2015年7月31日金曜日

台湾に現存するアミ族


 「台湾に現存するギリシャ系倭人」

 後からきた侵入者に追われて

 山地に住んでいる人々の中にはアミ人たちがいる。

 その容貌、服装、家屋、言語、土器など実に多くのものが、

 その古いルーツがインド経由の

 地中海人だったことを示している。

 「臺」はウティナで沖縄のこと。

 「湾」はワニで「倭人」の唐代以後の読み方。

 ここはその頃[小琉球]と呼ばれていた。

 [台湾]とは[琉球人の国」という意味なのだ。

 そして『ヒミコ』でお話しした

 ヒメゴソとオオヒルメが

 「太陽の光で身ごもった」というあの『阿具沼伝承』も

 『かぐや姫』の原話も両方とも

 台湾に現存するお話の中にある。

 またカリエンの人たちの都は今も

 花蓮(カリエン)港と呼ばれ、

 「鬼道=アショカ仏教」の子孫も現存している。

 「方言化の原則と文化が証言する支配勢力の巨大さ」

 同じ一族が

 アミ族、

 沖縄人、

 日本人、

 アイヌ族
 
 と分かれているだけであって、

 アイヌ族も決して異民族ではないという動かない事実である。

 彼らは不幸、大化大戦(乙巳の変) に敗れて、

 東北方へ大移住を余儀なくされたが、

 もともと

 台湾から沖縄、九州、朝鮮半島、四国、中国地方、近畿と

 大移動してきた人たちだったからである。

 では何故?各地の彼らは同じ言葉を話さず、

 別々の言葉を使っているのであろうか?。

 この疑問は、

 正しい言語学を知らない人の考えなのである。

 人の集団が大きい場合は、

 その人たちの言語は内部的変化はしても、

 原型を永く止どめている。

 ところが移住者が少ないと、

 移住先での交易交際には、

 どうしても多数派の原住民の言葉を覚えて使う以外、

 生きて行く方法がない。

 次の世代になると完全に原住民語を話すようになり、

 子孫は先祖の言語を忘れる。

 移住者は前から住んでいた人々の言語に変わってしまう。

 これが「方言化の原則」なのである。

 アミ語もアイヌ語も皆、

 そこに先にいた原住民の言語なのである。

 するともう1つ大きな問題が片付く。

 ギリシャ文化が日本文化中に占める量の巨大さは、

 日本列島にやってきた

 その人々の数の巨大さと、集中と、権力の把握を立証している。

 少数派の先住民は、

 その天皇家中心の集団と混血して、

 吸収されてしまったのである。

 「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」

 台湾北部に現住するアミ人である。

 このアミの名は網・阿見と同じ発音であるだけでなく、

 容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、

 ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。

 また台湾が

 ギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ

 仙境・蓬莱(ホーライ)で、

 秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だった。

 このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、

 アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。

 仮にこれを疑うと、

 台湾と与那国という

 肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、

 どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、

 全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、

 二つできたことの理由、という至難の立証が必要になるし、

 それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、

 ほかにはアミに結びつくような神名はない。

 別の語源から全然無関係に

 二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。

 従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、

 「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、

 それと比較して相手の説が劣り、

 間違っていると判ったときに主張して

 「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、

 「ただ反対したい」だけというのは、

 劣等感の表現にすぎない。

 「台湾、ギリシャ人+日本人?と天上聖母」

 台湾は『後漢書』や『太平御覧』が

 注記に引いている

 3世紀の呉人・沈瑩(チンエイ)の

 『臨海水土誌』が書かれた当時から

 17世紀の明未まで「流求=琉球」と呼ばれていた。

 しかし後半は「小流求」になり、

 沖縄が同時に「大流求」と呼ばれたから、

 沖縄の支配下にあったことがわかる。

 『明史稿』の

