2015年7月30日木曜日

タタラ(踏鞴)文化


 ≪タタラ(踏鞴)文化≫

 「タタラはいつから我が国にあったか?」

 文献記録の一番古いものは、

 『日本書紀』の「天の石窟(いわや)隠れ」の部分の、

 「石凝姥(いしこりどめ)を冶工として、

  <真名鹿の皮>を全剥(まるはぎ)にして、

  天の羽鞴(はぶき)を作り、

  <天の香山の金(かね)>を採って<日矛>を作り」の、

 「羽鞴」だが、

 それが製鉄用のタタラだということはすぐ判る。

 『古事記』の記事のほうは、

 「天の安河の河上の天の竪石を取り、
  
  天の金山(かなやま)の鉄を取り、鍛人・天津麻羅を求め、

  伊斯許(いしこ)理度売(りどめ)命に科して……

  真男鹿の肩を内抜きに抜いて……」とさらに詳しい。

 竪石は普通の石より堅いのだから鉱石。

 また「鉄=砂鉄」。

 「鍛人=鍛冶職人」だし、

 鹿の皮を傷付けずに内部を取り出して風船のように膨らませると

 「浮き袋」が出来、

 その空気を噴出して扇ぐと火力を強めるのに使える。

 足で踏むと、より強い火力が得られるので、

 木製のペダルをつけて両足で踏んで吸気、排気を繰り返す。

 これを「タタラを踏む」という。

 この『記・紀』の記事で天照大神以前に

 タタラが我が国に実在したことが完全に立証されている。

 ではそれは、どこから伝わった文化だったのか…?。

 その答は「天孫降臨」のところにある。

 「ギリシャ文化から生まれた「天の目一箇神」」

 <天孫>を天降りさせるための供(とも)選びの中に、

 「天の目一箇神」が居る。

 彼は「作金者・かなだくみ=金匠」だと書いてある。

 鍛冶屋>なのだ。

 この神の名は片目>だったという名だから、

 ジークフリート伝説の鍛冶屋・ミーメが

 片目だったのと同じ>であり、

 和歌山県の民話「一本ダタラ」という怪人も片目で、

 名がタタラだからこれも鍛冶屋だったことが判る。

 鍛冶屋=1眼というこの大原則は、

 ギリシャ神話の

 天空・ウラノスと大地・ガヤの子供である

  雷鳴・プロンテス、

  光・ステロペス、

  白光・アルゲスの、キクロープス

 と呼ばれる一つ目の兄弟の子孫なのである。

 この<3兄弟>は<タイタン族>と戦うため、

 ゼウスに強力な鉄槌の雷を、

 ポセイドンに三叉鉾を、

 ハデスに姿が消える兜を与えて勝利に導いた。

 ご覧の通り3つとも武器である。

 一つ目の3兄弟の現実のモデルは鍛冶屋だったのである。

 「天の目一箇神」も<大国主がウラノスの直訳>なのと同じく、

 ギリシャ文化から生まれた名詞で、

 『記・紀』の用語や神や天皇名が、

 ガヤ=伽那・谷=国土、

 ポントス=品都和気・誉津別=海洋>などといった

 ギリシャ語名乗りをもっていることの、

 動かない証拠なのである。

 ギリシャはトロヤ戦争以前から、

 鉄器文化の栄えた国である。

 金髪の天照大神・卑弥呼以前に我が国が鉄器時代に入っていて、

 タタラが実在していたことは動かない。

 『日本書紀』では天孫が降臨して、

 木の花開耶(さくや)姫との間に生まれたのが

 彦火火出見の尊=山幸彦で、

 海岸で塩土の老翁がくれた

 「目(ま)無し籠(かたま)に乗って海に出る。」

 この<籠の正体>は様々な説があり、

 ベトナムなどの、竹をカゴ編みにしてタールで

 籠目を塗り潰した小舟だろう、という説が有力だ。

 しかし本当はどんなものだったか、直ぐお判りになる。

 「マナシカタマ」とは

 「真名鹿(シカ)」の皮で

 作った球(たま)=真名鹿(シカ)球のことである、

 <マナは真魚(まな)板の真魚=魚>のこと、

