2015年12月30日水曜日

飛鳥と石舞台古墳

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著
    86~87頁

 《飛鳥と石舞台古墳》

 飛鳥の古墳は数えあげると意外と少ない。

 範囲をやや広くとっても、十数期があるだけである。

 実際には数が少なくても、

  飛鳥といえば古墳を連想するのは、

 この石舞台の印象があまりにも強烈であるからであろう。

 石舞台は横穴式石室では最大級であっても最大ではない。

 石室の長さでは見瀬丸山や福岡県の

 宮地嶽神社境内の大塚の方が大きいし、

 石室の高さでは岩橋千塚天王塚が、

 玄室の長さでは伊勢市の高倉山古墳がより大きい。

 それにもかかわらず石舞台が印象づけられるのは、

 古墳の封土の中にかくされずに、

 石室がむきだしになっているからであると思われる。

 「写真」石舞台古墳:墳丘のはり石

 《石舞台古墳》

 喜田貞吉博士の研究依頼、

 石舞台は蘇我馬子桃原墓説が有力である。

 年代的には矛盾はない。

 この大古墳が盛土を失ったのは、

 蘇我氏にたいする懲罰であるとの説があるが、

 案外事実かも知れない。

 未完成の古墳との考えもあろうが、

 石室内に石棺の破片があったからそれは認められない。

 石舞台の調査を実現されたのは濱田耕作博士で、

 博士の発想の背景には、

 イギリスの巨石記念物との技術的関連の

  究明があったようである。

 現場での研究は末永雅雄博士が担当され、

 埋もれていた濠や斜面のはり石が検出され、

 石舞台は方墳であることがわかった。

 全長19メートルの石室の壁面を構成する巨石は、

 磨かれてはいるものの文殊院西古墳の切石より、

 前段階の技術である。

 最大の天井石が77トンあることであろう。

 すぐ南東の都塚も見ておこう。

 「写真」巨石の組合せ:石舞台


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         TAIKA:117~121頁

 《謎に満ちた敗北者「蘇我」の系譜》

 「石舞台古墳」
 
 蘇我の馬子の墓として最も有名な遺物。

 しかしその本当の正体は……?

 本書で始めて論理的に明快に答が出た

 「ウマコ」の実態と、これがどう結びつくか?

 日本の古代史は今後ますます面白くなる……!

