2015年11月9日月曜日

黄金塚古墳


 ≪黄金塚古墳≫
 
 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:30~33頁
  
  《黄金(こがね)塚》

  太平洋戦争に敗れた直後のある秋の日、

  私(森浩一)は古墳見学にでかけた。

  といっても電車もろくに動いていないので家から

    歩くほかなかった。

  黄金塚へ登ると墳丘に堀荒らされた

  本土決戦用の塹壕に遺物が露出している。

  それから6年間を準備にあて、

  昭和26年春、末永雅雄博士らと発掘に成功した。

  この古墳の後円部には、三つの木棺を並べて埋めていた。

  三棺とも高野槙製で、とくに中央の棺は長大であるばかりか、

  厚い粘土で被覆しつくしていた。

  東棺内には人骨が腐らずにのこっており、

  被葬者は壮年の男性であった。

  この棺には銅鏡と玉のほか、各種の武器や工具があり、

  武人的な色彩がつよかった、

  西棺では人骨は腐りきっていたが、

    遺物は東棺に類似していた。

  中央の棺内にはおびただしい玉と一面の鏡、

    左右各一個の腕輪があった。

  写真:黄金塚:後円部での三棺の配置(左が西棺、右が東棺)

  《中央棺》

  長さが8.7メートルもある巨大な木棺の中は、

  二個の碧玉製腕輪、銅鏡一面のほかは玉の洪水であった。

  勾玉だけでも29個、

  菅玉や棗玉(なつめたま)なども四群に塊っていた。

  死者が身につけていたのは首飾りと腰から垂下した玉で、

  ほかはまとめて置いていた。

  景初三年銘の銅鏡は、

   棺の外に鉄刀や鉄斧ともに埋まっていた。

  写真:黄金塚:中央棺での玉類出土状況(首飾り)