 <魚の鹿とは斑紋のあるアザラシ>のことである。

 真名鹿(シカ)球>は<タタラ>であり<浮袋>であり、

 <飲み水をいれる容器>でもあった、

 それは中近東からアフリカで今も使う実用品である。

 それが古代の我が国に実在して

 片目=鍛冶屋を意味するカタマと呼ばれていた。

 スサノオが皮を剥いだ斑駒(ぶちごま)(尾久鹿)を

 日の神の織殿に投げ込んだ>というのも

 現実的なことだったと判る。

 「ギルガメシュの竜退治」が

 <スサの王の事跡>とされても不思議はない。

 『魏書倭人章』が保証する鉄器文化の実在

 神武天皇庚申年のところに

 「事代主神が<三島溝蹶(みぞくい)耳神>の娘・<玉櫛媛>と

  結婚して生んだ娘・<媛蹈鞴五十鈴媛命>を

 神武天皇が正妃に迎えた」 とある。

 『古事記』は

 <勢夜陀多良比売>・<富登多多良伊須須岐比売>・

 <比売多多良伊須気余理比売>と

 蹈鞴がタタラであることを証言している。

 当時最高の文化であった<タタラ>は今の先端工業に当たるもので、

 それを名乗りにもつお姫様は大変な高貴な存在だったのである。

 私たちは神武天皇のモデルが複数で、

 垂仁天皇の事跡が混じっているのを知っている。

 垂仁は卑弥呼政権を倒して倭人の新支配者になり、

 壹與を女王に大隅に邪馬壹国をたてて首都にした実在者だ。

 当時の文化は『魏書倭人章』に詳しく記録されている。

 それで確かめてみると、<3世紀の倭人の武器>は、

 *「竹箭 或いは鉄鏃或いは骨鏃」と書いてあるから、

  竹製の矢に鉄の鏃・やじり=矢尻や骨の鏃をつけて使い、

  石鏃は使っていない。

  また卑弥呼が受けとった帝の贈物に<五尺刀が2口(ふり)>ある。

  五尺もあると、柔らかい銅では曲がって使い物にならない。

  五尺刀が鉄製なのは常識だ。

  また薩摩半島の南端・

  <山川町の成川遺跡からは当時の五尺刀が数も同じ2口出土>

  している。

  鹿児島県下からは他にも弥生・古墳時代の鉄製品の出土が多く、

  その中には世界でただ1個しか見つかっていない

  「方位を示す紐(ちう)のある鉄製三角縁神獣鏡」があり、

  私が所蔵している。*

 「種子島→淡路島が大和政権を生んだ理由」

 神武天皇の正妃・媛蹈鞴五十鈴媛は

 垂仁天皇の皇后でなければならない。

 垂仁天皇の始めの皇后は、

 あの<悲劇の狭穂姫>で、

 <誉津別皇子>を残して死んだから、

 その後で皇妃になった丹波の道主の5人の娘の一人である。

 すでによくご承知の通り、

 狭穂姫の<狭>は<アイヌ語のタンネ>で<種子島>である。

 <穂>は豊玉の<豊>で、

 やはり<種子島の古名の1つ>だし、

 丹波の道主のタニバは

 <種子国=タネマの沖縄発音・タニバ>である。

 種子島は戦後、

 アメリカへ宇宙機用のチタン原料として、

 大量の砂鉄を輸出し続けたように、

 世界でも最高級の品質をもつ砂鉄の希に見る大産地であり、

 古代種子島の坂井人が大阪府の堺を造って、

 戦国時代に種子島銃の独占産地になった史実が物語るように、

 古代から近世に至る

 我が国鉄器産業の最大の中心地を形成して行ったのである。

 種子島がタタラ技術の先進地であり、

 タタラが国富と文明を象徴するトップ産業だったことを

 見逃してはならない。

 するとそれを名にもつ「タタラ姫」は、

 夜も輝くような美と富の姫という

 赫夜姫の名が同じ島で生まれたのと同じで、

 必然的であるし、

 またその富と武力が、

 天皇家とその一族の

 「橘=種子島人(タチバナ)」政権を東征させ、

 倭人圏を本州・四国に拡大させたのであり、

