2015年7月17日金曜日

ウバイドの移動=遷都


 ≪ウバイドの移動=遷都≫

 カルデアは、

 ウバイド文明圏の先進国、

 天測を発明した海運国で、

 私が発見した稲敷郡(茨城県)から殷墟までの霊域ラインは、

 彼等が実測したことを立証している貴重な有形文化財である。

 彼等は夏の時代に、

 すでに九州はおろか東日本でも活躍して、

 水郷茨城を開拓しつつ中

 国に大帝国を作るほどの交易と往来をしていた。

 それは彼等が「商」を国名にした程、

 大規模だったのである。

 ウバイドはそのままで

 倭売奴、大買奴だったのだ。

 これが解ると、

 ウバイド文明の古さと巨大さ、

 そしてわが国が何故?

 その中心になったのかが理解できる。

 それは沖縄海域が

 貝貨用の小型宝貝の世界最大の宝庫だったことと、

 大市場である中国への往来に好条件の揃った、

 気候温暖で水田農業の最適地、

 四面環海で天国の要塞だったこと、

 船や家屋を作るのに最適な森林が豊富で、

 中近東出身者たちには、

 天国のような好環境が揃っていたことがことなどである。

 もちろん、その前には台湾が選ばれていた。

 カリエン・カレンが居住した証拠に、

 花蓮港(カレンこう)という大港湾都市が残っている。

 それが琉球列島に拡大したので

 小さな沖縄を「大琉球」と呼び、

 台湾は「小琉球」に転落した。

 しかしウバイド本来の水耕農業には不適なので、

 その適地を求めて、

 さらに九州から本州へと遷都し続けて現代に至ったのである。

 これで「何故?ウバイドの移動は遷都なのか」、

 とその理由がお解り頂けたと思う。

 それをいま少し補強すると、

 それは女帝国の膨張であって、

 意識した移住でも、遷都でもなく、

 さらなる繁栄のための、開拓の連続だったのである。

 それまでの生活圏の外に新たな農耕敵地がみつかると、

 人々はそこへ移住して水源を調査し、

 田畑の設計をして、開拓にとりかかる。

 その間の食料や、衣料、農機具、生活用具といったものは、

 指導者が供給し、補給し続ける。

 だからそれを担当する役人が必要になり、

 役人の給与も必要になる。

 こうして納税の原形として雇調制度が生まれてくる。

 ウバイドではそれが8000年前には出来上がっていて、

 開拓地の拡大とともに、政府も女帝も遷って行ったのである。

 この発想は農業本来のものではない。

 羊などの食用獣を放牧して、

 食草を追って移動し続けるシステムが基礎にある。

 だから居住には簡易なテント状のものが敵している。

 わが国の居住遺跡が、円形の基礎を残し、

 支柱を斜めに組み合わせて、上端を縄で束ねてあるのは、

 樹木の豊富な我が国式のテント建築なのであって、

 決して貧困のせいではなかったのである。

 それは農耕生活に入る前の放牧生活の知恵の活用であり、

 皇室が欧米の絢爛豪華な大宮殿と異なる

 質素な木造家屋を選んできたのも、

 全てこの歴史の証人なのだ。

 都が移るという点だけ見れば確かに遷都だが、

 遷都といえば都だけが移ったという印象がある。

 ウバイド~インダス~倭人の場合は、

 都だけでなく国家集団全体が

 首都もろとも移動し続けたのだから、

 遷都ではなく国家が拡大したのであって、

 それにつれて都も位置を変えて行ったということでしかない。

 それは当然のことで、氷河期直後と言っていい

 8000年前には、国境などというものはなく、

 全世界に無人の荒野が涯てしもなく広がっていたのである。

 ※出典:加治木義博「大学院講義録35:5・6頁」

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