2015年11月8日日曜日

南九州の古墳文化


 ≪南九州の古墳文化 ≫
 
 出典:上村俊雄(ラ・サール高校教諭・考古学)

  《南九州の古墳文化》

  「独特の地下式墳墓」

  現在の鹿児島県、宮崎県南部、熊本県南部は

  『記・紀』説話に伝える熊襲・隼人の居住した地域である。

  これらの地域に見られる古墳文化は、畿内型の高塚古墳と、

  南九州独特の地下式土壙(どこう)、

  地下式板石積石室(いたいしづみせきしつ)などに大別される。

  すなわち南九州の古墳時代は、

  隼人の原始共同体社会と畿内型古墳を築いた権力社会の

  二重構造であった。

  「隼人の墳墓」

  地下式土壙(地下式横穴)は地表に何らの標識も伴わない。

  地表から垂直に竪坑(たてこう)を掘り

   途中から横に向かって掘り広げて墓室をつくる

  宮崎県南部から鹿児島県大隈地方、

   宮崎県に隣接する吉松町、栗野町、菱刈町、大口市などに

  分布し、

   畿内型古墳とも、地下式板石積石室とも

   共存して発見されることもあるが、

  地下式土壙のみが数十基まとまって

   発見されるのが普通である。

  この型で、最も古いのは鹿屋市祓川の弥生時代後期の

   成川式土器を副葬するもので、

  四世紀ごろのものである。

  祓川にある別の地下式土壙には

   短甲(たんこう)を出土したものがあり、

  五世紀後半ごろに大和朝廷の勢力が

   及んでいることがうかがえる。

  地下式板石積石室は、地表約1.5㍍のところに

   数十㌢の大きさの板石を

  百数十枚積んで 石室を築く。

  大隈地方には全く見られず

   吉松町、栗野町、菱刈町、大口市、薩摩町、川内市などの

  川内川流域に集中しており、

   出水市、阿久根市、高尾野町などの海岸部にも分布している。

  熊本県では南部の人吉市、葦北町、本渡市などに

   散在している。
  
  この型の墳墓で最も古いものは最近、

   調査された高尾野町堂前古墳で、

  十七基が確認されている。

  うち一基だけが円墳で、他は全て方形である。

  方形の板石積石室のうち二基に

    土器を供えた(供献)のがあった。

  一つは成川式土器、

   他の一つは免田(めんだ)式土器が石室の直上に

   供えられており、二基とも内部は土壙である。

  これまで板石積石室の内部が土壙であった例は

   全く知られていなかった。

  しかも供えられた土器が

   弥生時代後期のものであるという事実によって、

   地下式板石積石室も、

  先に述べた鹿屋市祓川の地下式土壙も、

  その起源を弥生時代に求めることができよう。

  堂前古墳の調査によって、

   これまでの古墳時代の概念は一新された。


   弥生時代に見られる

   覆石墓、配石墓、箱式石棺、土壙などの特徴が

  伝統的に残されており、
 
  生時代の墓制が引き継がれたものである。

  地下式土壙と地下式板石積石室の文化をもった

    原始共同体社会は、

  弥生文化の伝統を受け継ぎながら三世紀ごろから
 
   南九州独特の古墳文化を育てていったのであろう。

  「権力者の墳墓」

  これに対して、

  畿内型高塚古墳の分布は

   宮崎県南部から鹿児島県大隈地方の志布志湾沿岸に

   集中している。

  薩摩地方では阿久根市脇元、出水郡長島に

   見られるだけである。

  最も古い高塚古墳は曽於郡志布志町夏井ダグリ崎にある

   飯盛山古墳で、 五世紀中ごろのものである。

  おそらく宮崎県西都原方面から日南海岸を南下して

    志布志町に至り、

  五世紀後半に大脇町、東串良町、高山町方面へと

   伝播していったのであろう。

  これらの地域に高塚古墳を築造したのは、

  後世の文献に現れてくる曾君(そのきみ)の祖であり、

   権力社会の人々であった。
  
  一方、阿久根市脇元、出水市長島などにみられる

   高塚式古墳は、

  熊本県有明海沿岸の古墳文化の影響が明りょうに認められ、

  最も古いのは五世紀後半ごろのものである。

