2015年11月28日土曜日

景初三年の画文帯神獣鏡


 ≪景初三年の画文帯神獣鏡≫

  出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著:34~35頁

  《景初三年の画文帯神獣鏡》

  西暦239年は魏の年号では景初三年である。

  この年、邪馬台国の女王卑弥呼が突然魏に使いを出し、

  親魏王に任じられ、銅鏡100面などをあたえられたことは

  古代史上周知の事件である。

  ところでその前年の238年には、約50年にわたって、

  倭と中国とをたちきり、

  かつ倭や韓諸国を属せしめていた遼東の公孫氏の燕が、

  魏によって滅ぼされており、

  その直後に卑弥呼が新しい宗主国である魏へ遣使したのであった。

  倭人伝があるゆえに喧伝されている魏と倭との交渉が、

  せいぜい20数年であることを思えば、

  遼東との関係は改めて考え直す必要がある。

  239年に魏の明帝が卑弥呼にあたえた詔書では、

  一般的な下賜品のほかに銅鏡100面をあたえ、

  汝の好物と書いている。

  文意からも、239年以前に倭の支配者は銅鏡を好み、

  それが各地の豪族にも反映していたのであろう。

  魏の年号鏡は中国大陸からも出土しているが、

  黄金塚の鏡と同じ鏡式の平縁の神獣鏡が大半を占めている。

  この鏡には方形区画に一字ずつ、計14字を配している。

  最初の四字は年号で、

  二字めの下半が腐食していて判読までに苦心があったが、

  魏の墓誌銘「初」の書体から、景初と認められるようになった。

  普通の鏡の銘文は陳是(氏)作鏡となるが、

  ここでは鏡の代わりに詺となっており仿製説もある。

  魏の鏡か、それとも5世紀ごろの仿製品かは

  古代史に大きな影響をあたえる。

  陳は鏡作りの工人名である。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         垂仁天皇の邪馬壹国:111~113頁

  《景初三年が正しい》
  
  正始元年の記録の前は、魏王の詔書だから筆者は魏の朝廷の文官だ。

  と調べなくても分っている。

  だから飛ばしてその前を見てみよう。

  (T)(『太平御覧』「魏志」) 景初三年   

        公孫淵(こうそん・えん)死 倭女王 遣大夫

  (W)(『魏書倭人章』)    景初二年六月               
                                    倭女王 遣大夫

  (T)難升米等 言帯方郡 求詣天子朝見 太守劉夏    送詣京都 

  (W)難升米等   詣郡 求詣天子朝献 太守劉夏 遣吏将送詣京都


  (T)難升米致所献男生口四人 女生口六人 班布二疋

       詔書賜以雑錦采七種

  (W)其年十二月 

       詔書報倭女王曰


  (T)五尺刀二口 銅鏡百枚真珠 鉛丹之属 付使還 又封下倭王印授

  (W)(以下、詔書の文面に続く)