  《東棺》
  
  男性の頭骨を囲むようにして三面の銅鏡をおき、

  その横に碧玉製鍬形石や、

    新羅に類例のある大型の水晶製切子玉、

  絹に包んだ鉄刀子などがあり、

  刀子(ナイフ)には中国の晋の銅銭がさびついていた。

  宝器ばかりである。

  写真:黄金塚:東棺での銅銭、水晶切子玉、鍬形石

   などの出土状況

  《黄金塚の墳丘

  信太山丘陵の先端に築かれた

    典型的な古式の前方後円墳で、

  付近の丘陵上に惣が池の弥生式高地集落遺跡がある。

  古墳の規模は長さ85メートル、後円部の径57メートル、

  前方部の先端での幅34メートル、

  高さは後円部が8メートル、前方部はそれより2メートル低い、

  周囲の水田は濠状に整地してあるが、

  本来、水はたたえてなかったようである。

  墳丘には二重に埴輪円筒をめぐらせており、

  斜面には犬の頭ほどの葺石がびっしりと積まれている。

  今では腐植土と雑木にかくれているが、

  昔は石塚を思わせたであろう。

  写真:黄金塚:大阪府堺市


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     KOFUN:252頁

  《古墳人は一種類ではない》

  倭の五王が

  武以前には全く奈良県に都を作らなかったということが

    確実になると、

  私たちが考えていた”古墳人”という考えは、
 
  分類が甘かった、ということになる。

  景初三年(239年)の紀年のある魏鏡の出た

  和泉の黄金塚(こがねづか)古墳は、

  少なくとも3世期末には、近畿に、

  古墳を造る人が移り住んだことを証言している。

  そしてその時期から近畿全域に古墳が

    分布し始めたとされてきた。

  しかし讃、珎、済のものと確認できる古墳に至って、

  突然、巨大なものになる。

  その理由は、珎、済、興時代になってからの

    別の近畿侵入である。

  だから古墳時代は少なくとも前期と後期に

    分かれるということである。

  前期古墳人から後期古墳人へ、政権が移り変わったことが、

  この巨大古墳築造の原因であることは

    疑う余地がないからである。

  それが勝者による敗者への罰であったか、

  権力の誇示が目的であったか、

  反乱防止策であったか、

  権力の誇示が目的であったか、

  その三つが一つになったものであったか、

  とにかく侵入という行為、併合という事実が、

  それを生み出したことは間違いない。

  その築造に要した労力は大きなもので、

  関西大学の西田一彦教授は小さな峯ケ塚(羽曳野市)でさえ、

  延べ27万人、117億円かかったと算出しておられる。

  問題は、それによって疲弊したあとがみえないことである。

  なぜなら、被征服者だって人間である以上、

  食べずに働くわけにはいかない。

  当然、古墳造営で失った労働力に比例して、

  農工業生産が落ち、

   それまでの自給体制のバランスは崩れる。

  したがって一つの巨墳が完成すれば、

  被征服者は疲れ果てるから目的はとげられたことになる。

  それにもかかわらず、

    第二、第三の巨大古墳が造られているのである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           WAJIN:224~226頁

  《「黄金国」女王の資格は金髪》

  台湾から九州本土への移動は、

   ヒミコとソナカが開拓したものだった。

  それは天照大神神話の中にも痕跡を残している。

  しかしヒミコは仲哀天皇の死という悲劇に遭遇した後、

  ソナカ教団を率いて倭(ウワイ)人連邦に君臨した。

  その連邦は発展して台湾から高句麗に及ぶ

    五彩圏を構成した。

  彼女はその中心として中央の「キノ国=キン国」にいた。

  魏の帯方郡から、その注文の中国製鋼鏡を、

  帯方郡使・梯儁が運んできて彼女と会ったのは、

  その「キン国=後の基肄の(キン)郡=当時の伊都国」だった。

  こうみてくると、

  「キン国」とは、「黄の(キン)国」である前に「金(キン)国」、

  すなわち宗祖アショカ王が初代ソナカに命じた目的地

  「スパルナ・プーミー(金地=金国)」だったことがわかる。

  そしてなぜ、

  その女王が、

  「光華明彩=金髪」でなければならなかったかもわかる。

  黄金の国の女王=太陽の化身は、

  「光り輝いていることが、至上命令」だったのだ。

  だから彼女の後を継いだ「壹與」が、

  あいついだ動乱をしずめて女王の座についたのもまた、

  やはり彼女も金髪だったからだとみると、

   なぜ彼女がヒミコの「宗女」として、

  反対派を押さえる説得力があったかという理由がわかる。

  それは理屈でも、利害でも、政治力でも、

    ましてや武力でもなかった。

  それで治まったことが、

    それが無上の信仰だったことを示している。

  景初三年鏡とともに眠っていた

    和泉黄金塚古墳の主は女性だった。

  それが「黄金塚」と呼ばれてきた理由も

  「黄金の女王」以外に考えられない。

  黄金製の副葬品などなかったからである。
  
  こうしたことのすべてが、

  五彩圏の中央を占めた「キノ=チヌ」は、

   本来「金」だったことを物語っている。

  そしてそれは「金翅鳥=カロウラ=ガル-ダ」の国が

  「鳳来(ほうらい)島=台湾」だったという信仰に結びつき、

  それが「朱雀(すざく)=丹鳳(ぽう)」として「四神」の南になり、

  「赤」が南の象徴色になった起源でもある。

  この四神と五彩圏の方位思想は、

    中国南部から沿岸部に広まり、

  山東半島で一大宗教として花ひらいた。

  それが「方士・徐福らに代表される「道教」だった。

  しかしそれは老荘思想の後継者を称しているが、

  インドの仙人を理想とする「シンドゥ教」の一派である。
  
  それは山東半島から遼東を経由して高句麗にはいり、

   その国教になっていた。

  高句麗王だった位宮は、ヒミコを倒したあと、

   壹與を立てて女王にしたが、

  その宗教の内容はアショカ仏教ではなく、

  この「シンドゥ=神道」に変わつてしまった。

  それには「天皇」という神がいる。

  のちの日本政権がアショカ仏教の

  「大王=マハ・ラジヤ」を廃して、

  この「天皇」の名を最高位の称号に選んだのも、

   あのヒミコ政権崩壊のとき、

  すでに芽生えていたことだったのである。

  それは「天=ティン=チヌ=キン=金」だったことを、

   記憶しておいてただきたい。

  なぜなら、その「天皇」という称号が、

  「大王」に取って変わったのが、

   「大化改新:乙巳の変」なのだからである。

  その主役がそれとどんな「かかわり」があるか?

