2015年7月15日水曜日

種子島人支配の真因


≪種子島人支配の真因≫

『後漢書』が記録した107年に後漢を訪れた倭国王・帥升は、

漢魏音でスイサヌウ、すなわちスサノオという名乗りで、

これはシュメルの古都スサ(現在のイラクのスーサ)の王を意味し、

出雲神話のスサノオの尊の八俣の大虵退治も、

何代目かのスサノオ=位宮が卑弥呼政権を倒した史実を、

英雄ギルガメシュの大蛇退治神話を模して説話化したものである。

八俣とは、八幡をヤバタ→ヤマタと訛った当て字、

大虵(ウチ)は鹿児島神宮所在地の名の

「ウチ=内=宇治」への当て字である。

ヤマタは邪馬臺に似ているが、

邪馬(ジャマ)がヤマと発音されるようになったのは

8世紀以後のことで、

この神話とは全く関係なく、

邪馬臺(ジャマダイ)がヤマトだというコジツケと全く同じで

無知の産物にすぎない。

さらに邪馬臺という名詞自体、

後世の人間の錯覚が産み出した幻覚で、

現実にはこの地球上に存在したことのない幻なのだ。

「中国の山岳崇拝→種子島」

バビロンに敗北したシュメル人は

中国に移動して「周」をたて、殷帝国を倒した。

またアレクサンドロス東征の落とし子・

ギリシャ人も中国に住み、

オリンパス山などを神山とする

ギリシャ宗教の「山」信仰で、

台湾を女神ホーライの名で蓬莱山(ホーライ)と呼ぶ

秦(シン)の徐福らの「方士」が秦代に

琉球の与那原(よなばる)=徐那伐(ヨナバル)=徐福の都(ジョナハラ)へ

伝え、

それが種子島南部の「広田」弥生遺跡に、

「山」字とギリシャ文字を彫った貝製装身具を残したのである。

南種子・広田海岸に

「山」字とギリシャ文字を彫った遺物を残した人々は、

一体どんな人たちだったのであろう?。

また卑弥呼や壹與との関係は……?。

私たちは垂仁天皇と狭穂姫の悲劇が、

種子島で起こった事件だったことをよく知っている。

その理由は沢山あるが、

「狭い」はアイヌ語の「タンネ」で、

細長い島の形と島名によく一致していて、

語源になっていることを繰り返し確認してきたから、

疑いの余地はない。

この「狭」の字を名乗りにもつ重要な女神がもう一人いる。

それは天照大神と素戔鳴の尊の

「誓約(うけひ)」で生まれた3人の女神の一人、

狭依(サヨリ)昆売の命である。

この名乗りの、もう一つの文字「依」も、

豊玉姫が山幸の子を生んだとき、

捨てた子供・ウカヤフキアエズの尊を育てて、

後に結婚した豊玉姫の妹・玉依(ヨリ)姫がもっている。

私たちは名乗りの文字が、

領土や地位、職掌を表現している重要な史料であることを、

これまでイヤというほど実例で知っているから、

同じ種子島の女神が同じ「依」のつく名をもっていれば、

それは近縁か、あるいは同一人であるとすぐわかる。

狭=タンネ、

玉=タマ。

この二つの字はどちらも

「タン=種子・丹後・淡(タン)路のタン」という発音を

写した当て字だとみると同一人の可能性が高い。

次はその行動と役割を比較してみよう。

狭穂姫の子はホムツワケで、

オオヒルメが隼人まで連れてきた赤子の八幡である。

この時のオオヒルメが壹與であることも、

私たちはよく知っている。

壹與は伊江島の女王で種子島発音のイエッジョーへの当て字。

これを大隅語ではユイジョと発音する。

いま依子(よりこ)をユイコと発音する大隅語をみると、

狭依姫・玉依姫の「依(ユイ)」は

壹與の「壹」と同じもので「伊江」を意味する

名乗りだったことが確認できる。

これで同時に「狭依姫・玉依姫」という名は、

どちらも「種子島・伊江島の女王」という意味の名乗り、

その正確な発音は「タンユイ」姫だったことも確認できた。

サヨリでもタマヨリでもなかったのである。

これでもう一つ明確になったことは、

