2015年7月31日金曜日

台湾に現存するアミ族


 「台湾に現存するギリシャ系倭人」

 後からきた侵入者に追われて

 山地に住んでいる人々の中にはアミ人たちがいる。

 その容貌、服装、家屋、言語、土器など実に多くのものが、

 その古いルーツがインド経由の

 地中海人だったことを示している。

 「臺」はウティナで沖縄のこと。

 「湾」はワニで「倭人」の唐代以後の読み方。

 ここはその頃[小琉球]と呼ばれていた。

 [台湾]とは[琉球人の国」という意味なのだ。

 そして『ヒミコ』でお話しした

 ヒメゴソとオオヒルメが

 「太陽の光で身ごもった」というあの『阿具沼伝承』も

 『かぐや姫』の原話も両方とも

 台湾に現存するお話の中にある。

 またカリエンの人たちの都は今も

 花蓮(カリエン)港と呼ばれ、

 「鬼道=アショカ仏教」の子孫も現存している。

 「方言化の原則と文化が証言する支配勢力の巨大さ」

 同じ一族が

 アミ族、

 沖縄人、

 日本人、

 アイヌ族
 
 と分かれているだけであって、

 アイヌ族も決して異民族ではないという動かない事実である。

 彼らは不幸、大化大戦(乙巳の変) に敗れて、

 東北方へ大移住を余儀なくされたが、

 もともと

 台湾から沖縄、九州、朝鮮半島、四国、中国地方、近畿と

 大移動してきた人たちだったからである。

 では何故?各地の彼らは同じ言葉を話さず、

 別々の言葉を使っているのであろうか?。

 この疑問は、

 正しい言語学を知らない人の考えなのである。

 人の集団が大きい場合は、

 その人たちの言語は内部的変化はしても、

 原型を永く止どめている。

 ところが移住者が少ないと、

 移住先での交易交際には、

 どうしても多数派の原住民の言葉を覚えて使う以外、

 生きて行く方法がない。

 次の世代になると完全に原住民語を話すようになり、

 子孫は先祖の言語を忘れる。

 移住者は前から住んでいた人々の言語に変わってしまう。

 これが「方言化の原則」なのである。

 アミ語もアイヌ語も皆、

 そこに先にいた原住民の言語なのである。

 するともう1つ大きな問題が片付く。

 ギリシャ文化が日本文化中に占める量の巨大さは、

 日本列島にやってきた

 その人々の数の巨大さと、集中と、権力の把握を立証している。

 少数派の先住民は、

 その天皇家中心の集団と混血して、

 吸収されてしまったのである。

 「第二の故郷・台湾に現住するアミ人」

 台湾北部に現住するアミ人である。

 このアミの名は網・阿見と同じ発音であるだけでなく、

 容貌、習俗、服装、土器、楽器にいたるまで、

 ギリシャ人の特徴を多くもつ人々である。

 また台湾が

 ギリシャ神話の季節の女神ホーライの名をもつ

 仙境・蓬莱(ホーライ)で、

 秦の始皇を魅了したデルポイ総合病院の所在地だった。

 このアミ人も沖縄の天(アミ)人と同じく、

 アムピトリテを語源にした人々だったことがわかる。

 仮にこれを疑うと、

 台湾と与那国という

 肉眼で見える距離=40kmしか離れていない地域に、

 どちらも同族のギリシャ系の人々でありながら、

 全く別の語源から完全に呼じ発音の国名が、

 二つできたことの理由、という至難の立証が必要になるし、

 それ以上に厄介なことにはギリシャ神話には、

 ほかにはアミに結びつくような神名はない。

 別の語源から全然無関係に

 二つの「アミ」が生まれたという立証は不可能だ。

 従来は誰でも「批判」できるような思考力のない人がいたが、

 「批判」というのは、相手以上の研究結果を蓄積していて、

 それと比較して相手の説が劣り、

 間違っていると判ったときに主張して

 「比べて判定して是正する」行為をいうのであって、

 「ただ反対したい」だけというのは、

 劣等感の表現にすぎない。

 「台湾、ギリシャ人+日本人?と天上聖母」

 台湾は『後漢書』や『太平御覧』が

 注記に引いている

 3世紀の呉人・沈瑩(チンエイ)の

 『臨海水土誌』が書かれた当時から

 17世紀の明未まで「流求=琉球」と呼ばれていた。

 しかし後半は「小流求」になり、

 沖縄が同時に「大流求」と呼ばれたから、

 沖縄の支配下にあったことがわかる。

 『明史稿』の

 「鶏龍伝(キールン)」=基隆(キールン)は、

  平地アミ族の記録だが、

  勇を尊び奔馬のようにマラソンして一日百里を走る。

  男女とも髪を丁髷(ちょんまげ)に結い

  男は裸体で戦闘を好み、

  勝者も死者も共に讃える……」などと

 古代ギリシャ人+日本人に似た風俗を伝えている。

 媽祖(マソ)像は

 中国本土からの移民がもって来た信仰で

 天上聖母とも呼ぶ鹿耳門(ルクイーモーン)天后宮のもの。

 この他にも「観音仏祖」と呼ぶ観世音がある。

