2015年10月31日土曜日

若草山の鶯塚


 ≪若草山の鶯塚≫

 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:16頁

  《若草山の鶯塚》

  古墳にはいろいろな名称がつけられているが、

  優雅な点ではこの古墳の右にでるものではない。

  標高341メートルの高所に築かれた

  全長約百メートルの前方後円墳で、

  二段に築かれ、埴輪がたてられ、

  葺石が随所に見えている。

  後円部の頂には、鶯塚の石碑がたち、

  裏面にはこれが

  『延喜式』にでている平城坂上陵であり、

  清少納言が枕草子でいう鶯塚である旨がしるされている。

  享保18年に東大寺の康訓らが建てたのである。

  鶯塚は、高所立地の典型的な古墳であるが、

  前期でもその後半に築かれたものであろう。

  家形、舟形埴輪のほか、小型の内行花文鏡も出土している。
 
  「若草山」
  「鶯塚古墳」
  「古墳」
  「前方後円墳」
  「陪塚」
  「横穴式石室」
  「竪穴式石室」
  「銅鏡」
  「鉄剣」
  「銅鐸」

2015年10月30日金曜日

佐紀陵山(日葉酢媛陵)古墳の銅鏡


 ≪佐紀陵山(日葉酢媛陵)古墳の銅鏡≫

  出典:保育社:カラーブックス:
        古墳―石と土の造形―森浩一著:15頁

  《佐紀陵山(日葉酢媛陵)古墳の銅鏡》
  
  奈良盆地南東部の前期古墳群をはなれて、

  奈良市北郊の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群へいくと

   様相が少し変わる。

  佐紀陵山古墳はその群では初期に築かれた前方後円墳であるが、

  大正五年の大盗掘で後円部の竪穴式石室から

   遺物がもちだされ世間を驚かせた。

  この写真は、当時高橋健自博士が作られた拓本である。

  天神山では舶載鏡が大部分であったのが、この次期になると、

  中国鏡をモデルにして畿内の鏡作り工人が模作している。

  方格規矩四神鏡では四神を唐草風にあらわし、

  内行花文鏡では縁にわが国特有の直弧文を加えている。

  「写真」仿製の内行花文鏡

      仿製の方格規矩鏡


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      KOFUN:38~40頁

  《天平以後に造られた現・日葉酢媛陵》

  陵のもつ重要な線は、

   すべて関連している直線上の陵墓に支配されているし、

  また、それらの陵墓の所在を指し示してもいるのである。

  その数例をあげておこう。

  成務天皇陵の前方部下底線は元正天皇陵(奈保山西陵)と

  磐之媛陵の後円部北端とを結ぶ線である。

  日葉酢媛(ひばすひめ)皇后陵の前方部下底線も、

  磐之媛陵の中央部を経て元正天皇陵に達する線である。

  (この皇后陵は『延喜式』にはない。後世の決定である。)

  孝謙天皇陵の前方部下底線は東南はるか

  18.5キロメートル先の箸(はし)墓(倭迹迹日百襲姫墓)の

  後円部東端に達し、さらに崇峻天皇陵に至る

  24キロメートルの直線によって形成されている。

  箸墓、崇峻陵に比べて、

   8世紀なかばの孝謙女帝の陵が新しいことはいうまでもない。

  とすれば、この下底線の歪みは、

   直線に沿って始めから歪めて造られたのである。

  この結論には疑う余地がない。

  とすれば、奇妙な事実に、お気づきにならないであろうか?

  それは成務天皇陵と日葉酢媛陵という古い時代のはずの陵が、

  後世に造られたはずの

   元正天皇陵によって影響されているという点である。
  
  古い二陵の下底線が始めから歪めてあったとしたら、

   それは一体なぜなのか、という謎である。

  そして、その東への延長線が交わる所に、

   なぜ元正天皇陵があるのか。

  あらかじめ後世の子孫のために、

   そうした歪みをわざわざ作っておいたのか?

  しかしそれなら、あまりにも時代の離れた元正天皇でなく、

  もっと早い時代の、時代の接近した天皇の陵が、

   そこに造られてもよさそうなものだ?

