2015年10月16日金曜日

櫛𤭖(瓦+镸)玉姫≪曲玉(勾玉)≫


 ≪櫛𤭖(瓦+镸)玉(くしみかたま)姫≫
 
  雷神はまた水神としてよく知られる。

 この点で注目されるのは、

 三諸、御諸、御和、三輪、美和、𤭖(瓦+镸)玉である。

 出雲国造神賀詞が「櫛𤭖(瓦+镸)玉神」と表記する。

 「𤭖(瓦+镸)」は「壺、瓶」で、水類を入れる器であるが、

 この「ミカ」はまた「美和(みか)」である。

 『古事記』の神武天皇条で

 「美和の大物主神」とある「美和」は三輪である。

 「美和」は実は「雲」それも雨を降らす「積雲」をいい、

 大神神社は神奈備山である「山」を

 崇拝対象としているばかりでなく、

 そこに湧く雲をも信仰の対象としているのである。

 その真実は以後の考察で十分解かるだろう。
 
  「美和」はサンスクリット語の「雲」の意味の

 megha の音写である。

 同語は漢語音写で「弥伽」と表記される。

 megha-mālā は「雲の環、積雲」で

 megha の同類語 mih は「蒸気、霧」で、

 実際は同義で、mih-mālā となり、

 これが「御諸」あるいは「三諸」の祖語である。

 mālā は「環、輪」であり、また「三輪」となる。

 実際インドでも

 megha-mālā という山があったとの伝承がある。

 美和が megha である傍証がある。

 岡山県真庭郡久世町目木に

 米来神社(めきじんじゃ)が鎮座するが、

 目木、米来は megha の音写であり、

 目木地区はかって美和村(大庭郡美和郷)にあり、

 美和は目木、米来と同根である。

 米来神社は大己貴命を祭神としている。

 後に述べるが吉備国は磯城氏族の停着した地方で、

 同社の近くに富尾(とび)があり、

 隣りの苫田郡に富村がある。
 
  大神神社の摂社に

 奈良市本子守町に延喜式神名帳にも載る

 率川(いさかわ)坐大神御子神社が鎮座するが、

 同社の祭神には狭井大神がおり、

 同社が同じく大神神社の境内摂社

 狭井坐大神荒魂神社と関係することを物語っている。

 同摂社は大神神社の御酒信仰の社である。

 率川の「イサ」はサンスクリット語の転写とみられ、

 これは「汁、飲物、御酒」を表わすが、

 さらに「天に湛える爽快な水」である

  「雨」をも比喩的に表わす。

 つまり御酒は雨であり、
 
 酒(くし)の神は「雨神」であった。
 
  大正7年(1918年)山ノ神祭祀遺跡から

 白玉(竹玉)の入った素焼きの坩(つぼ)が発見された。

 また、堅臼、堅杵、匏(ひさご)、柄杓、箕、案

 という醸酒に関するとみられるものも発掘され、

 他の遺跡と性格を別としている。

 また、

 三輪山周辺からは

 丸い壺を上から少々潰したような横瓮や

 丸い提瓶が見つかっているが、

 これらは「𤭖(瓦+镸)玉」と考えることができる。

 「櫛𤭖(瓦+镸)玉」の「櫛」は「酒」ととることができ、

 これは、「酒瓶」を意味する。

 そして、これは天において雨を湛えている壺なのである。

 そのため、

 雨が壺から降るように瓮に穴が穿たれるようになる。

 それが古墳から発掘される二重口縁壺である。

 その形状は「玉」にふさわしい球形である。

 古いものは土師器製では4世紀建造の古墳にみられる。

 5世紀になると、

 それらは須恵器で作られその形は基本的に球状であるが、

 首の部分が長くされるなど、

 土師器製時代から変形している。

 これらは古墳における祭祀に使われた物品である。

 土師器には底に穴が開けられていたが、

 須恵器製で球状の横腹に穴が穿たれている。

 また壺形埴輪が作られ、同じく穴が必ずみられる。

 これらの古墳では二重口縁壺と同時に

 勾玉あるいは臼玉(竹玉)が一緒に出土し、

 山-神祭祀遺跡の

 「臼玉(竹玉)の入った素焼きの坩(つぼ)」は

 それらの原型であると考える。

 二重口縁壺は「𤭖(瓦+镸)玉神」の象徴と考える。

 後に述べるが、
 
 勾玉、臼玉(竹玉)は大己貴神の象徴であり、

 大神神社を奉祭する氏族の古墳の特徴ということが出来る。
 
 二重口縁壺のみられた古墳を挙げておく。

 (A)土師器製

  ○箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)、

   3世紀第四半期から4世紀前半・中頃


   (奈良県奈良市桜井外山)

   4世紀第一四半期から、方形墳に数多く並んでいた。

  ○胎谷古墳

   (奈良県宇陀郡菟田野町古市場)

   4世紀第一四半期


   (山梨県東八千代郡中道町下曽根町山本)

   4世紀後半

  ○雷神山古墳

   (宮城県名取市植松)

   4世紀末

 (B)須恵器製


   (大阪市平野区長吉長原)

   5世紀後半

  ○稲荷山古墳

   (埼玉県行田市埼玉、埼玉古墳群)

   5世紀第四四半期


  ○西宮古墳

   (奈良県平群郡西宮)

   6世紀半頃

  ○三里古墳

   (奈良県平群郡西宮)

   6世紀半頃


   (奈良県北葛城郡広陵町馬見北)

