2015年11月3日火曜日

前方後円墳とは!


 ≪前方後円墳とは!≫

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     日本人のルーツ:1頁

  《古墳は何を象ったか》
  
  代表的古墳である「前方後円墳」の形は、

  何を意味しているのだろうか。

  死者を弔う目的と日本人のルーツからみて、

  須弥(しゅみ)世界図を象ったものという考え方もあっていいと思う

  (古墳は時と共にかなり形が崩れている)。

  須弥世界とは仏教の世界観で、

  古代インド人の故郷シュメルと結ぶ説もある。

  このほか円墳・方墳は、

  円形は天を、

  方形は地を意味する中国の思想、

  などとの結びつきが考えられている。

  「写真:箸墓(奈良県)」

  「図:仏典須弥世界図(インド古写本)」

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      日本人のルーツ:2~3頁

  《埴輪はどこから来たのか》
  
  古墳に副葬されている埴輪は、

  日本だけのものと考えがちだが、

  それは古代中国や古代エジプトにもみられる習慣で、

  その源流をたずねると、

  作り物の偶像を霊あるものと信じる信仰は、

  石器時代の石偶や、洞窟や岩盤などの絵画にまでさかのぼる。

  同じ性質のものはキリスト教徒の墓からも出土し、

  また病気を治すための「人形(ひとがた)」として、

  厄払いに棄てる習俗は日本のヒナ流しや、

  東南アジア各地にのこるさまざまな行事となって、今も残っている。

  南アメリカでは土偶、石偶のほかに、黄金偶なども出土する。

  日本の埴輪は中国のものに一番性格が似ている。

  「写真」

  1 黄金偶(ボリビア・7世紀・レプリカ)

  2 黒色土偶(台湾パイワン族・近世)



  5 土偶(エジプト・貴族墓副葬品)

  6 土偶(エジプト・貴族墓副葬品)
  
  7 木偶(エジプト・18王朝・レプリカ)

  8 婦人俑(中国・三国時代)

  9 馬俑(中国・後漢時代)

  10 王夫妻木偶(インドネシア・16世紀)

  11 婦人俑(中国・南朝時代)



 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         KOFUN:259~262頁

  《前方後円墳は仏教的建造物だった》

  古墳はだれが?

  なんのために?

  どんなふうにして造ったものなのだろうか?

