ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2015年7月30日木曜日
タタラ(踏鞴)文化
≪タタラ(踏鞴)文化≫
「タタラはいつから我が国にあったか?」
文献記録の一番古いものは、
『日本書紀』の「天の石窟(いわや)隠れ」の部分の、
「石凝姥(いしこりどめ)を冶工として、
<真名鹿の皮>を全剥(まるはぎ)にして、
天の羽鞴(はぶき)を作り、
<天の香山の金(かね)>を採って<日矛>を作り」の、
「羽鞴」だが、
それが製鉄用のタタラだということはすぐ判る。
『古事記』の記事のほうは、
「天の安河の河上の天の竪石を取り、
天の金山(かなやま)の鉄を取り、鍛人・天津麻羅を求め、
伊斯許(いしこ)理度売(りどめ)命に科して……
真男鹿の肩を内抜きに抜いて……」とさらに詳しい。
竪石は普通の石より堅いのだから鉱石。
また「鉄=砂鉄」。
「鍛人=鍛冶職人」だし、
鹿の皮を傷付けずに内部を取り出して風船のように膨らませると
「浮き袋」が出来、
その空気を噴出して扇ぐと火力を強めるのに使える。
足で踏むと、より強い火力が得られるので、
木製のペダルをつけて両足で踏んで吸気、排気を繰り返す。
これを「タタラを踏む」という。
この『記・紀』の記事で天照大神以前に
タタラが我が国に実在したことが完全に立証されている。
ではそれは、どこから伝わった文化だったのか…?。
その答は「天孫降臨」のところにある。
「ギリシャ文化から生まれた「天の目一箇神」」
<天孫>を天降りさせるための供(とも)選びの中に、
「天の目一箇神」が居る。
彼は「作金者・かなだくみ=金匠」だと書いてある。
鍛冶屋>なのだ。
この神の名は片目>だったという名だから、
ジークフリート伝説の鍛冶屋・ミーメが
片目だったのと同じ>であり、
和歌山県の民話「一本ダタラ」という怪人も片目で、
名がタタラだからこれも鍛冶屋だったことが判る。
鍛冶屋=1眼というこの大原則は、
ギリシャ神話の
天空・ウラノスと大地・ガヤの子供である
雷鳴・プロンテス、
光・ステロペス、
白光・アルゲスの、キクロープス
と呼ばれる一つ目の兄弟の子孫なのである。
この<3兄弟>は<タイタン族>と戦うため、
ゼウスに強力な鉄槌の雷を、
ポセイドンに三叉鉾を、
ハデスに姿が消える兜を与えて勝利に導いた。
ご覧の通り3つとも武器である。
一つ目の3兄弟の現実のモデルは鍛冶屋だったのである。
「天の目一箇神」も<大国主がウラノスの直訳>なのと同じく、
ギリシャ文化から生まれた名詞で、
『記・紀』の用語や神や天皇名が、
ガヤ=伽那・谷=国土、
ポントス=品都和気・誉津別=海洋>などといった
ギリシャ語名乗りをもっていることの、
動かない証拠なのである。
ギリシャはトロヤ戦争以前から、
鉄器文化の栄えた国である。
金髪の天照大神・卑弥呼以前に我が国が鉄器時代に入っていて、
タタラが実在していたことは動かない。
『日本書紀』では天孫が降臨して、
木の花開耶(さくや)姫との間に生まれたのが
彦火火出見の尊=山幸彦で、
海岸で塩土の老翁がくれた
「目(ま)無し籠(かたま)に乗って海に出る。」
この<籠の正体>は様々な説があり、
ベトナムなどの、竹をカゴ編みにしてタールで
籠目を塗り潰した小舟だろう、という説が有力だ。
しかし本当はどんなものだったか、直ぐお判りになる。
「マナシカタマ」とは
「真名鹿(シカ)」の皮で
作った球(たま)=真名鹿(シカ)球のことである、
<マナは真魚(まな)板の真魚=魚>のこと、
<魚の鹿とは斑紋のあるアザラシ>のことである。
真名鹿(シカ)球>は<タタラ>であり<浮袋>であり、
<飲み水をいれる容器>でもあった、
それは中近東からアフリカで今も使う実用品である。
それが古代の我が国に実在して
片目=鍛冶屋を意味するカタマと呼ばれていた。
スサノオが皮を剥いだ斑駒(ぶちごま)(尾久鹿)を
日の神の織殿に投げ込んだ>というのも
現実的なことだったと判る。
「ギルガメシュの竜退治」が
<スサの王の事跡>とされても不思議はない。
『魏書倭人章』が保証する鉄器文化の実在
神武天皇庚申年のところに
「事代主神が<三島溝蹶(みぞくい)耳神>の娘・<玉櫛媛>と
結婚して生んだ娘・<媛蹈鞴五十鈴媛命>を
神武天皇が正妃に迎えた」 とある。
『古事記』は
<勢夜陀多良比売>・<富登多多良伊須須岐比売>・
<比売多多良伊須気余理比売>と
蹈鞴がタタラであることを証言している。
当時最高の文化であった<タタラ>は今の先端工業に当たるもので、