 「弥生土器はどう作られたか」

 台湾の山地民族アミ族の人々は、

 今も手ずくねで自家製の土器を作っている。

 こうして作ったものは乾かしてから、

 この庭先で後ろに見える薪を使って露天焼きする。

 弥生土器を焼いた窯跡は見つかっていないし、

 その焼き上がりの一致から

 やはり露天焼きで作られたとみる学者があり、

 瀬川芳則同志社大学講師はタイ国にも現在、

 露天焼きが残っていることを報告している。

 双耳壺(そうじこ)は水運び用で、

 頭にのせて運び、底は丸い。

 その形は韓国の百済甕棺墓出土のものに近く、

 大阪市<難波宮跡>などから出た土師器の鍋とも、

 把手(とって)の位置などがよく似ている。

 土師器もまた露天焼き土器とみられる土器である。

 「ギリシャの双耳杯とアトモを作るアミ婦人」

 紀元前5世紀前半の、

 輪になった提げ手が二つ耳のようについたギリシャの盃。

 この特殊な耳がアミの人々のアトモにも、

 日本の古墳時代の土師器や須恵器にもつけられている。

 アミの人々は地中海系の容貌と風俗を伝えている

 台湾の山地住民で、

 『ジンム』でいろいろ紹介しておいた。

 これはその婦人が今、

 土器を成型して日に干しているところ。

 双耳にご注意。

 「台湾高山族の焼酎甑」

 1960年代から1970年代のはじめにかけて、

 20度ばかり渡台して台湾の山地民族を調査した際、

 各地で焼酎を造っているのを見聞した。

 アミ族、

 タイヤル族、

 ツオウ族のものが一番原始的で、

 各族それぞれ多少の差はある。

 アミ族の老婦人によると昔は土器を使っていたが、

 彼女の祖父の代に本島人(中国人系の台湾人)が、

 今の鉄ナベ二個を売りに来てから、

 ずっとそれを使っているという。

 彼女の所のものは円筒部は

 丸木を筒状にくり抜いたものだが、

 他集落には薄板を円く曲げた

 ”曲木(まげき)造り”のものもあった。

 今その型式を比較してみると

 南九州のものと原理的に一致し、

 両者の間に必ずつながりがあったとみるほかない。

 そして、

 台湾のものはより原始的であり、

 集落によっては

 受け樋も竹を斜めにそいだだけのものまである。

 これはグエバ・アカ族のものより、

 天井の冷却ナベが進んだだけの、

 やはりかなり古い状態を保っているものということができる。
 
 ところが

 大正四年(1915)に

 嘉義県の阿里山(アリサン)タパン社で調査した

 中沢亮治の『台湾生蕃の酒造法』には

 「この蒸溜器は

  本島人より教えられたるものと伝ふる所にして、

  現に鹿(ロク)港の

  高梁(カオリャン)酒醸造家(本島人)に於て

  使用しつつある蒸溜器の如き同形のものあり」とある。

 この説によると台湾高山族の焼酎甑は

 中国伝来のものということになってしまう。

 その中国で始めて焼酒の記事が見られるのは

 13~14世紀の元の時代に

 「南蕃焼酒法」が『居家必要事類全集』に、

 また忽思慧(タシケイ)の『飲善正要』に

 「阿刺吉(アラキ)酒」がやはり南方の酒として記され、

 一見どうどうめぐりのようにみえる。

 だが、この元代の蒸溜器は、

 台湾のそれとは全然型式の異ったもので、

 これが台湾に伝えられたものとは、

 とうてい考えることはできない。

 また元のものは阿刺吉酒と明記されているから、

 蒙古人が今も飲む馬乳酒から造る

 アリカやエラーガ。

 アラブ系の人々のアラック。

 トルコ人のラキ。

 インドネシア諸島のアラッ等々。

 本来はアラブ語の”汗”を意味する

 araqa(アラカ)から分れて方言化した

 名をもった蒸溜酒の一派であることがわかる。

 これもまた西から遅れてやって来たものの一つで、

 焼酎とは同じ祖先をもってはいるものの、

 焼酎のルーツには入らない酒でしかない。

 結局、元のものもまた泡盛と同じく、

 本当の焼酎がやってきた道に、

 後世になってから割りこんできた

 別系統の蒸溜酒であり、

 むしろ蘭引系のものといった方がいい。

 このように

 蒸溜酒の伝播経路はかなり複雑に交錯し入り組んでいる。

 このため焼酎の正しい歴史は迷路に迷いこんでしまって、

 結論が出にくい状態にあったのである。

 日本の古代には口噛みの酒しかなかったという

 先入観もまた真相を明らかにする邪魔をしていた。

 けれども、

 それではどうにも説明のつかないものが

 日本の焼酎生産地の分布である。

 ※出典:加治木義博
     「JINMU:22頁」
     「大学院講義録15:27頁」
     「大学講義録31:28頁」
     「大学講義録22:12頁」
     「日本人のルーツ:28頁」
     「焼酎入門:132・133頁」