  その具体的な一例は

  『百済本紀』の蓋鹵王の話の父祖の陵墓を

   造ったという記録である。

  彼は倭王・興で河内まで範図(はんと)を拡げた人物だから、

  彼が造ったのは間違いなく仁徳陵と

   その真北にあった反正陵である。

  倭はウパイ=仏教徒だから、

  その形は仏教上の聖山であり天皇を意味する

  スメル山(須弥山(しゅみせん))を

   象(かたど)っている必要がある。

  いま残っている大仙陵は典型的な前方後円墳で、

  古来の須弥山図どおりにできている。

  これは父祖の霊を祭るという意味で、

  まぎれもなく宗教上の建造物であり、

   仏教思想の表現である。

  その型式を進言した人間もわかってい。

  それは僧・道琳(とうりん)である。

  どんなふうに造ったかも先に説明したとおりである。

  蓋鹵は合理的に事業を進めたが、

  それでも結局国民の力を衰えさせ、

  息子・満致に殺されて「句麗(くれ)」王に敗れた。

  だから次の武は、血縁では親子でも政権としては

   本来の倭(うわ)ではなくなった。

  「句麗」に頭を押さえられて

   意のままに動くロボットにすぎない。

  その彼が宋に送った上表文にはその間の事情が

   詳しく述べられている。
  
  そんな状態では句麗は

   さらに倭(うわ)の国力をそぐことを考えて、

  陵墓の造営を強要する。

  その結果生まれたのが応神陵だったという順になる。

  だから労働の内容も蓋鹵の時とは変わってくる。

  こんどは勝者が敗者に課した罰の性質のものである。

  こう考えてくると同じ前方後円墳でも、

  外型とは無関係に、

   その本質には大きな差異があることがわかる。

  応神陵は須弥山型を避けて「曲玉型」をしているのである。

  曲玉は仏教徒のものではない。

  仏教徒は僧や尼をみればわかるように装飾を嫌う。

  絶対にネックレスなどしないのである。

  だから卑弥呼の絵だと称するもののうち、

  ネックレスや王冠を描きこんだものは

   全部とんでもない間違いなのである。

  手に巫女の鈴をもっているのも、

  それは神道の道具で仏教の敵の風俗である。

  歴史の真実を知らない無知な画家のために、

  日本人はずいぶん誤った卑弥呼像を

   潜在意識に叩きこまれてしまっている。

  いい加減な想像画は、有害でしかない。

  これで古墳の外形による分類など、

  子どもの昆虫標本ていどのものであるといった意味が

  おわかりいただけたと思う。

  目で見ればわかるていどのことは

   学問のごく初期の段階のものに過ぎない。

  ところが「歴史の真相」はそんな単純なものではない。

  外観は全く同じでも、

  そこに葬られた人物の歴史は

   千差万別であることくらいだれにでもわかる。

  だから「史学」は本書でお話ししたように、

  ふつうの推理小説の百倍もの推理力と、

   基礎研究が必要なのである。

  それも単に文献だけでなく、

   語学から自然科学にわたって、

  知っていなければ解けないものが山のようにある。

  その一例として本書では「数学」が

   どれくらい役に立つかを見ていただいた。

  といってもそれは初級の入門ていどのものである。

  それは最後には暦数から天文、確率へと

   無限大に難かしいものが必要になる。

  統計ももちろん役に立つが、

  それは手探りよりマシというていどのもので、

  それで「邪馬台」などを論じたのでは

   必ず失敗に終わることは、

  過去に書かれた本が立証してみせている。

  難しい問題を手短かにお話しすると一層難しくなるが、

  考えながら読んでいただくと、

   私(加治木義博)の下手な文章でもご理解いただけると思う。

  その難しい話のついでに、はじめにお話しした、

  私(加治木義博)の発見した

  「古墳時代に実在したメートル法の謎」の

   正体を明らかにしておこう。
  
  「前方後円墳と須弥山図

  上左・瓢塚古墳。兵庫県姫路市丁(よろ)。

     4世紀。

  (『日本の古代遺跡・兵庫南部』保育社より)

  上右・『仏典須弥世界図』インド古写本より。

     インドや周辺各地のスツーパはこの須弥山を表現しようとしたもの。


  下左・北インド、サールナート寺院

  (釋迦当時の鹿野苑精舎)跡出土のアショカ王法勅柱

     頭部の獅子像。発見当時の写真。

  下右・東インド、ラウリヤ・マンガンダラに立つ、
 
     高さ10mの研磨した砂岩の柱。

  下部に法勅が彫刻してある。

  アショカ王は世界に8万4千のスツーパを

  建立することを悲願としていた。

  その命を受けたソナカらとその後継者や信者「倭人」は、

  それを実行していったはずである。

  その子孫である「倭の五王」天皇たちが、

  日本列島と朝鮮半島に築いていったのは、

  その悲願のスツーパに当たるものだった。


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:263~265頁

  《古墳時代の「謎のメートル法」の正体》
  
  古境時代の日本にメートル法があったということほど

  信じられない話はなかったと思う。

  しかし、このメートル単位の実在は真実である。

  それは私(加治木義博)があなたを驚かせたり喜ばせようとして、

  古墳を並べかえたり、
 
  造り足したりしたものでも寸法をごまかしたのでもない。

  はるか以前に、

   あなたや私の先祖が築いて遺した大いなる遺産の一つである。

  だからこそ私(加治木義博)は必死にその謎を解こうとして、

  とうとうそのルーツを突きとめた。

  その証拠はしっかりした形で、

  パリのルーブル博物館にある

  紀元前12世紀の石造の王の膝(ひざ)の上に、

  大切に保存されていたのである。

  その王は、シユメルの、チグリス川河口近くにあった

  「都市国家ラガシユ」のエンシ(天子)で

   イッサックムのグデアである。

  (この肩書きが「戦さの君=五十狭芹」などに合う点もご注意)