 《蘇我への当て字と発音のいろいろ》

  蘇我は『日本書紀』には、

  いかにも氏族らしく家系や歴史が書かれている。

 しかし他の文献を数多く見ると、

  実に様々な当て字が使われていて、

 どれが本当だかわからないほどである。

 中にはそのままではとうてい

  ソガなどと発音できないものもある。

 しかし「大化改新」は『日本書紀』では、

 ありふれたクーデターのように粉飾されているが、

 その結果、

  日本国が倭国に代わって

  日本列島を統治すること打なったのを見ると、

 その「蘇我氏」と書かれた人々こそ

  倭国政権の主体だったことは間違いない。

 ソナカに対する当て字だということはわかったが、

 次はそれがどういう意味に受け取られていたのか、

 その名がどんな意味をもっていたのか、

 といった面から観察していってみよう。

 この氏族は『古事記』の[孝元天皇記]に、

 一番古い系譜に当たるとされるものが出ている。

 それによると孝元天皇の孫、

 建内宿祢(『古事記』)=

  武内宿祢(『日本書紀』)の子

 「蘇賀・石河・宿祢」が祖先ということになっている。

 [波多・八代・宿祢]=
  ハタ・ハダ・すくね。

 「許勢・小柄・宿祢」=
  コセイ・コヘイ・すくね。

 「木の・角・宿祢」=
  キノ・チヌ・すくね。

 もうよくおわかりと思うが、

 みんな姓と名が同じ言葉の方言差を

  並べたものになっている。

 最後から逆に説明すると、

 「キノ」の沖縄方言は「チヌ」である。

 次は、

  日をシと発音する人たち(東京、鹿児島など)は

 「コセイ」と発音し、

 サ行をハ行に発音する人たち(大阪・四国)は

 「コヘイ」と発音する。

 次は、

  清音発音の人たちは「ハタ」。

 濁音発音の人たちは「ハダ」と発音する。

 次は、少し複雑で

 「石」の字を「ソ」と古音で発音する人々と

 磁石の「シャク」と発音する人たちとの違いである。

 一見、姓名のようにみえるが、

  こうした名は姓名ではない。

 一つの名乗りをいろいろ方言で読んだものの内から

 二つ選んで並べただけのものである。

 これによって蘇賀=石河であったことが明らかにわかった。

 「蘇」の字は「蘇芳(スホウ)」と書くと

 「ス」と発音するから、

 その名は「ソカ」「スガ」「シャクカ」などと

  発音されていたのである。

 《蘇我の由来とアスカの語源》

 蘇我はまだ多くの当て字をもっている。

 その中で特にわかりにくいのが「巷宜」である。

 「巷」は普通「チマタ」と読まれるが、

  漢音では「カウ=コウ」である。

 「ソ」とも「シャク」とも全然読めない字である。

 「宜」も「ヨロシ」「ギ」「ノブ」としか読めない。

 だがこの謎も他の当て字と比較してみると、

  きれいに解ける。

 蘇我の一番の特徴は仏教の保護者だったことだから、

 「石河(シャクカ)」と当て字されたのは同じ発音の

 「釋迦(シャカ)」への当て字だった可能性もある。

 この「巷宜」も同じ発音への当て字だったとみると

  謎が解ける。

 「釋迦(シャカ)」

 「石河(シャクカ)」

 「巷宜(シャクカ?」と並べてみると

 「巷」と字の形も発音もよく似た

  「若(ジャク)」の字があることに気づく。

 「宜」の中の「且(カツ)」という字の発音は「カツ」。

 これで、

 「若宜(ジャックカツ)」という

  濁音の当て字が復元できる。
 
 古い「石河」と、

  新しい「巷宜」とが、

 この当て字の元の発音は

 「シヤカ」だったと証言したのである。

 とすれば、

  私たちが一緒くたにしているいろんな当て字のうちの

 「蘇我・宗我・宗賀・曽我」といったものは、

 敗者に勝者が押しつけた仮の名。

 本当の名がわからなくなるように

 変型させられた名乗りでしかなかった、

 とみることが必要になる。

 ここまでわかると河内王朝の祖、

 応神天皇も八幡大菩薩という仏教名をもっている。

 その両親である仲哀天皇の名乗りは

 「足仲彦(ソナカ・ひこ)」。

 神功皇后は「息長帯姫(ソナカ・ティ・ひめ)。

 この皇后の仏教教主としての部分は

 間違いなくヒミコに当たる。

 結局、

 インドで釋迦の死後、

 文字による最初の仏典結集をなしとげ、

 八方世界に仏教弘通(ぐずう)の使節団を派遣した

 マガダ国のアショカ王が、

 東方に派遣した「ソナカ」と同じ名になる。

 そして統一日本国誕生後、

 蘇我・倉山田石川麻呂が自殺した山田寺跡や、

 蘇我馬子の墓だといわれる石舞台古墳などは、

 すべてアスカ(飛鳥・明日香)にある。

 すると、

 これまで意味不明だった「アスカ」という地名は、

 そのアショカ王を記念して

 名づけられた地名だとみると関連性がよくわかる。

 そしてこの名も

 「お釋迦」を「阿釋迦」と書くと

 「アショカ」とも「アソカ」とも読めるし、

 「阿・蘇我」も「アソカ」とも「アスカ」 

 とも読める。

 「飛鳥」という地名の謎の答えは

 以上挙げた中のどれか一つか、

 あるいはその全部が正しいとみていいであろう。

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

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2015年12月28日月曜日

飛鳥南西の古墳


 