  難升米が魏へ行った年を『魏志倭人章』は景初二年。

  『太平御覧』と『日本書紀』は

   三年と書いているため論争がまだ続いている。

  それまで燕王・公孫淵が君臨していた楽浪と帯方とを魏の軍隊が奪い、

  公孫淵が死んだのが景初二年(238)八月であるから、

  二年六月には帯方はまだ公孫氏のもので、

   その時、帯方で天子といえば公孫淵であり、

  京都といえば遼東の「襄平(じょうへい」だった。

  そんな時に淵の部下の帯方太守が役人に案内させて間違えて

  魏の都へ連れて行くことはありえない。

  『晋書』も「平公孫氏」の後と書き、

  『太平御覧』も「三年。淵の死後」と

  重ねて明瞭に記載している。

  景初二年は間違いである。

  《魏政府文書の証言》

  ではこの文章はどんな記録か考えてみよう。

  『太平御覧』の方の文中に「言帯方郡」

  「帯方郡に(……したいと)言った」という言葉がある。

  もしこれが帯方郡の記録なら

   「難升米らが言うには…」と郡名を省いて書き、

  決して「帯方郡に」とは書かない。

  こうした記録文書は、

  その文面から見て「帯方郡の役所」か「魏の政府」しか作らないから、

  これは明らかに魏の政府のものである。

  それは『太平御覧』の方の最後の称分で更によく分る。

  「又封下倭王印綬」 

    倭王の印綬を「封をして下げ渡した」というのだが、

  それは後に<梯儁>(てい・しゅん)が

   卑弥呼政府に届けたものだから、

  <難升米>ではなく帯方郡の役人に渡したのである。

  その時、詔書も一緒に下げ渡したのだから、

  「下」げたのは魏の政府で、帯方郡側は「受」け取ったのである。

  だから「下」という言葉は、

   その記録が魏政府のものであることを証明している。

  魏は<難升米>が来たとき直ちにこの記録を作った。

  <陳寿>は40年後にこの記録を知らずに、

   他の資料だけで編集した。

  どちらが間違いかはっきりしている。

  時間帯を考えてみても詔書の日付は公孫氏滅亡後の十二月だから、

  かりに案内者が公孫氏の部下なら、

  魏の政府が大切な「詔書印綬」を滅亡した

   敵の部下に渡すことは絶対にない。

  仮に渡したとしてもその使者は敵の占領下にある

   危険な帯方へは帰らない。

  すると後日「魏の帯方郡使」<梯儁>が倭の政府に

  「詔書印綬」を届けることはできないことになる。

  <難升米>の派遣は、

   それまで「燕(えん)」に属していた倭国が、

  燕が滅びたので改めて魏に友好親善の使者を送ったのである。

  そうでなくて<魏>と<燕>の雲行きがおかしい景初二年六月に、

  魏へ行く使者が帯方へ道案内を頼みに寄れば、

   必ずその場で殺されている。

  その直前に大国「呉」の使者でさえ公孫淵に殺されているからである。

  それは外交官(大夫)である<難升米>が知らなかったとは考えられない。

  だから二年に行くことは絶対にありえない。

  《我田引水の阿部説》

  阿部秀雄氏は景初二年説である。

  氏の『卑弥呼と倭王』(昭和四六=講談社刊)は、

  卑弥呼あての詔書の冒頭にある 

  「制詔親魏王卑弥呼帯方太守劉夏 

     遣使送汝大夫難升米次使都市牛利…」によって

  次のように主張する。

  『(P155)詔書が「使」と表現していることは、

   魏の皇帝と魏朝直属の太守という関係であったとすれば、

   とうてい考えることのできない特異な表現であることを

     みきわめる必要もある。』

  『(P159)詔書中の「使」という表現は、

   公孫氏の太守から魏朝に派遣された外交使節で

   あったという任務を明らかにしている。

   つまり劉夏が魏朝の帯方太守ではなかったために、

   魏朝の詔書としては、太守の劉夏が「使節を派遣す」と
  
   表現するほかはなかったわけである。

   もしも劉夏が魏朝直属の太守であったならば、

   「遣使」と表現されたはずがない。』(以上原文のまま)。

  だから公孫氏滅亡前で二年が正しい。

  というのである。

  氏はその「使」は「外交使節」のことだというが

  「遣使」は必ず「外交使節」を意味する訳ではない。

  単なる「使いを遣わして」と読んでもいいし、

  もちろん臣下が君主に対して使っても
   
   別に「特異な表現」でも何でもない。

  それより「使」の一字が問題なら、

  そこに明記してある「帯方太守劉夏」の六字は更に大問題である。

  阿部氏の主張どおり劉夏が「公孫氏の太守」なら別にもう一人

  「魏の帯方太守」がおり劉夏は滅びた国の敗残者で現職ではない。

  それなのに「使」の一字を使い分けるほど神経質な

   「魏の皇帝」の詔書が

  「帯方太守劉夏」と、事実でないことを明記するだろうか?。

  何の説明もないのは彼が立派な現職の「魏の帯方太守」だからである。

  間違いなく「魏朝直属の太守」なのに、

  平気で「使」の字が使われている。

  阿部説は一体何を立証したのであろう?。

  漢文の文法には個人差があり文字には誤字がある。

  漢文の読み方で『倭人伝』などの謎が解けると思うのは、

  ごく不注意な短絡思考が生み出す錯覚でしかない。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         垂仁天皇の邪馬壹国:114~116頁

  《卑弥呼のその即位と城》

  「景初三年」より前の『太平御覧』「魏志」と

    <陳寿>『『魏志倭人章』』との比較を続けよう。

  (T)(『太平御覧』「魏志」) 「第二条」 又曰 倭国本 以男子為王 漢霊帝光和中
  (W)(『魏志倭人章』)             其国本亦以男子為王 

  (T)      倭国乱 相攻伐無定    乃 立一女子為王 名 卑弥呼 事鬼道能惑衆
  (W)往七八十年 倭国乱 相攻伐   歴年 乃共立一女子為王 名曰卑弥呼 事鬼道能惑衆

