2015年7月11日土曜日

東征3グループ・コース(四国・山陽道・日本海)

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 ≪東征3グループ・コース(四国・山陽道・日本海)
 ≪東征3グループ・コース(四国・山陽道・日本海)

 私たちはすでに仁徳天皇系が倭の五王で、

 《四国コース》

  四国→淡路島経由で大坂・奈良に入ったことを知っている。

 しかし彼らは「倭王」を名乗っているが、

 明確に男王制の武装集団で、

 卑弥呼の仏教政権と対立する異質のものである。

 それを証明するものは沢山あるが、1つでわかるものがある。

 それは地名だ。

 彼らが卑弥呼政権の後継者なら

 必ず命名したはずの首都名それは巴利国である。

 それが大分県から奈良県までの倭の五王コースに

 全く見られない。

 その代わりの地名が長谷・初瀬で、

 それは百済への当て字であり、

 その末路が出雲の佐田の大神だったから、

 彼らは間違いなく

 
《百済出雲(ポセイドン)教徒》だったのである。
 
 ではそれ以外のグループがあったのか?。

 あった。

 証拠は巴利国が、四国コースではなく、

 兵庫県に「播磨=巴利国」を残したことで、

 その一派は

 《山陽道》を進んだのである。

  それは誰だったか。

 『記・紀』は共に

 「神功皇后」が難波まで「還(かへ)ろうとして」

 仲哀天皇の先妻の皇子、

 香坂(カゴサカ)・忍熊(オシクマ)2皇子と

 戦った話を載せている。

 『日本書紀』はさらに詳しく

 播磨・赤石(明石)・住吉・紀伊の水門(みなと)などの地名を

 挙げている。

 もつともこのコースは

 卑弥呼や壹與の事跡としては真実ではないと、

 すでにお話し済みだが、

 皇后を祖神にいただくグループが移住し、

 命名したことは疑いない。

 それは明らかに

 《女王制の倭人》たちである。

 さらにもう1つのコースがある。

 それは、

 《日本海》を経由して

 但馬・丹波から大阪へ入ったグループのもので、

 私たちはすでに、

 この人々も

 高句麗長寿王(長州王=敏達(びだつ)天皇)→

 用明天皇→蘇我稲目→孝徳天皇の

 名乗りによって、そのコースと実体を知っている。

 この3集団のうち、

 最後まで残ったのは孝徳天皇だったが、

 その《高句麗倭国》も大化大戦(乙巳の変)で

 崩壊して関東へ大移動した。

 『続日本紀』によると、

 関東7国に分散していたその1799人の人々を、

 元明天皇が716年に武蔵の国に移して、

 新たに置いた行政区画が高麗(こま)郡である。

 仮に彼らが奈良に逃げこんだとすれば、

 奈良に高麗(コマ)の名は残ったが、

 ヤマトの名は残らなかったのである。

 ではヤマトは、

 残る2グループのうちのどちらの名だったのだろう?。

 倭の五王系はポセイドン教徒なのだから

 海神を集る海人(ハイト)族であって、

 山を祭る山人族とは対立関係にあった。

 政治的には臣下として服従していても、

 政権を握って立場が逆転すれば、

 自分でヤマトを国名にするはずはない。

 ハセかフジになっていたはずである。

 残るのは一つ。

 巴利国を移動させて兵庫県に

 播磨(ハリマ)をつくった勢力《神功皇后》派である。

 しかし彼らは明かに倭の仏教徒なのだから、

 命名するとすれは倭国(ウワイ)だし、

 現実に聖徳太子は上(ウワ)宮太子と呼ばれ、

 尾張(ウワイ)という地名を中心にした

 「近つ飛鳥=大阪府」に住んでいた。

 こう見てくると、

 3グループともヤマトではありえない。

 少なくとも

 聖徳太子+推古天皇の女王制倭国(ウワイ)時代=

 7世紀半ばまでは、

 ヤマトという国名が近畿に生まれる必要も、

 要因もなかったことは明白である。

 では一体?、

 それはなぜ?、

 いつ?、

 誰が?、

 どのように?、

 奈良へ持ち込み、

 命名したものだったのであろうか?。

 これに対する手掛かりと答が2人の八幡なのである。

 大隈正(しょう)八幡の祭神は応神天皇だが

 本当はヒルコの尊のほうだ。

 彼は母の神功皇后が九州北部に遠征した時も、

 大隅にとどまったと『正八幡縁起』にある。

 ところがもう1人の応神天皇は母と共に遠征して、

 その途中、

 武内宿祢に連れられて笥飯(ケヒ)の大神に参拝した。

 すると神が言い出して、皇子と名を交換した、

 と書いてある。

 これをオオヒルメが大隅に連れてきた八幡と、

 彼と名前の取換(とりか)えっこをして、

 名前をもらつた、ずっと年下の。

 もう一人の八幡と、

 八幡が2人できたと理解すると、

 初めてどちらがヤマトの語源になったのかという謎が、

 少しだが解け始める。

 倭の五王の初代・讃は応神天皇の皇子である。

 彼は大分から出て四国を征服した。

 大分には宇佐八幡宮がある。

 宇佐王(ギ)はウサギ、

 仁徳天皇が宇佐八幡系だったことは間違いない。

 ※出典:加治木義博
     「大学講義録32:20~22頁

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