2015年7月2日木曜日

畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」

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 ≪畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」
 ≪畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」

 また『史記』や『後漢書』にも

 「秦の始皇が除福と童男女数千人を蓬莱(ホーライ)に派遣して

  神仙を捜させたがダメで、

  徐福は誅(ちう)を恐れて此の洲に止(とど)まった」

 とあるのが同じものなのである。

 だから秦韓とは辰韓の別名だったのである。

 倭の五王はそれを辰韓の代わりに使っていた。

 この韓はカンと発音していたのか?確かめておく必要がある。

 なぜなら姶良郡はカラグニ、

 霧島の最高峰もカラクニ見岳で、

 カン郡でもカンコク見岳でもなかった。

 それと同じものが突然カンになることはないから、

 辰韓はシンカンではなく

 シン韓(カラ)かタツ韓(カラ)だったのである。

 すると神功皇后が目標の国を宝の国(タカラの国)と呼び、

 それを占領して君臨した国がそれだったのだから、

 これはトカラ列島の宝島→種子島の辰韓(タツカラ)→

 開聞岳のあるシラキッ新羅と姶良郡のカラグニ→

 福岡の白日の国=新羅(新=辰・羅=国=韓)→半島の辰韓、

 という拡大移動に伴って分布した地名の全てが、

 このタッカラ=宝の国という名をもっているのだ。

 壹與=神功皇后が君臨した宝の国=邪馬壹国は、

 このようにどこからみても畿内にはない。

 これも邪馬台国畿内説がでたらめだという重要な証拠である。

 もちろんそのことは他の山積する反証群によって、

 もう充分立証され尽くしてはいるが、

 学説というものは裁判ではない。

 研究結果の全ての真実を徹底的に表明して、

 「万全を期する」のが務めなのである。

 ※出典:加治木義博

     「言語復原史学会・大学講義録33:28頁」

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