  今から考えてみて、次巻の正解が出るまで、

  この一大歴史クイズを楽しんでいただきたい。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      大学講義録10:38頁

  《『景初三年鏡』の持ち主は反正天皇か》

  三角縁神獣鏡より以上に、

  「卑弥呼の鏡か?」と騒がれていたのは、

  卑弥呼が魏に始めて遣使した年の翌年=景初3年の銘文を

  もった略称『和泉景初三年鏡』で、

  これは大坂府泉南市の前方後円墳

  「和泉黄金塚古墳」発掘調査で判明した副葬品のひとつである。

  この古墳は全長85m、前方邸の長さ28m・幅34m・高さ6m、

  後円部直径57m・高さ8mあって、

  南北に長く、後円部中央に棺槨3つ、東西に並んでいた。

  『景初三年鏡』が入っていた中央の棺は、

  遺骨はないが副葬品が鏡と玉類だけなので、

    彼葬者は女性とされる。

  東棺には頭部部分に

    中年以後の男性の歯と僅かな遺骨のの破片があった。

  西棺は刀剣・甲冑・鏃などから男性とされ、

   高位の女性を中央に、

  男性2人が左右を守る形になっているので

   卑弥呼の墓かといわれたが、

  古墳の構造や副葬品の形式年代から4世紀に

    築造されたもので、

  高位の人の古墳ではあるが、

   卑弥呼の墓ではないことになった。

  和泉(いずみ)の語源は「倭済」で、

  倭の五王の一人「済」の領土だったことになる。

  この倭・済と反正天皇の名乗り「多・遅比」は

   共にオオ・ジヒと読める。

  塚名の黄金はオオキンと読めるから、

    大君の南九州発音と同じである。

  これが行方不明の反正天皇陵だとすると、

  4世紀の倭国が女王制だったことを証明する

    凄い遺跡ということになる。

  次巻で詳しく検討しよう。
 
 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録17:31~34頁

  《和泉黄金塚古墳は卑弥呼か壹與の墓か?》
  
  この近畿陶芸産業の中心地・和泉は

    「景初三年鏡」を副葬していた

  「和泉黄金塚古墳」がある地域である。

  この鏡はその年号からみて、

  卑弥呼が魏から貰った百面の鏡の一つである

    可能性が高いというので、

  邪馬台国畿内説を非常に勇気づけ、

  一時は「黄金塚こそ卑弥呼の墓だ」
   と主張する人物まで現われたが、

  この古墳の発掘研究者の一人である

   森浩一氏(元同志社大学教授)らが、

  年代測定上、それはありえないと否定して、

  卑弥呼の墓説は消滅してしまった。

  念のため森氏の説を朝日新聞社刊の

  『邪馬台国のすべて』から抜粋しておこう。

  「語りかける出土遺物」森浩一

  「『和泉黄金塚古墳』(昭和二十九年)という報告書では

   4世紀の中ごろか、その後半であろうと書いたのです。

   (中略)日本の古墳の年代を決める場合、
  
   有力な材料に使っておったのが

       天皇陵とその年代でありました。

   (中略)が意外と積極的に証明する資料がない。

   最近では古墳時代に関するほとんどの天皇陵を

       私は疑っております。

   (中略)天皇制の学問への呪縛から自由になろうと

      思うのです。

   (中略)黄金塚古墳の年代は、

   私は現在では5世紀の初頭まで

       下げなくてはいけないと考えています。

   それは日本の古墳との比較からも、

   また東棺にあった新羅の慶州の古墳からよく出る

     長さ六センチある水晶の切り子玉が、

   朝鮮の古墳との関係の手掛かりをあたえています。」

  《景初三年鏡200年伝世と副葬の謎》

  氏は続けて

  「仮にこの鏡が239年に魏でつくられ、

   その年かその直後に日本列島に運ばれてきたとしましても、

   この古墳に埋めらるるまでの約二百年は

     どこでどのようにして保持されていたのか。」

  と結んでいるが、この鏡には実に大きな意義があり、

    答えがある。

  5世紀の古墳が卑弥呼の墓でないことは誰にでもわかる。

  それなのに卑弥呼当時の年代を彫った鏡が副葬されていた。

  これは、たとえどんな遺物が出ても、