  グデア像は一つではなくルーブルだけでも

   座像、立像あわせて10数体がある。

  その中の1つの座像の膝の上に

  ジグラッド(バベルの塔)の設計図と説明があり、

  物差しのサンプルが30分の16だけ刻んである。

  その全長は26.5センチ。

  ひと目盛りは1.65センチ強。

  これから計算すると、この単位の全見は49.6センチ強になる。

  1メートルに直して7ミリほど短いが、今から4千年以上前に、

  99センチ3ミリというメートルに一致する尺度が

   実在した証明には充分であろう。

  この2分の1メートル単位の長さの名をクビトという。

  これは英語読みでいうキユービットとして世界各国に広まり、

  西欧諸国では近世まで慣用されてきたが、

  イギリスのヤードはその2倍、

  フランスのトワはその4倍というふうに、

  用途に応じて新しい単位を生み出している。

  しかしヤードがメートルと一致しないのは、

  このキューピットが成人男子の手の、

  ひじから指先までの長さにほぼ一致するため、

  国王のそれが基準にされることになり、

   長さに差ができたためである。

  クビトが地球子午線の8千万分の1に

   ほぼ一致することからみて、

  本来は天測による一定の尺度であったというのが、

  世界の学者の共通した意見である。

  これは暦を正確なものにするための長さで、

  エジプトの大ピラミッドも

   天体観測との関連が幾重にもみられるが、

  万有引力発見者のニュートンは

   ピラミッドを作るのに使われた

  2種類のキューピットがあることをつきとめた。

  シユメルは現在のイラクだから、

  エジプトとは近いが、日本とはあまりにも遠い。

  その尺度が、3、4世紀に日本に実在した理由は、

  和人(カリエン人)がその地域出身であることを証明した

  『ヒミコ』と『ジンム』の読者には、

   もうよくおわかりのことである。

  だがまだ疑わしいとお思いの方が、
  
  この間題に判定を下すのに役立つと思われるものを、

  幾つかあげておくので推理を楽しんでいただきたい。

  「ラガシュ王タデアの石像(紀元前2170年)」

  膝から下に、ぎっしりシュメル文字で、

  この像の由来と、ジグラットの建設について書かれ、

  膝上の設計図にクビトの目盛が彫りこんである。

  (現、フランス国立ルーブル美術館所蔵)


