2015年12月6日日曜日

百舌鳥陵山古墳


 ≪百舌鳥陵山古墳≫

 出典:保育社:カラーブックス:古墳―石と土の造形―森浩一著
           48~49頁
  
  《百舌鳥陵山(履中陵)古墳》

  国鉄阪和線上野芝駅西方の大先方後円墳で、

  誉田山古墳につぐ三番目の規模であり、二重濠の跡がある。

  西側の造出しから小型の赤焼き土器や須恵器が

    出土したことがある。

  百舌鳥大塚山の造出しでも特殊な土師器が出土し、

  祭りの場であることを示している。

  残念なことに、戦後の開発で陪塚が破壊され、

  その一つである七観山古墳からは、

  おびただしい鉄製の武器類が出土した。

  刀・剣・鉾・鏃・甲や冑・馬具・工具などで、

  とくに刀・剣・鉾は数百人を武装させるに足る数であった。

  このほか、中国製の優秀な金銅製帯金具があり、

  5世紀の支配者の特色があらわれている。

  「写真」:上石津ミサンザイ古墳:大阪府堺市          

  「写真」土師ニサンザイ古墳:大阪府堺市土師町


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:講演会:
     (毎日新聞:1994.10.28)

  《履中陵・第2の被葬者?》

  前方部、謎の円丘(付近から形象はにわ)

  大阪府堺市の履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)から出土、

  宮内庁書陵部が保管するはにわの公開で、

  同陵前方部に被葬者とは別の重要人物が

    埋葬されているとの見方が、

  27日までの考古学者の分析で強まった。

  前方部に類例のない円丘があり、

  この付近から、

  通常埋葬施設の上部に配置する形象はにわが

    見つかっているため、

  巨大古墳築造をめぐる謎がさらに深まった。

  履中陵は、世界最大の墳墓・仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の

   南にあり、

  縦の長さは360メートル、後円部の直径200メートル、

  全国3番目に規模の前方後円墳で、築造形式などから

  5世紀初めごろのものとされる。

  墳丘上は未調査だが、

  測量で平たんな前方部の南端に庇のようなくぼみに囲まれた

  直径約30メートル、高さは数メートルの円丘が確認され、

   謎とされてきた。

  宮内庁が研究者らを対象に初公開したはにわは

  家形や杯形、靭形などの形象はにわ・18点で、

  いずれも5世紀初めの様式。

  1986年12月、地元の大学生がこの円丘付近から盗掘し、

   押収されたものが中心。

  白石太一郎・国立歴史民族博物館教授によると、

   通常は後円部に主たる被葬者を葬り、

  その上部に家形はにわなどを方形に配置、

   周囲に杯形はにわなどを並べる。

  写真:履中陵の前方部から出土した盃形はにわ=

         宮内庁書陵部展示目録から

    (毎日新聞:1994.10.28)

  「百舌鳥陵山古墳」上石津ミサンザイ古墳


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