2015年11月6日金曜日

大和の前期古墳と初瀬王朝


 ≪大和の前期古墳と初瀬王朝≫

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
  
  奈良盆地にある前期古墳は、

  鳥見山古墳群、

  柳本古墳群、

  佐紀盾列古墳群に集まっているが、

  そのほか数ヶ所にも点在している。

  それらの前期古墳から、年代の遡る古墳をさがしてゆくと、

  桜井茶臼山や

  箸墓が候補になる。

  ところが、どちらの古墳も、墳丘が巨大である。

  東アジア全体でもすでにずば抜けた規模と表現すれば

  理解されるかもわからないが、

  大和の地域で求めた最古式の高塚古墳が
 
  全長20メートル級の

  巨大な墳丘であるということは、人の成長にたとえると、

  いきなり20才の人間が登場するようで不可解である。

  古墳が大和とその周辺で発生し、

  やがて桜井市茶臼山や箸墓の姿までに

  発達をとげたと仮定する人たちにとっては、

  大墳丘の突然の出現ということは説明しにくいことである。

  私(森浩一)は古墳文化が発達した地域は大和であるが、

  その前段階の発生から、

  初期の発達期の古墳はこの地域にはなく、

  北九州から瀬戸内海沿岸地方に求められるという

  仮説のもとに研究を進めている。

  それでもなお桜井茶臼山や箸墓以前の小古墳を

  大和の内にあると想定する人は多い。

  しかし奈良県においては、

  基本的な古墳の分布調査は相当に進んでいるから、

  これから問題になるような古墳がいくつも未確認で

  存在しているとはあまり期待できない。

  古墳文化の発生から、

   初期の発達段階(以後発生期と略記する)に

  重要な役割を果たした地域として、常識的な大和を排して、

  北九州の地域をあげたのは、

  私(森浩一)が昭和37年に『古代史講座』に発表した

 「日本の古代文化」という論文においてであった。

  この時は、福岡県の五島山、藤崎古墳、宮原古墳、

  大分県伊加利古墳などをその候補にしておいた。

  墳丘は小さいが、埋葬施設として箱形石棺をもったものが多く、

  銅鏡、玉、鉄製武器など副葬品としており、

  銅鏡の年代は中国の後漢でも後・晩期の内行花文鏡が多い。

  ところが、その後の発掘で、

  瀬戸内沿岸、とくに岡山県や兵庫県の西部でも

  発生期の小古墳が発掘されはじめた。

  今日では、北九州と瀬戸内沿岸が発生期に古墳文化が

  ひろがった地とすることができるが、

  その中での北九州と瀬戸内沿岸での

  古墳文化の相違などはまだ説明できない。

   『出典』言語復原史学会・加治木義博:
             大学院講義録27:3頁

  《出土品が語る年代は何を立証しているのか?》

  奈良県のある古墳で土器が発掘された。

  土器は明らかに3世紀半ばのものだと確認できた。

  奈良の古墳は卑弥呼時代から実在していた。

  邪馬台国が奈良にあった証拠だ。

  という説を以前、ご紹介したことがある。

  古墳からは鏡が出土する。

  その鏡は大半が中国製である。

  それには前漢時代のものが多い。

  前漢は紀元前の国だから、

  その古墳は紀元前に造られたのだろうか?。

  鏡はいくらでも伝世するから造って

  直ぐ副葬されたとは限らない。

  鏡の場合は伝世すると誰もが知っているから、

  その製造年代は古墳の築造年代とは何の関係もないと、

   割り切っている。

  古墳から出土した土器も同じことで、

   割れ物の土器は伝世しないとは限らない。

  茶の好きな人は利休の愛した茶碗を大切にしていた。

  その人の遺品がその茶碗一つでも、
 
  それでその遺骨の主が、

  利休時代の人だということにはならない。

  土器も、たとえ古墳が紀元前の土器で埋まっていても、

  それはそこに住んでいた先住民が残したものが

   混入しただけだと判定できる。

  それは他の古墳群が

   すべて古墳時代以後のものだと判っているからである。

  この程度のことが判断できずに、

   出土土器の年代だけで、

  それが古墳の築造年代だと即断して発表した発掘者は、

  素人なみの頭しかないというはかない。

  「奈良・大阪付近の古墳」
 
  出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:112~114頁

  《大和の前期古墳と史的意味》

  箸墓などの前期の古墳が、

   突然大和に出現したということは、

  文化の面での問題でなく、その古墳の規模から見て

  最初の統一国家の出現を物語る記念物と考えてよかろう。

  この時期には、箸墓、桜井茶臼山、メスリ山、渋谷向山古墳、

  行燈山古墳、西殿塚古墳などが、

   盆地の南東部に集中するところから、

  三輪王朝、あるいは崇神王朝とよぶ古代史家があらわれた。

  その名称を使ってもよいが、

   三輪山にのこる祭祀遺跡や遺物から、

  確実に三輪山信仰の存在を裏付けられるのは、

  大正7年に発見された山の神遺跡である。

  ここからは小銅鏡、土製品、祭祀用玉類などが発掘されたが、

  5世紀のものである。

