2016年1月18日月曜日

古墳の概要②

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

  2010/03/25

  出典:歴史研究家「田中 淳」

 課題:日本全国地域別古墳分布及び特徴の分析
    ―前方後円墳を中心とした勢力の系譜―

  「古墳時代の時期区分」

 ・出現期…3C

 ・前期 …4C

 ・中期 …5C

 ・後期 …6C

 ・終末期…7C

  ※C(century=世紀)

 「古墳の墳丘形態」

 ※出典:古墳マップ

 ・前方後円墳

 ・前方後方墳

 ・帆立貝式前方後円墳

 ・円墳

 ・方墳

 ・双方中円墳

 ・上円下方墳

 ・八角墳(上八角下方墳)

 <参考>

 ・四隅突出墳(よすみとっしゅつふん)

 ・双円墳(そうえんふん)

 ・双方墳(そうほうふん)

 ・六角墳(ろっかくふん)

 ・長方形墳(ちょうほうけいふん)

 ・横穴墓(おうけつぼ/よこあなぼ)

 ・地下式墓(ちかしきぼ)

 ・古墳群(こふんぐん)

 ・群集墳(ぐんしゅうふん)

 ・遺跡(いせき)

 ・形が不明の古墳

 ※古墳の種類一覧

 「古墳時代出現期」

 奈良

 ・纏向古墳群

 ・纏向勝山古墳

 ・纏向矢塚古墳

 ・ホケノ山古墳

 ・纏向石塚古墳

 ・東田大塚古墳

 ・箸墓古墳

 「古墳時代前期」

 ・前方後円墳

 ・竪穴式石室

 ・木棺

 ・副葬品…鏡・玉・剣・埴輪

 ・土器…土師器

 ・前方後方墳の築造

 「古墳時代中期」

 ・巨大古墳の築造…大阪・吉備

 ・須恵器の生産

 ・馬具…乗馬の風習

 ・円墳の増加

 ・帆立貝式前方後円墳の築造

 ・竪穴系横口式石室(九州北部)

 ・装飾古墳

 ・石人石馬

 「古墳時代後期」

 ・横穴式石室

 ・副葬品馬具・武具

 ・古墳群や群集墳の築造

 ・前方後円墳の終焉

 ・小型古墳の増加

 ・銘鉄剣

 「古墳時代の終末期」

 ・上円下方墳・八角墳

 ・方墳

 ・古墳群・群集墳の築造

 ・横穴墓の築造

 「前方後円墳の系譜」

 ・4世紀優位類型

 ・5世紀優位類型

 ・6世紀優位類型

  ≪歴史関連リンク≫
  KOFUN(誰が巨大古墳を造ったのか)『言語復原史学会:加治木義博』KKロングセラーズ
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2016年1月17日日曜日