 「鶏龍伝(キールン)」=基隆(キールン)は、

  平地アミ族の記録だが、

  勇を尊び奔馬のようにマラソンして一日百里を走る。

  男女とも髪を丁髷(ちょんまげ)に結い

  男は裸体で戦闘を好み、

  勝者も死者も共に讃える……」などと

 古代ギリシャ人+日本人に似た風俗を伝えている。

 媽祖(マソ)像は

 中国本土からの移民がもって来た信仰で

 天上聖母とも呼ぶ鹿耳門(ルクイーモーン)天后宮のもの。

 この他にも「観音仏祖」と呼ぶ観世音がある。

 「弥生土器はどう作られたか」

 台湾の山地民族アミ族の人々は、

 今も手ずくねで自家製の土器を作っている。

 こうして作ったものは乾かしてから、

 この庭先で後ろに見える薪を使って露天焼きする。

 弥生土器を焼いた窯跡は見つかっていないし、

 その焼き上がりの一致から

 やはり露天焼きで作られたとみる学者があり、

 瀬川芳則同志社大学講師はタイ国にも現在、

 露天焼きが残っていることを報告している。

 双耳壺(そうじこ)は水運び用で、

 頭にのせて運び、底は丸い。

 その形は韓国の百済甕棺墓出土のものに近く、

 大阪市<難波宮跡>などから出た土師器の鍋とも、

 把手(とって)の位置などがよく似ている。

 土師器もまた露天焼き土器とみられる土器である。

 「ギリシャの双耳杯とアトモを作るアミ婦人」

 紀元前5世紀前半の、

 輪になった提げ手が二つ耳のようについたギリシャの盃。

 この特殊な耳がアミの人々のアトモにも、

 日本の古墳時代の土師器や須恵器にもつけられている。

 アミの人々は地中海系の容貌と風俗を伝えている

 台湾の山地住民で、

 『ジンム』でいろいろ紹介しておいた。

 これはその婦人が今、

 土器を成型して日に干しているところ。

 双耳にご注意。

 「台湾高山族の焼酎甑」

 1960年代から1970年代のはじめにかけて、

 20度ばかり渡台して台湾の山地民族を調査した際、

 各地で焼酎を造っているのを見聞した。

 アミ族、

 タイヤル族、

 ツオウ族のものが一番原始的で、

 各族それぞれ多少の差はある。

 アミ族の老婦人によると昔は土器を使っていたが、

 彼女の祖父の代に本島人(中国人系の台湾人)が、

 今の鉄ナベ二個を売りに来てから、

 ずっとそれを使っているという。

 彼女の所のものは円筒部は

 丸木を筒状にくり抜いたものだが、

 他集落には薄板を円く曲げた

 ”曲木(まげき)造り”のものもあった。

 今その型式を比較してみると

 南九州のものと原理的に一致し、

 両者の間に必ずつながりがあったとみるほかない。

 そして、

 台湾のものはより原始的であり、

 集落によっては

 受け樋も竹を斜めにそいだだけのものまである。

 これはグエバ・アカ族のものより、

 天井の冷却ナベが進んだだけの、

 やはりかなり古い状態を保っているものということができる。
 
 ところが

 大正四年(1915)に

 嘉義県の阿里山(アリサン)タパン社で調査した

 中沢亮治の『台湾生蕃の酒造法』には

 「この蒸溜器は

  本島人より教えられたるものと伝ふる所にして、

  現に鹿(ロク)港の

  高梁(カオリャン)酒醸造家(本島人)に於て

  使用しつつある蒸溜器の如き同形のものあり」とある。

 この説によると台湾高山族の焼酎甑は

 中国伝来のものということになってしまう。

 その中国で始めて焼酒の記事が見られるのは

 13~14世紀の元の時代に

 「南蕃焼酒法」が『居家必要事類全集』に、

 また忽思慧(タシケイ)の『飲善正要』に

 「阿刺吉(アラキ)酒」がやはり南方の酒として記され、

 一見どうどうめぐりのようにみえる。

 だが、この元代の蒸溜器は、

 台湾のそれとは全然型式の異ったもので、

 これが台湾に伝えられたものとは、

 とうてい考えることはできない。

 また元のものは阿刺吉酒と明記されているから、

 蒙古人が今も飲む馬乳酒から造る

 アリカやエラーガ。

 アラブ系の人々のアラック。

 トルコ人のラキ。

 インドネシア諸島のアラッ等々。

 本来はアラブ語の”汗”を意味する

 araqa(アラカ)から分れて方言化した

 名をもった蒸溜酒の一派であることがわかる。

 これもまた西から遅れてやって来たものの一つで、

 焼酎とは同じ祖先をもってはいるものの、

 焼酎のルーツには入らない酒でしかない。

 結局、元のものもまた泡盛と同じく、

 本当の焼酎がやってきた道に、

 後世になってから割りこんできた

 別系統の蒸溜酒であり、

 むしろ蘭引系のものといった方がいい。

 このように

 蒸溜酒の伝播経路はかなり複雑に交錯し入り組んでいる。

 このため焼酎の正しい歴史は迷路に迷いこんでしまって、

 結論が出にくい状態にあったのである。

 日本の古代には口噛みの酒しかなかったという

 先入観もまた真相を明らかにする邪魔をしていた。

 けれども、

 それではどうにも説明のつかないものが

 日本の焼酎生産地の分布である。

 ※出典:加治木義博
     「JINMU:22頁」
     「大学院講義録15:27頁」
     「大学講義録31:28頁」
     「大学講義録22:12頁」
     「日本人のルーツ:28頁」
     「焼酎入門:132・133頁」

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