2015年11月8日日曜日

馬見古墳群


 ≪馬見古墳群 ≫

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:24~25・28~29頁

  《馬見古墳群》

  奈良盆地西方の馬見丘陵上の南北にながく

   分布する古墳群である。

  ここには天皇陵の伝承をもつ古墳は少ないが、

  前期から中期と継続し、
 
  後期になると大きな横穴式石室を有する

  牧野(ぼくや)古墳を最後として急に形成がとだえている。

  あたかも記紀でたどることのできる

  大豪族葛城氏の消長に共通しているので、

  葛城氏の古墳群ではないかと考えている。

  前方後円墳では宝塚・新木山・栗山・築山・川合大塚、

  前方後方墳では新山、

  帆立貝式では乙女山などとまるで古墳の博覧会である。

  最近川合大塚の東方で大前方後円墳の痕跡らしいものが

    発見され、

  写真の下方に後円の一部が出ている。

  写真:川合大塚と宮堂古墳の痕跡?

     (左下方の弧形)

  写真:乙女山古墳:奈良県北葛城郡河合村左味田

  写真:築山古墳:奈良県大和高田市築山

  写真:巣山古墳:奈良県北葛城郡広陵町

  写真:新木山古墳:奈良県北葛城郡広陵町

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録15:22頁

  《重要な、皇居名と所在地名の比較確認》

  雄略天皇は、御所(ごせ)市の葛城山で、

   天皇のような供揃えの神に会う。

  一言主の大神だという説明になっているが、

   現実問題として考えれば、

  5世紀に神が姿を現わすはずがない。

  これは前政権時代の有力者との遭遇が

    描かれているとみていい。

  『記』は長谷朝倉宮で天下を治むと書き、

  『紀』は泊瀬朝倉壇で即位したと書いてある。

  ところが『古事記』は幾つもの歌謡を挙げているが、

  その中の三重の采女(うねめ)の奉った歌には、

  纏向(まきむく)日代宮とある。

  皇居を移したのであれば、

   そのことが書いてあるはずなのにそれがない。

  この答は意外なところにある。

  それはこの纏向日代宮は景行天皇の皇居の名であり、

  垂仁天皇が、あの狭穂姫と暮らした宮も、

  同じ纏向の珠城宮だったことがヒントになる。

  私たちは垂仁天皇=位宮が狭穂姫と共にいたのは、

  種子島だったことをよく知っている。

  それは山幸が海を渡って行った島で

   豊玉姫の島、浦島太郎の竜宮で、

  オオヒルメが八幡を連れて隼人町まで、

   海を渡ってきた出発点の島でもある。

  景行天皇も卑弥呼政権の崩壊後、

  大移動でカラになったそこへ移ったから同じ地名なのだ。

  この纏向がもとは種子島だったことは動かない。

  これも香椎が奈良県に移って橿原になったように、

  地名の移住があった証拠である。

  だから

  「纏」はテン⇒チヌで、

   向は日向のガ、

   チヌガ=角我=ポントスの都だ。



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