古墳の概要①

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 《参考:年表・資料》

 歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

  2010/03/25

  出典:歴史研究家「田中 淳」

 課題:日本全国地域別古墳分布及び特徴の分析
    ―前方後円墳を中心とした勢力の系譜―

 《古墳の概要》

 「古墳時代の変遷」

 〇出現期・前期 

   広域を支配した首長の墓。

   首長は司祭者的性格が強い。

  墳形:前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳

  埋葬施設:竪穴式石室、割竹型木棺

  副葬品:剣、玉、鏡、土器

 〇中期

   広域を支配した首長の墓。

   首長は武人的要素が強くなる。

  墳形:前方後円墳、帆立貝式前方後円墳、方墳、円墳

  埋葬施設:竪穴式石室、石棺、石室

  副葬品:玉・装身具、鉄製武器、埴輪、土器

 〇後期

   地域の族長程度の身分の人も古墳に葬られ

   墳形は小型化、群集墳化する。

  墳形:小型の円墳、前方後円墳 

  埋葬施設:横穴式石室

  副葬品:装身具、武具、馬具、埴輪、土器、

 〇終末期

   前方後円墳の築造が停止され、これに代わって

   大型方墳や大型円墳が築造される。

  墳形:大型円墳、大型方墳、八角墳、上円下方墳 

  埋葬施設:横穴式石室

  副葬品:装身具、武具、馬具、埴輪、土器、農具、工具
      装飾古墳の出現

 「墳丘・構造の変遷」

 〇出現期・前期 

  墳丘:前方後円墳、

  石室:竪穴式石室

  内部構造:粘土槨

  金属器:青銅器

  墳丘:前方後方墳

  内部構造:木槨

  金属器:鉄器

  墳丘:方墳

  金属器:鉄器

  墳丘:円墳

 〇中期

  墳丘:前方後円墳、

  石室:竪穴式石室

  内部構造:石槨

  金属器:鉄器

  墳丘:帆立貝式前方後円墳

  金属器:金銅製金属器

  墳丘:方墳

  墳丘:円墳

 〇後期

  墳丘:前方後円墳、

  石室:横穴式石室

  内部構造:石槨

  金属器:鉄器

  墳丘:方墳

  金属器:金銅製金属器

  墳丘:円墳

 〇終末期

  墳丘:円墳、

  石室:横穴式石室

  内部構造:石槨

  金属器:鉄器、金銅製金属器

  墳丘:方墳

  金属器:金銅製金属器

  墳丘:上円下方墳

  墳丘:八角墳

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2016年1月16日土曜日

日本全国地域別古墳分布及び特徴の分析―前方後円墳を中心とした勢力の系譜―

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 《参考:年表・資料》


 歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

  2010/03/25

  出典:歴史研究家「田中 淳」

 課題:日本全国地域別古墳分布及び特徴の分析
    ―前方後円墳を中心とした勢力の系譜―

 Ⅰ 地域別区分

  1.近畿地方

  2.中国・四国地方

  3.山陰地方
 
  4.九州地方

  5.北陸地方
 
  6.中部地方

  7.関東地方

  8.東北地方

 Ⅱ 時代的区割

  1.古墳時代出現時

  2.古墳時代前期

  3.古墳時代中期

  4.古墳時代後期

  5.古墳時代終末期

  日本の古代史には謎が多く秘められています。

 特に5世紀以前の歴史にはそれが顕著です。

  当講座はそのような不明のままになっている謎を

 古事記、日本書紀など日本の古代史は元より、

 神社の由緒、神名また地名さらに

 中国、インド、メソポタミア、ギリシアなどの

 古代史料をも参照しつつ解明すべく挑戦しております。

  よって当講座は古代の秘密のヴェールを

  切り裂く独特の研究成果となっています。

  当講座が世間に多くある歴史解説と

  ほとんど同じであれば、

 敢えてわたしが皆様にお話する意義はありません。

  当講座の内容がそれらと大分違っているからこそ

 お話申し上げる価値があるのだと考えております。

  今回は「古墳」が主題で、
 
 昨年田中氏が関東地域の古墳全数を対象とする分布や

 その形状及び埋葬品の特徴については

  分析報告を行いましたが、

 今回は、その手法を用いて全国規模での分析を行い

 ご報告申し上げます。

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2016年1月15日金曜日

奈良盆地の代表的な古墳と古墳群

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    153頁

 《奈良盆地の代表的な古墳と古墳群》

 ○佐保川流域
 「佐紀盾列古墳群」
 「宝来山古墳」垂仁天皇陵
 「鶯塚古墳
 ○初瀬川流域
 「纏向遺跡」
 「纏向遺跡」
 「柳本古墳群」
 「西乗鞍古墳」
 「行燈山古墳」
 「渋谷向山古墳」
 「箸墓古墳」
 「龍王山古墳群」シュクン谷古墳群
 「文殊院西古墳」安部文殊院
 「艸墓古墳」
 「谷首古墳」
 「桜井茶臼山古墳」
 「メスリ山古墳」
 「赤坂天王山古墳」
 ○飛鳥川流域
 「新沢千塚古墳群」
 「見瀬丸山古墳」
 「菖蒲池古墳」
 「梅山古墳」
 「野口王墓」
 「石舞台古墳」
 「都塚古墳」
 「高松塚古墳」
 「中尾山古墳」
 「マルコ山古墳」
 「馬見古墳群」
 「宮堂古墳の痕跡」
 「川合大塚古墳」 
 「乙女山古墳」 
 「巣山古墳」
 「新木山古墳」
 「新山古墳」
 「山口千塚古墳」

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」 
  「銅鏡」
  「鉄剣」

  銅鐸


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2016年1月14日木曜日

古墳を衰退させた力

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
 古墳―石と土の造形―森浩一著
    149~152頁

