2015年7月26日日曜日

崇神・四道将軍


 ≪崇神・四道将軍≫


 『紀・紀』がどちらも崇神天皇の記録として書く

 「四道将軍」の派遣記事である。

 『紀・紀』で異なる当て字の中から、

 理解に便利な方を使ってお話しするが煩わしいから、

 ここでは、いちいち原典を書くのは省略する。

 1 東海(東方十二道) 建沼河別

 2 北陸(高志道)   大彦

 3 西道        吉備津彦

 4 南 丹波      丹波道主  日子坐王

 これを日本の記事でなくインド起点として考える必要があるのは、

 東方十二道という記事に疑問があるからである。

 在来の国史学の奈良起点でも言語復原史学会の鹿児島県起点でも、

 東方に向かっては12もの街道はないが、

 インドからならこの表現はうなずける。

 またはるか後世につけられた東海道の名にダマされ易いが、

 東が海なのは南九州から見た視点以外にはない。

 ところがインド起点だと東は日本海の3倍もあるベンガル湾があって、

 まさに東海だし、

 それを越えると東南アジアの各国へ通じる街道があり、

 島伝いに辿(たど)る多くのコースがある。

 B.C.E.250年当時にそれを12道と表現した可能性は、

 日本の場合よりはるかに高い。

 次は北を見てみよう。

 そこは北陸と書いてある。

 インドの北には海はないから東海と対称すれば北陸である。

 「高志道」とも書くが、

 アソカ宣布団の目標記には Kasmira、後のカシミールだから、

 「カシ」に「高=カウのカ」と「シ=志」を当て字したとみると、

 「ミール・ミラ」に「道」を当てたものに一致する。

 これは南九州人が当て字した証拠でもある。

 南九州語では

 「ミル=見る」も「道」もどちらも「ミッ」と発音して

 区別がつかないからだ。

 これでもまだ、コジツケ臭いとお思いの方もあると思うが、

 四連将軍が行った南の国名は「丹波」で、

 魔涯法勅には

 Tambapanni-dipa タンバパンニ デイパと刻まれている。

 間違いなく「丹波」と同じ発音の国なのである。

 我が国の丹波は奈良からみると北にあって絶対に南ではない。

 どこから見ても四道将軍は我が国の記録ではない。

 これは『記・紀』の編集者が掻き集めた

 古資料中にアソカ宣布団の伝承があったこと。

 それを崇神の事跡とみたのは、

 崇神朝が仏教政権だったという知識をもっていたこと。

 などを裏書きしているのである。

 出典:加治木義博「大学講義録21:10・11頁」

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