  出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著
    82~83頁

 樫原神宮の駅から見ると、

 東南にある小山が見瀬丸山古墳がる。

 日本最大の横穴式石室があり、

 英人ゴーランドが巨大な前方後円墳と発表していたが、

 長らく円墳に誤認されていた。

 空から見ると、大和最大の古墳である。

 前方部濠外にある飛鳥時代にの軽寺は

  その墓守かと推定している。

 しかも奈良盆地を南北に連らねる古道下ツ道は、

 この前方部で終わっている。

 これも謎である。

 現在の欽明陵古墳は幕末に大修築を受けていて、

 もとは双円墳らしい。

 そして、この古墳の付近に、

 野口王墓「天武・持統天陵」古墳、

 鬼の俎古墳、菖蒲池古墳、越岩屋山など

 終末期の立派な古墳が並んでいる。

 昭和47年に3月に、

 人物・四神・日月星辰の壁画の見つかった

 高松塚も終末期の古墳で、

 漆塗りの木棺をおさめた横口式石槨がる。


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見瀬丸山古墳と天武・持統合葬陵

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著
    80~81頁

 《見瀬丸山古墳》

 墳丘の長さが318メートルの大型前方後円墳で、

 後円部に開口していた横穴式石室は長さ26メートルもる。

 二つの家形石棺『聖跡図志』などに描かれているが、

 私は欽明天皇と堅塩媛の棺と推定している。

 「写真」見瀬丸山古墳:奈良県橿原市見瀬

 「写真」現文武天皇陵と高松塚:
          昭和45年8月16日撮影

 「写真」都塚の家形石棺:明日香村阪田

 「図」聖跡図志にえがかれた見瀬丸山古墳の横穴式石室と高松塚

 《天武・持統合葬陵》

 鎌倉時代にこの陵が荒らされ、

  一人の僧が詳細な記録を残した。

 『阿不幾乃山稜記(あおきのさんりょうき)』がそれで、

 切石造りの横穴式石室に天武天皇は乾漆棺、

 持統天皇の火葬骨は蔵骨器に葬られていた。

 野口王墓古墳である。

 「写真」山稜図にえがかれた
         野口王墓(天武・持統陵)の石室

 「画」山稜図にえがかれた江戸時代の高松塚

 「写真」梅山(欽明陵)古墳:奈良県明日香村平田

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

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2015年12月26日土曜日

古墳群と群集墳

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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 出典:保育社:カラーブックス:
       古墳―石と土の造形―森浩一著
    78~79頁

 《古墳群と群集墳》

 佐紀盾列古墳群、馬見古墳群、百舌鳥古墳群などでは、

 大型・中型の古墳が数キロにもおよぶ広範囲に点在し、
 
 巨視的にとらえると古墳群を形成している。

 ところが近畿では6世紀になると、

 直径十数メートル、高さ約2、3メートルの円墳が

 狭い範囲のなかに次々と築かれ、

 約1世紀の間にるいるいと古墳が密集した。

 このような古墳群を群集群とよんでおり、

 すでに見た岩橋千塚も墳集墳である。

 日本の古墳全体の大半が、

  群集墳に属する小型古墳である。

 群集墳を構成するのは、円墳が大部分であるが、

 前方後円墳や方墳をまじえるもの、

 時には方墳ばかりの場合もあり、

 それぞれの群集墳をのこした

  手段の政治的な性格を示している。

 埋葬施設は石材の入手が困難な土地では

  木棺を墳丘内に埋めるが、

 たいてい横穴式石室を築いている。

 小型円墳の横穴式石室でも、壁や天井石には、

 数トンから数十トンの石を用いるから、

 現代の一家族の労働ではとうて構築できない。

 群集墳が全国各地で爆発的な勢いで出現した背景は、

 多数の家族がそれぞれの墓を営み、

 もとうとしたことである。

 では群集墳家族の復原となると、

 男女二体の合葬墓から、

 数世代にわたる十数人の成人遺骸を葬ったものまであって、

 全国の平均的実態はなかなか示せない。

 このような家族は、

 農業・塩・須恵器生産などで

  経済的に発展してきたのではあるが、

 有力な家族長が想うままに墓を営めたものではなく、

 大和朝廷が政治的秩序として拡大しつつあった

 カバネ制(オミ、ムラジ、キミなど)に組みこまれ、

 カバネを与えられた人のみ造墓が

 許されたとする見解がある。

 「写真」猪ノ子谷古墳群:岡山県邑久郡長船町西須恵

 「写真」八ツ塚:愛媛県松山市恵原町

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

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2015年12月25日金曜日

磯長谷の古墳

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    古墳―石と土の造形―森浩一著
    76~77頁