 《古墳を衰退させた力》

 《後期と造墓期》

 奈良の飛鳥の地に古墳を訪れる人は、

 菖蒲池古墳、

 鬼の俎と鬼の厠(横口式石槨)、

 越の岩屋山古墳、

 野口王墓(天武・持統陵)、

 高松塚を見落とすことはなかろう。

 美術史でいう飛鳥や白鳳の時代にも高塚は築かれ、

 巧緻の極にたっした切石の横穴式石室も

 その限りにおいては古墳の時代である。

 ところが、切石の横穴式石室の時期には、

 群集墳ではほとんど新しい古墳の構築が

 おこなわれなくなっている。

 群集墳にいて、

 新たな古墳の営造が続いている期間

 ―それは数と密集度が増加するのであるが―を、

 造墓期とよんでいる。

 群集墳は7世紀初頭になると

 急に造墓活動を停止している。

 しかも群集墳の終焉の時期は

 各地で大きな差があるのではなく、

 ほぼ一致しているようである。

 私は群集墳における造墓活動の停止の時期をもって、

 古墳後期の最後と考えている。

 艸墓や都塚などの後期の代表的な古墳では、

 横穴式石室内に遺骸をおさめた

 家形石棺が安置されている。

 しかし群集墳内にある横穴式石室では、

 石室は遺骸を葬るだけの場所ではない。

 前期の竪穴式石室や粘土槨には、

 死者をおさめ、あるいは包み込み、

 遺骸がたとえ腐朽しさろうと、

 葬った人たちにとっては永久に死骸を

 保護していることに変わりない。

 前期の人たちが、

 一度埋葬した棺や石室を開くことは

 ありえないことであった。

 中期になると、

 九州の方からまずその原則がくずれてきたようで、

 石棺や石室内で遺骸が白骨化するとしばしば動かし、
 
 新たな死骸をさらに収容している。

 後期では、この傾向が普及し、

 横穴式石室は遺骸の骨化の場であるとともに

 納骨の場であるという

 二つの役割をもつようになった。

 一つの横穴式石室内に10数体の白骨が

 つみ重なることもおこるわけである。

 『日本書紀』では、
 
 黄泉国を訪れた男神イザナギが、

 死後の世界にいる女神イザナミの屍を

 櫛の歯にともした光で見た情景を

 「膿わき、うじ流り」と生々しく描写しているが、

 この神話の舞台は横穴式石室にほかならない。

 天皇や皇族および一握りの中央、地方の豪族をのぞくと、

 横穴式石室での遺骸は

 もはや永久に保護されるものではなく、

 骨化、つまり破壊が期待されているのである。

 前期と後期との葬制の基本的相異である。

 《古墳時代の終末》

 造墓期のおわった群集墳でも、

 なおしばらくは既存の横穴式石室を利用して

 追葬が行なわれている。

 しかし、そのことも延々と続くのではなく、

 7世紀後半には大勢としては終わるようである。

 この期間が群集墳の追葬期であり、

 それを古墳時代終末期とよんでいる。

 では、古墳はなぜ衰退するのか。

 仏教の伝来によって、

 古墳の衰退を説明する人がいる。

 しかし仏教の保護者として知られる

 聖徳太子、天武天皇、聖武天皇などが

 いずれも高塚を築いていることから察すると

 充分な理由ではない。

 今まで豪族が古墳に富を投入していたのを、

 新たに伽藍の建立に振り向けたともいう。

 これは可能性があるが、

 大阪の新堂廃寺とお亀石古墳、

 阿部寺と文殊院西古墳、

 軽寺と見瀬丸山古墳(欽明陵か)などのように

 同一の富者が二者を営んでいることも

 相当の例を指摘できる。

 大化二(646)年、

 孝徳天皇は有名な薄葬令を公布したという。

 これは、身分によって古墳の営造を制限し、

 許された者にも身分によって

 墳丘と石室の規模と規格を定めたものである。

 しかしすでに群集墳の衰退で説明したように、

 646年といえば大部分の消滅以後、

 おそらく追葬期にあたっている。

 仮に薄葬令の公布が事実であるにせよ、

 終末期での問題にすぎず、

 群集墳の消滅の原因ではない。

 私はこの問題を解くため、視点をかえて、

 奈良、平安時代の墓地や葬地について

 政府と土地の関係を調べ、

 昭和45年春、

 『古代学研究』57号に

 「古墳時代後期以降の埋葬地と葬地」

 という研究ノート

 (『論集終末期古墳』所収・塙書房)を書いた。

 すると今まで気づかなかった

 いくつかの現象がうかんできた。

 例えば、追葬期以後においては、

 従来からある群集墳に埋葬がおこなわれた

 例がほとんどない。

 奈良時代の墓誌を伴う墳墓や火葬骨をいれた

 壺などは、

 群集墳内の古墳や群集墳内の土地すらも

 埋めていないのである。

 奈良時代には、数世代前の群集墳は、

 もはや利用を認められなくなったようである。

 このような現象を整理して、

 私は

 先ほどの研究ノートの中間のまとめを

 次のように書いた。

 「7世紀、ことによるとそれ以前においても

  耕地を主にした土地制度の大変革があり、

  その変革は、土地の占有、あ

  るいは所有関係にとどまらず、

  条理制に象徴されるような区画の変革を伴った。

  この土地制度の変革の実施に当たって

  その時点以前に

  存在していた古墳群が統合させられたり、

  他へ移転させられたこともあったであろうし、

  さらにはその時点以後での造墓や埋葬に

  大きな影響をもたらしたことは十分予想される。

  しかも土地制度変革の波は、

  一度でなく何回にも分かれて

  おしよせたものであろうから、

  古墳や古墳群などへの影響も複雑な形で

  あらわれていよう。」

 群集墳の形成は土地制度の変革によって

 終焉をとげた。

 もし私のこの仮説が正しいなら、

 群集墳の造墓期と追葬期とが

 それぞれ終わる時点に、

 古代学は消えさった歴史を

 よびもどすことができるのである。

 
 「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」

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2016年1月13日水曜日

群集墳と横穴式石室

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 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著
    144~147頁

