2015年7月25日土曜日

アレクサンドロス王家の歴史


 ≪アレクサンドロス王家の歴史≫

 ギリシャは知らぬもののないアレクサンドロス大王の父・

 ピリッピクス(Philipcs=英語読み・フィリップ)が初めて統一した国である。

 彼はそれまでは紀元前359年に即位したマケドニア王であった。

 当時のマケドニアは産業も都市も遅れていて、

 海に面していながら港さえもない、

 原始的な自給自足の農業国に過ぎなかった。

 そこで彼は、

 現状打破は軍事強国化以外にないと考えて、

 生涯をそれに打ちこんだ。

 妻は西隣りのエピルスの王女オリムピアスで、

 サモトラケの祭りの儀式で出合って恋愛結婚をした。

 そして3年後、アレクサンドロスを生んだ。

 彼女は熱烈な宗教家で、

 その信仰は古来のギリシャ密教だった。

 これは酒の神ディオニュッススを主に祭るもので、

 私たちに関心のある

 「カピトーリウム=ハリカルナッススの神託」と同じ宗教である。

 中世ヨーロッパでキリスト教と対立して、

 根強い勢力をもっていた黒魔術はこの密教の子孫なのである。

 オリムピアスは自身、

 巫女として高い地位と強い権力をもち、

 神託の技術にもすぐれていて、

 神の使いと称する大蛇を飼い馴らして自由に操ったりしたので、

 崇拝者を多くもっていた。

 そして、

 戦争を賛美し、人殺しの研究ばかりしている夫を野蛮だと、

 心から見くだしていた。

 夫が戦争に勝って国民に賞賛されればされるほど、

 それを嫌った。

 夫婦の意見はことごとに対立し、

 夫婦喧嘩の絶え間がなかった。

 夫が戦場を駆け回り、都を留守にしている時、

 息子アレクサンドロスの教育は母の手にあったが、

 父は自分がこれから築き上げる大帝国の皇帝を夢見て、

 息子をその後継者にふさわしい男に育て上げようと、 

 大哲学者アリストテレス始め多くの学者を家庭教師とし、

 競争相手に優秀な頭脳をもった貴族の子弟を選んで、

 一緒に勉強させるなど、それ以前には例がなく、

 現代でも珍しいほどの

 「後継者教育」を世界で初めて実行していたのである。

 アレクサンドロスが勝利者になれたのは教育の力だった。

 だがこの人工天才は、

 対立する父と母との間で、

 完全に分裂症患者に育て上げられてしまった。

 プルタークは『英雄伝』の中で書いている。

 「敵の大都市が陥落した。

  ○○大戦に大勝した、という報告がきても、

  アレクサンドロス少年は顔をしかめるだけであった。

  そしていつも学友にいった。

  親父はみんな先き取りしてしまう。

  ……これじゃ、僕が君らとやる大事業なんか残らないよ……」

 こうした話が父の耳に入らぬわけがない。

 そんな教育で彼の最大の夢を

 台なしにぶちこわした妻に対する憎しみが、

 美しいマケドニア娘・クレオパトラとの

 第二の結婚となってはねかえつた。

 紀元前337年のその婚礼の式の宴会で、

 この呪われた父子はあわや殺しあいを演じるところまでいく。

 その翌年の336年、アレクサンドロスの妹と、

 すでにエピルス王になっていたオリムピアスの弟との、

 姪と叔父との結婚式場で、

 「誇大妄想で仕事狂の粗大ゴミ亭主」ピリッピクスは、

 白衣を着ただけの丸腰で

 行列の中央を上機嫌で進んでいるところを、 

 自分の親衛隊員の一人に殺された。

 その場でその犯人も殺されたが、

 オリムピアスは夫の葬式に負けない規模の葬式を、

 そのテロリストのためにも行なうように命じたのである。

 こんなお語をしたのは、その後のギリシャの人心が、

 オリムピアスの神秘主義に大きく傾いた理由を知っていただくと、

 「4神」の問題がいっそうよく理解していただけるからである。

 オリムピアスの信仰対象が

 「酒の神のディオニュッスス」だったことはお話しした。

 そして『カピトーリウム神託集』のもとになった

 ハリカルナッスス神殿の祭神もまた、

 同じ「ディオニュツスス」だった。

 その神殿はアレクサンドロス帝国時代に建設されたのだから、

 アレクサンドロス時代のあと、

 その神殿で行なわれた神託に、

 建国の英雄たちの神格化と信仰が

 色濃く混じっていたことは不思議ではない。

 そこで『黙示録』に現れたその遺物である

 4つの「色」の、

 出現の「順序」が問題になるのである。

 私はつい今しがた

 「この西南北東、この方角の順序は何を意味しているのだろう?