 
 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:266頁

  《日本の古語とシュメル語》

  水俣で(ミナマタ)をはじめ源(みなもと)、

  港(みなと)は水をミナと発音している。

  この水を計る単位をシュメルではミナといった。

  海上の距離はいま海里(かいり)というが、

  シュメルではアマといった。

  海をアマという古語と同じである。

  田畑を計る単位を畝(セ)というが、

  シュメルでも(セ)という。

  日本の(セ)の語源は、

  今も南日本に残る「一升(シュ)蒔き」という単位の

  シュの転訛とされてきたが、シュメルのものも全く同じく、

  穀物の量を基準にした面積単位なのである。

  こう書いてくると、いささか不思議に思われるかも知れないが、

  イラクと隣接するトルコの言葉と日本語は、

  同じ文法をもっており、

  ごく近い言語であることはよく知られている事実である。

  そのトルコ語の中にはシュメル語が大量に含まれている。

  そのトルコではキュービットをピクという。

  『魏書倭人章』に卑狗という官名が出てくるが、

  これは正確にはピクという発音の文字である。

  これは『記・紀』にある日子、または彦と同じものである。

  とすれば、このピクは、単に長さで一致するだけでなく、

  その名でも日子日日出見尊と一致する。

  そのフルネームは天津日高日子穂穂手見命(記)。

  天はアマ。

  高(コー)は沖縄語でクだから日高はヒク。

  日はカ。

  子は沖縄音グヮ。

  穂は火とすればクヮ(穂も古漢音で禾、科と同じくクヮ)。

  穂手見は日出見であった。

  もう一度整理すると、

  アマ =海上の距離を計る尺度。

  ビク =陸上の長さを計る尺度。

  クヮ =シュメルで穀物を量る単位。

  日出見=時をはかり、日を定める聖なる勤め。


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           KOFUN:267頁

  《力の象徴は度量衡!?》

  だが神名あるいは王名が、

  度量衡単位でできているというのは

   おかしいと思われる方があると思う。

  無理もないが、古来、洋の東西を問わず支配者は、

  その領土の大きさ、そこからとれる収穫高、

  そして収税高をその支配カの表現に使ってきた。

  禄高は何万石(ごく)というあれである。

  また権力、王権、政権という「権」も、

  本来度量衡を意味する文字で、権衡を保つ、

  といった使い方でそのことがよくわかる。

  唱更の習慣、日本語とトルコ語の近縁、

  トルコ語とシュメル語の近縁、

   イスラム教徒の土下座の習慣、

  ヘブライ人と共通の多くの習俗、宗教、慣習、

  まだまだこのほかにも

   人名や称号、国名の一致するものが大量にある。

  これは偶然でなく、

  カリエン人の歴史がいうバビロンからの移住が

   事実だったことの証明なのだ。

  また古墳築造用の尺度は、

  これまで漢、晋、高麗(こま)などの尺度だという諸説がある。

  しかし漢尺には合わない。

  晋尺は幾つもあって一定しない。

  高麗尺というものは実在しない。

  『令集解(リョウジユのゲ)』に

  高麗法の尺というものが出ているだけで、

  いまだに実態ののつかめないものなのである。

  また古墳はたびたび崩れたり修築されたりを繰り返しており、

  築造時の寸法がそのまま残っていると断言できるものはない。

  しかし、後円部の中心と、

  他の墳の後円部の中心との距離の場合は明瞭で、

   ほとんど誤差がない。

  個々の古墳だけみていたのでは割り出せない用尺が、

  私(加治木義博)の古墳相互間距離の測定によって

  初めて正確に判明したのである。


   『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           KOFUN:274~280頁

  《壮大な欧亜和人圏の実在》

  「古墳」とは、バビロン王朝が造営したジグラッドと同じく、

  ヤマ神信仰の太古にさかのぼる宗教建造物である。

  それがバビロンの崩壊によって難民の大移動とともに、

  インドヘのアーリア人大侵入になり、

   アレクサンドロスの東、

  アショカ王命によるソナカ仏教布教団の

   東方宣布になって日本列島にとどいた。

  本当は日本列島を通りこしてシベリアの東端に達した。

  なぜそれがわかるかというと、

  そこに今「マガダ州」というアショカ王国と

  同じ地名が厳存しているからなのである。

  そうした大移動にもかかわらず、

   人々はその信仰をもち続けた。

  故郷の聖なるシュメルがインドのスメラ山、

  インドネシアのスメル山、

  中国語の須弥山(シュミセン)として崇められ、

  天皇をスメラギとと呼ぶことで「保存」され続けた。

  天皇の万世一系には曲折があるが、

  曲がりなりにもこの名門が

   4千年を超える伝統の承継者であることは、

  まぎれもない事実である。

  それは従来のインチキ史学が教えてきた、

   2600年程度のものではない。

  だからそれを破壊することは惜しい。

  どう守るかが大切なのはこの点なのであって、

  けっしてそれが君主であったり、

   絶対権力者の子孫だという理由からではない。

  それは溜め池や古墳などのすべてを引っくるめて、

  さらにはるかにさかのぼる歴史の生き証人として、

  どんな文化財にも勝るものをもっているからなのである。

  このことに無知で、

   単なる征服者にすぎない欧米の君主なみに扱かっては、

  やがてくるその末路は目に見えている。

  この間題を根本的に考えてみる時期が

   きていることを忘れてはならない。
  
  古墳を科学的に分類することは、

   形骸だけを計測することではないことが、

  これでよくおわかりいただけたと思う。

  アレクサンドロスがインド征服後、死者を葬い、

  戦勝を記念するという二つの目的を同時に果たすものとして

  建設したパンジヤブ州タキシラの

   1ダースのスツーパ(天壇=卒塔婆)も、


  すべてヤマ(山)なのであり、スメラ山なのである。

  その中でいちばん「凝った形」をしているのが、

  須弥山図をまる写しにした前方後円墳である。

  型式を問題にしなければ古墳は欧亜に広く分布している。

  それはすべて古墳人すなわち

   バビロンの難民とギリシャ系移民とが

  芯になった「和人・倭人」の遺跡で、

  壮大な欧亜和人圏が実在したことの証しなのである。


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:274~280頁

  《壮大な欧亜和人圏の実在》

 「美しい石室をもった埼玉古墳群の代表」

  八幡山古墳。埼玉県行田市。

  全長17m、幅5m、神殿説もある。

  左・外観。

  右・石室内部。

  「シルバリー(Silbury)・マウンド(古墳)
  