  それだけでは卑弥呼の墓だと断定する証拠にはならない、

  という、発掘考古学の限界を教える重大な教訓なのだ。

  従来は何か出るとすぐ

  「邪馬台国だ!」と狂喜宣伝する考古学者が続出したが、

  景初3年鏡でも、こんなふうに証拠にはならない。

  粗雑な史観と売名に毒された似非学者には、

  真の史実はとても復元できない現実の厳しさを、

  はっきり頭に焼きっけておいて戴きたい。

  それより5世紀にも鏡を貴び、

    副葬する伝統を持ち続けた人々が、

  土師器と須恵器産業の経営者だったという事実と、

   その最高支配者らが、

  卑弥呼の鏡を意識して所有し続けており、

  景初三年の文字が権力の象徴として

    強力に役立っていたということ、

  だからその鏡は200年を超えて伝世されてきたのに、

  その伝統がこの黄金塚の主葬者で断たれて、

   死骸と共に葬り去られた事実。

  こうした史実が、復元史学の大収穫として貴重なのである。

  《黄金塚古墳の主は卑弥呼の後継者》

  黄金塚古墳の被葬者は女性を中心に、

  左右を男子の武人二人が守護するように

    寄り添って葬られている。

  だからこれを壹與の墓に見立てた学者もいた。

  しかし壹與は時間差よりも、新羅の始祖王だから、

  先にお話しした戒律シラバッガに厳重に拘束されており、

  むろんその子孫もその戒律を厳守した。

  女性と分かりきった赫居世を、

  『三国史記』「新羅本紀」がムリヤリ男性として扱っているのも、

  そのシラバッガの戒律のためだったのである。

  黄金塚被葬者の女王制と、景初三年鏡の副葬という葬制、

  『宋書』や『唐書』の記録が立証するのは、

  この古墳は女性崇拝と鏡を厳禁した

   邪馬壹国の後身=新羅や日本人の墓では絶対になく、

  間違いなく真の「優婆夷=倭(ウワイ)」で、

  卑弥呼の後継者だった

    大国・倭国の女王の墓だということである。

  これが、南九州の果てで卑弥呼が敗北して死んだ後、

   その後継者の黄金塚のヒロインが、

  そこから直線で550km離れた和泉で死んで、

  景初三年鏡を副葬するまでに200年以上かかった、

  その距離と時間の経過を示す真実の歴史なのである。

  また『記・紀』は

    そのころの天皇を全て男王として描いているが、

  黄金塚が教える真相は、

  和泉王朝には少なくとも一人は女王がいたという史実である。

  そしてイズミは倭済だから、倭の五王の「済」と一致し、

  観世音菩薩を本尊とする古寺・水間寺が近くにある。

  《ついに不明の「反正天皇陵」発見》

  水間はミズマで、古い沖縄発音だとミズバである。

  倭の五王はすでにお話ししたとおり、

  讃は仁徳天皇。

  珍は履中天皇。

  済は反正天皇。

  興は允恭・安康天皇。

  武は雄略天皇である。

  反正天皇の名乗りは

 「瑞歯(ミズバ)別」だからミズバ=ミズマ=水間である。

  そこに水間寺があるのは偶然ではない。

  多くの例証によって倭国の皇室の特質は、

    姫木山と卑弥呼と同じく、

  寺の名と天皇の名乗りの発音が一致すれば、

  その古寺は元皇居だったという証拠になる。

  さらに黄金塚の名も強い傍証になる。

  これを文字通りの金属名だとしては、全く無意味に近いが、

  「黄」をオウ、「金」をキンと漢音で読むと「オウキン」、

  「大君(おおきみ)」または「倭王(オウキン)」の

    九州発音に一致する。

  この地域の住民は九州からの移住者だ。

  埋葬当時の呼び名が残っていた間に、

    後世人が、わざとか、洒落てか、

  「黄金」と当て字したことが見えてくる。

  こうして和泉倭国の皇居が見つかると、

   そこで観世音菩薩を祀っていた優婆夷女王こそ、

  2人の武人と景初三年鏡に守られて眠る、

   この黄金塚古墳の主だと確認できる。

  これが大学講義録10の最後でお約束した問題のお答である。

  しかしそのお約束を果たすには、

   それまでの散発的な教材による講義を、

  徹底した精講に変える必要があったので、

  大学講義録11以降、現在のスタイルに変えさせて戴いた。

  少しお手間をとらせたが、ご満足戴けたと信じている。