  (T)自謂年已長大 無夫婿 有男弟 佐治国

    以奴婢千人自侍

  (W)  年已長大 無夫婿 有男弟 佐治国 自為王以来 少有見者

      以奴婢千人自侍


  (T)唯有男子一人 給飲食 伝辞出入 其居処宮室楼観城柵 

              守衛厳峻

  (W)唯有男子一人 給飲食 伝辞出入  居処宮室楼観城柵      

      厳設 常有人持兵守衛

  先ず「倭国本」と「其国本亦」との違いについて考えてみよう。

  「倭国」は一つの固有名詞だから「本」は「もと」を意味していると分る。

  所が「其国本亦」の方は「その国はモト」なのか

   「その国本(コクホン)」なのか分らない。

  <陳寿>の方が曖昧である。

  次に『太平御覧』は倭国が乱れた年代を

  「漢霊帝光和中=後漢の王・霊帝の光和年代」

   とはっきり書いているのに、

  陳寿はそれには触れずに、前の「男子為王」を補足して

  「往七八十年」=「七八十年間、男子が王位に就いていた。」

   としている。

  《駄目な陳寿の『魏志倭人章』》

  『太平御覧』なら<卑弥呼>が女王になった時期が、

  霊帝時代ころだと分るが、<陳寿>の方は全然わからない。

  その即位の原因になった倭国の内乱も、いつのことだか分らない。

  これでは謎だらけで答の出ようがない。

  ここでも従来「邪馬台国論争」に使われてきた

   <陳寿>の『魏志倭人章』は駄目である。

  次に「自謂年已長大」は、帯方郡使の質問に答えた倭人に、

  <卑弥呼>が自分で「私はもう大変なお婆さんだよ…」と

  言ったという返事なのだから、

  その「年已長大」は郡使「梯儁」が質問した当時

  (正始元年)からそう遠くないころの年齢だと分る。

  <陳寿>の方はただ「年已長大」だけしか書いてないから、

  それは

 「即位当時すでに大変な老婆だった。」という意味にもとれる。

  いつ内乱があったかも分らず、

  <卑弥呼>がいつ即位したかも分らず、その即位の時、

  <卑弥呼>が若かったか老人だったかも分らないのが、

  <陳寿>が編集した一般に知られている『魏志倭人章』の実態なのである。

  しかし一見、

   そんな大きな違いがあるとは分らない程、

   この二つの文章はよく似ている。

  それは間違いなく一方が他方を写したものである。

  問題はどちらが、どちらを写したのかということである。

  写したのは<陳寿>だと見当はつくが更に念入りに検封してみよう。

  それは元の筆者がだれか?という確認から始めなければならない。

  「自為王以来 少有見者」

   卑弥呼が王になって以来会った者はわすかだ。

  というから彼女が幾つぐらいかを知っているものは余りいない。

  だからそれを聞いたとしてもだれも答えられないのである。

  ところが「自ら言う」と書いてあるから、

  それは話者に卑弥呼自身が話したということである。

  彼女と直接会って話ができたその倭人は、その地位から考えて、

  <梯儁>と共に倭に帰った<難升米>であった可能性が強い。

  また彼なら<卑弥呼>が何故、

   女の身で即位したのかと聞くこともできたし、

   <卑弥呼>ならそれが漢の霊帝の光和ごろだった

   と記憶していて当然である。

  《陳寿抜きの『太平御覧』魏志》

   <梯儁>はそのとき彼女が共立された理由が内乱にあったこと聞けた。
  
  そうした事情は彼女を共立した王たちしか知らないが、

  彼等は当然<卑弥呼>よりずっと年上で、もうだれも生きていず、

  彼女以外知った者はいなかったと見ていいからである。

  だからその歴史部分は卑弥呼が自ら話したことを聞いた

   <難升米>から<梯儁>が聞かなければ、

   恐らく記録には残らなかったものである。

  この他にも「婢が千人程自発的に、侍っている。」

   また

  「男子が一人だけいて<卑弥呼>のところに出入りし、

    その言葉を伝えたり、飲食物を運んだりしている。」

  「卑弥呼のいるところは立派でしっかりした

   宮室や高い建物、神を祭った建物、頑丈な城が並び、

   それを取巻く柵が厳重に張りめぐらされていて、

     厳しく守衛が守っている。」 と、

  実際に見なければ分らないことを、細かく記録している。

  とくにその最後に「峻」という文字を使っている。

  これはいうまでもなく「峻(けわし)い」という字で、

  山や丘、絶壁などが登れない程に

   そば立っていることを形容する言葉である。

  こうしたことは想像ではいけないし、

   実際に邪馬台国をよく知っている人にしか聞けない。

  <卑弥呼>の生前そんな話の聞けた帯方郡使は<梯儁>しかないし、

  また<張政>は<卑弥呼>の生前について報告する任務はなかった。

  だからこの『太平御覧』の記事は、<梯儁>が書いたものをできるだけ、

  そのまま写したものだったとする以外に、理解できないのである。

  これで元の筆者が<梯儁>以外にいない-ことが分った。

  とすれば<陳寿>の『魏志倭人章』の方が写した側である。

  ところが<陳寿>の写したものは重要な部分が落ちていて、

  『太平御覧』の方には残っている。

  <陳寿>が真意を確かめる暇もなく租雑な書きかえや加筆をしたことは、

  前にみた部分でも確認済みである。

  とすれば、その結論は『太平御覧』「魏志」は名は似ていても、

  <陳寿>以外の人がまとめ、編集したものだった。

  ということ以外にない。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          垂仁天皇の邪馬壹国:117~119頁

  《明らかに別の『魏志』》

   <陳寿>以外の『魏史』編集者に

   『魏略』の「魚豢(ぎょ・きゎん)」と

  『魏書』の「夏侯湛(ガグ・タム)」とがあることは、

   前記した通りである。

  だから「魏志」と名は変っているが、

   『太平御覧』が採用した「倭人伝」は、

  そのうちの一つだったと考えた方がいい。

  それはいま私たちが<陳寿>の『魏志倭人伝』といっているものは、

  肝腎の部分が余りにも欠け過ぎていて、

  『太平御覧』の方にありすぎるから、

  後者が同じ<陳寿>のものだったとは、

   どうしても考えられないからである。

  もっとも『太平御覧』の分も決して完全ではない。

  それもまた先にお話ししたとおり後世に、

  ばらばらになっていたものを拾い集めてまとめたものである。

  だからその「書名」も、

   一番有名な『魏志』を採用しただけで、

  『太平御覧』の編集者も<陳寿>のものと確認していた訳ではない。

  そして私たちが綿密に検討したところでは、

  これまで見たような大きな違いができてしまっている。

  その原因は<陳寿>が編集を急ぐ余り、

  本当は必要な部分を切捨ててしまったり、

  早とちりして肝腎なところを

  「訂正」してしまったりしたためである。

  しかしそうして比較した御陰で、

    <梯儁>が書いた報告書の性質や、

  その真意が分り、卑弥呼の言動や歴史も、

  生きた人間の実像として見えることになったのである。

  ことに従来一つだと思われていた「謎に満ちた」

  『魏志倭人章』が、

   実は<陳寿>の粗雑な編集から生まれたもので、

  その「謎」の大半は<陳寿>が作り出したものだったことが分り、

  『太平御覧』「魏志」がそうした「謎」を解いたことは

   大きな成果だったといってよい。

  これまで見た『太平御覧』「魏志」は
 
  最後の文章の冒頭に「第二条」とあったように、

  後半の部分である。

  問題は前半の原記事も同じ筆者が

   書いたものかどうか?ということである。

  始めは原筆者が<張政>だと

   はっきり分っている部分から整理を続けたが、

  一応、<梯儁>と二人のものを確認できたので、

  次は第一条の最初から比較してみることにしよう。

  《『太平御覧』の「置官」》

  第一条は陳寿が文字や表現を変えた程度で、

   ほとんど一同じだし、

  また行程記事で大半が埋っているので、

  それは本書の主題ではないシリーズの後の方で

   充分に検討すべき対象である。

  だから今、私たちが必要とする部分だけを取出して見る方が、

  繁雑にならないで理解が楽だと思う。

  (T)(『太平御覧』「魏志」)
 