2015年7月30日木曜日

タタラ(踏鞴)文化


 ≪タタラ(踏鞴)文化≫

 「タタラはいつから我が国にあったか?」

 文献記録の一番古いものは、

 『日本書紀』の「天の石窟(いわや)隠れ」の部分の、

 「石凝姥(いしこりどめ)を冶工として、

  <真名鹿の皮>を全剥(まるはぎ)にして、

  天の羽鞴(はぶき)を作り、

  <天の香山の金(かね)>を採って<日矛>を作り」の、

 「羽鞴」だが、

 それが製鉄用のタタラだということはすぐ判る。

 『古事記』の記事のほうは、

 「天の安河の河上の天の竪石を取り、
  
  天の金山(かなやま)の鉄を取り、鍛人・天津麻羅を求め、

  伊斯許(いしこ)理度売(りどめ)命に科して……

  真男鹿の肩を内抜きに抜いて……」とさらに詳しい。

 竪石は普通の石より堅いのだから鉱石。

 また「鉄=砂鉄」。

 「鍛人=鍛冶職人」だし、

 鹿の皮を傷付けずに内部を取り出して風船のように膨らませると

 「浮き袋」が出来、

 その空気を噴出して扇ぐと火力を強めるのに使える。

 足で踏むと、より強い火力が得られるので、

 木製のペダルをつけて両足で踏んで吸気、排気を繰り返す。

 これを「タタラを踏む」という。

 この『記・紀』の記事で天照大神以前に

 タタラが我が国に実在したことが完全に立証されている。

 ではそれは、どこから伝わった文化だったのか…?。

 その答は「天孫降臨」のところにある。

 「ギリシャ文化から生まれた「天の目一箇神」」

 <天孫>を天降りさせるための供(とも)選びの中に、

 「天の目一箇神」が居る。

 彼は「作金者・かなだくみ=金匠」だと書いてある。

 鍛冶屋>なのだ。

 この神の名は片目>だったという名だから、

 ジークフリート伝説の鍛冶屋・ミーメが

 片目だったのと同じ>であり、

 和歌山県の民話「一本ダタラ」という怪人も片目で、

 名がタタラだからこれも鍛冶屋だったことが判る。

 鍛冶屋=1眼というこの大原則は、

 ギリシャ神話の

 天空・ウラノスと大地・ガヤの子供である

  雷鳴・プロンテス、

  光・ステロペス、

  白光・アルゲスの、キクロープス

 と呼ばれる一つ目の兄弟の子孫なのである。

 この<3兄弟>は<タイタン族>と戦うため、

 ゼウスに強力な鉄槌の雷を、

 ポセイドンに三叉鉾を、

 ハデスに姿が消える兜を与えて勝利に導いた。

 ご覧の通り3つとも武器である。

 一つ目の3兄弟の現実のモデルは鍛冶屋だったのである。

 「天の目一箇神」も<大国主がウラノスの直訳>なのと同じく、

 ギリシャ文化から生まれた名詞で、

 『記・紀』の用語や神や天皇名が、

 ガヤ=伽那・谷=国土、

 ポントス=品都和気・誉津別=海洋>などといった

 ギリシャ語名乗りをもっていることの、

 動かない証拠なのである。

 ギリシャはトロヤ戦争以前から、

 鉄器文化の栄えた国である。

 金髪の天照大神・卑弥呼以前に我が国が鉄器時代に入っていて、

 タタラが実在していたことは動かない。

 『日本書紀』では天孫が降臨して、

 木の花開耶(さくや)姫との間に生まれたのが

 彦火火出見の尊=山幸彦で、

 海岸で塩土の老翁がくれた

 「目(ま)無し籠(かたま)に乗って海に出る。」

 この<籠の正体>は様々な説があり、

 ベトナムなどの、竹をカゴ編みにしてタールで

 籠目を塗り潰した小舟だろう、という説が有力だ。

 しかし本当はどんなものだったか、直ぐお判りになる。

 「マナシカタマ」とは

 「真名鹿(シカ)」の皮で

 作った球(たま)=真名鹿(シカ)球のことである、

 <マナは真魚(まな)板の真魚=魚>のこと、

 <魚の鹿とは斑紋のあるアザラシ>のことである。

 真名鹿(シカ)球>は<タタラ>であり<浮袋>であり、

 <飲み水をいれる容器>でもあった、

 それは中近東からアフリカで今も使う実用品である。

 それが古代の我が国に実在して

 片目=鍛冶屋を意味するカタマと呼ばれていた。

 スサノオが皮を剥いだ斑駒(ぶちごま)(尾久鹿)を

 日の神の織殿に投げ込んだ>というのも

 現実的なことだったと判る。

 「ギルガメシュの竜退治」が

 <スサの王の事跡>とされても不思議はない。

 『魏書倭人章』が保証する鉄器文化の実在

 神武天皇庚申年のところに

 「事代主神が<三島溝蹶(みぞくい)耳神>の娘・<玉櫛媛>と

  結婚して生んだ娘・<媛蹈鞴五十鈴媛命>を

 神武天皇が正妃に迎えた」 とある。

 『古事記』は

 <勢夜陀多良比売>・<富登多多良伊須須岐比売>・

 <比売多多良伊須気余理比売>と

 蹈鞴がタタラであることを証言している。

 当時最高の文化であった<タタラ>は今の先端工業に当たるもので、

 それを名乗りにもつお姫様は大変な高貴な存在だったのである。

 私たちは神武天皇のモデルが複数で、

 垂仁天皇の事跡が混じっているのを知っている。

 垂仁は卑弥呼政権を倒して倭人の新支配者になり、

 壹與を女王に大隅に邪馬壹国をたてて首都にした実在者だ。

 当時の文化は『魏書倭人章』に詳しく記録されている。

 それで確かめてみると、<3世紀の倭人の武器>は、

 *「竹箭 或いは鉄鏃或いは骨鏃」と書いてあるから、

  竹製の矢に鉄の鏃・やじり=矢尻や骨の鏃をつけて使い、

  石鏃は使っていない。

  また卑弥呼が受けとった帝の贈物に<五尺刀が2口(ふり)>ある。

  五尺もあると、柔らかい銅では曲がって使い物にならない。

  五尺刀が鉄製なのは常識だ。

  また薩摩半島の南端・

  <山川町の成川遺跡からは当時の五尺刀が数も同じ2口出土>

  している。

  鹿児島県下からは他にも弥生・古墳時代の鉄製品の出土が多く、

  その中には世界でただ1個しか見つかっていない

  「方位を示す紐(ちう)のある鉄製三角縁神獣鏡」があり、

  私が所蔵している。*

 「種子島→淡路島が大和政権を生んだ理由」

 神武天皇の正妃・媛蹈鞴五十鈴媛は

 垂仁天皇の皇后でなければならない。

 垂仁天皇の始めの皇后は、

 あの<悲劇の狭穂姫>で、

 <誉津別皇子>を残して死んだから、

 その後で皇妃になった丹波の道主の5人の娘の一人である。

 すでによくご承知の通り、

 狭穂姫の<狭>は<アイヌ語のタンネ>で<種子島>である。

 <穂>は豊玉の<豊>で、

 やはり<種子島の古名の1つ>だし、

 丹波の道主のタニバは

 <種子国=タネマの沖縄発音・タニバ>である。

 種子島は戦後、

 アメリカへ宇宙機用のチタン原料として、

 大量の砂鉄を輸出し続けたように、

 世界でも最高級の品質をもつ砂鉄の希に見る大産地であり、

 古代種子島の坂井人が大阪府の堺を造って、

 戦国時代に種子島銃の独占産地になった史実が物語るように、

 古代から近世に至る

 我が国鉄器産業の最大の中心地を形成して行ったのである。

 種子島がタタラ技術の先進地であり、

 タタラが国富と文明を象徴するトップ産業だったことを

 見逃してはならない。

 するとそれを名にもつ「タタラ姫」は、