  ほかにも三輪山山麓から祭祀遺物は発掘されているが、

  山の神の時期か、それより少し後のものである。

  このように考古学的方法をとれば、
  
  三輪山信仰が5世紀の以前に遡るかどうかは

  確かめることができないので、

  4世紀代の古墳から復原できる王朝名に

  三輪の名を冠することは保留したい。

  私はこの王朝にたいして、初瀬王朝と仮称したい。

  それは初瀬山流域には、弥生集落が発達し、

  豊かな農耕地に開発されており、

  その農耕地を経済基礎として

  鳥見山、柳本の古墳群が成立したと考えられるからである。

  初瀬王朝が、
 
  どの範囲の地域に勢力をひろげていたかはわからない。

  同じ奈良盆地でも南部の地方では前期古墳はほとんどなく、

  また大和と地続きの和歌山県にも古墳が多いが、

  前期古墳となると典型的なものは存しない。

  古墳を資料とする限り、奈良盆地の南部や和歌山県に

  古墳文化が急速に普及するのは5世紀のことであり、

  この地に初瀬王朝の勢力がおよんでいたとは

    いえないのである。

  また大阪府の岸和田市にある摩湯山古墳は、

  全長200メートルの大墳丘の前期前方後円墳であり、

  その地域の支配者の巨大な古墳である。

  それは規模において、

  初瀬王朝と仮称した

  支配者の個々の古墳の規模に匹敵するものである。

  ここでは深く追求することはさけるけれでも、

  初瀬王朝が4世紀の日本の代表政権であることに

   異論はないにしても、

  その統一の形態と、勢力のおよんだ地域と、

   地域による及び方の相違は、

  各地にのこる古墳群の詳細な分類によって進めねばならない。

  高塚古墳の発生期と前期とでは、

   それぞれの中心地域にずれがあること、

  いい換えれば、古墳に象徴される政治勢力の所在地が

  西から東へと移動していることは多くの問題を

    含んでいるにしても、

  大和に焦点をあてると少なくとも次のことを解決する

    必要がある。

  ①箸墓などの前期の古墳に埋葬されている人、

   それは初瀬王朝の支配者たちであるが、

   その集団が弥生式時代からすでに大和やその周辺に

   居住していて、前期になって強烈な古墳文化を受容して、

   突然大古墳を築く文化をもった集団が

   勢力を急速に拡大しながら移動しtきたか。

  ②仮に政治勢力が移動してきたのであれば、

   そのころ大和やその周辺がどのような状況にあったかのか。

  などである。

  私(森浩一)は発生期の古墳文化の中心地を、

  北九州から瀬戸内沿岸の広汎な地に求めていることからも

  わかるように、たんに古墳文化が伝播したと解さずに、

  古墳文化を習俗とする政治集団の移動を

    考えているのであるが、

  まず先述の②の問題から説明しよう。

   出典:保育社:カラーブックス:
      古墳―石と土の造形―森浩一著:113頁
  
  《主要な前方後円墳の墳丘規模》

  古墳名       メートル     時期

  和泉・大山古墳       486      中

  河内・誉田山古墳      418~430  中

  和泉・百舌鳥陵山古墳    360      中

  備中・造山古墳                約350      中

  河内・河内大塚古墳          330      中~後

  大和・見瀬丸山古墳      318      後

  大和・渋谷向山古墳         310      前

  和泉・土師ニサンザイ古墳  290      中

  河内・仲ツ山古墳            286      前

  大和・ウワナベ古墳       約280      中

  大和・箸墓                          278      前

  大和・五社神古墳              278      前

  備中・作山古墳              約270      中

  大和・市庭古墳(現平城陵) 約250     中
    
  大和・行燈山古墳       240      後

  河内・岡ミサンザイ古墳   239      前末~中

  大和・室大墓            238      中

  大和・メスリ山古墳        230      前

  大和・西殿塚古墳       230        前
  
  河内・市ノ山古墳        227        中

  大和・宝来山古墳        227        前末~中

  摂津・太田茶臼山古墳   226      中

  河内・墓山古墳         224      中

  日向・オサホ塚          219      前

  大和・佐紀石塚山古墳    219      前

  大和・ヒシアゲ古墳       219      中

  上野・天神山古墳     約210      中~後

  大和・桜井茶臼山古墳    207      前

  播磨・五色塚           199      前


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