   6世紀後半

  全ての古墳を調査した結果でないのが残念であるが、

 時代的流れが明らかになる。

 宮城県までに4世紀のうちに

 「𤭖玉神」の信仰が広がっていたことは意義深い。

 この壺を一般に何と呼んだかは確定しがたいが、

 その宮城県におもしろい資料がある。

 雷神山古墳からは少々離れた岩沼市三色吉水神に

 金蛇水神社という名称の水神を祀った神社があるが、

 「金蛇」はサンスクリット語の kunda の音写で

 「宗教的に用いられた壺、瓶、篭」をいう。

 また、同県柴田郡柴田町船迫の釜蛇水神社は

 kamaṇḍala の音写で同義である。

 延喜式神名帳にもなく影の薄い

 この神社は1600年の間

 土地の人々の水神信仰の対象として

 守られてきたのである。

 「水瓶」が

 単に古墳のための祭器だけでなかったことが解かる。

 三輪山の東北辻地区に釜ノ口山がある。

 「釜」は kamaṇḍala の kama- で

 「口」は二重口縁壺の穴をいうものであろう。

 長野県岡谷市の

 諏訪湖の天竜川へと流れる辺りを釜口というが、

 これも同じ理由で、湖は「天の壺」であり、
 
 釜口は天水の流れ出す穴である。

 ミワは svar で「天」の意味である。

  『古事記』に「忌瓮(いわいべ)」と現れるものは、

 この𤭖玉と考える。

 『古事記』には2回現れる。

 第1は

 「孝霊天皇」に

 「大吉備津日子命と若健吉備津日子命とは、

  二柱相副ひて、針間の氷河の前に忌瓮を居ゑて、

  針間を道の口と為て吉備を言向け和したまひき」とあり、

 第2は

 「崇神天皇」の大毘古の東征に出たところで

 「丸邇坂に忌瓮を居ゑて、罷(まか)り往きき」とある。

 日本古典文学大系の註は「居忌瓮而」を注して

 「神を祭るに用いる清浄な瓮を地を掘って据えての意」とする。

  万葉集には

 「忌串立て酒瓮据ゑまつる祝が

  うづの山陰見ればともども」とあり、

 ※万葉集巻13-3229には

  「五十串立 神酒. 座奉 神主部之 雲聚玉蔭 見者乏文」

  (斎串立て 神. 酒据ゑ奉る 神主の

   うずの玉陰 見ればともしも)

 忌瓮が酒瓮で𤭖玉であることがみえてくる。

 万葉集・巻3・379 大伴坂上郎女、神を祭る歌一首には

 「斎戸手忌穿居、竹玉手繁尓貫垂」

  ひさかたの天の原より生れ来る神の命

 奥山の賢木(さかき)の枝に白香(しらか)付け、

 木綿(ゆふ)取り付けて斎瓮(いはひべ)を斎ひほりゑ、 

 竹玉(たかたま)を繁(しじ)に貫き垂れ鹿猪(しし)じもの

 膝折り伏して手弱女(たわやめ)のおすひ取り懸け

 かくだにも吾は祈(の)ひなむ君に逢はじかも

 ※

  久方の天の原から天下られた先祖の神よ

  奥山の榊の枝にしらかを付け木綿も取り付けて

  斎瓮を慎んで地面に掘り据え

  竹玉をいっぱい貫き垂らし

  鹿のように膝を曲げて身を伏せたおやめのおすひを肩に掛け 

  これほどまでも私はお祈りをしているのに

  あの方に逢えないのではないでしょうか

 万葉集巻3-420

 石田王の卒(みまか)る時に丹生王の作る歌一首は

 「枕辺尓斎戸手居竹玉手無間貫垂」を含む。

  天雲のそくへの極(きわめ) 天地の至れるまで杖つきも

  つかずも行きて 夕占(ゆうげ)問ひ 石占もちて

  我が宿に みもろを立てて 枕辺に斎瓮を据ゑ

  竹玉を間なく貫き垂れ 木綿たすき かいなに懸けて

   万葉集巻13-3284には

 「斎戸手石相斎穿居竹球手無間貫垂」を含む。

  菅(すが)の根の ねもころごろに 我は思へる

  妹によりては 言の忌も なくありこそと

  斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂(た)れ

  天地の 神をぞ我が祈(の)む いたもすべなみ

  三例を日本古典文学全集から転載したが、

 同書は原書の「斎戸」を「斎瓮」と置き換え、

 「忌穿居」を日本古典文学大系の注と同じく

 「斎ひ掘り据ゑ」と「地を掘って据える」ことと

 解釈を同じくしている。

 だが、第三・四二の歌のように、

 この祈願は地の穴に据える仕方を全てとしていない。

 枕辺に据えている。

 枕辺とは屋内の寝室をいうものであろう。

 よって「斎戸手忌穿居」とは、

 斎瓮に穴を穿つことである。

 二重口縁壺に穴が開けられている様こそ

 「斎瓮を忌きまつる」𤭖玉なのである。

 斎戸の「戸」は「門」であり「穴」である。

 出雲国造神賀詞が大穴持命の和魂を倭大物主櫛𤭖玉命とする。

 「大穴持」とはこの穴のある二重口縁壺をいっているものと考える。

 この理由により、『日本書紀』の一書が記すように、

 大国主命のまたの名を大物主神とするようになったのであろう。

 その背景には大田田根子以降の奉祭氏族三輪氏が

 係わっているとみられるが、

 それは後述する。

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