2015年7月16日木曜日

邪馬台国畿内説(大和説)


 ≪邪馬台国畿内説(大和説)≫

 邪馬台国畿内説がいう、

 奈良や近畿に卑弥呼政権があったという説は、

 神武天皇の建国が奈良だということである。

 仮にそれを正しいと仮定して考えてみよう。

 神武天皇は大軍で東征してはいないから、

 その後進行した卑弥呼時代直前までの半島進出は、

 近畿人が追い出されて移住した可能性も高く、

 小人数で折角取った土地に愛着のある

 南九州から同行した人々ではない。

 だとすれば紀元前後の弥生中後期には、

 近畿人が半島まで支配していたことになる。

 この仮定の場合、

 その移住先の地名は近畿の地名と共通でなければならない。

 ところが今ご覧の通り、半島の共通地名は全て九州地名である。

 これは卑弥呼時代直前までの半島進出は九州人が行なった証拠で、

 それは同時に神武東征が

 卑弥呼時代以後だったことも証言しているのである。

 どちらからみても卑弥呼以前から奈良に大和朝廷があり、

 それを継いで卑弥呼が奈良や近畿地方にいたという仮説は、

 この半島共通地名の問題によっても完全に否定されてしまう。

 逆に卑弥呼政権が九州にあった可能性は、はるかに高まる。

 例えば上記、馬韓の地名は、

 天城(鹿児島県徳之島)・

 甘木(楯岡県)、

 八重山・嘉手納(沖縄県)と、

 3世紀の近畿人が使うどころか、

 まるで知らなかったはずの特殊な地名が混じり、

 椿(飯塚市)、

 津奈木(熊本県)などという

 固有地名まで入っているからである。

 しかし念をいれて視点を変えて、

 すでに確定している倭の五王の史実でも検討してみよう。

 まだかなりの人が信じているように、

 卑弥呼政権が3世紀に奈良にあったのなら、

 5世紀の倭の「国生み」は

 奈良から出発して西へ向かって進行したことになるから、

 五王の名乗りは

 「武=高市・奈良県」

 「興=河内・大阪府」

 「済=倭済(イズミ)=泉州(イズミ)・大阪府」

 「珍=泉州・大阪府と紀州・和歌山県」

 「讃=讃岐・香川県」の順でなければならない。

 ところが、史実はその正反対、

 まだ四国の名乗り

 「大雀(オオサザキ)=阿波(オオ)・讃岐(サザキ)=仁徳天皇」

 しか持たない

 倭王・讃が最も古く、

 イサナキ(「伊耶木(イザナキ)」)の名乗りをもつ

 履中=倭王・珍が、

 初めて大阪湾を越えて近畿に入った、

 という名乗りを持っていて、

 全てが「国生み」と呼ぶに

 相応(ふさわ)しい記録を完備している。

 そして以後の済・興・武の名乗りも、

 現存する地名と完全に一致して、

 倭王たちの初めての奈良への侵入と支配の開始が、

 武が宋に上表したき世紀末の478年当時だったことを、

 寸分の疑問点も残さず明白に記録している。

 卑弥呼を奈良の女王だと主張する者たちは、

 以上の倭の五王の記録を否定し、

 大阪湾国生みを抹殺するだけの論拠を明示して、

 私たちを納得させなければならない所まできている。

 我が国の史実は在来の学者が漠然と妄想していたような、

 曖昧(あいまい)なものではなかったのである。

 これで倭国は、卑弥呼時代はもちろん、

 5世紀末になって初めて奈良に本拠をもつまでは、

 近戦圏とは全く無関係だったことが確認できた。
 
 では日本国はどうか?。

 日本国は『旧唐書』の

 7世紀末の記事に初めて「もと小国」として、

 倭国と別の国だと明記されている。

 それも該当する小国時代の地理条件が、

 全国でも鹿児島県以外にない地形をもつ国として記載され、

 また『新唐書・日本』には、
 その

 「東海の嶼(しま)には

  邪古(屋久島)、

  波邪(隼人)、

  多尼(谷山)の3小王がいる」と

 書き加えてあるので、

 小国時代の日本は7世紀まで鹿児島県にあり、

 隼人より西に首府があって、

 倭国以上に奈良とは無関係だったとわかる。

 人々の移動は、

 地名とその大きさの変化で、

 どちらからどちらへ移動したのかがわかる。

 建国期の移動は拡大移動が原則だ。

 仮に3世紀に近畿が中央だったのなら、

 例えば丹波・丹後・但馬などは以後、

 西に移って一層大きくなり分裂して行く。

 それがなぜ次第に合併して、

 逆に小さくなり、

 種子島にまで極小してしまうのか、

 説明のつかない現象が幾っも重なって

 大量の旁国で起こったことになってしまう。

 小さいものが、あちらこちらへ分裂しながら、

 次第に移動して行って、

 幾つかの大国になったのは誰にでも理解できるが、

 その逆はどんなにしても理解できない。

 これが邪馬台国大和説や畿内説の最大の欠点なのである。

 ※出典:加治木義博「大学講義録33:24~26頁」

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