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学講義録18:3~12頁

  《「反正女王・天皇陵」を定点にして》

  大学講義録17では、最大予定紙数をつかい切って、

   著墓古墳が残ってしまったが、

  それでも天皇家はもちろん、

   学界最大の謎の一つだった行方不明の反正天皇陵を、

  しっかり発見し確認することができた。

  それは和泉黄金塚古墳としては知られていたが、

   葬制が明らかに女尊男卑で

  「『記・紀』の男王制の記事に合わない」

   という決定的な「欠陥」のために、

  「絶対に天皇陵ではない」と、

   天皇陵から無残にも抹殺されてしまっていたのである。

  これも、

   真実の天皇陵が見向きもされないで放棄された一例であり、

  天武天皇による偽史被害の、許し難い実例の一種なのだ。

  こうしたことを正しく立証して、

    私たちの祖先を真実の位置に戻し、

  無知をさらけ出して非礼の数々で古人を冒涜して来た

    連中の実態を、

  国民に伝えて真実を明らかにするのが、

    私たち学徒の使命にはかならない。

  この女王と夫の男王とが、

  同じ名乗りをもつ反正天皇夫妻だったことはいうまでもないが、

  これだけでは、まだ不確かだと感じる人々もあるだろう。

  それには他の五王の確実な墓が、どういう地域にあるか、

    その位置と、

  そこに葬られた理由を明らかにして、

    それとこの反正天皇陵とを比較して、

  絶対的な確信のある傍証として提示し、

  読者に、それは史実であると確認されなければいけない。

  《箸墓古墳は「雄略女王陵」か、「雄略天皇陵」か》

  この、「天武天皇製の『記・紀』」によれば

  「反正天皇」に当たる「女王と夫の男王」の、

  その子孫である倭王・武=「天武天皇製の『記・紀』の

     「雄略天皇」が、

  やっとのことで奈良県の一角「高市」を取り、

  長谷の地を手に入れて、

  そこにまた観世音を祀る長谷寺を建てたのである。

  『記・紀』はさすがにその「名乗り」で、それをよく記録している。 

  『古事記』は大長谷若建。

  『日本書紀』は大泊瀬幼武と書くが、

  この「大」は倭(ゥオ)、

    「泊瀬(ハッセ)」は一見して百済(ハッセイ)で、

  倭王らが自称した名乗り

     「倭・百済・新羅~七国諸軍事~」からみると、

  元の倭国はすでに細かく分けられていて、

  泊瀬は百済として扱われていたのである。

  高所にあるその長谷・泊瀬の宮の眼下に横たわるのが

    「箸墓」である。

  その被葬者は誰か、

  それを記録しているのは、

  倭人だけの前方後円墳をその地域に持ち込んで、

  神聖な墓の名を「長谷(ハシ)墓」とつけ、

  それを永く伝承してきたことが最大不動の証拠だから、

  当時としては、唯一、長谷(はし)の名乗りをもつ

  「いわゆる雄略天皇」と、

    その妻「倭女王」しか被葬者はいない。

  だとすれば『日本書紀』はこの天皇の人として

   あるまじき非行の数々を列挙しているから、

  その一つを天武天皇の方針に従って

    「百襲姫に故事つけた」のが、

  例の『著墓伝説』なのだという新たな証拠まで揃いはじめる。

  これがもう覆ることのない『箸墓の最終結論』だ。

  《反正・雄略2天皇の皇居と陵墓地》

  『記・紀』が書く記事のウソは、黄金塚古墳が暴露してくれた。

  少なくとも反正天皇=倭王・済までは、

   女王制が厳格に守られていた事実が、

  その葬制という動かない証拠になって残っていた。 

  では『記・紀』が書くことは全てウソばかりなのか?…。

  『記・紀』はこの2天皇たちの葬制をどう書いているか、

   調べてみる必要がある。

     皇居       崩年     陵の所在地

  反正天皇記 多治比之芝垣宮   60才  陵 河内之恵賀・長枝「※」

  反正天皇紀 河内・丹比・紫籬宮 空白   陵 空 白

  雄略天皇記 長谷・朝倉宮    124才 陵 多治比・高鷲原

  雄略天皇紀 泊瀬・朝倉宮    空白   陵 丹比・高鷲原

  (「※」本によっては本文にはなく割注に

   「毛受野(モズノ)陵の北」とあるが、

    現在そこには、そんな陵はない)