    「至対馬国 戸 手余里 大官曰卑拘 副曰卑奴母離」

  (W)(『魏志倭人章』) 

   「至対馬国      其大官曰卑拘 副曰卑奴母離」


  (T) 「至一大国 置官与対馬国」       

         「至末盧国 戸四千」

  (W) 「至一大国 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離」 

         「至末盧国 有四千余戸」


  (T) 「到伊都国 官曰爾支 副曰泄謀觚柄渠」

        「帯方使往来常止住」   

  (W) 「到伊都国 官曰爾支 副曰泄謀觚柄渠」

        「 郡使往来常所駐」


  (T) 「又東南至奴国百里 置官曰先馬觚 副曰卑母離」

  (W) 「 東南至奴国百里  官曰兕馬觚 副曰卑母離」


  (T) 「又東行百里至不弥国戸千余 置官曰多模 副曰卑奴母離」

  (W) 「 東行至  不弥国百里  官曰多模 副曰卑奴母離 有千余家」

  そっくりだが、『太平御覧』の方に、

  「置官」という言い方が多いことにご注目戴きたい。

  《陳寿の加筆と編集技術》

  次に注目するのは、

   『太平御覧』の方が不揃いだということである。

  対馬国では国名の次に「戸」という一字があり、

  その次の「千余」に続くので「千余戸」のことかと思うと、

   それに「里」がついている。

  これは戸か里のどちらかが間違いだが、

  前の狗邪韓国の部分を見ると国名の次は

  「七千余里」と里になっているから、

  「戸」の方が間違いだとみることになる。

  しかしそのままで結局、対馬国の戸数は分らないままである。

  これに対し『魏志倭人章』の方は官名のあとに

  「有千余戸」と書き足している。

  この千余戸という人口は次の一大国が今の壱岐で、

  大きさが対馬の五分の一ぐらいしかないのに、

  「三千許家」あるのに比べて余りにも少なすぎる。

  だからその「有千余戸」は

   前の「戸手余里」の正体が分らないままに、

  <陳寿>が体裁をつくろって、

   もう一度「戸数」として使ったのである。

  しかしそれだけでは不合理が目立ち過ぎると考えたと見えて、

  彼は帯方郡使用が書いてもいないことを、

   実際に対馬を見もしないで書き足している。

  それを見比べてみよう。

  (T) 「方 四百余里  地  多山林」
  
   (W) 「方可四百余里 土地山険多深林 道路禽鹿径 有千余戸」

  もとは九字しかない原文を無難な形容詞と

  「有千余戸」をつけ加えてニ十三字に水増しし、

  「山ばかりの島だから人口が少ないのだ」

   と納得するように仕向けている。

  これは

  「『太平御覧』が省略したのかも知れない。」

   と考えられなくもない。

  しかし理由もなくただ想像した訳ではない。

  この問題は、どちらが書き直したか?で正否が分かれる。

  「末盧国」は今の松浦で「末(マツ)」が正しいが、

  『太平御覧』は「未(ミ)」と書いている。

  後世の方が間違っているのは原文通りと見ていい。

  <陳寿>はその誤りを「末」に訂正しているから、

  書き直したのは<陳寿>であり

   彼が加筆し水増ししたと考えられるのである。
 
 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         WAJIN:191・192・199頁

  《鏡を最大限に利用した古墳人》

  五彩圏を設定した人々が、
 
   どんな人たちだったかは、これで少しわかった。

  あなたは本シリーズの『コフン』を、

   もうお読みいただいたと思うが、

  そこに詳しく書いたように、古代日本人は驚くほどの、

   すぐれた測量技術の持ち主だった。

  それには当然、優秀な測量器具がいる。

   それが「鏡」だったことも詳しくお話しした。

  古墳はその潮量技術によって、

   見事に一直線上に正しく配列されているが、

  それは鏡なしでは不可能な仕事だったのである。

  『魏書倭人章』にはヒミコが、

   魏の皇帝に「鏡が好きだ」といってやったので、

  皇帝がそれに応(こた)えて、

   ヒミコに鏡100面をプレゼントしたという内容の、

  その皇帝からヒミコに宛てた手紙が収録されている。

  そしてその鏡は帯方郡使の梯儁(ティシュン)が無事に運んできて、

  当時伊都国にいたヒミコに直接会って受け渡しした、

   と書いてある(『ジンム』参照)。

  ヒミコらがその鏡による「光通信」によって、

  普通なら3年もかかるはずの情報伝達と使者の到着時間を、

  わずか10カ月に縮めた事実も、

  『ヒミコ』で計算してご覧にいれた。

  鏡は古代のハイテク通信機器だったのである。

  《三角縁神獣鏡は中国製だという説の根拠》

  ではその鏡はどんな鏡だったか? 

   日本の古墳からは実にいろいろな鏡が出てくる。

  その中のどれが、ヒミコに魏の皇帝がプレゼントした鏡なのか?