 夜も輝くような美と富の姫という

 赫夜姫の名が同じ島で生まれたのと同じで、

 必然的であるし、

 またその富と武力が、

 天皇家とその一族の

 「橘=種子島人(タチバナ)」政権を東征させ、

 倭人圏を本州・四国に拡大させたのであり、

 「古代淡路島(タンジシマ)=種子島(タンジシマ)」を

 拠点に一気に奈良に大和朝廷を定着させたのであることが、

 はっきり組織立って、立体的に理解できるのである。

 「辰韓の鉄の謎を解く種子島海軍国の総括」

 この<種子島>はまた、

 沖縄から中国東北区やロシア沿海州に及ぶ海上支配権をもち、

 「漕ぐ人(りょ)」という呼び名から始めは

 「高句麗(コグリョ)=朝鮮語」

 という当て字をもった大国の本国で、

 位宮と卑弥呼時代には、

 ビシュヌー神を名にもつ

 道の大人(うし)を王とする海軍王国の本国だったが、

 ポントスを名乗るギリシャ系応神朝以後、

 ポセイドンが国名に選ばれたことによって、

 ポセイドンの名から

 <百済>と<出水・和泉・出雲>が生まれたことも、

 その<百済>が<ハツセー>と読まれて

 <長谷>の地名を残していることも、

 また<百>が<ホ>と読まれて

 「豊(ホ)の国=豊津国(ホツマ)=豊玉(ほつま)=秀真(ほつま)国」

 という国名で呼ばれることなども、

 すでに充分、確認済みである。

 そしてその<和泉の首都>が

 百舌鳥耳=百済(モズミ)こと<堺>であることは、

 幾つもの謎を明快に解いてくれている。

 まず『魏書・東夷・韓章』の辰韓の部分にある、

 「この国には鉄が出る。

   韓・濊・倭は従(欲しいままに)それを取る」

 という記録であるが、

 この辰韓を朝鮮半島東南部の、

 後の新羅(慶州地方)のことだとすると、

 そこには鉄の産地は全くない。

 この辰韓を南九州語で「タッカラ」と読むと、

 宝島や<トカラ列島>のある<薩南諸島>のことになり、

 豊玉を漢音で「リユウ」と読むことから、

 豊玉姫が竜になり、

 竜宮伝説が生まれたりした種子島が、

 鹿児島県の辰巳の方角=東南に位置するので

 「辰巳(タミ)が島や辰韓(タッカン)=立神」

 と呼ばれたことがわかる。

 「正確な『三韓史』」

 すると<馬韓>は<マカラ>で「靺鞨(マカラ)」

 と書かれた国、

 インド語のクジラ・鯨のことで百済(クダラ)、串良、

 臥蛇島・ガジャジマ(鯨島=ガジャミナ・鯨=インド語)

 を生んだ語源。

 弁韓はベンガルで南インド人の国だと判るから、

 南鮮の国々は薩南諸島からのインド系の人々、

 ソナカ仏教徒を中心とした「倭人」移住者の国だったことが判る。

 卑弥呼の直接支配地だったといっても絶対に間違いではない。

 なぜなら卑弥呼は別名の

 息長帯(ソナカシティ)姫

 (蘇那曷之帯(ソナカシティ)の妻・神功皇后)で、

 明確に「帯方郡」を意味する

 朝鮮半島の領主であることを名乗っているからである。

 それは高句麗を主軸にもつ天皇家の女王だから当然の名乗りだが、

 神功皇后の記録にある彼女がソナカ(仲哀天皇)と

 共に攻略した三韓は半島ではなく薩南諸島で、

 その結果が南鮮への大移動を生み、

 三韓が朝鮮半島にあることになったのである。

 <韓・カラ>の地名は今も

 「吾平=姶良=カラ」

 「韓国見嶽(からくにみだけ)」

 として南九州に名残りを止めている。

 こうみてくると鉄鉱山のない新羅地区の辰韓が

 「鉄を出す」と特記されている謎が解ける。

 こちらの辰韓は、

 朝鮮半島の辰巳(東南)の国という意味で、

 同じ名をもち、

 同じ人たちが住む2つの国の報告書が

 混同されて引用されたために、

 南鮮に鉄山があるという記事が誤載されただけで、

 真相は種子島の豊富な鉄資源が

 倭人連邦人に広く使われていた記録である。

 「誰が?タタラを、いつ?、もって来たか?」

 では、<タタラ>を我が国まで持ってきたのは、

 インド人か?ギリシャ人か?

 それとももっと古くやって来た

 <シュメル人=カリエン>たちだったのであろうか?。

 今も東南アジア各地ではカレン人(カリエン)が、

 鍛冶屋部族としてよく知られている。

 それも女性の仕事である場合が多い。

 彼等が我が国へタタラ文化をもってきた証拠は

 我が国で<カジャと呼ぶその職業名>が、

 はっきり立証する大文化財になっている。

 <鍛冶屋>と呼ぶその名は、

 <リ>を<ジ>と発音し<家(イエ)>を<ヤ>と発音する<南九州語>は、

 今でも<カリエン>を<カジャン>と訛るし、

 英語でもカルデアンはカージャンと発音する。

 カリエンの名がそのままで鍛冶屋なのである。

 彼等は今、

 タイでカリエンだが、

 ミャンマーでカレンと呼ばれて

 カレン、カレンニの2州を構成する勢力をもっている。

 女性を族長とする女系家族で、

 その住居は大きく『魏書倭人章』にある倭人の大家族、

 大家屋と多くの一致点をもち、

 入れ墨をし、女性は貫頭衣を着、健康維持に肌に土を塗る。

 『魏書倭人章』は朱丹と書くが、

 それを我が国では朱砂・スサと呼ぶ。

 スサの王の一族がタタラをもってきたことが、

 これらとその「鉄鏃」という2字で、

 徹底的に立証されている。

 こうお話しすると、

 私(加治木義博)の東南アジア歴訪調査が、

 どんなに効果的に倭人と『魏書倭人章』の実体を明確にしたか、

 その行動力の成果がよくご評価戴けると思う。

 「過去の邪馬台論争を超える、たった一枚のスケッチ」

 鎌倉時代末期、

 元寇の約半世紀前の寛元元年(1243年)、

 肥前から中国へ渡ろうとした商人たちが、

 漂流して沖縄へ漂着したときに写生した、

 当時の沖縄漁民の風俗スケッチで、

 その体験を記録した貴重な

 『漂到流球国記』の巻末につけられた絵図の一部である。

 この女指揮者は間違いなく「三叉鉾」をもっている。

 それには房飾りが垂れているので、

 魚を突くための漁具ではなく、

 神の助力を祈るための象徴=聖器だとわかる。

 するとそれが<三叉鉾>であることは、

 キリストの十字架と同じく、

 その<三叉鉾>だけで、

 その神が<ギリシャの海神・ボセイドン>だと判る。

 それだけではない。

 女性が指揮者であることは、

 当時沖縄にいたことの確かなカリエン人の習俗で、

 その風貌も西方のもの、

 この絵が表わしている人種は、

 カリエン人とギリシャ人との混血なのである。

 さらによく見ると、

 「貫頭衣」を着て、

 断髪した頭に布を巻き『魏書倭人章』にある

 「招頭」とはどんなものだったかを

 眼のあたりに見せてくれる。

 その弓は上が長く下が短い倭人の弓である。

 たった1枚のスケッチだが、

 それが元禄の荒井白石から、

 明治大正の大論争を繰り返した大歴史家たち、

 そして戦後に、

 雨後の筍のように現われた大量の邪馬台学者の、

 その誰もが、

 全く立証できなかった真実の<倭人の風俗と文化>を、

 この絵は物の美事に完全に描写して、

 証明し厚くしているのである。

 ※出典:

