ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2015年7月23日木曜日
ウッタラ仏教国:出雲
≪ウッタラ仏教国:出雲≫
銅鐸が、1996年に島根県大原郡加茂町の岩倉で計38個出土した。
これは滋賀県野洲(やす)町大岩山の記録24個をはるかに超え、
簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭(かんば)荒神(こうじん)谷で
銅剣358本と共に出土した6個とで計44個、
全国の出土数約500個の9%を占めた。
分布中心地の大阪から遠く離れた出雲で、
なぜ大量に出土したのか?。
当時諸説があったが定説はなく現在も謎のままである。
この謎も「サカ~サタ]の歴史を知る私たちには、
すでに京都府のサガから出雲のサタへ
大移動した痕跡の確認によって、
すべて納得のいく史実になっている。
出土地の大原・加茂・岩倉も
全て嵯峨(サガ)と同じ京都市北部の地名と重なり、
私たちの着眼点の正しさを保証する。
三河(愛知県)の小坂井というサカが
新たに銅鐸史に加わった。
これも仏教遺跡であることは動かない。
なぜなら銅鐸出土だけでなく、
三河という文字は「サカ」への当て字であり
「サンガ」という発音もある。
仏教ではサンガは「僧伽(サンガ)」と当て字されるパーリ語で、
「Sanga 僧団・教団」のことである。
また僧伽の当て字はそのまま「ソガ」でもある。
蘇我の馬子と完全に重(かさ)なる聖徳太子の、
倭(ウワイ)国・推古女帝政権が
周知の仏教政権だったのと同じく、
仏教を国教とした徳川氏が、
この三河出身であることもまた決して偶然ではなく
弥生ウッタラ政権の遺物だったのだ。
出雲だけが例外ではありえない。
サカは釋迦族=塞族を意味し、
張政の国名・塞曹掾史もまた塞族係官を意味していた。
今それに新たに蘇我が加わったのである。
すると
西端に出雲大社のある
島根半島の東端にある境港(さかいみなと)が
重要なサカイであることが決定的になる。
そこから中の海に入れば目の前に
「大根(だいこん)島」がある。
それが大=ウッ・根=タラシ=「ウッタラ之(シ)」島だとわかると、
この県がなぜ「島根」という名を持っているのかもわかるし、
そこでいま市制が敷かれている大田(おおだ)市もまた
大=ウッ・田=タ・国=ラ=「ウッタラ」の
名残だということもわかる。
この大田(おおだ)はそのまま
「田=ダ=国(ラ)」だから「大国」、
その主は「大国主」の尊だということになる。
出雲の大国主は、
卑弥呼の伝承が伝わった八俣大蛇退治と関連したもののほかに、
5世紀や7世紀の大国(オオくに)主や、
紀元前の大国主(ウッタラ)だった
可能性があるとはっきり見えてきた。
こうみてくると出雲には
『記・紀』の「出雲神話」や、
『風土記』ていどのものではなく、
それだけでは解けない歴史が隠れていたとわかる。
それが今、
ウッタラと銅鐸に関わる弥生文明に始まることまで解明できた。
少なくとも「なぜ出雲に銅鐸が…?」ではなく、
「出雲だから銅鐸があるのは当然だ」というところまでわかった。
我が国の『建国史』解明は、
これでまた一大飛躍を遂げ、
出雲と『出雲神話』は全く新しい研究対象になったのである。
※出典:加治木義博「大学講義録34:25・26頁」
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