  といういくつもの疑問が、重なり合って出てくるのである。

  同じことは応神陵でもみられる。

  これはどうみても元正天皇陵が先であって、

  成務、日葉酢媛の両陵は、

   それ以後に造られたものとみるはかない。

  だが薄葬令後、天皇の陵も名ばかりになった後に、

  こうした伝説的な天皇や皇后の陵を造営するということが

   はたしてあり得たのであろうか?

  薄葬令後に陵が全く造られなかったのでないことは、

  孝謙女帝陵があることでもわかるが、

   元正女帝が平城京の完成者であること、

  その平城京敷地内には古墳があったが、

  それを削り取って都市計画を実施したことなどを考えあわせると、

  天平二十年(748年)の元正上皇の死以後に、

  かつて削り取った古墳の主の崇りを恐れて、

  この成務、日葉酢両陵を造り直したということは、

   あり得ないことではない。

  それはこの二陵が履中陵型式に近いからでもある。

  本シリーズの中の『卑弥呼を攻めた神武天皇』では、

  神武天皇の皇后にあたる日葉酢媛の御陵が、

  『延喜式』の中にないという重大なナゾについてお話しした。

  このことには当然、当時の人も気がついた。

  そこで新しく造営したという裏面史が、

   リアルに目に浮かんでくる。

  ⦅古墳の墳形と他の陵墓との関係⦆

  (本図に引いた線は
   
   目標物を隠してしまわないように離して引いてある)

