2015年7月23日木曜日

ウッタラ仏教国:出雲


 ≪ウッタラ仏教国:出雲≫

 銅鐸が、1996年に島根県大原郡加茂町の岩倉で計38個出土した。

 これは滋賀県野洲(やす)町大岩山の記録24個をはるかに超え、

 簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭(かんば)荒神(こうじん)谷で

 銅剣358本と共に出土した6個とで計44個、

 全国の出土数約500個の9%を占めた。

 分布中心地の大阪から遠く離れた出雲で、

 なぜ大量に出土したのか?。

 当時諸説があったが定説はなく現在も謎のままである。

 この謎も「サカ~サタ]の歴史を知る私たちには、

 すでに京都府のサガから出雲のサタへ

 大移動した痕跡の確認によって、

 すべて納得のいく史実になっている。

 出土地の大原・加茂・岩倉も

 全て嵯峨(サガ)と同じ京都市北部の地名と重なり、

 私たちの着眼点の正しさを保証する。

 三河(愛知県)の小坂井というサカが

 新たに銅鐸史に加わった。

 これも仏教遺跡であることは動かない。
 
 なぜなら銅鐸出土だけでなく、

 三河という文字は「サカ」への当て字であり

 「サンガ」という発音もある。

 仏教ではサンガは「僧伽(サンガ)」と当て字されるパーリ語で、

 「Sanga 僧団・教団」のことである。

 また僧伽の当て字はそのまま「ソガ」でもある。

 蘇我の馬子と完全に重(かさ)なる聖徳太子の、

 倭(ウワイ)国・推古女帝政権が

 周知の仏教政権だったのと同じく、

 仏教を国教とした徳川氏が、

 この三河出身であることもまた決して偶然ではなく

 弥生ウッタラ政権の遺物だったのだ。

 出雲だけが例外ではありえない。

 サカは釋迦族=塞族を意味し、

 張政の国名・塞曹掾史もまた塞族係官を意味していた。

 今それに新たに蘇我が加わったのである。

 すると

 西端に出雲大社のある

 島根半島の東端にある境港(さかいみなと)が

 重要なサカイであることが決定的になる。

 そこから中の海に入れば目の前に

 「大根(だいこん)島」がある。
 
 それが大=ウッ・根=タラシ=「ウッタラ之(シ)」島だとわかると、

 この県がなぜ「島根」という名を持っているのかもわかるし、

 そこでいま市制が敷かれている大田(おおだ)市もまた

 大=ウッ・田=タ・国=ラ=「ウッタラ」の

 名残だということもわかる。

 この大田(おおだ)はそのまま

 「田=ダ=国(ラ)」だから「大国」、

 その主は「大国主」の尊だということになる。

 出雲の大国主は、

 卑弥呼の伝承が伝わった八俣大蛇退治と関連したもののほかに、

 5世紀や7世紀の大国(オオくに)主や、

 紀元前の大国主(ウッタラ)だった

 可能性があるとはっきり見えてきた。

 こうみてくると出雲には

 『記・紀』の「出雲神話」や、

 『風土記』ていどのものではなく、

 それだけでは解けない歴史が隠れていたとわかる。

 それが今、

 ウッタラと銅鐸に関わる弥生文明に始まることまで解明できた。

 少なくとも「なぜ出雲に銅鐸が…?」ではなく、

 「出雲だから銅鐸があるのは当然だ」というところまでわかった。

 我が国の『建国史』解明は、

 これでまた一大飛躍を遂げ、

 出雲と『出雲神話』は全く新しい研究対象になったのである。

 ※出典:加治木義博「大学講義録34:25・26頁」

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