 《群集墳と横穴式石室》

 《新沢千塚と岩橋千塚》

 日本中が古墳づくりに狂奔していたのが6世紀である。

 塚原、百塚、千塚などの地名は各地に多いが、

 ほとんどが後期の群集墳に対する土地での呼び名である。

 群集墳も古墳群の一形態であるが、

 それは後期という時期で規定するのではなく、

 古墳群の形成の状況で決めている。

 群集墳的な古墳群として有名なものに、

 奈良県橿原市の新沢千塚、

 和歌山市の岩橋千塚がある。

 新沢千塚は約300基、

 岩橋千塚は約550基で構成され、

 わが国の群集墳としては最大規模である。

 新沢千塚は、

 奈良盆地の南に横たわる越智岡丘陵にあって、

 大部分が直径15メートル前後の円墳であるが、

 前方後円墳、前方後方墳、方墳が群内の

 盟主的存在として点在する。

 内部構造は、

 ほとんどが組合せ式木棺を直葬しており、

 中期から後期前半の古墳が多い。

 岩橋千塚は、
 
 紀ノ川の川口に近い千塚山塊に数支群に分かれており、

 やはり円墳が大半を占めるが、

 各時期の盟主墳として前方後円墳があり、

 最終の時期には方墳が盟主となっている。

 岩橋千塚では、5世紀には横穴式石室が築かれ、

 間もなくほとんどの古墳に普及した。

 日本において、横穴式石室が最初に普及するのは、

 以外にも和歌山の地である。

 新沢千塚と岩橋千塚に焦点をあわせたのは

 次のような意味である。

 ①両古墳群とも広義の群集墳ではあるけれども、

  全国各地に広汎にあらわれる狭義の群集墳にくらべ、

  古墳が築き始められた時期と、

  大勢として築き始められた時期と、

  大勢として築きおわる時期とがともに半世紀は早い。

  しかも、群集墳とはいえ、新沢千塚には、

  鳥屋ミサンザイ(宣化陵)古墳という

  全長140メートルの前方後円墳、

  倭彦命墓に指定されている

  大方墳の枡山古墳を含み、

  岩橋千塚にも天王塚や井辺八幡山など

  後期の前方後円墳としては

  ずばぬけた規模の古墳を含んでいる。

  このように出現も衰退も早い群集墳は、

  その形態において、

  中期の古墳群(百舌鳥など)と、

  狭義の群集墳を同一の山地形の

  範囲で構成させた傾向がつよいのである。

 ②それぞれの古墳を築いた集団のことであるが、

  新沢千塚の所在する地域は、

  律令体制下では大和国武市郡に属している。

  武市郡は外来系譜人(帰化人という人がある)の

  集団居住していたところで、

  少し後の史料ではあるが、

  宝亀三(772)年にこの地に本拠をかまえる

  東漢氏の宗教的立場にあった坂上苅田麻呂が

  「武市郡内には他姓の者は十にして一、二なり」

  といったことが奏上文の一節にでている。

  新沢千塚の126号墳から出土したガラス器につては

  すでに述べたが、この古墳は墳丘が長方形で、

  大陸的特色がつよいばかりか、

  おびただしい舶載品がわれわれを驚かせた。

  日本の古墳で、

  もっとも大陸的というのは数だけではない。

  中国の熨斗(ひのし)や

  四神を描いた漆器の盤、

  西方からもたらされたガラス器、

  北方系騎馬民族の鮮卑の墓に例のある黄金製冠、

  オリエント地方に多い螺旋形の黄金製髪飾、

  新羅風の豪華な黄金の耳飾や指環、

  金箔いりのローマのガラス玉などと

  数えあげると楽しくなり、

  また日本古代史の奥の深さがおそろしくなる。

  新沢千塚は東漢氏と関係があったと仮定している。

 岩橋千塚をのこした集団については、

 紀氏との関係が当然考えられている。

 しかしそれだけでは物足りない。

 考古学でいえば、大陸的な横穴式石室をいち早く

 墓制に採用した地域というだけでも期待に胸がはずむ、

 遺物では、新羅風の須恵器がしばしば出土している。

 面白いのは、紀ノ川流域でも岩橋千塚の対岸では、

 新羅風の須恵器は少なく、

 かえって伽倻地方に類似した須恵器が出土する。

 《井辺八幡山古墳》

 昭和44年春、

 同志社大学考古学研究室の学生諸君とともに

 和歌山市の委嘱で、

 井辺八幡山の造出しの調査をおこなった。

 6世紀初めの前方後円墳である。

 東西二つの造出しからは、

 各種の埴輪と装飾付須恵器が出土し、

 北方系文化の影響が強烈にでている。

 ところが、破片になっていた埴輪の復原が進むと、

 裸形でふんどしをした男子が、

 いずれも髪形は後頭部で

 一本にたばね下げているではないか。

 われわれは、

 中期に近い古墳時代人には、刀や土器などの遺物を

 パイプにして間接にふれていただけであった。

 そのため、頭の左右で美豆良(みずら)に結った

 関東の人物埴輪の姿がいつの間にか

 古墳時代の男の像としてやきついていた。

 井辺八幡山の人物は、いままでの古墳時代人観を

 一変させるものである。

 このような後頭部一本の髪形は、

 偶然の類似でなければ、