  0. 元正陵 

  1. 磐之姫陵

  2. 日葉酢姫陵

  3. 成務陵

  4. 孝謙陵

  5. 神功陵

  い. うわなべ古填

  ろ. こなべ古墳 

  は. 平城天皇陵

  M. 聖武陵

  N. 垂仁陵


2015年10月29日木曜日

桜井茶臼山古墳


 ≪桜井茶臼山古墳≫
 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:10~11頁

  《桜井茶臼山古墳》

  近鉄大阪線で伊賀、伊勢の方へ向かう人は、

   桜井を過ぎ、やがて奈良盆地がつきようとする手前、

  右方の車窓に巨大な前方後円墳が

  そびえたつ姿を眺めることができる。

  これが日本の考古学や古代史に

  数えきれないほどの問題をなげかけている茶臼山である。

  茶臼山古墳は桜井市外山(とび)に所在し、

  同名の古墳が日本各地にあるので混乱をさけるため、

  上に桜井を冠してよんである。

  私(森浩一)がこの古墳に注目したのは、

   太平洋戦争の直後であった。

  そのころまでに奈良の古墳について発表された書物には、

  どうしたわけかこの古墳が書きもれていた。

  当時私(森浩一)はまだ大学生であったが、

   一つには、

  この古墳の形が奈良や大阪の発達しきった

   前方後円墳にくらべると、

  前方部の幅が狭い柄鏡式をしていて

  年代がさかのぼるのではないかと思われたこと、

  いま一つは戦前の神話に基づく

  大和政権観にたいする批判が自由になり、

  それにつれて盆地の南東部、旧磯城郡が

  大きな政権の発達にとって重要な地であることが

  文献史学者の提唱するところとなり、

  この古墳は二つの意味で、

   ぜひ実態を調べる必要があったのである。

  昭和24年 私(森浩一)がこの古墳を実査したところ、

  後円部頂上に盗掘穴があけられ、天井石が見えていたので、

  末永雅雄博士に連絡し、

  奈良県立橿原考古学研究所の手で発掘がおこなわれた。

  この古墳は後円部頂上の中央に竪穴式石室が設けられていた。

  内部には高野槙(こうやまき)を繰り抜いた

  長さ6メートルの大木棺が安置され、王者の棺にふさわしい。

  この棺を保護するため一面に朱をぬった割石で四壁を積上げ、

  上を12枚の天井石で覆っていた。

  竪穴式石は、

  全長6.7メートル、高さ1.6メートル、幅1.1メートルであった。

  「スケッチ」:竪穴式石室と内部の木棺
                 奈良県 桜井茶臼山古墳


 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:12~13頁

  《桜井茶臼山古墳の遺物》

  石室内部は古く数回の盗掘で荒らされていたが、

  わずかに残る断片からも埋葬時の豪華さをしのぶことができる。

  銅鏡は十数面の破片が残り、




   画文帯神獣鏡などがある。

  天神山に比べ三角縁神獣鏡が多いのが特色である。

  銅鏡のほか、勾玉(まがたま)や菅玉(くだたま)、

  鉄製剣、鏃などの武器もあり、

   副葬品の組合せは鏡・玉・武器が基本である。

  このほか宝器的な碧玉製腕輪類があった。

  この古墳の副葬品で特筆すべきものに、

   玉杖(ぎょくじょう)と玉葉がある。

  玉杖とは『後漢書』に見える語で、

   果たして同じ品かどうかは不明であるが、

  王者の権威を象徴するこの遺品を飾る語としてふさわしい。

  長さ約53センチ、上部と下部に碧玉の飾りがつき、

  杖の部分は鉄心に碧玉の管を通している。

  玉葉は碧玉製で、大きな方で長径約8センチ、

  死者の眼をふさぐための葬具かと、推定されている。

  「写真」
  
  玉杖・玉葉桜井茶臼山古墳


 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:14頁

  《有孔の土師器壺》

  古墳の墳丘の内部でも埋葬施設のある部分はとくに聖域である。

  茶臼山では石室をとり囲む南北約10メートル、

  東西約13メートルの長方形区画に土師器壺を並べていた。

  この方形区画は、形と規模が弥生式中期から出現する

  方形周溝墓に類似しており、こにょうな巨大な墳丘になっても、

  頂上聖域にその名残があるかと推定されている。

  壺の底に孔をあけることは、本来の貯蔵の役割を否定している。

  死者埋葬や葬送の儀式には

  有孔または穿孔の土器が使われているので、

  その関連で理解することができる。

  それにもまして重要なのは、

   前期や中期古墳に多い朝顔形埴輪は、

  製作の当初から上にかくれる下部を筒形に簡略化し、

