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《参考:年表・資料》
≪馬見古墳群 ≫
出典:保育社:カラーブックス:
古墳―石と土の造形―森浩一著:24~25・28~29頁
《馬見古墳群》
奈良盆地西方の馬見丘陵上の南北にながく
分布する古墳群である。
分布する古墳群である。
ここには天皇陵の伝承をもつ古墳は少ないが、
前期から中期と継続し、
後期になると大きな横穴式石室を有する
後期になると大きな横穴式石室を有する
牧野(ぼくや)古墳を最後として急に形成がとだえている。
あたかも記紀でたどることのできる
大豪族葛城氏の消長に共通しているので、
葛城氏の古墳群ではないかと考えている。
前方後円墳では宝塚・新木山・栗山・築山・川合大塚、
前方後方墳では新山、
帆立貝式では乙女山などとまるで古墳の博覧会である。
最近川合大塚の東方で大前方後円墳の痕跡らしいものが
発見され、
発見され、
写真の下方に後円の一部が出ている。
写真:川合大塚と宮堂古墳の痕跡?
(左下方の弧形)
写真:乙女山古墳:奈良県北葛城郡河合村左味田
写真:築山古墳:奈良県大和高田市築山
写真:巣山古墳:奈良県北葛城郡広陵町
写真:新木山古墳:奈良県北葛城郡広陵町
『出典』言語復原史学会・加治木義博:
大学院講義録15:22頁
大学院講義録15:22頁
《重要な、皇居名と所在地名の比較確認》
雄略天皇は、御所(ごせ)市の葛城山で、
天皇のような供揃えの神に会う。
一言主の大神だという説明になっているが、
現実問題として考えれば、
現実問題として考えれば、
5世紀に神が姿を現わすはずがない。
これは前政権時代の有力者との遭遇が
描かれているとみていい。
描かれているとみていい。
『記』は長谷朝倉宮で天下を治むと書き、
『紀』は泊瀬朝倉壇で即位したと書いてある。
ところが『古事記』は幾つもの歌謡を挙げているが、
その中の三重の采女(うねめ)の奉った歌には、
纏向(まきむく)日代宮とある。
皇居を移したのであれば、
そのことが書いてあるはずなのにそれがない。
そのことが書いてあるはずなのにそれがない。
この答は意外なところにある。
それはこの纏向日代宮は景行天皇の皇居の名であり、
垂仁天皇が、あの狭穂姫と暮らした宮も、
同じ纏向の珠城宮だったことがヒントになる。
私たちは垂仁天皇=位宮が狭穂姫と共にいたのは、
種子島だったことをよく知っている。
それは山幸が海を渡って行った島で
豊玉姫の島、浦島太郎の竜宮で、
豊玉姫の島、浦島太郎の竜宮で、
オオヒルメが八幡を連れて隼人町まで、
海を渡ってきた出発点の島でもある。
海を渡ってきた出発点の島でもある。
景行天皇も卑弥呼政権の崩壊後、
大移動でカラになったそこへ移ったから同じ地名なのだ。
この纏向がもとは種子島だったことは動かない。
これも香椎が奈良県に移って橿原になったように、
地名の移住があった証拠である。
だから
「纏」はテン⇒チヌで、
「纏」はテン⇒チヌで、
向は日向のガ、
チヌガ=角我=ポントスの都だ。
チヌガ=角我=ポントスの都だ。
≪歴史関連リンク≫
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