  英国ウエールズにあるレイ・ポイントの一つで明らかに人工の丘。

  欧州青銅器時代。

  「図:現代語の相互関係(模式図)(加治木原図)」


  上 

  レイ・ラインという名は直線上に並ぶポイントの地名に、

  レイとかリーと読める語尾をもつ名が目立つので、

  発見者で研究家の英国アルフレツド・ワトキンスが命名した。

  しかし本当は地名とは無関係に山や丘の土盛り(古墳や塚も入る)、

  立石、池、島、古代建築遺跡などがならんでいるのでこの名は不適切。

  私の「遺跡直列」という名の方が正しい。

  下

   西フランスのブルターニュ地方モルビアン県の

  小さな海岸の町カルナック(Carnac)にある

  大巨石列(アリニュマン・ド・メニル)も

  やはり「遺跡直列」の一つだが

  レイという名とは関係ない。

  ブルターニュとブリテン(英国)の関係から、

  製作者は古代ブリテン人だということが分かるから、

  ブリテン直列とでもいったほうがまだマシである。

  それは地上部だけで6m一個300トンを超える巨岩を含む

  2621個の巨大な立石が、

   中央で少し右に方向を変えたブーメラン型に、

  東北東から西南西に延々3kmにわたって

   並んで海に達しているのである。

  その起点と終点には日本にもあるものと共通の卵型をした、

  巨大なストーン・サークルがある。

  「ネパールの店先に並ぶ埴輪」

  左・ネパール・カトマンズの壷屋の店先・

       丸や三角の穴の開いた器台土器と

  ゾウの埴給が当り前のような顔をして並んでいる。

  死者の霊を慰める供え物。

  上に見えるのは甕棺。

  古代日本の葬制がそのまま今も生きている。

  中・器台土器

  大分市大在、浜遺跡出土

  大分県博物館蔵。

  右 特殊器台

  岡山県総社市、宮山遺跡出土。岡山県立樽物館蔵。

  下・ネパールの山鉾を準備するカトマンズの町衆

  縄で組みてられることも、その縛り方も、町衆も、

  今の京都のものと変わらない。

  山鉾が京都に人ったのは平安時代からだといわれてきたが、

  古墳時代の埴輪もまた、

  このネパール帽をかぶっている。


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          YAMATO:129~130頁

  《奈良は倭国領になる前からの聖地だった》

  その人々を征服して国民に加えた倭人は、

  本シリーズですでにお話しした通り、

  ギリシャ系文化と、

  バビロン系文化と、

  スキュタイ系文化と、

  インド系文化とをもった人々の

  混成集団だつたが、

  この4者は本来みな古墳文化をもっていた。

  倭の五王は四国から近畿へ侵入して、
 
  近畿の先住イナ人を支配し、

  その力を殺ぐために人工の山である巨大古墳を作らせた。

  それが仏教思想のスメラ山と

  スツーパを象(かたど)った前方後円墳だったのである。

  だから「古墳時代」という区別は

   時代と人種的な分類の役にはたたない。

  古墳には先住民イナ人やヤオ人のものと倭人のものとが、

  後世になると「同時に」入り混じっているからである。

  様式にさまざまな種類があるのはそのためで、

  すべてを「単一民族」のものとして、

  墳形や棺の形や材料などで

   時代区分をしてきたのもまたすべて誤りである。

  「聖徳太子は四天王寺を難波の荒陵(あらはか)につくつた」

   という記事が

  『日本書紀』[推古天皇紀]にある。

  これは「荒れ墓」であって、

  「陵」とは墓のことだということを証言している。

  太子は古い荒れ果てた墓地を寺の敷地にしたのである。

  これは現代でもあちらこちらで行なわれている

   墓地の移転や宅地化である。

  都市化が進むにつれて、

  聖徳太子時代(7世紀後半)でも、