 「古代淡路島(タンジシマ)=種子島(タンジシマ)」を

 拠点に一気に奈良に大和朝廷を定着させたのであることが、

 はっきり組織立って、立体的に理解できるのである。

 「辰韓の鉄の謎を解く種子島海軍国の総括」

 この<種子島>はまた、

 沖縄から中国東北区やロシア沿海州に及ぶ海上支配権をもち、

 「漕ぐ人(りょ)」という呼び名から始めは

 「高句麗(コグリョ)=朝鮮語」

 という当て字をもった大国の本国で、

 位宮と卑弥呼時代には、

 ビシュヌー神を名にもつ

 道の大人(うし)を王とする海軍王国の本国だったが、

 ポントスを名乗るギリシャ系応神朝以後、

 ポセイドンが国名に選ばれたことによって、

 ポセイドンの名から

 <百済>と<出水・和泉・出雲>が生まれたことも、

 その<百済>が<ハツセー>と読まれて

 <長谷>の地名を残していることも、

 また<百>が<ホ>と読まれて

 「豊(ホ)の国=豊津国(ホツマ)=豊玉(ほつま)=秀真(ほつま)国」

 という国名で呼ばれることなども、

 すでに充分、確認済みである。

 そしてその<和泉の首都>が

 百舌鳥耳=百済(モズミ)こと<堺>であることは、

 幾つもの謎を明快に解いてくれている。

 まず『魏書・東夷・韓章』の辰韓の部分にある、

 「この国には鉄が出る。

   韓・濊・倭は従(欲しいままに)それを取る」

 という記録であるが、

 この辰韓を朝鮮半島東南部の、

 後の新羅(慶州地方)のことだとすると、

 そこには鉄の産地は全くない。

 この辰韓を南九州語で「タッカラ」と読むと、

 宝島や<トカラ列島>のある<薩南諸島>のことになり、

 豊玉を漢音で「リユウ」と読むことから、

 豊玉姫が竜になり、

 竜宮伝説が生まれたりした種子島が、

 鹿児島県の辰巳の方角=東南に位置するので

 「辰巳(タミ)が島や辰韓(タッカン)=立神」

 と呼ばれたことがわかる。

 「正確な『三韓史』」

 すると<馬韓>は<マカラ>で「靺鞨(マカラ)」

 と書かれた国、

 インド語のクジラ・鯨のことで百済(クダラ)、串良、

 臥蛇島・ガジャジマ(鯨島=ガジャミナ・鯨=インド語)

 を生んだ語源。

 弁韓はベンガルで南インド人の国だと判るから、

 南鮮の国々は薩南諸島からのインド系の人々、

 ソナカ仏教徒を中心とした「倭人」移住者の国だったことが判る。

 卑弥呼の直接支配地だったといっても絶対に間違いではない。

 なぜなら卑弥呼は別名の

 息長帯(ソナカシティ)姫

 (蘇那曷之帯(ソナカシティ)の妻・神功皇后)で、

 明確に「帯方郡」を意味する

 朝鮮半島の領主であることを名乗っているからである。

 それは高句麗を主軸にもつ天皇家の女王だから当然の名乗りだが、

 神功皇后の記録にある彼女がソナカ(仲哀天皇)と

 共に攻略した三韓は半島ではなく薩南諸島で、

 その結果が南鮮への大移動を生み、

 三韓が朝鮮半島にあることになったのである。

 <韓・カラ>の地名は今も

 「吾平=姶良=カラ」

 「韓国見嶽(からくにみだけ)」

 として南九州に名残りを止めている。

 こうみてくると鉄鉱山のない新羅地区の辰韓が

 「鉄を出す」と特記されている謎が解ける。

 こちらの辰韓は、

 朝鮮半島の辰巳(東南)の国という意味で、

 同じ名をもち、

 同じ人たちが住む2つの国の報告書が

 混同されて引用されたために、

 南鮮に鉄山があるという記事が誤載されただけで、

 真相は種子島の豊富な鉄資源が

 倭人連邦人に広く使われていた記録である。

 「誰が?タタラを、いつ?、もって来たか?」

 では、<タタラ>を我が国まで持ってきたのは、

 インド人か?ギリシャ人か?