 のちの清朝の辮髪につながるし、

 清朝の辮髪の源流は、

 文献的には6・7世紀の鮮卑など

 北方系民族の間に見出せる。

 また、ふんどしと書くと南方系を連想するが、

 それは現代のことであり、同時代の資料では、

 高句麗古墳の壁画に描かれた数例のふんどしがあり、

 北方系につらなるのである。

 岩橋千塚を築き、のこした集団にも、

 北方からの外来人がいた可能性がつよくなった。

 「写真」あごひげをはやし、
     鼻の上に翼形の入墨をほどこし、
     ふんどしをした埴輪
     :和歌山市井辺八幡山造だし

 《横穴式石室と黄泉国》

 6世紀になると、

 各地で大小の群集墳がはげしい勢いで形成される。

 大阪府高安千塚、平尾山千塚、

 奈良県山口千塚、シュクン谷古墳群をはじめ

 枚挙にいとまがない。

 埼玉県の吉見百穴、

 熊本県の鍋田や長岩の横穴群も

 群集墳の一形態である。

 群集墳にたいしては、

 古墳を造営できる人たちの増加で説明されている。

 もちろんそれは正しい。

 国家が古墳築造についての権限をもち、

 カバネ制といわれている身分制度の具体的な政策として、

 数種のカバネの賜与に伴って、

 死後の身分的秩序の象徴として

 各種の古墳の営造が認められるのであれば、

 カバネをもった人たちの増加、

 いい換えれば、

 より多くの人たちの国家体制への組入れを意味するだろう。

 カバネ制の拡大で、群集墳の広汎な出現を説明できても

 まだ納得できない点である。

 土を築き上げるという外観上の墳丘だけならともかく、

 その内部に巨石を架構した巧妙な横穴石室が

 普及している事実である。

 しかもそれがいい加減な手抜き工事ではなかった証拠に、

 自然の力では崩壊せず、厳然として遺っている。

 なぜ心をこめて構築したのであろうか。

 石舞台の天井石のように一個で77トンはないとしても、

 10トン、20トンの巨石なら、

 各地の横穴式石室の用材にいくらも見かける。

 なぜ、人たちは横穴式石室の構築に熱中したのであろうか。

 ここではくわしく述べないが、

 横穴式石室とは死者が死後の世界で

 生きつづける黄泉国なのである。

 横穴式石室には、

 水筒形の須恵器(堤瓶)が

 ほとんどの死者にそえられているが、

 それは死者がたずさえてゆく水の容器である。

 このように死後の世界観の一変と、

 その急速な普及を横穴式石室の分布の背後に

 見出せるわけだが、

 この新しい死後の世界観が巧みに政治支配に利用され、

 横穴式石室そのものも身分によって大きさの制限を

 うけたことが推定される。

 《群集墳への私考》

 群集墳とは、

 小古墳が密集したものだと説明されている。

 しかし実際の山野を見ると、

 群集墳はごく限られた土地に集まっていて、

 その周辺の土地に古墳が存しないのに気付く。

 そこで群集墳の分布範囲を計ってみると、

 東西二町、南北一町などの中にすっぽり入ることが少なく、

 その面積は天皇陵古墳の兆域よりたいてい狭い。

 たとえば、大規模な群集墳として名高い

 大阪府八尾市の高安千塚は東西約五町、南北四町と、

 さすがに広いが、

 福岡県山門郡瀬高町の長谷古墳群は、東西三町、南北二町、

 和歌山市寺山古墳群は東西、南北とも約一町であり、

 この程度の群集墳がもっと多いのでらる。

 群集墳は、

 任意に構築されて、結果的に密集したのではなく、

 まず最初に、国家または地方政権から、

 その集団の墓地が認められ、

 その内部で古墳の構築をつづけたから必然的に

 群集したと私は最近考えている。

 しかし、この傾向は、

 新沢、岩橋ではそれほど見出せない。

 私は、新沢千塚や岩橋千塚を中期型の群集墳、

 高安千塚や山口千塚を後期型群集墳と

 分類してはどうかと考えている。

2016年1月12日火曜日

須恵器と北方系文化③

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 《参考:年表・資料》

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     TAIKA:222~224頁
 
 《須恵器と北方系文化》

 《敗れたのは百済倭国=藤原》

 『魏書倭人章』では、

 朝鮮半島から来た最初の上陸点が

 「末盧(まつら)国」だったことをご記憶と思う。

 それは今の松浦と同じ発音で「マツラ」だった。

 その意味は「馬(マ)・津(ツ)・国(ラ)」で

 馬韓と同じ意味である。

 しかし馬韓ははじめは

 「マガラ」で「マガダ」の訛りに
 
 当てた当て字だった。

 マガダは仏教の本山でアショカ王の国である。

 ところが「狗奴国」として種子ガ島にあったころの

 百済はシンドゥ教の国だった

 (『ジンム』『コフン』参照)。

 それが『日本書紀』では[欽明天皇十三年十月]に

 百済聖明王が金銅の仏像と経巻などを献上したのが、