  壺形の上部だけを忠実に模索したものであり、

  この壺は朝顔形埴輪に先行するものであった。


2015年10月28日水曜日

古墳と「土地」


 ≪古墳と「土地」≫
 
 出典:保育社:カラーブックス:
    古墳―石と土の造形―森浩一著:101~102頁

  《古墳を論じる際の「土地」の問題》

  墳墓かの区別をする前に、両者に共通しているのは

  屍を処理している場としての墓であることを忘れてはならない。

  そのことに焦点をあらわすと、

  一人の死者のために必要な土地の平面空間は、

  せいぜい長さ2メートル、幅60センチもあれば充分である。

  縄文の習俗のように屈葬にしたり、6世紀末にあらわれ、

  現在全国でおこなわれている火葬を採用した場合には、

  その土地空間をより狭くすませることは言うまでもない。

  土地の問題は今まで古墳を論じるさいに

  あまり考慮されなかったことであるが、

  全国各地にある数万の小古墳でも直径10メートル前後はあり、

  かなりの面積の土地を死者が占有してしまっているのである。

  しかも地上に歴然とした墳丘を築いているのであるから、

  古墳を破壊しない限り、その土地は永久に墓以外の目的に

  利用することはできないのである。

  直径10メートルでも、現在の一戸の宅地の面積に匹敵するから、

  一人の屍を処理する第一の点は、

  屍処理に必要以上の土地を死者に使わせ、

  しかも永久に占有させている点であろう。

  副葬品の有無は、死者の習俗や古墳文化の内容を示すもので、

  古墳そのものの定義に関係はない。

  古墳を土地との関係で規定すれば、

  最近各地であいついで発掘されている方形周溝墓も

  明らかに古墳である。

  これは一辺が10メートルから15メートルほどの

  方形区画の周囲に狭い溝をめぐらした墓であるが盛土はない。

  弥生文化のものが多いが、古墳時代にもつづいている。

  ただ方形周溝墓だとして学界に報告されているのもののうち、

  墓の決め手のあるものと、

  その証拠のないものは厳密に区別しておく必要がある。

  方形周溝墓のような、無墳丘(無封土)の古墳(仮にA型)、

  大山古墳のように墳丘をもったいわゆる高塚古墳(B型)、

  それに横穴のように平面空間は

  ほとんど占有していないが立体的空間を使っているもの(C型)、

  などを異なった類型として整理しておく必要はある。

  墳墓と古墳を巨視的に区別するために少し煩雑なことを述べたが、

  もちろん、古墳の類型を年代順に、

  あるいは併行関係で整理しておく必要があることは言うまでもない。

  歴史的に重要なことは、私(森浩一)の原則で規定した古墳、

  とくに高塚古墳が数世紀の間だけ築きつづけられ、

  しかもそれがほぼ日本列島全体におこなわれていたことは、

  墓の文化での共通性にとどまらず、

  古墳の構築の前提となる土地の制度の上でも

  一つの「時代」を画していた可能性がつよいといyことである。

  今までは便宜的に使われていた古墳時代という名を、

  改めて検討する時機にきたようである。


古墳と墳墓:考古学


 ≪古墳と墳墓:考古学≫

 出典:保育社:カラーブックス
   :古墳―石と土の造形―森浩一著:100頁

  《古墳とはどういうものか》

  古墳に対して、大和朝廷との関係で

  定義づけようとする研究者がいるが、

  このことの当否は別にして

  考古学の方法としては正しくない。

  考古学の研究では遺物・遺跡に即した方法をたて、

  したがってその範囲での定義をつくるべきであり、

  そのような慎重な研究過程をへたのちに古代史との

  関係が導きだせるのである。

  そこで遺跡や遺物の面から古墳の基本的条件を見ると、

  ①墳丘があること。

  ②屍を棺や槨

  (棺をおさめる施設、粘土槨や竪穴式石室がこれにあたる)

   にいれる。

  ③副葬品がある。

  この三点が抽出される。

  しかし③の副葬品という点では、

  北九州の弥生式墳墓で中国製の銅鏡だけでも

  二、三十面におよぶ豊富な副葬品をもった墳墓が

  数例も知られていて定義を複雑にする。

  また①の墳丘というもっとも重要な要素についてであるが、

  いわゆる古墳時代の墓の中に、横穴の一群がある。

  これは崖や斜面の墓室を掘り込んだものであるから

  墳丘は認められない。

  墳丘が古墳であるかどうかを規定する条件であれば、

  古墳時代には横穴とよぶ墳墓が九州から東北にいたるまで

  広範囲に分布しているという奇妙なことになる。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
      講演会レジュメ