  これは「邪馬台国はどこにあったか?」

   という論争の「決定的な証拠」だという説もある。

  果たしてそれが正しいかどうかも考えてみなければならない。

  この説では、

   魏の皇帝から届けられた鏡は「三角縁神獣鏡」だという。

  それは魏で造った鏡をもってきたのだから、

  当然「三角縁神獣鏡」は「中国製」だという「説」だ。

  その理由としてあげられているのは、

  ① 「正確な漢字の正しい漢文が入ったものがあること」。

  ② 作者の名前らしいものが入っているが、

       それをみると「陳がこの鏡を作った」と

    いうふうに「中国人の名前」であること。

  ③ 「景初」「正始」という「魂の年号」が入っていること。

  ④ それがヒミコ当時の年代であること。

  ⑤ 「銅は徐州から出たもので、師は洛陽の出である」

       と当時の鋼の産地や、魏の首都をわざわざ書きこんでいること。

  ⑥ その技術が高度で、

    立体的に厚く彫った原型を使っているだけでなく、

    鋳造したあとで、さらに細かい線彫りで、

    細部をくっきりしたものに仕上げている。

  これらのすべてが、

  「三角縁神獣鏡」が「魏の国」すなわち

  中国北部地域で作られた製品であることを立証しているというのである。

  《一面でも重大な意味を持つ「黄金塚景初三年鏡」》

  以上でおわかりのように、

  ヒミコが魏にもらった鏡は、寄せ集めの古い鏡であって、

  中には新品もあったかも知れないが、古さも種類もまちまちの、

  どれがヒミコの鏡などと区別できるようなものではありえない。

  このことで重要なことは、

   それは今でも中国で出土する鏡の仲間だということである。

  中国から一面も出ないし、

  また今後見つかったとしても必ず珍品あつかいされるに決まっている

  「三角縁神獣鏡」では絶対にない、と断言できる。

  なぜならそれには、まだまだ多くの理由があるからである。

  ヒミコがもらった鏡の中の数(かず)少ない新品だった可能性のある鏡は、

  ヒミコ宛ての詔書が書かれた年である

  「景初三年=239年」製と彫ってある鏡で、

   島根県加茂町の神原神社古墳と、

  大阪府和泉(いづみ)市の

   黄金(こがね)塚古墳から出土したものの二面が、

  今までに見つかっている。

  この二面のうち重要なのは大阪府出土のほうである。

  それは「三角縁」ではなくて「平縁」だからである。

  「三角縁神獣鏡はヒミコの鏡だ」という説は、

  この「黄金塚景初三年鏡」一つの存在だけでも、

   はつきり否定されてしまっている。

  この鏡の「平縁」は

  「三角縁神獣鏡では絶対にない」と断言しているのである。

  かりに「三角縁神獣鏡はヒミコの鏡だ」説が正しいのなら、

  この「黄金塚景初三年鏡」は

   完全にニセモノだということになってしまう。
 
   『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           WAJIN:193~196頁

  《ことごとくはずれた「中国製」説の証拠》

  ではそれが本当に理屈にあっていて、

   「魏の製品]だといえるかどうか?

  検討してみよう。

  ①の「正確な漢字、漢文」だが、

     これはヒミコらも魏の皇帝に読める手紙を出しているし、

   中国で起こつた事件をすぐに知っていたし、

   第一、和人は3000年前から中国と宝貝貿易をしていた。

   歴史にも朝鮮の準(ジュン)王が

     衛満(エイマン)にだまされて国を追われ、

   海を渡って韓地(カラチ)

    (この場合はまだ朝鮮半島に三韓のないころで、

   これは鹿児島県の姶良(カラ)郡のこと)に逃げた、

   という記録や、『魏志東夷伝』に

     「辰韓人は、

     私たちは秦から逃げてきた亡命者ですといい、

     その言葉も秦の言葉と一致する」とか

   「楽浪の戸来(コライ)と自称する人たちは自分たちは漢人だが

   材木を盗んだために韓人につかまったという」

   などという記事がある。

  私たちはもう「秦」が「チヌ」であり、

  徐福らが台湾や沖縄にやってきたというのは

   事実だと考える多くの証拠をもっている。

  だから正確な漢字が書ける人間はいくらでもいる。

   この

  ①は「魏の製品」説の証拠にはならない。だから

  ②の「中国人の名前が入っていること」も同じ理由で役に立たない。

  ③は「魏の年号」を証拠にあげているが、

   京都府福知山市の広峯一五号古墳から

    「景初四年」という年号を彫った「盤竜鏡」が見つかっている。

  ヒミコに鏡をくれた明帝は景初三年に死に、

  そのあとを少帝が継いで正始元年(240)になったのだから、

  景初四年なんかあるはずがない。

  そんなことも知らずに彫った鏡が現実にあるのだから、

  それは魏のことを何も知らない人間が造ったことは疑う余地がない。

  それならたとえ本当の年号に合っていても、

   まぐれ当たりのニセものかも知れない。

  年号は別にその国にいなくても文字さえ知っていれば

   彫ることができる。

  「年号があるからといって証拠にならない」。

  同じ理由で、それが

  ④の「ヒミコ当時の年代」であろうが、なかろうが、

     やはり「証拠にはならない]のである。

  ⑤の「銅は徐州……師は洛陽……」も、

     当時の有名な銅の産地や、

   魏の首都はもと中国にいた人ならたいていの人が知っている。

    とくに鏡を作る技術の持ち主ならなおのこと、

     徐州の銅が良質であることは知っている。

   これも「証拠」なんかではない。

  ⑥の「技術が高度で、立体的なレリーフ状……」

     といったことは証拠になるか?