 それまでの

 神道を守る物部と中臣VS蘇我の

 争いの始まりだと書いてある。

 だから百済が仏教国になるのには、

 朝鮮半島へ進出して馬韓と合体することが

 必要だったのである。

 その時期は武寧王陵

 (実は別人の斯麻(シマ)王のもの=韓国・公州)が

 仏教の影響が全然なく、

 他宗教の鎮墓(ちんぼ)獣が副葬されているので、

 仏教化は斯麻王以後だったことがわかる。

 百済というのは、

 もともと「ホ津国(ヅマ)」のことで、

 「豊(ホ)」「日(ホ)」「穂(ホ)」

 などの当て字も同じ国を意味する。

 だから大分県の豊前・豊後も

 大阪府の豊島郡もその移動や発展の跡である。

 そのうち大発展を遂げたのは大阪百済である。

 それは倭王・済の時以後で、

 応神・仁徳天皇陵などの巨大古墳が、

 須恵器(すえき)工業などの経済基盤によって

 築かれたことなど、

 『コフン』で精密にお話ししたとおりである。

 それが朝鮮半島を攻めて

 「海北95カ国」のうちの

 馬韓を朝鮮百済にしたのは倭王・武より前だった。

 その武こそ武寧王その人である。

 その朝鮮百済は斯麻王のような小王が治めていて、

 本国はいうまでもなく大阪にあった。

 それが「大化改新=乙巳の変」の舞台になった

 孝徳天皇の長柄豊碕朝で、

 当時の五彩圏連邦の中心だったのである。

 なぜならその政権が崩壊すると

 五彩圏連邦が消滅したし、

 勝った天智天皇は

 日本を統一したことになったからである。
  
 それを『唐書』は、「大国・倭国」と書いてある。

 今からみて正確にいえば、

 それは「百済倭国」時代なのである。

 そして当時の人々もそれを認めていた。

 なぜなら「百済倭国」は当時の唐音による

 鹿児島発音で「百ホ 済ゼ 倭ワ 国ラ」、

 沖縄発音で「フジワラ」になる。

 これで藤原氏が何であったか、

 よくおわかりになったはずである。

 藤原鎌足の茨木市・阿武山(あぶやま)陵は

 その豊日の国の東北にあり、

 平安京の帝都鎮護・比叡山が

 都の東北にあるのと同じ位置にある。

 彼は神武天皇の協力者

 「饒速日(にぎはやひ)」だから、

 天智天皇の「中臣鎌子」なのである。

 では「鎌足」という名乗りは何を意味するか、

 これもみてみなければならない。

 他の当て字が、皆、国名だったのだから、

 名乗りの原則からいって、

 これも国名か地名であることは間違いない。

 「鎌」の字は「コマ」という

 標準語発音のできなかった沖縄から大隅語人が

 「高麗=高国」を「カウ・マ」とよんだものへの

 当て字である。

 「足」はこれまでもたびたび出てきた

 「タリ・タリシ」で大王・天皇を

 意味する称号である。

 この名には「百済・倭国・高句麗」

 三カ国がそろっている。

 新羅と日本が入れば五彩圏連邦がそろう。

 この藤原鎌足という名乗りは、

 天智天皇以後のものだから、

 新羅・日本を入れるはずがない。

 それを消した残りが「藤原鎌足」なのである。

 ということは彼は、

 倭国を日本が併合した統一以前は、

 間違いなく五彩圏連邦の皇帝だったということである。

 こうして角度を変えて「名乗り」のほうから追及しても、

 やはり神武天皇からみて

 「先帝」だった

 「饒速日=和(にき)・ソナカ」に一致する。

 だから

 中臣鎌子はたしかに天智天皇に協力した事実がある。

 しかしそれは『作り話』の大化改新とは

 全然ちがっていて、

 神武東征の最後の時点で、

 長髄彦=孝徳天皇を裏切って

 神武天皇=天智天皇に勝利をもたらした饒速日こと、

 前五彩圏連邦・皇帝だったのである。

 このことは、『先代旧事本紀』にも、

 推古~斉明天皇の別名が

 いろいろ記録されている中に、

 「物部鎌足姫」というのがあることなど、

 まだまだ大量の証拠がそろっているが、

 それは専門的になりすぎるので、

 ここでは省略しよう。

 しかしその『先代旧事本紀』は、

 偽書として無視する学者もいたが、

 こんなふうに役立つ大切な情報源で

 あることを知っておいていただきたい。

 「藤原鎌足の阿武山陵」

 昭和9年4月、

 大阪府高槻市の阿武山(281m)にある

 京都帝国大学阿武山地震観測所の裏に、

 新たに地震計を設置するための工事中、

 偶然、古墳が発掘された。

 関戸信吉・関西大学教授が当時撮影した

 Ⅹ線写真の原版によって、

 1987年11月に

 京大の小野山節教授らの研究会が

 その研究成果を発表、

 本章の扉の玉枕や金糸の入った織物の冠などから、

 大織冠を死の直前に下賜された

 藤原錬足の墓と確認する幾多の事実が発表され、

 世紀の大発見として連日報道面を賑わした。

 これは西側から見た阿武山の全景。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     YAMATO:96~97頁