  『古事記』にはムリに空白を埋めた跡がはっきり見え、

  124才などと現実離れしたことを平気で青いているが、

  『日本書紀』は中国人に笑われるようなことは、

  ここでは書かない。

  だがそれでも、ご覧の通り双方とも、

  この2天皇もまだ奈良には葬っていないと書いている。
 
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
    大学講義録18:3~12頁

  《女王と天皇は別居婚だった》

  この高鷲原・高鷲の今の発音はタカ・ワシだが、

  昔の振り仮名は「タカ・ハシ」で、

  高は高族、ハシは長谷・泊瀬・土師だったが、

  それをタカワシと読む時代になってから

  「高鷲」という当て字をしてしまったのだと、

  簡単にわかる。

  いうまでもなく、それらの陵名は、陵が造られたその時に、

  同時に漢字で命名された陵名でも地名でもないことがわかる。

  そうすると残る問題は、

  その「高鷲原・高鷲陵」は大阪にあるという点である。

  箸墓は間違いなく奈良県にあり、

   その間を生駒山系が隔てている。

  夫妻の墓が別々になっている。

  これはなぜだろう?。

  それは古代日本の夫婦制度は、別居がたてまえで、

  男のほうが女性の家へ通う「足入れ婚」

   と呼ばれるものだったからである。

  では箸墓に葬られている女王は誰だったのであろう?。

  雄略天皇には次のように複数の后妃がいたと記録されている。

  雄略の后妃

  皇后…記 草香の幡梭姫(仁徳天皇の皇女) 記 若日下部王(大日下王の妹)

   妃…紀 韓姫    (葛城圓大臣の娘) 記 韓比売(都夫良意富美の娘)

           この妃が清寧天皇と稚足姫(伊勢大神の齋宮)とを生む。

   妃…紀 稚姫    (吉備上道臣の娘)    記 ナシ
    妃…記 童女君   (春日の和弭臣深目の娘) 記 ナシ

  (注)幡梭(ハタヒ)
     日下部(クサカベ)
     都夫良意富美(ツブラオホミ)
     和弭(ワニ)  
  