  《言語復原史学の役割と古代情報》

  ⦅出土品は「言葉」をもたない⦆

  しかしゼロではない。

  出土遺跡名が『言語遺物』だから…。

  仮にそれが遺跡造営時のものではなくても、
 
  周辺の地名を調査すると、

  その造営時代の地名や、

  それに代わる何かの手掛かりをもった

  伝承などが見つかる可能性は大きい。

  ⦅言語遺物は古代発音で読めば史実を復元できる⦆

  文字は発音を写したものだから

  同じ発音で読まないと別のものなってしまう。

  中国の古い地名

  「東京=トンキン」をトウキョウと発音したのでは、

  相手は日本の東京都だと間違った意味に受けとる。

  発音こそが言語の生命だから、

  正しい発音で読まなければ正しい答えは語られない。

  古代史を復元する手掛かりの中心は文献記録だが、

  そこに書かれた名詞はすべて記録当時の発音で読まねば無価値。

  言語史料にはこうした絶対原則が実在しているので、

  古代史文献はまずぺて記録当時の発音や名詞に復元して、

  はじめて求める史実を復元できる。

  この操作を欠いた説は全て空論に過ぎず、

  再評価が進むにつれて消去されてしまう。

  ⦅報道と現実のギャップが考古学離れを生む⦆

  古代の真相解明に情熱を傾ける人々は皆、

  ものいわぬ発掘物に、
 
  あきたりない想いを抱かれたはずである。

  過去に世を騒がせた発掘を、

   本誌の貴重な記録で読みかえしてみて、

  当時の報道と、

   時を経た今の何一つ決定的な

   結論の見られない現状とを見比へると、

  踊らされたのは物見だかい野次馬だったとしか思えない。

  古代史解明に知的ロマンを求める人々には、

  こうした現実がどれほど夢を奪うかと嘆く有識者も多い。

  しかし、

   それは文字記録の皆無に近い

   日本の発掘先史考古学の宿命であって、

  それを想像と手探りで解説してきた

   学者たちを責めてはならない。

  発掘考古学は史学の全てではなく、

  発掘という一分野を担当しているに過ぎず、

  史実を復元する任務はもっていないからである。

  ⦅言語復原史学が今、世界の史学を輝かせはじめた⦆

  そうした発掘考古学の手の届かない部分を
 
  担当するのは文献史学の役目で、

  それに欠けていた古い手法を改善したのが、

  頭書の原則を発見し、

  正し発音を復元して

  『言語文化財』の徹底した発掘に努めた

  「言語復原史学」で、

  その成果がいま花咲きはじめ、

  徹底検討を繰り返して得た「動かぬ定点」が、

  次第に日本建国の史実像を拡大しつつある。

  その意味ではこれまで半ば

  眠っていた本誌『文化財…情報』の、

  過去の全ての情報が、

  今こそ眼を覚まして、

   あなたに真実を物語りはじめたのである。

  それはまた同時に副産物として、

  これまで定説化している西欧学界主導の世界史の誤りも、

  明快な立証力でどんどん改訂し続けている。

  あなたがお気づきにならないうちに、

  世界の人々が求めていた真相が続々と展開し続け、

  世界の真実の古代史が日々再生し続けている。

  世界で最も遅れていた日本の史学。

  3世紀の歴史さえ混沌としたまま、

  国家を象徴する正史ですら

  15代もの天皇を義務教育から削り去ったまま、

  という開発途上国にも見な最低水準にあった日本の史学。

  それが今や世界の学会をリードしている!!!。

  これこそ、日本の旧史学に飽きたりない有識者たちが、

  求めてやまなかった最新の『文化財情報』なのだ!!。

  (1995.10.30 レジュメ)