 《首都を支える経済基盤と倭の五王の名》

 またそれだけの人口が税だけで

 食べて生活していたわけではない。

 もちろん周辺に農家があり、

 都市には商工業の家があり、

 それぞれが生業を営まなければ

 それだけの家族を養っていくことはできない。

 ところが奈良にはそんな産業基盤も、

 それらしい遺跡も全くないが、

 それが大阪には十分にある。

 それは「倭の五王」時代に一致する時期の、

 膨大な須恵器産業遺跡群と、

 広大な河内湖の干拓遺跡群、

 数多くの人工溜め池(用水池)遺跡、

 それらの廃土利用と考えることもできる

 巨大古墳群の実在で立証されているからである。

 またその「倭の五王」の名乗りでも、それがわかる。

 478年に最後の倭王・武が

 宋の順帝に送った手紙にある

 彼の名乗りは、彼の時代になって、

 やっと奈良県の高市郡を

 新しい領土として加えたという表現になっている。

 「武(タケシ)」は

 「高市(タケシ)」と同じものだからである。

 また彼の手紙は、倭国王が最初は九州から出発して、

 代々、悪戦苦闘しながら苦労して次第に

 国土を拡大していったと明瞭に書いていて、

 それを疑う余地はない。

 その初めとは仁徳天皇の時代で4世紀のことである。

 その時代になっても四国以東には領土はない。

 3世紀でさえ100万都市だったのだから

 5世紀にはさらに巨大化していた首都は、

 そう簡単に引越すわけにはいかない。

 だから代々同じ首都名を名乗ったのでは、

 代々の王の名乗りは皆同じで区別がつかず、

 名として役に立たない。

 いくら古代人でもそんな愚かな名乗りは名乗らない。

 だから五王の名乗りの最後に書かれたそれらの

 「讃・珍・済・輿・武」という

 一見個人名ふうの名乗りは、絶対に首都名ではない。

 それは「新たに私がこの領土を加えたのだ!」

 という自負と誇りをこめた新領土名を特記した、

 名誉ある称号だったのである。

 だから高市郡を手に入れた時点では、

 首都が移動していたとしても最大限、

 河内あたりまでなのである。

 このことは5世紀末でも

 まだ奈良は首都ではなかったことを示している。

 だから奈良ほど発掘調査が進んでいても、

 そうした都市遺跡一つすら

 見つかっていないということは、

 奈良は3世紀当時の

 「邪馬臺国または邪馬壹国」の

 いずれでもなかったという決定的な証拠であり、

 7世紀より前には、

 倭国の首都でもなかったという動かぬ証拠でもある。

 「邪馬台国・大和説」や

 「神武天皇以来の首都説」は、

 まったくの空想説でしかないことが

 立証されたことになる。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     YAMATO:106頁

 《大阪府下を移動した倭国の都》

 天智天皇が滅ぼした当時の倭国の都は、

 今のJR梅田駅の東北、新淀川中流部にあった。

 それ以前かあとの都が、

 この安宿だったことは間違いない。

 倭の五王までさかのぼってみても、

 最後の倭王・武のときに、

 奈良県高市郡を領地の中に加えただけで、

 そこが都になっていた形跡はないし、

 名乗りがそれを否定している。

 なぜ、

 それ以前には、奈良に首都を置かなかったのだろう? 
 その理由は大阪平野に比べて標高の高い高原である

 奈良平野は、冬の寒さがたいそう厳しく、

 交通も不便であったし、海がまったくないので、

 沖縄、南西諸島、鹿児島といった南国から

 移住してきた海洋型の人々は、

 暖かい海洋型気候に慣れ、

 食事も新鮮な海の魚なしでは生活できなかったから、

 現代のような暖房もなく、

 魚を新鮮なままで運ぶ輸送手段もなかった当時には、

 奈良はとても住めるところではなかったからである。