 《磯長谷の古墳》

 大阪と奈良の境に聳える二上山の西麓には

 終末期の古墳が点在する。

 敏達、用明、推古、孝徳の天皇陵になっている古墳や

 聖徳太子の墓などある王墓の谷である。

 私には、

 どの古墳がどの天皇陵かとなると確信がないが、

 この時期には天皇陵が方墳になるのは事実である。

 山田高塚の北方、松井氏の屋敷(方墳)からも

 大きな横口式石槨が発見されたことがある。

 謎の古墳である。

 聖徳太子の墓は円墳で、

 古記録では切石造りの横穴式石室があり、

 二つの夾紵棺(きょうちょかん)と

 一つの石棺が安置されている。

 太子信仰で守られ、墓寺として叡福寺が発達した。

 「写真」山田高塚(推古陵):
     古墳(方墳)大阪府南河内郡太子町

 「写真」松井塚の横口式石槨:太子町叡福寺境内

 「写真」叡福寺北(聖徳太子)
     古墳:大阪府南河内郡太子町

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

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銅鏡と古墳の年代

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  出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著
       122~126頁

 《古墳の時代区分》

 古墳の古さをいいあらわす方法が二つある。

 前期古墳というのは、相対的な関係を表現しており、

 4世紀の古墳というのは実年数で表現している。

 われわれの日常の経験でも、

  自動車の形は刻々変わるし、

 一昔前には農村でごくありふれていた

  藁葺屋根の家が激減した。

 このような変化をとらえるのに、

 考古学では形式という尺度を用いる。

 先ほど問題にした桜井茶臼山と

  箸墓の前方部の型式の相異は

 その一例である。

 古墳や副葬品の型式を整理すると、

 数え切れない前後関係が発見できるが、

 それを総合すると

 次のようになる。

 発生期・前期・中期・後期・終末期

 この時期区分は私が使っているもので、

 研究者によっては中期を作らず、

 その代わり前期を細かく分けている。

 ここでは概略を示すのが目的であるから、

 各時期の細分はひかえておこう。

 形式学を駆使して古墳の時期区分がおこなわれても、

 それに実年数があたえられないようでは

  歴史の中へは入りようがない。

 日本の古墳には、

  中国の古墳のように墓の主の姓名や没年などを記した

 墓誌をいれることは、

  終末期になって少しあるだけであり、

 直接にその年代を知ることはできない。

 そこで、副葬されている中国製の遺物などから

 間接的に古墳の年代をわりだす方法がとらえている。

 《古墳の年代を割り出す方法としての銅鏡》

 しばしば例にだす弥生中期の北九州の甕棺墳墓では、

 中期の場合には前漢時代の銅鏡、

 そして中期の墳墓では王莽の「新」および

 後漢前半の銅鏡に限られている。

 後者の墳墓の一つ、福岡県の井原では、

 方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)という

 形式の鏡ばかりが二十数面も副葬されていて、

 それ以前の鏡をまったく混じえていないのである。

 余談になるが、弥生中期や後期の年代は、

 実はこの各時期の中国鏡の年代から

 推定しているのであり、

 その推定にあまり不安が伴わないほど

 型式がわりだした甕の時期と、

 中国鏡の王朝ごとの変化が一致している。

 中国では、後漢の後・晩期に

 内行花文鏡(ないこうかもんきょう)が

 盛んに製作され、

 朝鮮半島の楽浪郡の古墳からも発掘され、

 かなりの数は日本へもたされている。

 ところが、

 この形式の鏡ばかりがかたまってもたらされている。

 ところが、

 この形式の鏡ばかりがかたまって

 副葬された例がなく、

 このあたりから銅鏡で古墳の年代を知ることは

 困難になってくる。

 後漢の後・晩期の内行花文鏡には、

 「長宜子孫」の銘を鋳造し、

 また花文の数が八つであるが、

 この特色ある銅鏡は私が発生期の古墳の候補にした

 北九州の古墳(112頁)にみられるほか、

 兵庫県加古郡播磨町の大中弥生集落址で、

 破砕後、利器に転用された破片が知られている。

 つまり、分布圏が東に拡大しているのである。

 「表」(112頁):主要な前方後円墳の墳丘規模(全長)