 『出典』:保育社:カラーブックス:
      日本人のルーツ:102頁

  《現代の宝さがし》

  文化財は骨董品として高い値段で取り引きされている。

  だから遺跡が荒らされて、

  闇から闇へ売買されているものがある。

  このことから、考古学の一つの分野である発掘調査は、

  一種の宝さがしだと思っている人が多い。

  その程度の人は土器や土偶が高く売れるのは、

  それが古いからだと思つている。

  また数が少ないから高いのだという人もある。

  しかし、数が少ないというのは間違っている。

  日本の古代遺跡の数だけで数十万箇所あり、

  その一つの遺跡から少なくとも数百点の遺物が出ている。

  各都道府県にある多くの出土品倉庫は、

  みな何方点という発掘文化財で、

  はち切れそうになっているといっていい。

  いったいどこに希少価値があるといえるのか。

  また、そのすべてが古い本物なのであるから、

   古いから高い、という考えも間違っていることがわかる。

  値段が高いのは、売買されている品物の数が少ないためで、

  少ない理由は「文化財保護法」という法律があるためである。

  もしこの法による取り締まりがゆるめられれば、

  何千万あるいは何億という出土品は、

  買い手のない、ただ同然のものになってしまう。

  そんなものを保護しているのは、

  その地域の古代の実態を知る手がかりになるという、

  ただそれだけの理由からだけである。

  したがって出土地のはっきりしないものは、

  いくら形がよくても古くても、

  高価に売買されるような価値はない。


  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           JINMU:60頁

  《考古学の最有力証拠は[古墳]》

  発掘物だけではなぞは解けない。

  文献史学がなぞを解いた後で、

  やっと「あと追い証明」するだけのものなのである。

  その最大の実例が近畿の古墳群である。

  弥生時代末期の墓制(遺体の葬り方)をみると、

  北部九州では支石墓や箱式石棺、

  それに多くの甕棺(かめかん)が見られる。

  それらはすべて畑や丘などの地下に埋められている。

  古墳は原則として土を高く盛り上げたもの

  (山や丘も入れる人もある)だから、

  それらが古墳ではないことは学者でなくてもすぐ分かる。

  北部九州ではまだ3世紀の古墳は見つからないし、

  近畿でも3世紀より以前の

   古墳が見つかったという報告はない。

  ところが『倭人章』には漢の時代に100余国、

  3世紀には30国あったことが記録されている。

  そして卑弥呼が共立されたのは桓(かん)帝、霊帝のころで、

  その前は男王が70~80年間治めていたと書いてあるから、

  男王は紀元80~90年ごろから君臨していたのである。

  天皇家の墓制の特徴が

   古墳であることは天皇陵を見れば分かる。

  卑弥呼が天照大神であり、

   天皇家の祖先であることも疑う余地がない。

  彼女も死後大塚に葬られたが、天皇家の墓制からみて、

  それが古墳だったことも間違いない。

  とすれば邪馬台国があった地域の近くには、

  少なくとも1世紀ごろからの古墳群があるはずである。

  卑弥呼は神功皇后(じんぐうこうごう)でもあるから、

  その前に14人の天皇が記録されている。

  だが現在の考古学は3世紀より前の古墳は畿内にはないという。

  これは「邪馬台国は北部九州でも畿内でもない」という

  最も有力な証拠なのである。
  
  今の考古学の定説がダメなものならともかく、

  それを信じるかぎり奈良県や畿内邪馬台説は、なり立たない。

  では新たに紀元前後のものと確認できる古墳が見つかったら、

  そこが邪馬台国だという証拠になるだろうか?

  たとえその古墳から王の名の入った墓誌が見つかっても、

  ヒミコの前の男王は名前が記録されていないので、

  証拠にならないし、

  またさらにほかの文献で、その王名が見つかったとしても、

  国そのものが、いくらでも移動するものだから、

  そのたびに遺骨や副葬品が新しい土地に

   運ばれて改葬されたとすれば、

  いくら放射能を測定して年代が分かっても、

  そこに邪馬台国があったという証拠にはならない。

  この見方は古墳人が改葬する習慣をもつ場合にかぎる、

  という反論があるかもしれないが、天皇家には、

  はっきりと殯(もがり)という習慣があって、

  仮葬したものを後に古墳に本葬する建前になっている。

  そして『ヒミコ』で明らかに証明されたように、

  応神天皇までの朝廷が隼人町にあったのだから、

  今、畿内にある

  [それ以前の天皇陵とされるものは、すべて改葬されたもの]、

  ということになる。

  古墳ほど巨大で、移動しない存在でさえ、

  邪馬台問題のキメ手には、まるで役立たない。

  それはない証拠にはなるが、

  あった証拠には使えないのである。


 
 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     邪馬臺国の言葉:19~22頁

  《発掘考古学の限界》

  倭人伝には卑弥呼が死んだので大きな塚を作ったとある。

  これはどう考えても古墳の大きなものである。

  それは目立つ存在であるから、

  見つけるのは、さして困難な仕事ではない。

  しかも、これまでこれという塚が見つからないのは、

  我が国には大きな塚が多すぎて、

  そのうちのどれかというキメ手が見つからないためである。

  確かに卑弥呼ときりはなせない

  景初三年鏡を出土した古墳もあるが、

  それだけで卑弥呼の墓ということにはならない。

  それが彼女のものだと確認されるためには、

  発掘考古学以外の、もっと別の確認が必要なのである。

  納得できない方は高松塚古墳について、

   少し考えて戴けばよくわかる。

  こちらはさらに5世紀も後世の有史時代のもので、

  もっと詳しい記録のある時代の

   見事な壁画や星宿図まで備えた古墳である。

  にもかかわらず、それが一体誰のものであるか、

  諸説ふんぷんとして謎に包まれたままなのである。

  「写真:ウル王朝の殉葬」(ウーリーにより加治木模写)