  《倭国独特の女王と天皇の関係》

  このうちの誰が箸墓陵の被葬者なのか。

  皇后をよくみてみると、実に奇妙なことに気づく。

  それは『日本書紀』に、

   皇后・草香の幡梭姫は仁徳天皇の皇女だと

    書いてあることである。

  『記・紀』の系譜を信じるなら、

   雄略天皇は、父・允恭天皇の姉妹と結婚したというのだ。

  仁徳天皇が倭王・讃であることは、

   多くの証拠が揃っていて、もう疑いのない事実だから、

  讃と武がいた時代は『宋書』で確実にわかる。

  それには次のように記録があるからである。

  「高祖 永初二年 詔曰 倭・讃 萬里 修貢」。

  この永初二年は西暦421年である。

  武が即位した年は彼が上表した年で、

   順帝の昇明二年、478年で、この間57年経っている。

  讃は元嘉二年(425年)にも上表して間もなく死んだが、

   その年を紀は即位から87年目だと書く。

  彼は即位前に軍隊を率いて兄の大山守と戦い、

   その3年後に即位したから、

  最低に見積もっても百才以上まで生きたことになる。

  そんな父をもつ草香の幡梭姫皇后が、

   父・讃が死んだ年に生まれたと仮定しても、

  雄略天皇が即位した時には、皇后は53才になっている。

  しかし百才以上になった父に、

   実子が生まれることは絶対にありえないから、

  単純計算しても皇后は7~80才で

   雄略天皇と結婚したことになってしまう。

  しかもその間、子供を生んでいないし、結婚後も子供はなく、

  跡継ぎの清寧天皇は他の妃が生んでいる。

  《歴代天皇の奇妙な夫婦関係の謎解き》

  この関係は、崇神天皇の父・開化天皇が、

  父の妃・伊香色謎の命を皇后にして崇神天皇が生まれ、

  その崇神天皇が伯父の大彦の娘・御間城姫と結婚し、

  また崇神天皇からみて卑弥呼の倭迹迹日百襲姫とは、

    夫婦ではないが、

  やはり祖父の妹に当たるのと共通のもので、

   同じことは、まだまだ歴代にわたって続く。

  私たちは天武天皇の歴史書き替えの事実を知っているから、

   これらから帰納できる結論は、

  『記・紀』が書く、それらの皇后の実像は、

   やはり卑弥呼と同じ宗教女王であって、

  決して天皇の妻ではなかったが、『記・紀』の編集者たちは、

  その女王の地位の高さを変えるわけにもいかず、

  それは堅く守りながら

    ムリヤリ男王天皇制に逆転させるとすれば、

  その地位は皇后以外になく、

   どうしても天皇と夫妻にするほか方法がないために、

  一見非常に不合理な、常に老婆を妻にするという、

  正常な人類の社会では絶対にありえない夫婦関係が、

  連続して実在したように見えることになった。

  真実が理解できず外見だけみると、

   これが日本独特の伝統的な天皇の実態だという、

  世界にも類を見ない野蛮で異様な幻影が造り出されてしまい、

  天皇家に対する評価を不当に著しく低めて、

   欧米人のひそかな軽侮の的にしてきた。

  しかし今その真相の謎は解けた。

  彼らも今後は、みずからの誤解を恥じることになったのである。
 
  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学講義録18:3~12頁

  《「大阪」が証明する仏教国と敗戦》

  しかし、それがはっきりわかってみると、

   皇后・草香の幡梭姫と雄略天皇の関係は、

  その独特の女王と天皇の関係にぴったり一致しているから、

  草香の幡梭姫皇后が

   倭迹迹日百襲姫や卑弥呼の後継者だったことは、

   疑いを挟む余地がない。

  泊瀬の朝倉の宮、

   すなわち長谷寺にいた倭(ウワイ)女王は

   皇后・草香の幡梭姫以外には

  ありえないことがわかる。

  すると、例の「箸墓伝説」は、

   卑弥呼=倭迹迹日百襲姫のものではありえないにしても、

  別の老女王の百済姫=ハシ姫の事件だった

    可能性はさらに高まり、

  箸墓古墳の主は老齢の皇后・草香の幡梭姫だと

    断定できる証拠が、  さらにまた加わったことになる。

  以上の考証から、より面白い結論が、まだ幾つも引き出せる。

  ① 少なくとも雄略天皇当時には、

       倭国の女王と天皇とはそれぞれ別の宮殿に住まい、

    別の陵に葬られたという事実。
  
  ② もう1つは「大阪」という地名の正確で決定的な語源と

  ③ その時期とだ。
  
    それは「大=倭・阪=塞」で、

    これは「倭塞=ウワサカ=優婆塞=男性仏教徒」が

      「倭塞=オーサカ」と
  
    発音されるようになった後、

  ④ シラバッガの継承者=シンドゥ国の日本政権(実行者)が、

  ⑤ (理由)優婆塞という仏教名を忌み嫌って消去するために

  ⑥ (口実)「大きな坂があるからだ」という

       「故事つけ」を作ってつけたのである。