 《三角縁神獣鏡》

 前期古墳にずばぬけて多い銅鏡の形式として、

 三角縁神獣鏡と画文帯縁神獣鏡がる。

 両形式とも、

 弥生墳墓にはまったく存在しない形式である。

 このうち、

 とくに古代史にたいしても

 関係深いのが三角縁神獣鏡である。

 この鏡は、

 縁の断面が面の反対方向へ三角状に突き出ていて、

 文様には西王母(せいおうば)や東王母の神仙と、

 竜虎などの獣をえがき、銘文をめぐらすことが多い。

 なぜこの鏡が古代史にとって重要化といえば、

 日本の考古学者が

 三国時代の魏の鏡だと断定しているからで、

 もしその通りとすれば、

 魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼にあたえた鏡も

 この形式である可能性がつよく、

 この鏡がもっとも多く分布している地方が

 邪馬台国であった可能性があるばかりか、

 前期古墳の年代を決定する資料になるのである。

 ところが、この鏡の研究は、

 中国大陸での古墳の学術調査の少ない時代に

 日本の学者が

 机上の研究でつくりあげてしまったもので、

 それは研究を進めるうえでの

 一つの作業仮説にすぎなかったのである。

 太平洋戦争が終わり、

 中国人学者の手で
 
 中国本土の各時代の古墳の発掘がおこなわれ、

 おびただしい鏡が検出されたが、

 不思議なことに三角縁神獣鏡は

 中国大陸では発見されていないのである。

 そればかりか、

 日本には一部の学者が魏の製品と断定している

 三角縁神獣鏡だけで約三百面もある。

 しかもこの鏡は一面約1キログラムあるから、

 大変な銅の量である。

 さらに注意してほしいのは、

 古墳から発掘してわれわれが数えあげているのは、

 古墳に埋められていた、

 あるいはまだ埋まっている総数の

 ごく一部にすぎないということである。

 おそらく、当時あった三角縁神獣鏡の総数は、

 数千面という数にたっするだろう。

 三角縁神獣鏡にたいして私がいだいている疑問点は、

 すべて

 『古墳時代の考古学』(学生社・昭和45年)で

 表明した。

 前期古墳の年代は、

 この鏡にたいする解釈によって

 大きくゆれうごくわけだが、

 やはり中国大陸で出土するまでは

 断定を保留しておくべきであろう。

 中国大陸に出土しないのは、

 本来、日本向けの輸出品として

 特別に製作したから当然だという説明が

 最近なされているけれども、

 なぜ日本が三角縁神獣鏡を欲したか、

 まったく説明されていない。

 江戸時代に覚峰という学者が河内に住んでいた。

 覚峰は偶然に国分茶臼山出土の三角縁神獣鏡を見て、

 その銘文についての自説を述べている。

 その銘文とは、今日もよく議論されている

 「用青銅至海東」という一説である。

 最近の学者はこの文意を、

 中国より日本へ輸出したことを

 示すかのようなに解釈しているが、

 覚峰は

 「鋳工銅を侍して我国にて鋳たるもしるべからず。

  漢土にては日本を海東諸国の中に入申也。」

 と書いている。

 私は三角縁神獣鏡の大半を日本製と仮定し、

 その母鏡になった優品の製作地として、

 公孫氏が建国していた遼東を仮定しているのだが、

 これについてもここでの詳述ははぶこう。

 《画文帯縁神獣鏡》

 昭和26年、

 大阪府の黄金塚から発掘された

 6面の銅鏡のうちの一面に、

 魏の景初3年の年号があった。

 この魏の年号鏡は、

 三角縁でなく平縁の画文帯縁神獣鏡である。

 現在、

 魏の年号を鋳造した鏡は中国本土のものを加えると、

 十数面が知られていて、

 魏時代の鏡の形式を知る手がかりとなる。

 それによると画文帯縁神獣鏡や獣首鏡が大半を占め、

 三角縁神獣鏡は昭和47年に

 島根県神原神社の古墳で出土した一面がある。

 また□始元年の年号の三角縁神獣鏡が

 群馬と兵庫の古墳から出土していて、

 欠失部分は

 正(魏の正始)か

 泰(晋の泰始)であると推定される。

 これらの年号のある神獣鏡の文様構成は、

 大部分の三角縁神獣鏡の文様構成と大きく異なり、

 区別して扱われている。

 また年号鏡の年号も、

 確実に年号の示す年に造られたのか、

 それとも後世になっての偽称かの問題がある。

  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

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 《考古学&古代史の諸問題》
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 《考古学&古代史の諸問題》
 《参考:年表・資料》