  今から約4600年前のメソポタミアにあった

   ウル王朝のシュブ・アド王妃埋葬時の光景を

  発掘者サー・C・リョウナード・ウーリー

  の遺物出土記録をもとに精密に復原して

  描いた図の模写である。

  単なる想像ではない。

  これまでの考古学は

  「物」的証拠を集めることが仕事であって、

  それですぐ結論を出せる種類の学問ではない。

  ことに邪馬臺国問題は、

   文献自体がまだ正しく読めないのだから、

  その段階で幾ら物的証拠らしいものを

   並べてみても誰も納得しない。

  邪馬臺国とはどういう国で、

   卑弥呼が死んだ当時は、

  どこにあり、どういう人種の、

  どういう部族であったから、

  どういう形の塚を築かせ、

   そこにはどういうものを副葬し、

   殉死者はなぜ殉死し、

  どう葬むったか等を前もって明確にした上で、

   この塚には、

  それらの条件がこのように揃っているから、

   これが卑弥呼の塚である。

  というのでなければ何にもならない。

  それが不明のままで考古学者をせめるのは無理である。

  もちろん文字や日付のある木簡などが

   出土したりする場合は別である。

  それが貴重な時間的座標になって

   同時出土品の時代決定などに役立つ。

  殷(商)の歴史は多数の甲骨文と銅器によつて証明された。

  そこに彫りつけられた文字が、

   当時の人や出来事を記録していたからである。

  楔型文字をもった粘土板や遺石が

  オリエントの古代を明らかにしたことも今さら云うまでもない。

  ナポレオン軍の一兵士がエジプトのロゼッタ河口の近くで

  壕を掘っていて見つけた黒い欠け石が、

  エジプト7000年の歴史を明らかにする上で

   大きな働きをしたことも事実である。

  しかし、だから発掘考古学が古代史の決め手である、

   と思うのは浅薄にすぎる。

  なぜなら、これらの謎ときに役立った成功例のすべてが、

  掘り出された「文献」であったからである。

  またそれらは発見されただけでは役に立たなかった。

  それが役立つようになったのは、

  その文献の文字を「解読」した人々がいたからである。

  これは『魏書倭人章』の場合と同じである。

  倭人章は千数百年前から発見されたままになっている。

  しかし「解読」できないから、いまだに謎のままなのである。

  「写真:天慧甗(西周代)その器内の銘文」(筆者所蔵)

  中国の西周時代(B.C.11世紀頃~B.C.771年)の銅器で、

  内壁には写真の14字が彫られている。

  字型は当時の都市国家であった「徐」の特徴を示し

  「天慧作 共萬年鼎尊彜 子々孫々永宝用」と読むことができる。

  器高62cm、器幅40cm 

  ※出典:加治木義博・言語復原史学会
          「コスモ出版社『邪馬臺国の言葉』:21」

  たとえ発掘したものが文献であっても、

  それを「発見」しただけで歴史が明らかになるのではない。

  それが正しく「解読」されて始めて役立つのである。

  だからこそ、

  どんな考古学者にもヒケをとらない

  「大発見」をした一兵士の名は忘れられ、

  解読に成功したシャムポリオンは不滅の栄誉に輝いているのである。

  「拓本:西周銅器の文辞」(葉公超により加治木原図)