  中国の鏡には漢代のものに「尚方」の製品だと彫ったものがある。

  これは政府直営の工場のことである。

  その技術はたしかに高度だ。

  しかし先にみた「師は洛陽の出である」と書いてあるのは、

  「私の先生は洛陽の尚方出身だ」と自慢して書いているのであって、

  今のCMと同じものである。

  それは単に「先生は尚方で技術を習った人だ」というだけで、

  その先生も死ぬまで尚方に勤めていたとは書いてない。

  そしてそう書いた本人は完全に尚方とは無関係だとわかる。

  彼は民間の職人なのだから、なにも中国だけに住んだとは限らない。

  これも証拠にはならない。

  これでわかるように「中国製」説は、まだ未検討の、

  右とも左とも決まっていない「生まの問題」を、

  頭から無批判に「証拠だ」と思いこんでいるだけのものなのである。

  これは「説」と呼べるようなものではない。

  誰もが最初見たときに頭に浮かぶ第一印象のようなものに過ぎない。

  だがこの「景初四年」問題を、

   次のように説明して、やはり「中国製」だという説がある。

  それは明帝が死んだあと元号を改める詔書が出たのが

   三年の十二月だから、

  それ以前に「景初四年」鏡が完成していたのだというのである。

  これはいよいよオカシイ。

  現代の雑誌や週刊誌ではない。

  先付けの製造年など彫る必要はない。

  それは完成した一番最後に彫る。

  詔書が出たのが三年の十二月なら、

  それ以前にできあがった鏡は

   全部「景初三年」と彫ればそれでいいのである。

  さらに「中国製」説にとって致命的なのは、

  その「三角縁神獣鏡」は、

   かんじんの中国ではまだ一面も見つかっていないことである。

  本当に製造地なら地元に大量に出回っているはずだし、

   傷ものや未完成品が必ずあるはずだ。

  そこで

   「それはヒミコのために特別に作ったものだから中国にないのだ」

   という説が現れた。

  しかし日本では100どころか300面以上発見されている。

  「100面だけ特別に」などという空想は跡形もなくふっ飛んでしまった。


  国宝・東京国立博物館蔵の三木文雄氏拓本。


  この口にくわえた物差しは、測量をつかさどるインドの四神。



  東京国立博物館蔵


  山梨県三珠町鳥居原古墳出土。

  一宮浅間神社蔵。

  中国漸江省紹興(昔の会稽)の古墳から

  同じ形式のものが出土しているので、

  この赤烏元年鏡も間違いなく呉の鏡だと断定できる。


  宝塚市安倉古墳出土。

  塚本弥右衛門氏旧蔵。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     WAJIN:200~203頁

  《魏に鏡を造る余裕はなかった》

  この「ヒミコ用に特に製作した」という説は

  「三角縁神獣鏡」を見ても

  その実態が全然理解できない説である。

  この鏡は半立体のレリーフの原型を彫ったあと、

  非常にととのって緻密(ちみつ)な計器のような線で

  周縁部を幾重にも囲んでいる。

  それだけでも製作には時間がかかっている。

  そしてさらに、単に鋳造しただけでなく、

   型をこわして取り出したあと磨いて、

  さらに細い線彫りで細部を機械的に正確に彫りあげてある。

  これは長い修業の年月が必要な名人芸である。

  また今のガラス製とちがい、

   破損して無くなることも少ないから需要も職人も少ない。

  とても急な注文に応じて大量生産できるような品物ではない。

  当時の中国では方位盤兼化粧用であって、

   非常に高価で、庶民が大量消費するものではない。

  政府の製作所「尚方(しょうほう)」とは、

   宮廷と高官の家族用と将軍たちの鏡だけを作る、

  選りぬきの名人たちの工房であって、

   輸出して儲ける必要などまったくなかったのである。

  そこへ思いがけない大量需要である。

  だから『正史』である『三国志』に、

   貴重なスペースをさいて、

  100面の鏡の贈り物を書き立てたのだ。

  それは今なら大カラットのダイアモンドを

   贈ったというような出来事だったからである。

  金で買えるものなら、倭人は富んでいたから、

   魏の役人に何が必要かときかれても、

  使者も、鏡がいるなどとは答えなかったのである。

  だから短期間に、

   100面もの鏡を大量生産したという想像はまったく幼稚なのだ。

  当時の魏は長年にわたって続いた三国抗争の真っ最中で、

  残る強敵・呉との決戦に備えて、

   軍備に追われていた超非常時だった。

  重要な銅鏃(やじり)の生産さえ銅不足で切り詰め、

   銅貨さえ造れない状態だった。

  しかしそんな弱味を見せまいというのが、

   ヒミコごとき小国の女王に、

  重い大量の鋼鏡を含むプレゼントを、

  はるばる運んで味方につけようとした理由だったのである。

  この間題をいちばん左右する重要な条件=「時間帯」を考えてみると、

  六月に帯方郡についたヒミコの使者難升米が、

   歩いて都の洛陽へ着いたのは、

  どんなに早くてもヒミコ宛ての詔書が書かれた十二月の直前である。

  そして一カ月後はもう正始元年だが、

   この年には帯方郡使の梯儁が、

  それらのプレゼントを伊都へもってきた。

  魏から九州までは普通、最低一年半はかかる距離である。

  それを一年以内で来たのだから、

   とても「特別製」の鏡なんか造っているヒマはない。

  こうした条件を考えると、魏政府に可能な方法は、

  四散した鏡職人を探すのでなく、すぐ手に入る鏡=臣下のものや、

  墓に埋められている鏡などを、大急ぎで徴収したり、

  買い上げたり、掘り出したりするしかない。

  「特別製の鏡」説はこうした、

   かんじんな、距離や旅行に必要な時間、

  当時の魏がおかれていた国際状況、銅資源の有無など、

  必要な知識がまるっきり脱落した「アイデア」なのである。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
         WAJIN:200~198頁

