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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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≪東西文化交流の歴史≫
≪東西文化交流の歴史≫
東西文化交流の歴史文献は大量にはないが、
日本人のルーツ・保育社(カラーブックス)でとりあげた例が、
裏付けできるかを、要約する。
まず間接的な背景になった事件を年代史でみて行くと、
紀元前(以下紀元を省略して「前」「後」とする)
前5000年頃 ブルガリアで金属器使用が認められ、
前4000年頃 メソポタミアにシユメル文化が興り、
前2500年頃 アーリア人の大移動が始まり、
前2000年頃 インドに侵入、
前1500年頃 中国に殷(いん)の青銅文化発生。
前1300年頃 鉄器文化をもったハッティ王国生まれ、
アッシリアがバビロンを支配、
前1200年頃 両王国とも滅亡。
『インドでは』
前1000年頃 都市国家繁栄、カースト制度が作られ、
ブラフマンが最高権力をにぎり、
バラモン教時代となる。
前 480年頃 釈迦が死に仏教興る。
前 327年 アレクサンドロス北インド征服。
前 322年 チャンドラグプタがマガダ国をとる。
前 244年 その子孫アショカ王は仏教々典を結集、
世界各地に宣教師団を派遣、
その磨崖法勅(まがいほうちょく)によれば、
その伝道は西はギリシャ、エジプトを越えた。
東はヤナカ、スワンナブーミ、
タムバパンニディーパという国名があり、
谷中(やなか)、諏訪、不弥(ぶみ)、
丹波(たんば)という日本の地名によく似ている。
その団長名もソナカという
『日本書紀』に登場する外来者
蘇那曷(そなか)と
同名の人物やミジマやサンバラという
三島、三原という
当て字のできる人々がいて注意を要する。
前 10世紀 殷滅亡直前、
王子箕子(きし)は亡命して朝鮮国を建国した。
前 194年 その子孫の準(じゅん)王は
燕人の衛満(えいまん)に国をとられて
海を渡って逃げ、韓(かん)人の王となる。
『漢書』にはまだ韓という名は見当らない。
それは朝鮮半島から海を渡る所にあり、
後3世紀の『魏(ぎ)志』にある半島南部の
韓は、それ以後半島に移住したものである。
そうした位置関係からみて準王の逃げた
韓とは日本列島以外にあり得ない。
後 57年 倭奴国王が後漢の印綬(いんじゅ)受けた。
1784年に福岡県志賀島(しかのしま)で
出土した金印には
『委奴(ウワイト・いぬ)国』とある。
イヌとインとはわずかな発音差しかない。
『記・紀』には多くの移民が
日本列島へやって来たことを記録している。
後 10世紀 建国した中国北宋(そう)の
太宗(たいそう)皇帝のいった、
有名な日本評価を正史の『宋史』で見てみよう。
彼はやってきた日本僧から日本の歴史を聞き、
深いため息をついて宰相に話した。
「日本の天皇はすでに64代も続き
万世一系であり、
臣下も代々親のあとを継ぐという。
これに比べて中国は革命につぐ革命で、
宋(そう)になる前の5代など、
ひどいのは4年で亡びた。
朕(ちん)が日夜政務に励むのは、
お前らの子孫の安定した暮しを願うからだ。」
確かに日本の天皇制は
世界に類のない千数百年の安定をもたらした。
多少の動乱はあったが、
革命のたびに逃げまどい生命財産を失った中国人に比べて、
日本人は幸福だったといえる。
そんな政治技術は未開人の間では生まれない。
多くの体験と高度の先行文明の実在を立証しているのである。
※出典:加治木義博
「日本人のルーツ・保育社(カラーブックス):150・151頁」
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