  加治木義博「大学院講義録30:27~32頁」
  加治木義博「大学院講義録30:23~30頁」

2015年7月29日水曜日

八俣大蛇退治と焼酎


 ≪八俣大蛇退治と焼酎≫

 『日本書紀』『古事記』の神話は

 必ずしも太古の伝承とは限らないが、

 日本史の中の相当古い部分を反映していることは確かである。

 それをみると、

 スサノオの命の八俣大蛇退治の話にも

 焼酎とおぼしきものが登場する。

 その名をみると古事記では

 八塩折酒とあって何のことやら直ちにはわからないが、

 『日本書紀』の方はよくわかる。

 そのかわり伝承が幾つにも分かれてしまったのを、

 本文のほかに「一書曰く」として

 列記してあるので、

 うっかりみていると、どれが本当やらわからなくなる。

 酒についてだけとり出してみると3とおりに分かれている。

 (本文)   八醞酒。

 (一書の二) 衆菓醸酒。

 (一書の三) 毒酒

 醞の字はもうお馴染みである。

 中国では九醞であったが、

 ここでは八醞になって一つ少ない。

 しかし意味は同じことである。

 衆菓(しゅうか)醸酒は酒の名ではない。

 衆菓とは多くの木の実ということで、

 それで酒を醸造しろという命(みこと)の命令である。

 木の実の酒というと、

 だれしもがすぐブドウ酒を想い浮かべるが、

 古代日本にはエビヅルと呼ばれた

 野生ブドウ(アムーレンシス)しかなく、

 その野生地も限られ、

 果実も小さく、成熟の季節も限られ、

 とても大量の酒は造れない。

 ではそれに代わるどんな果実があったか、

 と考えると、

 ヤマモモ、

 タチバナ、

 ムクノキ等や、

 キイチゴ類、

 ヤマガキぐらいしか可能性がない。

 だがこれは水っぽい漿果(しょうか)だけを考えるからで、

 今、クリ焼酎があるのだから貯蔵のきく、

 クリ、

 シイ、

 ドングリといった

 堅果(けんか)類も酒を造る材料になる。

 衆菓というのは単に量が多いというのでなく、

 種類もまた多くという意味の表現とみるべきである。

 毒酒というのは出来上がった酒に毒を入れたともとれるが、

 大蛇(おろち)は強い酒に酔って

 酔いつぶれたところを討たれたのだから

 この毒酒は強い酒を意味する

 中国式の表現であるとみても内容はそれほど変わらない。

 こうみてくると、

 伝承はまるで異なったことを、

 でっちあげて書いているわけではなくて、

 はじめ

 「衆菓を集めて発酵させ、

  それを蒸溜を繰り返して八醞にした

  その酒はまるで毒酒のように強かった」という内容が、

 時とともにばらばらになってしまって、 

 三者三様の表現が残ったというにすぎない。

 そしてその酒は大蛇にもたとえられるほどの蒙の者を、

 酔いつぶれさせるほどの強烈な焼酎であった。

 とても水っぽいポートワイン程度のものでは

 なかったことは疑いない。

 これをさらに視角をかえてみると、

 醞とか毒とか非常に的確な表現が、

 うまく使われていることと、

 それは酒の種類について、

 かなり詳しい者でないと使いこなせない

 文字であることがわかる。

 それは先の和名抄の酒名のところを想い出して

 いただければ多言を要しないと思う。

 『記・紀』は8世紀の編纂とされるが、

 それまでに原記録が書かれてから相当な年月が経っていることは、

 上のような風化、分裂ぶりからも簡単に推理できる。

 5世紀の<はそう>や樽形土器以前に

 すでに焼酒があったということは、

 少なくとも弥生時代にはあったということである。

 この時代に何か焼酎のルーツを探る手がかりはないであろうか。

 ※出典:

  加治木義博「焼酎入門:112~114頁」

2015年7月28日火曜日

日本武尊と焼酎産地の一致


 ≪日本武尊と焼酎産地の一致≫

 「歴史と水に関係」

 焼酎といえば九州のもの、

 ひどい人になると鹿児島だけのものと思っている人があるが、

 古くから本州でも造られて来た。


 そのうち十銘柄以上ある県別に色分けしてみると、

 島根22銘柄・

 鳥取12銘柄・

 三重16銘柄・

 愛知15銘柄・

 静岡14銘柄・

 岐阜14銘柄・

 長野26銘柄・

 千葉25銘柄・

 茨城22銘柄・

 福島15銘柄

 本州の主産地は三ブロックに分れていることがはっきりわかる。

 『日本書紀』『古事記』『風土記』などは、

 そのままでは歴史として信じにくい部分もあるが、

 これまで神話や物語りとして真実でないとされてきた中にも、

 見直す必要のある新たな証拠が次々にみつかる。

 本州の焼酎産地を見ると、

 不思議なほどそうした古典に登場する地域に限って、

 焼酎の銘柄がずばぬけて多い。

 それがなぜかは後にして、

 どのように一致するかからお話ししてみよう。

 西から見て行くと島根県は古代出雲。

 三重県は伊勢でどちらも古代史に関係があるし、

 さらに愛知、長野とみて行くと熱田神宮や諏訪大社があり、

 やはり古い伝承をもっている。

 茨城県に関する常睦国風土記には日本武尊を倭武天皇と書き、

 常陸全土にわたって巡幸記事が多出する。

 古事記をみると尊は、

 父天皇の命で東方十二道平定に派遣されるとき、

 まず伊勢に行って叔母の倭比売から

  草薙(くさなぎ)の剣と火打石の入った袋をもらう。

  これは三重県と一致する。

 次に尾張に行き、

  美夜受(みやず)比売と婚約し、

  帰途立寄って剣を置き忘れたのが熱田神宮のご神体。

  これは愛知県に一致する。

 三番目に相武(さがみ=相模)に行くと

  国造がだまして草原におぴき出して火をつけるが、

  剣と火打石で難を逃れる。

  日本書紀ではこれは駿河の焼津のこととなっている。

  これは静岡県に一致する。

 四番目に相模から船出して上総に渡る。

  この時、

  弟橘媛(おとたちばなひめ)の事件が起るが、

  いま焼酎産地をみると、

  やはり千葉県に飛んでいて

  この行程と不思議なほど一致している。

 五番目に陸奥(むつ)にはいり日高見の国へ行く。

  この国の西南が常陸だとあるから、

  この国は今の福島県以外ではありえない。

 六番目に常陸すなわち茨城県に入り、

 七番目に科野(しなの=信濃)に入る。

  これはいうまでもなく長野県で、ここでも見事に一致する。

 八番目には再び尾張に戻る。

  尊はまたこの東征に先立って出雲(島根県)へ行き

  出雲建(たける)を殺している。

 これまたぴたりと一致している。

 ことに忘れることができないのは南九州での熊曽(くまそ)建殺しである。

 その地は鹿児島県下とも熊本県球磨郡ともいわれるが、

 共に焼酎の本場中の本場である。

 ざつと眼を通しただけでも、こうした古典との一致があり、

 しかも特に日本武尊伝承と切ることのできない関連がみられる。

 これ程の一致は偶然では絶対に起らない。

 両者の間にどうしたかかわりがあるかは、

 やがて必ず明らかになる問題である。

 この大産地は

 すべて日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承に登場する

 土地ばかりである。

 またよい水の豊かなところとして、

 有名な観光地などが多いことも特徴である。

 「稲作儀礼に関連」

 この水は稲作との関連性を示し、

 それにともなう祭りと言葉が、

 一貫して分布していることがみられる。

 重要なことはその行事と言葉に、

 焼酎が大きな役割を果していることである。

 日本武尊伝承と稲作儀礼と言語、

 こうした要素と焼酎の大産地が

 今なお一致するという事実がある以上、

 日本の古代の酒は焼酎であった可能性に

 眼をそむけるわけにはいかない。

 筆者の焼酎に対する研究は

 この事実を知ったことからはじまった。

 しかし、

 従来は焼酎は16世紀ごろから造られはじめた、

 というのが定説化していた。

 そこで海外へまで出かけて綿密に調査してみた結果、

 江戸時代以前の日本の蒸溜器には二系統があり、

 16世紀よりはるか古代に焼酎甑が

 実在した事実をつかんだのである。 

 ※出典:

  加治木義博「焼酎入門:16・17・20・21頁」

2015年7月27日月曜日

魏書東夷伝倭人章の倭人(カリエン系・ギリシャ系・マガダ系)


 ≪魏書東夷伝倭人章の倭人(カリエン系・ギリシャ系・マガダ系)≫

 『魏書東夷伝倭人章』が「倭人」と表現したのは、

 先着順に呼ぶなら、
 
 カリエン系とギリシャ系とマガダ系の小国群が、

  各地に点在、混合していた連合体の総称だったのである。

 ① カリエン系 

   沖縄・狗奴国・球磨・肥前・肥後・小倉・高句麗・夫余

   などを支配していた。

 ② ギリシャ系

   与那国・沖縄・奄美・種子島・大隅・不知火・天草・白日別・

   三韓・邑婁など。

 ③ マガダ系

   沖縄・馬毛島・大隅・巴利国・日向・大分・筑紫・長門・

   馬韓・帯方郡など。

 このリストで同一地域名が重なるのは、

 争奪による変化、または混住地域である。

 もとはギリシャ系で天照大神=ゼウスの巫女だった卑弥呼は、

 ソナカと結婚して優婆畏(ウワイ)=倭の女王になったが、

 仏教宣布を続けるうち、

 夫・ソナカが戦死したので、

 アマゾン=天孫を率いて神功皇后として九州を転戦して勝ち、

 倭国連邦女王として政権を握り、

 朝鮮半島へ渡って、辰韓・弁韓・馬韓の三韓と

 前漢が設けた帯方郡を支配下に置いたので、

 「ソナカを息=沖縄圏、中=中国=九州本土と三韓→息中」

 と当て字し、

 帯方郡を「帯」と表記して『息中帯姫』と名乗った。

 息長・足仲はその別字である。

 そして

 南九州以南をアカイヤ、

 東九州をアイオリヤ、

 西九州を シラクサ、

 三韓・帯方以北をクロアチヤとする五彩圏をつくり上げた。

 これをも少し詳しく解説すると、

 卑弥呼も位宮も

 我が国最古の王朝・高句麗系の孝霊天皇の皇子女だが、

 血統はギリシャ系。

 それがさらにソナカと結婚してインド系の血を交(まじ)えた。

 その子孫が皇室なのだから、

 万世一系は「純血」は意味しない。

 アレクサンドロス式の国際結婚が根本理想だったのである。

 神道も同様で、

 天皇はスメラ王(ギ)、

 天皇陵はスメラ山(須弥山)を象り、

 拝礼はアラブ式に土下座する。

 拝む神はギリシャとインドの神に仏教の死者祭祀を加え、

 祭礼様式はインドのシンドゥのものを模倣し、

 ユダヤ教のへの当て字。

 開聞→不知火→白日別はシラクサでギリシャ系だったが、

 のちシーラバッガ信者=戒律派仏教徒という主張で

 卑弥呼系の人々を洗脳、吸収し、

 新羅になった邪馬壹国(壹與=始祖王)。

 肥後の肥はクマでカリエン系。

 鹿児島県西部から熊本県にかけてが、

 後世まで高族の本拠

 「クマ=熊=高麗(クマ)=高句麗(クロ)」の都として栄えた。

 しかし筑紫は肅慎の本拠として、

 北方シベリヤに支族を送り出し続けて干支圏を支配した。

 それも天智天皇=阿部比羅夫が討った時代まで、

 間違いなく九州に実在したのである。

 倭国の建国紀元をいつにするかは、

 カリエン、ギリシャ、マガダ3系ともに、

 高い文明の持ち主だったので、

 それぞれ独自の考えをもってはいたが、

 この共通点の多い史実によって妥協が生まれ

 卑弥呼による連邦化が完成したとみると、

 3者が(※このブログ歴史徒然「古代日本人文明史年表」参照)

