ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2015年7月26日日曜日
崇神・四道将軍
≪崇神・四道将軍≫
『紀・紀』がどちらも崇神天皇の記録として書く
「四道将軍」の派遣記事である。
『紀・紀』で異なる当て字の中から、
理解に便利な方を使ってお話しするが煩わしいから、
ここでは、いちいち原典を書くのは省略する。
1 東海(東方十二道) 建沼河別
2 北陸(高志道) 大彦
3 西道 吉備津彦
4 南 丹波 丹波道主 日子坐王
これを日本の記事でなくインド起点として考える必要があるのは、
東方十二道という記事に疑問があるからである。
在来の国史学の奈良起点でも言語復原史学会の鹿児島県起点でも、
東方に向かっては12もの街道はないが、
インドからならこの表現はうなずける。
またはるか後世につけられた東海道の名にダマされ易いが、
東が海なのは南九州から見た視点以外にはない。
ところがインド起点だと東は日本海の3倍もあるベンガル湾があって、
まさに東海だし、
それを越えると東南アジアの各国へ通じる街道があり、
島伝いに辿(たど)る多くのコースがある。
B.C.E.250年当時にそれを12道と表現した可能性は、
日本の場合よりはるかに高い。
次は北を見てみよう。
そこは北陸と書いてある。
インドの北には海はないから東海と対称すれば北陸である。
「高志道」とも書くが、
アソカ宣布団の目標記には Kasmira、後のカシミールだから、
「カシ」に「高=カウのカ」と「シ=志」を当て字したとみると、
「ミール・ミラ」に「道」を当てたものに一致する。
これは南九州人が当て字した証拠でもある。
南九州語では
「ミル=見る」も「道」もどちらも「ミッ」と発音して
区別がつかないからだ。
これでもまだ、コジツケ臭いとお思いの方もあると思うが、
四連将軍が行った南の国名は「丹波」で、
魔涯法勅には
Tambapanni-dipa タンバパンニ デイパと刻まれている。
間違いなく「丹波」と同じ発音の国なのである。
我が国の丹波は奈良からみると北にあって絶対に南ではない。
どこから見ても四道将軍は我が国の記録ではない。
これは『記・紀』の編集者が掻き集めた
古資料中にアソカ宣布団の伝承があったこと。
それを崇神の事跡とみたのは、
崇神朝が仏教政権だったという知識をもっていたこと。
などを裏書きしているのである。
出典:加治木義博「大学講義録21:10・11頁」
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