 それとももっと古くやって来た

 <シュメル人=カリエン>たちだったのであろうか?。

 今も東南アジア各地ではカレン人(カリエン)が、

 鍛冶屋部族としてよく知られている。

 それも女性の仕事である場合が多い。

 彼等が我が国へタタラ文化をもってきた証拠は

 我が国で<カジャと呼ぶその職業名>が、

 はっきり立証する大文化財になっている。

 <鍛冶屋>と呼ぶその名は、

 <リ>を<ジ>と発音し<家(イエ)>を<ヤ>と発音する<南九州語>は、

 今でも<カリエン>を<カジャン>と訛るし、

 英語でもカルデアンはカージャンと発音する。

 カリエンの名がそのままで鍛冶屋なのである。

 彼等は今、

 タイでカリエンだが、

 ミャンマーでカレンと呼ばれて

 カレン、カレンニの2州を構成する勢力をもっている。

 女性を族長とする女系家族で、

 その住居は大きく『魏書倭人章』にある倭人の大家族、

 大家屋と多くの一致点をもち、

 入れ墨をし、女性は貫頭衣を着、健康維持に肌に土を塗る。

 『魏書倭人章』は朱丹と書くが、

 それを我が国では朱砂・スサと呼ぶ。

 スサの王の一族がタタラをもってきたことが、

 これらとその「鉄鏃」という2字で、

 徹底的に立証されている。

 こうお話しすると、

 私(加治木義博)の東南アジア歴訪調査が、

 どんなに効果的に倭人と『魏書倭人章』の実体を明確にしたか、

 その行動力の成果がよくご評価戴けると思う。

 「過去の邪馬台論争を超える、たった一枚のスケッチ」

 鎌倉時代末期、

 元寇の約半世紀前の寛元元年(1243年)、

 肥前から中国へ渡ろうとした商人たちが、

 漂流して沖縄へ漂着したときに写生した、

 当時の沖縄漁民の風俗スケッチで、

 その体験を記録した貴重な

 『漂到流球国記』の巻末につけられた絵図の一部である。

 この女指揮者は間違いなく「三叉鉾」をもっている。

 それには房飾りが垂れているので、

 魚を突くための漁具ではなく、

 神の助力を祈るための象徴=聖器だとわかる。

 するとそれが<三叉鉾>であることは、

 キリストの十字架と同じく、

 その<三叉鉾>だけで、

 その神が<ギリシャの海神・ボセイドン>だと判る。

 それだけではない。

 女性が指揮者であることは、

 当時沖縄にいたことの確かなカリエン人の習俗で、

 その風貌も西方のもの、

 この絵が表わしている人種は、

 カリエン人とギリシャ人との混血なのである。

 さらによく見ると、

 「貫頭衣」を着て、

 断髪した頭に布を巻き『魏書倭人章』にある

 「招頭」とはどんなものだったかを

 眼のあたりに見せてくれる。

 その弓は上が長く下が短い倭人の弓である。

 たった1枚のスケッチだが、

 それが元禄の荒井白石から、

 明治大正の大論争を繰り返した大歴史家たち、

 そして戦後に、

 雨後の筍のように現われた大量の邪馬台学者の、

 その誰もが、

 全く立証できなかった真実の<倭人の風俗と文化>を、

 この絵は物の美事に完全に描写して、

 証明し厚くしているのである。

 ※出典:

  加治木義博「大学院講義録30:27~32頁」
  加治木義博「大学院講義録30:23~30頁」

0 件のコメント:

コメントを投稿