 ≪鏡・玉・武器≫

 出典:保育社:カラーブックス:
      古墳―石と土の造形―森浩一著
      118~121頁

 《前期古墳の特色》

 前期古墳そのものを特色づけるのは

 前方後円墳や前方後方という

 日本独自の墳形であろう。

 この形の起源論として、

 梅原末治博士の前方部祭壇説が再検討されており、

 そのほかは紹介するに足る学説がないのは

 残念である。

 数年前までは、

 桜井茶臼山のように前方部が先でひらいていない形

 -その平面形は江戸時代に使われていた

  柄鏡(えかがみ)に似ているので

  柄鏡式などとよばれることもある-

 が古いとされていた。

 ところが岡山県の備前車塚(前方後方)や

 兵庫県の養久山(やくやま)一号墳の発掘で、

 前方部先端が

 左右へ角ばった形がより古いのではないかと

 近藤義郎氏は考えている。

 起源を論じるには、

 最古の形態をつきとめることが必要条件であるが、

 今の段階では前方後円墳の最古の形態は決めにくい。

 大和にについていえば、

 箸墓のような角ばった三味線の撥形の前方部は、

 すでに同一水面でめぐる濠をもった古市古墳群の

 岡ミサンザイ古墳にも名残りを認めることができる。
 
 この古墳は4世紀末の築造と推定されるので、

 撥形前方部はここまで続くようである。

 したがって、

 大和では桜井茶臼山の墳形箸墓よりも先行した形態と

 一応考えられるが、

 発生期から前期にかけては、

 まだ古墳の構築技術が

 統一されていたわけでなしから、

 地域ごとに特色があってもよい。

 《副葬品と時代の習俗》

 ある古墳の形が、他の地域へとひろがることは、

 文化の伝播現象でも説明することはできる。

 ところが、

 死者にもそえる品物の種類や遺骸のおさめ方などは

 古墳へ葬られている人間の属していた集団の習俗を

 示す可能性がつよい。

 大和とその周辺の前期古墳の副葬品は、

 銅鏡と鉄製の刀・剣などの武器が

 セット関係になっている場合と、

 さらにそこへ勾玉、管玉などの玉類が

 加えられことがあるが、

 副葬品の基本的組合せは銅鏡と攻撃用武器の二種、

 または玉を加えた三種である。

 過去の盗掘で遺物の一部を失った古墳をのぞくと、

 学術調査で発掘された

 前期古墳の副葬品の組合せ関係が、

 以上の二種の原則をはずれることは

 まずないようである。

 前期古墳文化の狙い手たちの共通した習俗を

 そこに見出すことができるし、

 『日本書紀』にも支配者たちがもっていた

 この組合せの宝器が散見している。

 畿内での弥生式墳墓は、最近、兵庫県の猪名川水系、

 大阪の淀川水系の流域で組合せ式木棺墓が

 発掘されている。

 ところが副葬品はほとんどなく、

 田能で玉類と銅製腕輪が
 
 それぞれ別の棺から発掘されているにすぎない。

 弥生式時代における畿内では、

 銅鏡の愛好は実例のうえでは、

 指摘できないし、まして墳墓の中へ、銅鏡、武器、

 あるいは玉をセット関係にして死者に副える

 習俗の存在は証明できない。

 すでに少し説明したことであるが、

 北九州の弥生式中期への甕棺の墳墓では、

 時として豊富な副葬品をもつ墳墓が、