  墓地はどんどん遠方へ移した。

  こうしたこともまた奈良に古墳群が

   集中している理由の一つなのだ。

  それと同時に太子は、

   父・用明天皇を河内の磯長陵に改葬している。

  天皇の遺体は、骨だけにしてから葬るので

  悪臭の心配はないから「安宿」の近くに葬ったのである。

  こうした改葬の仕方を「殯=カリモガリ、またはモガリ」という。

  それは本来は仮に埋葬して白骨化してから

   改めて本葬する方法であるが、

  それは大王家に限っていたのではない。

  好きな場所に本葬することを許されなかった

   大王家以外の人々にとって、

  高地にある遠い聖地に死者を運ぶのには、

   輸送手段のなかった当時は、

  少しでも軽くすることが合理的だった。

  これでわかる通り、奈良は倭国領になるはるかに前から、

  主として大阪平野先住民たちにとっても、

  好都合な地理条件を備えた埋葬聖地だったのである。

 
  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学講義録20:11~12頁

  《古墳はギリシャの葬制による須弥山図曼荼羅》

  倭国の王たちが、なぜ前方後円墳を造ったのかまで明らかになる。

  それは前方後円墳が、

   壮大な発想による地上絵として描かれたもので、

  サイズではエジプトの巨大ピラミッドを

  遥かに超える大土木事業によって建設された、

  巨大な『須弥山図曼荼羅(まんだら)』だったのである。

  古墳時代人が曼荼羅を知らなければ

   前方後円墳は生まれなかったのだ。

  下の須弥山図は私(加治木義博)の

  『日本人のルーツ』

  (保育社カラーブックス=1985年)の巻頭にある

  前方後円墳との比較のものだが、

  前方後円墳と須弥山図とが同じものを表現していることは、

  我が国の発掘考古学で「張り出し」と呼んでいる部分までが、

  須弥山図に描かれていることで明らかである。

  さらにそればかりでなく、

  我が国の古墳と、インドで想定された須弥山図の着想が、

  ギリシャの墓制に複数の起源をもつと同時に、

  さらに古代日本人を構成してもいた複数の人種文化が

  加わっていることも明瞭にみてとれる。

  本講座はその性質上、

   それらの許細をご説明する紙面をもたないが、

  その骨子が一見しておわかり載けるように、

  古墳のルーツと形態の関連を、

  図を配列してご先に入れておく。

  これで先にお話しした

  「鏡を副葬した古墳は倭人(仏教徒)のもの」という定義が、

  さらに明確に、鮮明にご理解戴けるはずである。

  「古墳のルーツと形態の関連図」

  「図」ピタゴラス大使の墓

  古代ボントス王国の遺跡で発見された墓の幾何学構想円と

  三角が永達のシンボル前三角・後円の石造墓碑

  「図」須弥山図曼荼羅

  基礎にギリシャ思想と同じものがあったのか宇宙と

  永遠のシンボル下円・上三角の世界図


  釈迦のシャリが葬られた初期ストゥーパ(仏塔)

  これは全部円型であるが下方・上円墳もある

  『日本人のルーツ』

  (保育社カラーブックス=1985年)1ページ
  
  《古墳は何を象ったか》

  代表的古墳である前方後円墳の形は、何を意味しているのだろうか。

  死者を弔うという目的と日本人のルーツからみて、

  仏教須弥世界図(インド古写本) を

  象ったものという考え方もあってもいいと思う

  (古墳は時と共にかなり形が崩れている)。

  須弥世界とは仏教の世界観で、

  古代インド人の故郷シュメルと結ぶ説もある。

  このほか円墳・方墳は、

  円形は天を、

   方形は地を意味する中国の思想、

  などとの結びつきが考えられている。


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