  《箸墓の被葬者はソナカの子孫・草香幡梭姫皇后》

  だが砂漠のような平坦な土地にでも坂のないところはない。

  むしろ奈良のほうが、はるかに大坂と呼ぶに相応しい

    地形に満ちている。

  このていどのことにも気づかずに、

    今でもまだ「大きい坂」説を信じて、

  知性の欠如を宣伝し続けている人や書物があるのは悲しい。

  こうして皇后が、

    実は大国・倭国の仏教女王だったことが確認できると、

  その草香幡梭姫という名乗りの読み方は一つしかなくなる。

  草はソウの頭音「ソ」、

   香は「カ」、

   幡はハタの頭音「ハ」、

   梭は従来通り「ヒ」だが、

  発音は大隅式に「シ」と読まなければならない。

  すると「ソカハシ」、

   これには「蘇我・箸」姫と当て字したはうがよくわかるが、

  蘇我は後世の当て字の一つで、

   その本来の発音はソナカだったことは、

  もうよくわかっているから、

  『古事記』風に書くと皇后の名は「息長長谷(ソナカハシ)比売」、

  間違いなく神功皇后→応神天皇→仁徳天皇の後継者で、

  雄略天皇の皇后、長谷寺の尼女王で

    箸墓の被葬者だったことが

   決定的にわかる。

  これで宿題の箸墓問題は完全に解決したと思うが、

   いかがだろうか。

  ここでお断りしておくのは、

   今ある長谷寺はこの尼女王のハセデラではなくて、

  養老5年に道明上人が天武天皇のために三重の塔を建て、

  さらに神亀4年に聖武天皇の勅願で徳道上人が

   堂宇を建立した新義真言宗の総本山で、

  寺名もチョウコクジと読むのが正しい。

  《奈良は3世紀の間つづいた仏教の国都》

  このとき初めて倭国は奈良県に入った。

  そして次第に勢力圏を広げて、670年の大化直前には、

  山の中の長谷よりずっと環境のよい

   高市郡の中心地・明日香村に本拠が移っていた。

  なぜなら「アスカ」という地名は

   「アショカ」王の大隅訛り「アスカ」に完全に一致する。

  これは仏教女王国・倭の武王が占拠する前には、

   存在するはずのない名だからでである。

  そして大化までの倭国の記録時

   全て女王制の仏教国だったし、

   皇極・斉明女帝らが去った後も、

  明日香は蘇我氏と仏教の本拠として残り、

  天智・天武時代の17年が過ぎると

   聖武天皇の大仏建立を頂点に、

   奈良は仏教全盛の国都に戻り、

  またその間、持統女帝以後、

   称徳天皇に至るまで実質的に女王制が続いて、

  中断したのはその僅か17年間だけにすぎない。

  478年前後に幡梭(ハシ)姫+雄略朝が高市に入って以後、

   称徳朝が倒れた770年までの3世紀の間、

  アショカ王の霊は明日香に君臨し続けて、

   空白があったのはその17年だけなのだから、

  この一帯にある

   478年前後から670年までの遺跡や、出土品は、

  すべて仏教遺物で、他の宗教の遺物はない。

  それは箸墓や周辺の古墳についても全く同じである。

  これほど明確なものを、年代、宗教、目的、用途などについて、

  思いっきの出鱈目解釈を並べる連中がいるが、

   それは無知の自白に異ならない。

  あなたも私も「以て他山の石」としなければならない。

  《卑弥呼仏教の実体を記録しているもの》

  卑弥呼の死が247年、

   それから数えても称徳天皇の宝亀元年(770年)まで523年。

  女王国の倭国は

    卑弥呼の死後も仏教を国教とする政権を守り通して、

  ようやく770年以後、男王制の日本国に移行した。

  この事実がわからなくては、日本の建国は語れないし、

   いくら発掘物が山をなしても、

  それだけではゴミの山と変わらない。

  これで卑弥呼政権のあとがどうなったかが完全に理解でき、

  それが終始変わらぬ

    仏教徒の女王国家だったことを確認できたから、

  次はその初めに立ち戻って、

   卑弥呼仏教政権の実体を明確に見極めなければならない。

  そのためには何をどう調べればいいのであろうか?。

  私たちがもっている公正な記録は、

   たった一つの『魏書倭人章』だけしかない。

  しかし過去には、この間題には気づきもせず、

   せいぜいが「どこにあったか?」という

  幼稚な命題について口角泡を飛ばすばかりでありながら、

  それすら解明する役に立たなかった文献、

   その『魏書倭人章』に何ができるであろう、

  とお思いかもしれない。

  しかし、

   それは卑弥呼の「鬼道」と呼ばれた宗教が、

   なにもので、どこからやってきて、

  どんな内容をもった、どの程度の文化であったかを、

   疑いを抱く余地さえないほどに、

  詳細に記録していたのである。


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