 副葬品をもたない多数の甕棺と同じ墓地に

 埋められている点が

 高塚古墳での在り方と異なっている。

 さて、問題を副葬品に限ると、

 福岡県の三雲、須玖、

 佐賀県の桜馬場の墳墓のように

 銅鏡、攻撃用武器、玉の三種をもつ場合と、

 立岩での四基の甕棺のように

 玉を欠く二種組合せがあることがわかる。

 そこでそれぞれの最初の発見地名をとって、
 
 三種組合せを三雲型、

 二種組合せを立岩型と名づけた。

 要するに、

 前期の古墳文化を特色づける遺物の組合せ関係は、

 北九州の1世紀ごろに実在した

 小国家の支配者たちが、

 すでに習俗にしていたことがわかるのである。

 《銅鏡について》

 支配者たちが銅鏡を愛好する習俗は、

 弥生中期の北九州と、

 高塚古墳の前期にはほぼ日本全土に

 濃厚に認められるが、

 これは東アジア全体でも珍しい。

 たとえば朝鮮半島の新羅や百済では、

 銅鏡はいくらも使っていただろうけれども、

 おびただしい古墳から全部で数面が

 発掘されているにすぎない。

 つまり韓民族のあいだでは、

 墓に銅鏡をいれる習俗はなかったと考えられる。

 倭人伝でも、

 魏の明帝が卑弥呼にあたえたと詔書の中で、

 儀礼的な下賜品を列挙したあと、

 特別に銅鏡百面があたえられたことを記録し、

 それを「汝の好物」と表現している。

 3世紀の日本で、

 銅鏡が異常に愛好されていたことは

 魏にまで知られていたのである。

 銅鏡愛好の習俗は、日本ほどでもないにしても、

 漢代の中国に源流を求めることができる。

 中国において銅鏡がたんなる化粧道具ではなく、

 霊力をもつ品であることは、

 しばしば古典にあることは、

 しばしば古典にあらわれ、

 洛陽の古墓でも死者の横または上、

 つまり特別の位置におかれたものが多い。

 しかし日本でのように、

 一人の死者に数十面を副葬する例は知られていない。

 これは、『魏略』に記されていることだが、

 3世紀ごろの倭人が、

 古くから自らを中国人系の子孫とする

 伝説をもっていた。

 この関係についてはここでは深入りはしないが、

 銅鏡愛好の習俗の源流を説明するのに

 無視できない記事である。

 北九州の弥生中期には中国から

 舶載された銅鏡が用いられていた。

 しかし、2世紀になって後漢が衰退し、

 またわが国でも動乱の状態が続くと、

 中国からの銅鏡の輸入数は減少したようである。

 この時期に出現するのが、

 主に北九州で鋳造された小型の?委製鏡である。

 この種の鏡にたいして、

 小型斜行櫛歯文鏡の名をあたえている。

 もし平原の古墓が、この時期に近いと仮定すれば、

 直径46センチという超大型鏡も

 わが国の技術で鋳造されていたのである。

 この時期の日本製の小型鏡は、

 一墳墓に一面位しか副葬されていないが、

 銅鏡を副葬する墳墓の分布範囲が

 ひろがりはじめている。

 銅鏡愛好の習俗は、

 銅鏡の輸入が困難になった時期に

 ますます異常にたかまり、

 やがて、

 それが政治支配の道具にまで拡大されたのである。

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