それを名乗りにもつお姫様は大変な高貴な存在だったのである。
私たちは神武天皇のモデルが複数で、
垂仁天皇の事跡が混じっているのを知っている。
垂仁は卑弥呼政権を倒して倭人の新支配者になり、
壹與を女王に大隅に邪馬壹国をたてて首都にした実在者だ。
当時の文化は『魏書倭人章』に詳しく記録されている。
それで確かめてみると、<3世紀の倭人の武器>は、
*「竹箭 或いは鉄鏃或いは骨鏃」と書いてあるから、
竹製の矢に鉄の鏃・やじり=矢尻や骨の鏃をつけて使い、
石鏃は使っていない。
また卑弥呼が受けとった帝の贈物に<五尺刀が2口(ふり)>ある。
五尺もあると、柔らかい銅では曲がって使い物にならない。
五尺刀が鉄製なのは常識だ。
また薩摩半島の南端・
<山川町の成川遺跡からは当時の五尺刀が数も同じ2口出土>
している。
鹿児島県下からは他にも弥生・古墳時代の鉄製品の出土が多く、
その中には世界でただ1個しか見つかっていない
「方位を示す紐(ちう)のある鉄製三角縁神獣鏡」があり、
私が所蔵している。*
「種子島→淡路島が大和政権を生んだ理由」
神武天皇の正妃・媛蹈鞴五十鈴媛は
垂仁天皇の皇后でなければならない。
垂仁天皇の始めの皇后は、
あの<悲劇の狭穂姫>で、
<誉津別皇子>を残して死んだから、
その後で皇妃になった丹波の道主の5人の娘の一人である。
すでによくご承知の通り、
狭穂姫の<狭>は<アイヌ語のタンネ>で<種子島>である。
<穂>は豊玉の<豊>で、
やはり<種子島の古名の1つ>だし、
丹波の道主のタニバは
<種子国=タネマの沖縄発音・タニバ>である。
種子島は戦後、
アメリカへ宇宙機用のチタン原料として、
大量の砂鉄を輸出し続けたように、
世界でも最高級の品質をもつ砂鉄の希に見る大産地であり、
古代種子島の坂井人が大阪府の堺を造って、
戦国時代に種子島銃の独占産地になった史実が物語るように、
古代から近世に至る
我が国鉄器産業の最大の中心地を形成して行ったのである。
種子島がタタラ技術の先進地であり、
タタラが国富と文明を象徴するトップ産業だったことを
見逃してはならない。
するとそれを名にもつ「タタラ姫」は、
夜も輝くような美と富の姫という
赫夜姫の名が同じ島で生まれたのと同じで、
必然的であるし、
またその富と武力が、
天皇家とその一族の
「橘=種子島人(タチバナ)」政権を東征させ、
倭人圏を本州・四国に拡大させたのであり、
「古代淡路島(タンジシマ)=種子島(タンジシマ)」を
拠点に一気に奈良に大和朝廷を定着させたのであることが、
はっきり組織立って、立体的に理解できるのである。
「辰韓の鉄の謎を解く種子島海軍国の総括」
この<種子島>はまた、
沖縄から中国東北区やロシア沿海州に及ぶ海上支配権をもち、
「漕ぐ人(りょ)」という呼び名から始めは
「高句麗(コグリョ)=朝鮮語」
という当て字をもった大国の本国で、
位宮と卑弥呼時代には、
ビシュヌー神を名にもつ
道の大人(うし)を王とする海軍王国の本国だったが、
ポントスを名乗るギリシャ系応神朝以後、
ポセイドンが国名に選ばれたことによって、
ポセイドンの名から
<百済>と<出水・和泉・出雲>が生まれたことも、
その<百済>が<ハツセー>と読まれて
<長谷>の地名を残していることも、
また<百>が<ホ>と読まれて
「豊(ホ)の国=豊津国(ホツマ)=豊玉(ほつま)=秀真(ほつま)国」
という国名で呼ばれることなども、
すでに充分、確認済みである。
そしてその<和泉の首都>が
百舌鳥耳=百済(モズミ)こと<堺>であることは、
幾つもの謎を明快に解いてくれている。
まず『魏書・東夷・韓章』の辰韓の部分にある、
「この国には鉄が出る。
韓・濊・倭は従(欲しいままに)それを取る」
という記録であるが、
この辰韓を朝鮮半島東南部の、
後の新羅(慶州地方)のことだとすると、
そこには鉄の産地は全くない。
この辰韓を南九州語で「タッカラ」と読むと、
宝島や<トカラ列島>のある<薩南諸島>のことになり、
豊玉を漢音で「リユウ」と読むことから、
豊玉姫が竜になり、
竜宮伝説が生まれたりした種子島が、
鹿児島県の辰巳の方角=東南に位置するので
「辰巳(タミ)が島や辰韓(タッカン)=立神」
と呼ばれたことがわかる。
「正確な『三韓史』」
すると<馬韓>は<マカラ>で「靺鞨(マカラ)」
と書かれた国、
インド語のクジラ・鯨のことで百済(クダラ)、串良、
臥蛇島・ガジャジマ(鯨島=ガジャミナ・鯨=インド語)
を生んだ語源。
