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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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≪東征3グループ・コース(四国・山陽道・日本海)≫
≪東征3グループ・コース(四国・山陽道・日本海)≫
私たちはすでに仁徳天皇系が倭の五王で、
《四国コース》
四国→淡路島経由で大坂・奈良に入ったことを知っている。
しかし彼らは「倭王」を名乗っているが、
明確に男王制の武装集団で、
卑弥呼の仏教政権と対立する異質のものである。
それを証明するものは沢山あるが、1つでわかるものがある。
それは地名だ。
彼らが卑弥呼政権の後継者なら
必ず命名したはずの首都名それは巴利国である。
それが大分県から奈良県までの倭の五王コースに
全く見られない。
その代わりの地名が長谷・初瀬で、
それは百済への当て字であり、
その末路が出雲の佐田の大神だったから、
彼らは間違いなく
《百済出雲(ポセイドン)教徒》だったのである。
ではそれ以外のグループがあったのか?。
あった。
証拠は巴利国が、四国コースではなく、
兵庫県に「播磨=巴利国」を残したことで、
その一派は
《山陽道》を進んだのである。
それは誰だったか。
『記・紀』は共に
「神功皇后」が難波まで「還(かへ)ろうとして」
仲哀天皇の先妻の皇子、
香坂(カゴサカ)・忍熊(オシクマ)2皇子と
戦った話を載せている。
『日本書紀』はさらに詳しく
播磨・赤石(明石)・住吉・紀伊の水門(みなと)などの地名を
挙げている。
もつともこのコースは
卑弥呼や壹與の事跡としては真実ではないと、
すでにお話し済みだが、
皇后を祖神にいただくグループが移住し、
命名したことは疑いない。
それは明らかに
《女王制の倭人》たちである。
さらにもう1つのコースがある。
それは、
《日本海》を経由して
但馬・丹波から大阪へ入ったグループのもので、
私たちはすでに、
この人々も
高句麗長寿王(長州王=敏達(びだつ)天皇)→
用明天皇→蘇我稲目→孝徳天皇の
名乗りによって、そのコースと実体を知っている。
この3集団のうち、
最後まで残ったのは孝徳天皇だったが、
その《高句麗倭国》も大化大戦(乙巳の変)で
崩壊して関東へ大移動した。
『続日本紀』によると、
関東7国に分散していたその1799人の人々を、
元明天皇が716年に武蔵の国に移して、
新たに置いた行政区画が高麗(こま)郡である。
仮に彼らが奈良に逃げこんだとすれば、
奈良に高麗(コマ)の名は残ったが、
ヤマトの名は残らなかったのである。
ではヤマトは、
残る2グループのうちのどちらの名だったのだろう?。
倭の五王系はポセイドン教徒なのだから
海神を集る海人(ハイト)族であって、
山を祭る山人族とは対立関係にあった。
政治的には臣下として服従していても、
政権を握って立場が逆転すれば、
自分でヤマトを国名にするはずはない。
ハセかフジになっていたはずである。
残るのは一つ。
巴利国を移動させて兵庫県に
播磨(ハリマ)をつくった勢力《神功皇后》派である。
しかし彼らは明かに倭の仏教徒なのだから、
命名するとすれは倭国(ウワイ)だし、
現実に聖徳太子は上(ウワ)宮太子と呼ばれ、
尾張(ウワイ)という地名を中心にした
「近つ飛鳥=大阪府」に住んでいた。
こう見てくると、
3グループともヤマトではありえない。
少なくとも
聖徳太子+推古天皇の女王制倭国(ウワイ)時代=
7世紀半ばまでは、
ヤマトという国名が近畿に生まれる必要も、
要因もなかったことは明白である。
では一体?、
それはなぜ?、
いつ?、
誰が?、
どのように?、
奈良へ持ち込み、
命名したものだったのであろうか?。
これに対する手掛かりと答が2人の八幡なのである。
大隈正(しょう)八幡の祭神は応神天皇だが
本当はヒルコの尊のほうだ。
彼は母の神功皇后が九州北部に遠征した時も、
大隅にとどまったと『正八幡縁起』にある。
ところがもう1人の応神天皇は母と共に遠征して、
その途中、
武内宿祢に連れられて笥飯(ケヒ)の大神に参拝した。
すると神が言い出して、皇子と名を交換した、
と書いてある。
これをオオヒルメが大隅に連れてきた八幡と、
彼と名前の取換(とりか)えっこをして、
名前をもらつた、ずっと年下の。
もう一人の八幡と、
八幡が2人できたと理解すると、
初めてどちらがヤマトの語源になったのかという謎が、
少しだが解け始める。
倭の五王の初代・讃は応神天皇の皇子である。
彼は大分から出て四国を征服した。
大分には宇佐八幡宮がある。
宇佐王(ギ)はウサギ、
仁徳天皇が宇佐八幡系だったことは間違いない。
※出典:加治木義博
「大学講義録32:20~22頁
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