  おそらく四世紀ごろ有明海・八代海に

   大きな勢力をもっていた火の君(肥君)一族の後裔であろう。

  火の君一族は、大和朝廷の隼人支配の一翼をになって

   北薩地方へ進出し、

 しだいに隼人を支配下に治めていったのである。

  「反骨精神に富む隼人」

  隼人の墳墓である地下式板石積石室と地下式土壙から

   発見される副葬品は実に貧弱なものである。

  被葬者の富の貧しさは、

   彼らが支配していた地域の生産力の低さを意味する。

  この小さな勢力が彼らの居住している地域によって、

  日向隼人、大隅隼人、阿多隼人、甑隼人、薩摩隼人

   などと呼ばれたのだろう。

  隼人は古くは熊襲と呼ばれていた時代(四世紀半ばごろ)から

   大和朝廷にはげしく抵抗していた。

  宝亀二年(771)には、隼人は帯剣を禁止され、

  奈良時代後期には薩摩国と大隈国で

   兵器修造を禁止されている。

  隼人は反骨精神に富む民族だったのである。

  川内川中流域には君(きみ)直(あたえ)などの姓(かばね)を

  大和朝廷から与えられた豪族が見当たらない。

  この地域の地下式板石積石室から発見される副葬品は

  刀、剣、鏃(やじり)などの攻撃用武器にほとんど限られている。

  他の流域では短甲、冑(かぶと)、鏡など

   大和朝廷に服属した代償として与えられているものが、

  この地域では全く見られない。

  何回かの繰りかえされた隼人征伐のなかで、

  最後まで抵抗したのは

   薩摩町、大口市を中心とする川内川中流域の

   薩摩隼人であった。

  延喜年間(901~922)以後、隼人は文献から姿を消す。

  これ以後、隼人の反抗は全く見られなくなったのであろう。
  
  「鹿児島県の古墳編年表」

  年代    古墳名 古墳の形状    遺跡所在地    年代推定の基準となるもの

  3世紀   ○堂前 地下式板石積土壙 出水郡高尾野町  免田式(他の一基に成川式)
  4世紀   ○祓川 地下式土壙    鹿屋市祓川    成川式(他の一基に短甲、冑)
  5世紀中頃 飯盛山 前方後円墳   曽於郡志布志町  竪穴式石室、壷形埴輪ガラス製勾玉
  5世紀中頃 小浜崎 積石塚、円墳  出水郡長島町   割石小石積竪穴式石室
  5世紀後半 大塚  前方後円墳   肝属郡東串良町  竪穴式石室、箱式石棺、短甲
  5世紀後半 横瀬  前方後円墳   曽於郡大崎町   竪穴式石室、円筒埴輪、形象埴輪(楯)
  5世紀後半 天子ヶ丘前方後円墳   曽於郡大崎町   日光鏡、獣帯鏡
  5世紀後半 北方  円墳      姶良郡栗野町   冑
  5世紀後半 ○天神原 地下式土壙    肝属郡高山町  冑
  5世紀後半 ○溝下 地下式板石積石室 出水市知識道場園 短甲、冑、矛
  5世紀後半 ○横岡 地下式板石積石室 川内市横岡    冑、須恵器
  5世紀後半 ○別府原 地下式板石積石室 薩摩郡薩摩町   刀、剣、鏃
  6世紀前半 ○上原  地下式土壙 肝属郡高山町   軽石石棺、蛇行鉄剣
  6世紀前半 ○天子ノ前 地下式土壙   曽於郡大崎町横瀬 軽石石棺、内行花文鏡
  6世紀中頃  脇本   高塚式古墳    阿久根市脇本   横穴石室、組合せ石棺
  6世紀中頃  鬼塚  高塚式古墳   出水郡長島町   横穴式石室、須恵器
  6世紀中頃  白金崎 積石塚     出水郡長島町   横穴式石室、須恵器
  6世紀後半 ○小木原 地下式板石積石室大口市小木原   円頭太刀、馬具、金環 
  6世紀後半  温之浦 高塚式古墳   出水郡長島町   横穴式石室、金環、鏃
  6世紀後半  指江  積石塚     出水郡長島町   栗石積竪穴石室
  6世紀後半 ○亀甲  地下式土壙   国分市向花    金銅製三螺鈿柄頭太刀、須恵器
  7世紀   ○鷲塚  地下式土壙   曽於郡大崎町永吉 刀子    
  8世紀  ○横間   地下式土壙   肝属郡高山町新富 蕨手刀、須恵器、斧

   (注)○印はハヤトの墳墓


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