弁韓はベンガルで南インド人の国だと判るから、
南鮮の国々は薩南諸島からのインド系の人々、
ソナカ仏教徒を中心とした「倭人」移住者の国だったことが判る。
卑弥呼の直接支配地だったといっても絶対に間違いではない。
なぜなら卑弥呼は別名の
息長帯(ソナカシティ)姫
(蘇那曷之帯(ソナカシティ)の妻・神功皇后)で、
明確に「帯方郡」を意味する
朝鮮半島の領主であることを名乗っているからである。
それは高句麗を主軸にもつ天皇家の女王だから当然の名乗りだが、
神功皇后の記録にある彼女がソナカ(仲哀天皇)と
共に攻略した三韓は半島ではなく薩南諸島で、
その結果が南鮮への大移動を生み、
三韓が朝鮮半島にあることになったのである。
<韓・カラ>の地名は今も
「吾平=姶良=カラ」
「韓国見嶽(からくにみだけ)」
として南九州に名残りを止めている。
こうみてくると鉄鉱山のない新羅地区の辰韓が
「鉄を出す」と特記されている謎が解ける。
こちらの辰韓は、
朝鮮半島の辰巳(東南)の国という意味で、
同じ名をもち、
同じ人たちが住む2つの国の報告書が
混同されて引用されたために、
南鮮に鉄山があるという記事が誤載されただけで、
真相は種子島の豊富な鉄資源が
倭人連邦人に広く使われていた記録である。
「誰が?タタラを、いつ?、もって来たか?」
では、<タタラ>を我が国まで持ってきたのは、
インド人か?ギリシャ人か?
それとももっと古くやって来た
<シュメル人=カリエン>たちだったのであろうか?。
今も東南アジア各地ではカレン人(カリエン)が、
鍛冶屋部族としてよく知られている。
それも女性の仕事である場合が多い。
彼等が我が国へタタラ文化をもってきた証拠は
我が国で<カジャと呼ぶその職業名>が、
はっきり立証する大文化財になっている。
<鍛冶屋>と呼ぶその名は、
<リ>を<ジ>と発音し<家(イエ)>を<ヤ>と発音する<南九州語>は、
今でも<カリエン>を<カジャン>と訛るし、
英語でもカルデアンはカージャンと発音する。
カリエンの名がそのままで鍛冶屋なのである。
彼等は今、
タイでカリエンだが、
ミャンマーでカレンと呼ばれて
カレン、カレンニの2州を構成する勢力をもっている。
女性を族長とする女系家族で、
その住居は大きく『魏書倭人章』にある倭人の大家族、
大家屋と多くの一致点をもち、
入れ墨をし、女性は貫頭衣を着、健康維持に肌に土を塗る。
『魏書倭人章』は朱丹と書くが、
それを我が国では朱砂・スサと呼ぶ。
スサの王の一族がタタラをもってきたことが、
これらとその「鉄鏃」という2字で、
徹底的に立証されている。
こうお話しすると、
私(加治木義博)の東南アジア歴訪調査が、
どんなに効果的に倭人と『魏書倭人章』の実体を明確にしたか、
その行動力の成果がよくご評価戴けると思う。
「過去の邪馬台論争を超える、たった一枚のスケッチ」
鎌倉時代末期、
元寇の約半世紀前の寛元元年(1243年)、
肥前から中国へ渡ろうとした商人たちが、
漂流して沖縄へ漂着したときに写生した、
当時の沖縄漁民の風俗スケッチで、
その体験を記録した貴重な
『漂到流球国記』の巻末につけられた絵図の一部である。
この女指揮者は間違いなく「三叉鉾」をもっている。
それには房飾りが垂れているので、
魚を突くための漁具ではなく、
神の助力を祈るための象徴=聖器だとわかる。
するとそれが<三叉鉾>であることは、
キリストの十字架と同じく、
その<三叉鉾>だけで、
その神が<ギリシャの海神・ボセイドン>だと判る。
それだけではない。
女性が指揮者であることは、
当時沖縄にいたことの確かなカリエン人の習俗で、
その風貌も西方のもの、
この絵が表わしている人種は、
カリエン人とギリシャ人との混血なのである。
さらによく見ると、
「貫頭衣」を着て、
断髪した頭に布を巻き『魏書倭人章』にある
「招頭」とはどんなものだったかを
眼のあたりに見せてくれる。
その弓は上が長く下が短い倭人の弓である。
たった1枚のスケッチだが、
それが元禄の荒井白石から、
明治大正の大論争を繰り返した大歴史家たち、
そして戦後に、
雨後の筍のように現われた大量の邪馬台学者の、
その誰もが、
全く立証できなかった真実の<倭人の風俗と文化>を、
この絵は物の美事に完全に描写して、
証明し厚くしているのである。
※出典:
加治木義博「大学院講義録30:27~32頁」
加治木義博「大学院講義録30:23~30頁」
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