2015年10月29日木曜日

桜井茶臼山古墳


 ≪桜井茶臼山古墳≫
 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:10~11頁

  《桜井茶臼山古墳》

  近鉄大阪線で伊賀、伊勢の方へ向かう人は、

   桜井を過ぎ、やがて奈良盆地がつきようとする手前、

  右方の車窓に巨大な前方後円墳が

  そびえたつ姿を眺めることができる。

  これが日本の考古学や古代史に

  数えきれないほどの問題をなげかけている茶臼山である。

  茶臼山古墳は桜井市外山(とび)に所在し、

  同名の古墳が日本各地にあるので混乱をさけるため、

  上に桜井を冠してよんである。

  私(森浩一)がこの古墳に注目したのは、

   太平洋戦争の直後であった。

  そのころまでに奈良の古墳について発表された書物には、

  どうしたわけかこの古墳が書きもれていた。

  当時私(森浩一)はまだ大学生であったが、

   一つには、

  この古墳の形が奈良や大阪の発達しきった

   前方後円墳にくらべると、

  前方部の幅が狭い柄鏡式をしていて

  年代がさかのぼるのではないかと思われたこと、

  いま一つは戦前の神話に基づく

  大和政権観にたいする批判が自由になり、

  それにつれて盆地の南東部、旧磯城郡が

  大きな政権の発達にとって重要な地であることが

  文献史学者の提唱するところとなり、

  この古墳は二つの意味で、

   ぜひ実態を調べる必要があったのである。

  昭和24年 私(森浩一)がこの古墳を実査したところ、

  後円部頂上に盗掘穴があけられ、天井石が見えていたので、

  末永雅雄博士に連絡し、

  奈良県立橿原考古学研究所の手で発掘がおこなわれた。

  この古墳は後円部頂上の中央に竪穴式石室が設けられていた。

  内部には高野槙(こうやまき)を繰り抜いた

  長さ6メートルの大木棺が安置され、王者の棺にふさわしい。

  この棺を保護するため一面に朱をぬった割石で四壁を積上げ、

  上を12枚の天井石で覆っていた。

  竪穴式石は、

  全長6.7メートル、高さ1.6メートル、幅1.1メートルであった。

  「スケッチ」:竪穴式石室と内部の木棺
                 奈良県 桜井茶臼山古墳


 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:12~13頁

  《桜井茶臼山古墳の遺物》

  石室内部は古く数回の盗掘で荒らされていたが、

  わずかに残る断片からも埋葬時の豪華さをしのぶことができる。

  銅鏡は十数面の破片が残り、




   画文帯神獣鏡などがある。

  天神山に比べ三角縁神獣鏡が多いのが特色である。

  銅鏡のほか、勾玉(まがたま)や菅玉(くだたま)、

  鉄製剣、鏃などの武器もあり、

   副葬品の組合せは鏡・玉・武器が基本である。

  このほか宝器的な碧玉製腕輪類があった。

  この古墳の副葬品で特筆すべきものに、

   玉杖(ぎょくじょう)と玉葉がある。

  玉杖とは『後漢書』に見える語で、

   果たして同じ品かどうかは不明であるが、

  王者の権威を象徴するこの遺品を飾る語としてふさわしい。

  長さ約53センチ、上部と下部に碧玉の飾りがつき、

  杖の部分は鉄心に碧玉の管を通している。

  玉葉は碧玉製で、大きな方で長径約8センチ、

  死者の眼をふさぐための葬具かと、推定されている。

  「写真」
  
  玉杖・玉葉桜井茶臼山古墳


 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:14頁

  《有孔の土師器壺》

  古墳の墳丘の内部でも埋葬施設のある部分はとくに聖域である。

  茶臼山では石室をとり囲む南北約10メートル、

  東西約13メートルの長方形区画に土師器壺を並べていた。

  この方形区画は、形と規模が弥生式中期から出現する

  方形周溝墓に類似しており、こにょうな巨大な墳丘になっても、

  頂上聖域にその名残があるかと推定されている。

  壺の底に孔をあけることは、本来の貯蔵の役割を否定している。

  死者埋葬や葬送の儀式には

  有孔または穿孔の土器が使われているので、

  その関連で理解することができる。

  それにもまして重要なのは、

   前期や中期古墳に多い朝顔形埴輪は、

  製作の当初から上にかくれる下部を筒形に簡略化し、

  壺形の上部だけを忠実に模索したものであり、

  この壺は朝顔形埴輪に先行するものであった。


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