伝承をもたない天皇たちの陵にも

    歪んだものが幾つもある。

  平城宮址の北に東西に並ぶ佐紀(さき)の

   盾並(たたなみ)陵群と

  垂仁天皇陵にも大きな歪みがみられる。

  これらは時間経過による崩壊が原因とされているが、

   その想像は成り立たない。

  なぜなら孝謙天皇陵、磐之媛(いわのひめ)陵、

   コナベ池とウワナベ池の御陵伝説地は、

  いずれも陵本体と対応する周濠の形状から、

  造営当時すでに、そのように設計されていたことが明瞭で、

  歪みの原因は崩壊によるものではない。

  これを崩壊によるとしたのは、

  古墳相互の位置関係に思い及ばなかったための、

   非科学的な空想であって、

  応神陵と同様、それらの基線を延長してみると、

  すべて他の陵墓に到達し、

  「歪み」にみえていたのは、

   これらの相関線に忠実に設計されたためだったのである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          WAJIN:137頁

  《応神天皇の鞍》

  この鞍金具は

   大阪府羽曳野市にある誉田陵の陪塚である

   丸山古墳から出土したものだが、

  その内容物の豪華なことから

   この古墳は応神天皇陵の宝物倉庫だともいわれている。

  この金具は銅製で金メッキがしてある。

  木製の鞍の前と後ろにつけた飾りで、

   繊細な透かし彫りの模様でわかるように、

  その用途は戦闘用ではなく、

   儀式用または地位の象徴用である。

  その技術と図柄は五胡十六国時代当時の中国のもので、

   商人が売りにきたものか、

  中国の政権からの、

   外交用のプレゼントと考えるのが妥当である。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録8:22頁

  《政権交替の相手は先行倭国》

  また、

   大阪府下の巨大古墳群も

   安康天皇=倭王・興=百済蓋鹵(コウロ)王が、

  高句麗の僧・道琳に教えられて作った父祖を

   供養する仏教のスツーパ=卒塔婆で、

  前方後円の形は

   仏教の聖山・須弥山(しゅみせん)を象ったものなども、

  拙著『邪馬臺国の言葉』、
    『日本人のルーツ』、
    『真説・日本誕生、誰が巨大古墳を造ったのか』

  などで考証済みであり、

  応神天皇陵の円墳頂部には

   印度サーンチーの舎か迦仏塔の頂部にあるのと

  同じ意味の九輪塔があって、

  応神天皇が八幡大菩薩という仏号で呼ばれていることとも併せて、

  仏教建物であることは周知のはずであるから、

  いまさら合子(ごうす)形石製品を持ち出すまでもないが、

  それが

  「ヤマトでは前期中葉-後半の古墳にみられる副葬品である」

   事実は、

  『天孫降臨』の時期を計る尺度として貴重なのである。

  またそれは旧卑弥呼政権の南九州からの移動が、

  倭の五王系の移動に先だっていたことを証明する。

  それもまた和泉黄金(こがね)塚古墳の

   景初三年鏡などが立証していたが、

  この合子(ごうす)形石製品の洗練された姿と量は

  それに勝る説得力がある。

  弥生時代の開始期に水稲稲作農業と金属工業をもって

  仏教の宣布にやってきたウッタラと銅鐸と古墳群。

  その後へ3世紀半ばに南九州を追われてやってきた

  旧卑弥呼政権と古墳群。

  それを追って奈良にはいった

  5世紀の倭王・興と武の古墳群。

  3者は全て仏教徒だから

   「葦(ナラ)=奈良」が仏教圏だったことは明瞭なのである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      大学院講義録25:16頁

  《神道は中国仏教以前のラマ教系原始仏教の子孫》

  こう確認できてみると、

  「卑弥呼のために大陵を築いた」という

   『魏書倭人章』の記録が、

  卑弥呼の宗派の産物で、

   仏教起源のものだったことが確実になる。  

  では仏教と古墳は、

   どんな繋がりをもっているのだろう?。

  それはインド・サーンチーにある

   巨大なストゥーパ(卒塔婆)が一目瞭然に教えてくれる。

  それだけでなく、

   それそっくりの構造をもった巨大古墳がある。

  大阪府羽曳野市にある応神天皇陵である。

  その江戸時代の写生画を見ると、円墳の頂上に、

  サーンチーのストゥーパと全く同じ石塔が建っている。

  そして応神天皇は別名・八幡大菩薩という仏号で呼ばれている。

  どこからみても仏教徒なのである。

  その八幡様を祭る神社が全国にある。

  しかし、神主が被る烏帽子や、礼拝形式や、

  祭具がどうみても仏教の禿頭や読経や梵鐘を打つ様式と

   余りにも違い過ぎている。

  これは今の私たちの常識が

   中国経由で入ってきた仏教だけしか知らないからである。
  
  インドに最も近いチベットやネパールの仏教は、

  間違いなく烏帽子を被り、

  日本の神社で打ち鳴らす打太鼓(だだいこ)を打って、

  祝詞(のりと)そっくりの経文を唱える。

  この打太鼓(だだいこ)は

   今の天皇家の宮中のものと構造も装飾も全く同じである。

  それが千年以上も昔に分かれたとは信じられないほどだ。

  これが卑弥呼仏教の正体であり遺物なのである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録28:21頁

  《カルデヤ→インド→稲敷→殷の大量の証拠群が復元》

  しかしこの事実は、もう少し再確認しておく必要がある。

  それは、

   <カルデヤ人>は国を作る5000年も前に、

   そんな進んだ文化をもっていたはずがない、

  偶然だ、間違いだという者が必ず現われるからある。

  本当に<カルデヤ人>が

   <レイライン文化>をもってきたのであろうか?。

  まず<殷墟>と<稲敷>との間に

   2200kmの<レイライン>が実在することは、
  
  地図で計ってみればすぐ確認できる。

  その<レイライン>は以後の日本列島に定着して、

  5世紀に築造配置されたことの確実な

  <仁徳天皇陵>から<応神天皇陵>、

   <景行天皇陵>、<伊勢元宮跡>までが、

   全く同じ11の倍数単位で測定配置されている。

  <その他の古墳>はもちろん、

   <神社仏閣>まで同じ配列になったものが、

  8世紀以後の建造物にまで実在している。

  だからこの<レイライン文明>は

   <日本の古代文明>だと主張できるから、

  なにもカルデアと結びつける必要はないのだが、

  前記のように<殷>と<稲敷>の結びつきが明瞭で、

  その稲敷と九州との間に<イン>・<イナ>の地名遺跡が

   現存して生きている。

  しかもそれはインドとつながって

   <イン>・<イナ>という地名のルーツを立証している。

  それと同時に、そのルートを結ぶ、

  <カルデヤ>の名からしか生まれない地名や国名の一族が、

  <ミャンマー>から我が国まで見事に分布していて、

   その関連を疑う余地がない。

  そのコースは<鰹節>や<宝貝貨幣>といった

   <特殊な海洋産業遺物>によって、

  殷帝国の誕生史を裏書きしている。
  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

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