  《三角縁神獣鏡はヒミコに贈った鏡ではない》

  だが、今まで検討してきたとおり、

   「三角縁神獣鏡はヒミコがもらった鏡だ」という説も、

  「中国製だ」という説も、どちらも出発点から完全に間違っていた。

  そして次つぎに発見された鏡や、

   出土地域などすべての事実がそれを立証しているから、

  答えははっきりしている。

  それだけではない。

  宝塚市安倉の島古墳や山梨県三珠町の狐坂古墳などから、

  魏では絶対に造るはずのない敵国の呉の年号

   「赤烏(せきう)=238年~」のはいった

  同じような図柄の「神獣鏡」が見つかっている。

  これもまた

   「三角縁神獣鏡は魏で造ってヒミコに贈った鏡だ」という考えが

  間違っていることを、完全に立証している。

  なぜならそれが、寄せ集めた中にまぎれこんだ鏡だと弁解しても、

  「魏で造った鏡ではない」し、

   「ヒミコのために造ったのでもない」し、

  また役人全員が文字が読めた魏の政府が、

  そんな「敵の呉の鏡を混ぜたまま出荷することもない」。

  どこからみてもヒミコの鏡を

   「三角縁神獣鏡だ」と主張した説は敗北して、

  完全に存在価値を失ってしまったのである。

  このことは三角縁神獣鏡が100面を超えて出土した時点で、

   もう決定的だったのだ。

  《あばかれた「邪馬台国・畿内説」の正体》

  これで三角緑神獣鏡が、ヒミコとも、魏の国とも、

   なんの関係もなかったことが確認できた。

  だからもうそれを問題にする必要はないのであろうか?

  ではなぜ、そんなものが重要視されたのかを、

   ここでふりかえって考えてみよう。

  三角縁神獣鏡が重大祝されたのは、

   それがヒミコの時代の鏡で、

  一見、魏で造られたと思わせる特徴があり、

  しかも近畿を中心にした範囲に広く分布していたからである。

  それはいかにも奈良の大和(やまと)政権が

    統一国家をつくり始めた状況のようにみえ、

  「邪馬台国畿内説」を決定的に立証するように見えたからでもある。

  だが内藤虎次郎が唱え始めた、その「邪馬台国畿内説」は、

  かんじんの『魏書倭人章』の本文には全然あわない、

  邪馬臺(だい)国とも邪馬壹(いち)国とも完全に無関係な、

  ただ「邪馬臺はヤマトとも読める」ということだけを、

  唯一の主張点にした、ごく幼稚な「素人説」だった。

  これで三角緑神獣鏡が、ヒミコとも、魏の国とも、

   なんの関係もなかったことが確認できた。

  だからもうそれを問題にする必要はないのであろうか?

  ではなぜ、そんなものが重要視されたのかを、

   ここでふりかえって考えてみよう。

  三角縁神獣鏡が重大祝されたのは、それがヒミコの時代の鏡で、

  一見、魏で造られたと思わせる特徴があり、

  しかも近畿を中心にした範囲に広く分布していたからである。

  それはいかにも奈良の大和(やまと)政権が

   統一国家をつくり始めた状況のようにみえ、

  「邪馬台国畿内説」を決定的に立証するように見えたからでもある。

  だが内藤虎次郎が唱え始めた、その「邪馬台国畿内説」は、

  かんじんの『魏書倭人章』の本文には全然あわない、

  邪馬臺(だい)国とも邪馬壹(いち)国とも完全に無関係な、

  ただ「邪馬臺はヤマトとも読める」ということだけを、

  唯一の主張点にした、ごく幼稚な「素人説」だった。

  当時の男性は「一銭五度」と呼ばれた。

   一銭五厘はハガキ一枚の値段である。

  それに召集令状と刷って名前を書きこんだもの一枚で、

  私たちは呼びだされ死ぬまでこき使われた。

  それは

   「一銭五厘で買える奴隷(どれい)」

   という悲惨きわまりない代名詞だったのである。

  軍隊生活の体験のない皆さんは、

   それがどんなに非人道的なものかご存じない。

  だから「軍神○○○○」などという愚かな本が、

  いまだに臆面(おくめん)もなく出版されたり、

  幼稚な劇画作家がカッコイイつもりでマンガ本に載せたりする。

  それとまったく同じものが、そうした軍国主義を支えた

  「邪馬台国・大和(やまと)説」だったのである。

  歴史というものが、

   私たちにとって「どうでもいい」ものかどうか、

  よくおわかりいただけたと思う。

  では「三角縁神獣鏡」の問題はこれで片づいたのだろうか?

  いや、まだヒミコとは無関係で、

  魏で造られたものでも中国で造られたものでもない、

   とわかっただけである。

  そんなことは私たちには、初めからわかっていたことである。

  ヒミコ政権は近畿になんかなかったし、

  たとえヒミコが鏡を受けとったとしても、

   その政権はアッというまに消滅してしまっている。

  それがどうしてその時代に、遠く離れた近畿なんか征服して、

  広大な地域に統一国家まで築くことができようか。

  そんなカがあったのなら、ヒミコは死ぬことはなかったのである。

  「三角縁神獣鏡」は、ヒミコ政権とは無関係でも、

  私たちの求めている日本建国史にとっては重要な研究対象である。

  その全貌を速やかに明らかにする必要がある。

  それは中国製でないことがわかったが、それなら、それは誰が?

  何のために? どこで?造ったものなのだろう?

  「三角縁神獣鏡」は日本で造られたという

  「国産説」と呼ばれるものがある。

  次章で、それから検討してみよう。

 
  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
          大学院講義録4:6頁

  《卑弥呼らの情報収集力と行動力の高さ》

  これで帯方郡とは、もと公孫氏の領地だったことがわかる。

  それを魏が密かに軍隊を派遣して占領してしまった。

  その直後の景初2年6月に、卑弥呼が派遣した難升米らが訪れて、

  帯方郡を占領している魏の太守に、

  「皇帝にお目にかかって献上したい」と申し込んだ。

  その2カ月後の景初2年8月に公孫氏は滅んだが、

   帯方郡はそれ以前に魏のものになっていた。

  そこへ難升米らが魏の皇帝のところへ案内してほしいと

   訪ねて行っても少しも奇妙ではない。

  それを

  「景初2年8月より前は帯方郡は公孫氏の領土だったから、

   難升米らが訪れた時期は景初2年ではない。

   『魏書倭人章』は間違っている。景初3年が正しい」

   と白石は主張した。

  それ以後も複数の学者がこのことで論戦したが、

   いまだに結論は出ていなかったのだ。

  それがなぜかは、もうよくお判りのとおり、

  『魏書倭人章』だけしか読まずに議論をしていたからである。

  また他を読んでいたとしても、

   それを関連づけて時間帯に分けて配列しなかったからだ。

  キチンと整理すれば、愚かな論争は起こらなかったのである。

  これはさらに重要な価値評価の答を教えてくれる。

  卑弥呼らの近代的な素早い情報収集力と行動力の高さだ。

  白石流の史学では、そんなことも、まるでわからないのである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録6:10頁