 B.C.E.660年を一致して

 紀元元年にした経緯が、無理なく納得できる。

 それは本当の神武紀元なのではない。

 統一が初めて実現したと人々が実感した時に、

 人為的に制定した「象徴的な紀元」である。

 だが全くの架空のものでもなく、3系が大切にしてきた、

 それぞれの国の建国期が奇跡的に一致した、

 不思議きわまる「神秘な紀元」というべきものだった。

 それは「卑弥呼による長期安定政権」だからこそ生み出した、

 五彩圏連邦の優れた高文化の所産だったのである。

 ※出典:

  加治木義博「大学院講義録21:18・19・20頁」

2015年7月26日日曜日

崇神・四道将軍


 ≪崇神・四道将軍≫


 『紀・紀』がどちらも崇神天皇の記録として書く

 「四道将軍」の派遣記事である。

 『紀・紀』で異なる当て字の中から、

 理解に便利な方を使ってお話しするが煩わしいから、

 ここでは、いちいち原典を書くのは省略する。

 1 東海(東方十二道) 建沼河別

 2 北陸(高志道)   大彦

 3 西道        吉備津彦

 4 南 丹波      丹波道主  日子坐王

 これを日本の記事でなくインド起点として考える必要があるのは、

 東方十二道という記事に疑問があるからである。

 在来の国史学の奈良起点でも言語復原史学会の鹿児島県起点でも、

 東方に向かっては12もの街道はないが、

 インドからならこの表現はうなずける。

 またはるか後世につけられた東海道の名にダマされ易いが、

 東が海なのは南九州から見た視点以外にはない。

 ところがインド起点だと東は日本海の3倍もあるベンガル湾があって、

 まさに東海だし、

 それを越えると東南アジアの各国へ通じる街道があり、

 島伝いに辿(たど)る多くのコースがある。

 B.C.E.250年当時にそれを12道と表現した可能性は、

 日本の場合よりはるかに高い。

 次は北を見てみよう。

 そこは北陸と書いてある。

 インドの北には海はないから東海と対称すれば北陸である。

 「高志道」とも書くが、

 アソカ宣布団の目標記には Kasmira、後のカシミールだから、

 「カシ」に「高=カウのカ」と「シ=志」を当て字したとみると、

 「ミール・ミラ」に「道」を当てたものに一致する。

 これは南九州人が当て字した証拠でもある。

 南九州語では

 「ミル=見る」も「道」もどちらも「ミッ」と発音して

 区別がつかないからだ。

 これでもまだ、コジツケ臭いとお思いの方もあると思うが、

 四連将軍が行った南の国名は「丹波」で、

 魔涯法勅には

 Tambapanni-dipa タンバパンニ デイパと刻まれている。

 間違いなく「丹波」と同じ発音の国なのである。

 我が国の丹波は奈良からみると北にあって絶対に南ではない。

 どこから見ても四道将軍は我が国の記録ではない。

 これは『記・紀』の編集者が掻き集めた

 古資料中にアソカ宣布団の伝承があったこと。

 それを崇神の事跡とみたのは、

 崇神朝が仏教政権だったという知識をもっていたこと。

 などを裏書きしているのである。

 出典:加治木義博「大学講義録21:10・11頁」

2015年7月25日土曜日

アレクサンドロス王家の歴史


 ≪アレクサンドロス王家の歴史≫

 ギリシャは知らぬもののないアレクサンドロス大王の父・

 ピリッピクス(Philipcs=英語読み・フィリップ)が初めて統一した国である。

 彼はそれまでは紀元前359年に即位したマケドニア王であった。

 当時のマケドニアは産業も都市も遅れていて、

 海に面していながら港さえもない、

 原始的な自給自足の農業国に過ぎなかった。

 そこで彼は、

 現状打破は軍事強国化以外にないと考えて、

 生涯をそれに打ちこんだ。

 妻は西隣りのエピルスの王女オリムピアスで、

 サモトラケの祭りの儀式で出合って恋愛結婚をした。

 そして3年後、アレクサンドロスを生んだ。

 彼女は熱烈な宗教家で、

 その信仰は古来のギリシャ密教だった。

 これは酒の神ディオニュッススを主に祭るもので、

 私たちに関心のある

 「カピトーリウム=ハリカルナッススの神託」と同じ宗教である。

 中世ヨーロッパでキリスト教と対立して、

 根強い勢力をもっていた黒魔術はこの密教の子孫なのである。

 オリムピアスは自身、

 巫女として高い地位と強い権力をもち、

 神託の技術にもすぐれていて、

 神の使いと称する大蛇を飼い馴らして自由に操ったりしたので、

 崇拝者を多くもっていた。

 そして、

 戦争を賛美し、人殺しの研究ばかりしている夫を野蛮だと、

 心から見くだしていた。

 夫が戦争に勝って国民に賞賛されればされるほど、

 それを嫌った。

 夫婦の意見はことごとに対立し、

 夫婦喧嘩の絶え間がなかった。

 夫が戦場を駆け回り、都を留守にしている時、

 息子アレクサンドロスの教育は母の手にあったが、

 父は自分がこれから築き上げる大帝国の皇帝を夢見て、

 息子をその後継者にふさわしい男に育て上げようと、 

 大哲学者アリストテレス始め多くの学者を家庭教師とし、

 競争相手に優秀な頭脳をもった貴族の子弟を選んで、

 一緒に勉強させるなど、それ以前には例がなく、

 現代でも珍しいほどの

 「後継者教育」を世界で初めて実行していたのである。

 アレクサンドロスが勝利者になれたのは教育の力だった。

 だがこの人工天才は、

 対立する父と母との間で、

 完全に分裂症患者に育て上げられてしまった。

 プルタークは『英雄伝』の中で書いている。

 「敵の大都市が陥落した。

  ○○大戦に大勝した、という報告がきても、

  アレクサンドロス少年は顔をしかめるだけであった。

  そしていつも学友にいった。

  親父はみんな先き取りしてしまう。

  ……これじゃ、僕が君らとやる大事業なんか残らないよ……」

 こうした話が父の耳に入らぬわけがない。

 そんな教育で彼の最大の夢を

 台なしにぶちこわした妻に対する憎しみが、