  それはギリシャの建国史を知っていると、一目瞭然なのである」

 と申しあげた。

 一体どう一目瞭然なのだろう?

 ギリシャ大帝国の建国は、

 一般にアレクサンドロスの業績のように誤解されているが、 

 それはこれまでご覧いただいたように、

 その父ピリッピクスが基礎を築きあげたものだった。

 そして、

 そのまた母体になったマケドニア人は、

 ギリシャの土着人ではなく、

 はるか東から移ってきたインド・アーリア人だった。

 それはハル・マゲドンやマガダといった地名や国名が、

 彼らと共通していることでも証明されている。

 まず「西征」が初めで、

 これが最初の馬の色「西=白」に一致するのである。

 彼らはいったんドナウ川(ダニューブ〉の源、

 カルパチア山脈のあたりに住んだあと、

 今度は南に進んでバルカン半島を南下し、

 旧ユーゴスラビアの南端、

 いまのマケドニア地方に定着した。

 これが「南征」=第二の馬の色「南=赤」に一致する。

 第3の「黒」は北だから、

 これはマケドニアの北に隣りあっていたペオニアを

 ピリッピクスが征服併合して大マケドニアを作りあげ、

 ギリシャ連邦の支配者の地位を築いたことの勝利の記憶である。

 最後の「青=青竜=東」は、

 最後の仕上げ、

 アレクサンドロスの「東征」。

 まずへレスポントを通ってペルシャに入った彼は、

 グラニクス河でペルシャ守備軍を破り、

 南下してハリカルナッスス城を大激戦の末におとした。

 ハリカルナッススは、

 大王にとって最初に手にいれた都城で、

 生涯、忘れることのない記念すべき地であった。

 そこに神殿が建てられたのは当然のことである。

 それ以後のダリウス・ペルシャ帝国皇帝とのイッススの戦いから、

 インド・パンジヤブ征服までの歴史は、あまりにも有名で、

 ここでお話ししてもページがむだになるだけである。

 これが「東征」=第4の馬の色「東=青」に一致する。

 これでアレクサンドロス王家の歴史が、

 そのハリカルナッスス神殿で

 作られた神託の中に反映していたことと、

 その順序の意味がおわかりいただけたと思う。

 そのアレクサンドロスの理想が、

 父の武力による暴力統一方式と、

 母の宗教教化による平和統一方式の、

 奇妙な合成物であったことはいうまでもない。

 彼は紀元前333年ペルシャのダリウス3世を

 イッススの大戦で破ったあと、

 331年アルベラの戦いで止どめを刺した。

 超大国の皇帝は再び逃げる途中、

 味方の将軍たちの手にかかって死んだ。

 だから彼は暴力でも父に劣らなかった。

 だが、その後がおもしろい。

 首都スサに帰った大王は

 ダリウス3世の娘との結婚式をあげたが、

 同時に将軍や友人たち90人と数千人のマケドニア兵士にも

 ペルシャ人の花嫁を迎えさせた。

 「欧亜結婚」と呼ばれるこの「融和主義」が、

 母オリムピアスの理想の実行だったことはいうまでもない。

 従来は、アレクサンドロスの両親の悲惨な争いを、

 いかにもありふれた家庭内暴力のようにしか見ない

 学者ばかりだったが、

 それはあまりにも小さく浅薄である。

 実際は根本的に相違する世界観と理想像の激突だった。

 男性は現実的に人間の実態をリアルにとらえる。

 女性は空想的に世界を美化してロマンチックにとらえる。

 その永遠の相剋の宿命の落し子がアレクサンドロスであり、

 『カピトーリウム神託集』であり、

 『黙示録』であり、

 卑弥呼と垂仁天皇の争いが生んだ

 日本人でもあったのである。

 それはヘレニズムの2大激流が生んだものだったのだ。

 その『カピトーリウム神託集』は、

 イエスの教科書でもあった。

 彼はアレクサンドリアの大図書館かどこかで

 その写本を読みふけった。
 
 彼はオリムピアスの主張に同調した。

 だがイエスもまた、

 そのロマンの夢を現実主義のローマ人の暴力によって踏みにじられた。

 ヨハネはイエスの死後にそれを読んで悟った。

 彼が「アポカリプス=黙示」と呼んだ真意は、

 このことなのである。

 それは、

 イエスは「黙して語らないが、彼はそれを悟りえた」

 という意味なのだ。

 だが彼もまた男性だった。

 彼は師が最も戒めた「復讐」と「恐喝」のために、

 それを使ってしまったのである。

 ※出典:加治木義博「黙示録の大予言:70~76頁」

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