壹與は八幡と結婚したということである。

『記・紀』共に、玉依姫(=壹與)は

ウカヤフキアエズの尊(=八幡)と結婚したと

書いているからだ。

では夫の八幡は『魏書倭人章』の誰に当たるのか?。

八幡(ヤバン)と八坂(ヤバン)は

共にヤバーナへの当て字だということは、

もうよくご納得戴いているから、

これに合う人物は

「八坂王(ヤザカ・ウ)=掖邪拘(ヤジャカ・ウ)」である。

彼は卑弥呼生前の正始4年(243年)に

伊声耆(イサナギの尊)と

「答謝・詔恩」のため魏の都まで行って、

率善中郎将に任官しているので、

4年後の正始8年に13才で邪馬壹国女王になった壹與より、

さらに年少の八幡ではない。

掖邪拘は壹與が女王になった後も壹與の側(がわ)に残って、

今度は張政を帯方郡まで送って行く

大使=大夫・率善中郎将として、

再び魏の朝廷まで行って白球5000孔などを献上している。

これは幼児の八幡=ホムツワケに出来ることではない。

ホムツワケがもつ八幡という名乗りは

それより後に掖邪拘から相続した名乗りだったとわかる。

ではそれ以前の名は何といったか?…。

それこそが私が中上川宮司から教わった

「ヒルコの尊」だったのである。

そして二人の幼児が種子島から小舟で漂着したのでもない。

それは位宮=垂仁天皇の戦略によって、

軍船に乗って攻めこんできたのである。

なぜ位宮は彼女を必要としたか?。

それは彼女が卑弥呼の宗女という地位をもっていたからである。

それを証明するのが、

サカは繹迦(シヤカ)のことだという事実である。

大隅のサタ=佐多岬へ渡った種子島軍の拠点サカイとは、

この釋迦族の町、

壹與が信仰女王として尊ばれていた町だったのだ。

しかし種子島は中央の野間(のま)が、

奴国(ノマ)として記録に残ったシンドゥの一大勢力圏だったし、

位宮自身、高句麗・山上王(山神(やまがみ)王)を

名乗りにもつシンドゥ教徒の指導者だったから、

壹與はあくまで卑弥呼の統治に馴れた倭人たちを、

懐柔(かいじう)するための「象徴」に過ぎなかった。

『魏書』の『倭人章』の前に書かれている

『東夷・韓章』の「辰韓条」には、

有名な一節

「国は鉄を出す。

韓・濊(ワイ)・倭は皆、

すきなようにこれを取る」という記録がある。

種子島はその四周の海岸の至るところに砂鉄の層があって、

戦後はロケットの外装に用いる超硬度の特殊鋼原料として

ナサに輸出していたほどである。

現代では硬(かた)過ぎて

一般の製鉄原料としては使われないが、

日本刀が砂鉄製であることは常識である。


古代の初期鉄器時代には種子島は鉄の宝庫だった。

今も南九州を中心に愛用されている

「種子鋏(たねバサミ)」という原始的な鋏は、

この砂鉄文化の遺物である。

種子島が我が国初期鉄砲の代名詞になったのも、

たんに種子島にポルトガル船が漂着したから

鉄砲が作れたというのではない。

武器に対する関心と、

それを複製するだけの鉄工業の伝統と、

教養と原科と設備とが揃っていたからである。

そしてそれを全国に広めたのが大阪府の堺商人だった。

彼らはそれ以前から武器商人として

巨大な富と工業基盤とを築き上げていた。

このことから種子島のサカイも

ただ釋迦族の町というだけでなく、

鉄器工業の先進地であったことが推理できる。

それはいうまでもなく仏教とともに
インド先進文明を運んできた

ソナカ仏教宣布団の文化の一つだったのである。

するとこの辰韓の鉄の産地は半島ではなく、

辰韓の故郷・種子島のほうだということになる。

※出典:加治木義博

「大学講義録32:30頁」

「大学講義録33:3~6頁」

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