 美しいマケドニア娘・クレオパトラとの

 第二の結婚となってはねかえつた。

 紀元前337年のその婚礼の式の宴会で、

 この呪われた父子はあわや殺しあいを演じるところまでいく。

 その翌年の336年、アレクサンドロスの妹と、

 すでにエピルス王になっていたオリムピアスの弟との、

 姪と叔父との結婚式場で、

 「誇大妄想で仕事狂の粗大ゴミ亭主」ピリッピクスは、

 白衣を着ただけの丸腰で

 行列の中央を上機嫌で進んでいるところを、 

 自分の親衛隊員の一人に殺された。

 その場でその犯人も殺されたが、

 オリムピアスは夫の葬式に負けない規模の葬式を、

 そのテロリストのためにも行なうように命じたのである。

 こんなお語をしたのは、その後のギリシャの人心が、

 オリムピアスの神秘主義に大きく傾いた理由を知っていただくと、

 「4神」の問題がいっそうよく理解していただけるからである。

 オリムピアスの信仰対象が

 「酒の神のディオニュッスス」だったことはお話しした。

 そして『カピトーリウム神託集』のもとになった

 ハリカルナッスス神殿の祭神もまた、

 同じ「ディオニュツスス」だった。

 その神殿はアレクサンドロス帝国時代に建設されたのだから、

 アレクサンドロス時代のあと、

 その神殿で行なわれた神託に、

 建国の英雄たちの神格化と信仰が

 色濃く混じっていたことは不思議ではない。

 そこで『黙示録』に現れたその遺物である

 4つの「色」の、

 出現の「順序」が問題になるのである。

 私はつい今しがた

 「この西南北東、この方角の順序は何を意味しているのだろう?

  それはギリシャの建国史を知っていると、一目瞭然なのである」

 と申しあげた。

 一体どう一目瞭然なのだろう?

 ギリシャ大帝国の建国は、

 一般にアレクサンドロスの業績のように誤解されているが、 

 それはこれまでご覧いただいたように、

 その父ピリッピクスが基礎を築きあげたものだった。

 そして、

 そのまた母体になったマケドニア人は、

 ギリシャの土着人ではなく、

 はるか東から移ってきたインド・アーリア人だった。

 それはハル・マゲドンやマガダといった地名や国名が、

 彼らと共通していることでも証明されている。

 まず「西征」が初めで、

 これが最初の馬の色「西=白」に一致するのである。

 彼らはいったんドナウ川(ダニューブ〉の源、

 カルパチア山脈のあたりに住んだあと、

 今度は南に進んでバルカン半島を南下し、

 旧ユーゴスラビアの南端、

 いまのマケドニア地方に定着した。

 これが「南征」=第二の馬の色「南=赤」に一致する。

 第3の「黒」は北だから、

 これはマケドニアの北に隣りあっていたペオニアを

 ピリッピクスが征服併合して大マケドニアを作りあげ、

 ギリシャ連邦の支配者の地位を築いたことの勝利の記憶である。

 最後の「青=青竜=東」は、

 最後の仕上げ、

 アレクサンドロスの「東征」。

 まずへレスポントを通ってペルシャに入った彼は、

 グラニクス河でペルシャ守備軍を破り、

 南下してハリカルナッスス城を大激戦の末におとした。

 ハリカルナッススは、

 大王にとって最初に手にいれた都城で、

 生涯、忘れることのない記念すべき地であった。

 そこに神殿が建てられたのは当然のことである。

 それ以後のダリウス・ペルシャ帝国皇帝とのイッススの戦いから、

 インド・パンジヤブ征服までの歴史は、あまりにも有名で、

 ここでお話ししてもページがむだになるだけである。

 これが「東征」=第4の馬の色「東=青」に一致する。

 これでアレクサンドロス王家の歴史が、

 そのハリカルナッスス神殿で

 作られた神託の中に反映していたことと、

 その順序の意味がおわかりいただけたと思う。

 そのアレクサンドロスの理想が、

 父の武力による暴力統一方式と、

 母の宗教教化による平和統一方式の、

 奇妙な合成物であったことはいうまでもない。

 彼は紀元前333年ペルシャのダリウス3世を

 イッススの大戦で破ったあと、

 331年アルベラの戦いで止どめを刺した。

 超大国の皇帝は再び逃げる途中、

 味方の将軍たちの手にかかって死んだ。

 だから彼は暴力でも父に劣らなかった。

 だが、その後がおもしろい。

 首都スサに帰った大王は

 ダリウス3世の娘との結婚式をあげたが、

 同時に将軍や友人たち90人と数千人のマケドニア兵士にも

 ペルシャ人の花嫁を迎えさせた。

 「欧亜結婚」と呼ばれるこの「融和主義」が、

 母オリムピアスの理想の実行だったことはいうまでもない。

 従来は、アレクサンドロスの両親の悲惨な争いを、

 いかにもありふれた家庭内暴力のようにしか見ない

 学者ばかりだったが、

 それはあまりにも小さく浅薄である。

 実際は根本的に相違する世界観と理想像の激突だった。

 男性は現実的に人間の実態をリアルにとらえる。

 女性は空想的に世界を美化してロマンチックにとらえる。

 その永遠の相剋の宿命の落し子がアレクサンドロスであり、

 『カピトーリウム神託集』であり、

 『黙示録』であり、

 卑弥呼と垂仁天皇の争いが生んだ

 日本人でもあったのである。

 それはヘレニズムの2大激流が生んだものだったのだ。

 その『カピトーリウム神託集』は、

 イエスの教科書でもあった。

 彼はアレクサンドリアの大図書館かどこかで

 その写本を読みふけった。
 
 彼はオリムピアスの主張に同調した。

 だがイエスもまた、

 そのロマンの夢を現実主義のローマ人の暴力によって踏みにじられた。

 ヨハネはイエスの死後にそれを読んで悟った。

 彼が「アポカリプス=黙示」と呼んだ真意は、

 このことなのである。

 それは、

 イエスは「黙して語らないが、彼はそれを悟りえた」

 という意味なのだ。

 だが彼もまた男性だった。

 彼は師が最も戒めた「復讐」と「恐喝」のために、

 それを使ってしまったのである。

 ※出典:加治木義博「黙示録の大予言:70~76頁」