  《本学が初めて解いた「古墳人の謎」》

  そしてそれらはさらに、その政権が、同じ南九州出身であっても、

  卑弥呼政権と壹與政権のどちらの後継者だったかまでも記録している。

  それは興が、

   天照大神や豊受大神の信仰を受け継いだ

   天皇だったことを立証しているし、

  この二人の大神が卑弥呼と壹與であることも、

   今では疑いのない事実である。

  ではあるが卑弥呼は仏教女王だったのに、

   皇大神宮の信仰は神道である。

  このことは興が造営し始め、

   その直線上に武である雄略天皇の陵が造られ、

  それが皇大神宮に結ばれたのは、

   倭の五王が単に古墳人だった事実のみでなく、

  彼らが壹與政権の後継者だったことを証言しているのである。

  するとこれはた五王に先行して大阪府に景初三年鏡を残し、

  出雲に去った政権は旧卑弥呼政権の側の人々であり、

  興の大古墳に先行する古墳群の建造者たちだったことが疑いなくなる。

  こうして発掘考古学が解決の法をもたない

  「古墳の謎」は、

   私たちの「言語復原史学」によって始めて雲散霧消し跡形もなくなる。

  我が国の考古学の遅れは、本学を知らない無知が原因だというほかない。

  『三国史記』は蓋盧王が古墳の造り方を知らず、

   高句麗のスパイ道琳に騙され、

  教えられて始めて大古墳群を造ったと書く。

  これは高句麗も支配した孝霊天皇の子・卑弥呼は、

  大古墳に葬むられたが、

  壹與政権側の応神天皇以後は、

   八幡社群や大三島神社などが示す神道であることに符合する。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録6:14頁

  《壹與政権に先行して東へ移動した卑弥呼系政権》

  だが垂仁天皇の命令に従ったのは邪馬壹国民だけだから、

   倭国政権側の人々は、その後も殉葬を続けた。

   それは例の景初三年鏡の出た古墳に明瞭に見られる。

  そこにはその鏡をもった女性の柩を中心に、

   それを守護する形で左右に男性が葬られていた。

  だからこれは明かに位宮の禁止とは無関係な古墳で、

   壹與政権系の人物の墓ではないし、

  しかも女王の墓としか考えられない遺体配置になっている。

  卑弥呼政権側の古墳であることは疑いない。

   このこともまた、

  倭(ウワイ)国政権は、

   首都・巴利国=隼人町での戦いで位宮と壹與軍に敗れ、

  首都を奪われはしたが消滅したのではなく、

   東の宮崎県側へ大移動したことを示している。

  そのコースは宮崎県の西都原(サイトバル)に大量の古墳群を

   残したあと大分県へ進む。

  この間(かん)の戦闘は、

  卑弥呼側の闘将・景行天皇・

   大足彦忍代別(載斯烏越(タイシオジゥオ))の事跡として

  『記・紀』に書かれており、東に海を越えること千里の愛媛県に、

  卑弥呼の語源・ぺマカ(パーリ語の「愛」)への当て字

   『愛(え)』媛(ひめ)の国名を残したが、

  それは後に壹與を意味する伊豫(壹與(イヨ))に変えられた。

  まず卑弥呼政権の国になり、後に壹與政権の国になっているから、

  壹與政権は同じコースを進んでいる。

   ここでウワが再び重大な問題になる。

  壹與の国なら『邪馬壹国』という堂々たる国名がある。

  卑弥呼政権の使った倭国=ウワイなど使う必要はないからである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学院講義録22:31頁

  《卑弥呼を神功皇后にした二つの遺志》

  また若き卑弥呼の神功皇后としての活躍は朝鮮半島にも及んだ。

  いわゆる三韓征伐である。

  その事実を記録しているのが、息長帯姫という名乗りである。

  息長はソナカへの当て字で、帯は帯方郡、

   すなわち半島中部の帯状地帯をさす中国名だった。

  そこは魏が景初に公孫氏を滅ぼすまでは、

   漢政権の衰えで郡とは名のみの自治区であり、

  公孫氏が税を懐に入れていた。

  卑弥呼はそこを仏教圏にして実質的支配下に置いたのである。

  それが可能だったのは彼女が、

   高句麗まで支配していた孝霊天皇の皇女だったからで、

  「三韓征伐」などという侵略行為があったわけではない。

  そこの住民は稲作に適さず無人に近い土地を改良して、

  次第に定着していった南九州からの移民だったのである。

  それを立証しているのが半島南部の地名である。

  下記の、伽耶時代の地名比較をご覧いただけば、

   その史実は一目瞭然である。

  こうして卑弥呼は海を越えて五彩圏を拡大した。

  それはソナカ=仲哀天皇の遺志であると同時に、

  アレクサンドロス大王の遺命だった

   八紘一宇の実現でもあったのである。

  卑弥呼が、

   魏が極秘で進めた公孫氏抹殺作戦を事前に予知して

   難升米らを派遣した事実も、

  この五彩圏情報網の存在がわかれば、

   偶然ではなかったことがわかる。

  それは記録通り景初2年6月でなければ意味をなさない。

  景初3年説は、無知を暴露しているだけなのである。