 さらに

 それまでの4~5世紀の倭国の富と力の主要な源泉が、

 須恵器産業による経済活動だったことを考えると、

 それらの重い商品や多数の首都住民の食料など、

 日常の大量輸送にも海上を船で運ぶのが便利だった。

 これらの幾重にも重なった条件が、

 五王の珍、済以後の歴代の倭王たちが鹿児島湾同様、

 巨大な湾のある大阪に都を置いた最大の理由である。

 天武天皇はなぜ、

 条件の悪い奈良に飛鳥浄御原の都をおいたのか……。

 奈良に確実に都を置いた「天皇」は

 彼が最初だが、

 彼の立場を考えてみれば、その理由がわかる。

 天智天皇は国名を倭国から

 日本に改号した年の翌年

 671年12月に死んだ。

 唐の咸亨(カンキョウ)二年である。

 『日本書紀』の記事では10年になっているが、

 正式に即位したのは七年正月のことだから

 天皇の位にいたのは4年である。

 『紹運録』には

 推古二二年(614年)の生まれで

 58歳で死んだとあるが、

 『日本書紀』には

 舒明天皇二年のところに

 宝(たから)皇女(のちの皇極天皇)を

 皇后にして生まれた長男だとある。

 天武天皇はその弟で、

 朱鳥(あけみとり)元年(686年)九月に

 65歳で死んだ。

 『紹運録』の主張だと

 推古三〇年(622年)の生まれで、

 天智より8歳年下の弟ということになる。

 子供時代の名乗りを見ると、

 兄は葛城、

 弟は大海人となっている。

 葛城というのは鹿児島生まれの名で、

 「カッラギ」と発音して、

 当て字を変えると

 「姶良郡=カッラグィ=カラグニ=韓国=空団」に

 なる。

 「空」はソラで「襲国(ソラ)」。

 これがソラの語源なのである。

 『古事記』によるとニニギのミコトが

 高千穂のクシフル嶽に天降ったとき、

 「ここは韓国(カラグニ)に向かい、

  笠沙(かささ)の御前を真来通りて……」と

 いったという霧島山の西南に広がる郡の名なのだ。

 だから天智天皇は幼い時に

 「韓国王」を名乗っていたわけである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録17:30頁

 《和泉移住者は大隅・筑紫の混成軍》

 でもまだ、

 それだけで大隈人と断定してはいけない。

 大隈は倭住(オースミ)とも当て字でき、

 倭住はイズミとも発音できるが、

 出水はイズンでイズミではない。

 だから大阪府南部の和泉(イズミ)は

 大隅人の移住地なので、

 証拠も多種多様にある。

 ハシの名をもつ土師(ハジ)器もその一つなのだ。

 この土師器と全く同じ立場に立つ、

 古墳時代のもう一つの窯業製品に「須恵器」がある。

 須恵は、これも九州の福岡県宗像市にある地名で、

 土師器と同じ命名法の産物である。

 これは「陶物・陶器」と書いても

 「スエモノ・スエキ」と読む硬い陶質の焼物で、

 古墳時代の日用品として、

 また大阪府南部を中心に大量に生産され、

 販売された一大産業の主役として、

 古代経済史上の花形でもあろ。

 それに比べると土師器は柔らかく壊れやすいので、

 カワラケと呼ぶ下級品だったが、

 後世には供物(くもつ)を盛る聖器として、

 かえって余命を保っている。

 実際に発掘してみると、

 2種とも同じ窯跡から同時に出土する。

 窯の高温部で須恵器を、

 低温部で土師器を温度差を活用して焼いている。

 これは単純にみると大隅と筑紫が一体化した形で、

 『記・紀』に壹與が神功皇后として北九州へ遠征し、

 筑紫国を傘下におさめて白日別にしたという

 記録があるから、

 一見、移動者は邪馬壹国人であって、

 卑弥呼政権の残党・日向倭国人では

 ないように見えるが、

 一体?

 どちらが正しいのであろう?