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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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≪畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」≫
≪畿内説を壊滅させる神功皇后の「宝の国」≫
また『史記』や『後漢書』にも
「秦の始皇が除福と童男女数千人を蓬莱(ホーライ)に派遣して
神仙を捜させたがダメで、
徐福は誅(ちう)を恐れて此の洲に止(とど)まった」
とあるのが同じものなのである。
だから秦韓とは辰韓の別名だったのである。
倭の五王はそれを辰韓の代わりに使っていた。
この韓はカンと発音していたのか?確かめておく必要がある。
なぜなら姶良郡はカラグニ、
霧島の最高峰もカラクニ見岳で、
カン郡でもカンコク見岳でもなかった。
それと同じものが突然カンになることはないから、
辰韓はシンカンではなく
シン韓(カラ)かタツ韓(カラ)だったのである。
すると神功皇后が目標の国を宝の国(タカラの国)と呼び、
それを占領して君臨した国がそれだったのだから、
これはトカラ列島の宝島→種子島の辰韓(タツカラ)→
開聞岳のあるシラキッ新羅と姶良郡のカラグニ→
福岡の白日の国=新羅(新=辰・羅=国=韓)→半島の辰韓、
という拡大移動に伴って分布した地名の全てが、
このタッカラ=宝の国という名をもっているのだ。
壹與=神功皇后が君臨した宝の国=邪馬壹国は、
このようにどこからみても畿内にはない。
これも邪馬台国畿内説がでたらめだという重要な証拠である。
もちろんそのことは他の山積する反証群によって、
もう充分立証され尽くしてはいるが、
学説というものは裁判ではない。
研究結果の全ての真実を徹底的に表明して、
「万全を期する」のが務めなのである。
※出典:加治木義博
「言語復原史学会・大学講義録33:28頁」
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