  西周の宜王元年(B.C.827)に

   造られたとみられる毛公鼎の器壁に彫られた
  
  文章の後半を拓本にとったものを、

  さらに整理したものである。

  末尾の8字が「作尊鼎子々孫々永宝用」であって、

  前の写真のものと類似の慣用句であることがわかる。

 
 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学講義録06:22頁

  《どんなに考古学に生命を与えたか》

  『倭人』と呼ばれた建国当時の原日本人たちが、

  遠くギリシャから中近東、インド、東南アジア

  といった各地からの、

  移住者集団の複合体だったことが「完全証明」された後なら、

  考古学も始めて投に立つ。

  私たちが考古学に生命を与えたのだ。

  これまで誤解と混乱を撒き散らし、

   私たちの困難で地味な立証を、

  目に見えるわかりやすい出土品と

  派手なマスコミ宜伝で覆い隠す敵としてしか動かず、

  真実の歴史の謎解きには邪魔になるだけだった

   いわゆる考古学の出土品が、

  今こそ始めて投に立ち始めた。

  『記・紀』を正しく解明して、

   私たち日本人の先祖の真実の歴史を再建するのに、

  これまで敵に回り続けてきた考古学が有機的に役立ち再生し始めた。

  これこそ文化財保護法の創案者である

  私(加治木義博)が願い続けてきた理想だったのである。

  しかもそれを待つていたように、

  奇跡的に最近各地で大型家屋の柱跡が続々と発見された。

  そのたびに

   「邪馬台国の新証拠」だなどと相変らすの報道が伴ったが、

  高松塚以来の例にもれず空騒ぎの大きさに似ず

   小さな結論さえ未だに現われない。

  だが、その正体は何なのか、

   私たちにはすでに明快にわかっている。

  このあとは考古学資料を駆使する実例をお話しして、

  私たちの学会の存在価値を改めて見直して戴いて、

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録06:23~24頁

  《青銅武器圏と銅鐸圏が立証するもの》

  「地図」

  『古代史発掘5・大陸文化と青銅器

  (講談社-昭和49年〉127ページのコピー

  「原田大六『邪馬台国論争』1969年311頁第80図により作成」

   左の大円内=「青銅武器」分布圏 

   右の大円内=「銅鐸」分布圏
  
  『古代史発掘5・大陸文化と青銅器』

  (講談社-昭和49年〉127頁のコピー

  「原田大六『邪馬台国論争』1969年311ページ

  第80図により作成」という説明がある。

  一見してわかるように

  「伊都国中心の青銅武器圏」と、

  「大阪中心の銅鐸圏」とに分かれている。

  『魏書倭人章』の対馬から伊都国までが

  「倭人圏」であることはいうまでもないし、

  「東に海を千余里渡った国も皆倭種」という記事と

  四国の「青銅武器圏」も完全に一致しているから、

  その東の近畿が、

  それと対立する「銅鐸圏」だったこも説明はいらない。

  青銅武器は本来は武器ではあったが墓に副葬されているので

  「死者を守る」という信仰具に変化していたことがわかるし、

  現在も鐘の仲間が多くの宗教儀式に使われる重要な

  「日常祭具」であることで、

   銅鐸もまた信仰上の器具であったことは疑いない。

  だが『魏書倭人章』は全く銅鐸を知らない。

  銅鐸は毎日の礼拝に欠かせぬ日常祭具であり、

  また儀式の荘厳と文化の誇示用の宝器でもあるから、

  帯方郡使のような重要な使節の来朝に際しては、

  殊更に見せびらかす性質のものである。

  しかもその帯方郡使は

   野草の種類から人々の仕草や習慣まで詳細に

  観察して記録しているのに、銅鐸の記事は一字もない。

  宗教は常に他の宗教を敵視する。

  それは古代ほど激しく互いに相争った。

  だから「倭人圏」は絶対に「銅鐸人圏」ではない。

  この一事だけでも近畿圏が卑弥呼らの倭人圏では

  なかったことが明らかにわかる。

  「畿内説」の誤りを完全に証明しているのである。

  『出典』言語復原史学会・加治木義博:
           大学講義録06:25頁

  《弥生時代を支配した金属文化》

  これほど明確に、卑弥呼当時までの倭人は九州中心に、

  銅鐸人は近畿中心に住み分けていた。

  だから最近発見された大坂府や奈良県の弥生遺跡は、

  「全て銅鐸人の遺跡」であって、絶対に倭人のものではない。

  では銅鐸人とはどんな人々だったのか?…。

  それは大坂府の東端にある

  「八尾市」の地名が証明する「ヤオ人」でなければならない。

  今、中国から東南アジアに分布する彼等は、

  銅鼓を儀式に使う人たちであり、

  八尾は打楽器の伴奏で賑かに祭りを歌い上げる

  「河内音頭」の発祥の地である。

  そして銅鼓と銅鐸は同じ時代の製銅と銅器製作技術の産物で、

  その形態は周の時代に始まった礼楽用楽器

  「扁鐘」の発展したものである。

  技術が集団の秘伝文明だった当時の時代を考えると、

  中国のヤオ人と八尾人とは同じ文化集団だつたとわかる。

  だから銅鐸を代表的文化遺産として残したのは

  中国からの移住者・ヤオ人だと断定できるのである。

  では北部九州だけに青銅武器文化があるのは、

  南九州が遅れていたためか?…。

  南九州は「鉄器文化圏」だった。

  青銅の武器は鉄製武器には刃向かえないほど弱い。

  卑弥呼が武力の背景なしに女王に推戴されたはすがないし、

  彼女を倒した位宮も中国に出兵したり

  魏の大軍と互角に戦ったのだから当然、鉄器をもっていた。

  支配力は常に南にあったのである。


 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
     大学院講義録25:18頁

  《存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状》

  対象とする古墳が、

  被葬者の墓か祭るだけの神社かという、

  重大な本質についてさえ考えることも、

  区別することもできず、

  そんな分類が必要なことを考えることもできずに、

  本当は何時、紛れこんだのかもわからない出土品だけを論拠に、

  3世紀後半だ、

  いやも少し古いなどと、

  古墳の本質による区別も、

  歴史もまるで知らず、

  考える能力も持ち合わせない学歴だけの「学者」が、

  これまで牛耳ってきた観のある我が国の古代史学界は、

  これまでにもうすでに充分、

  馬脚を現わしている。

  手作りの旧石器らしきものを埋めておいて、

  「大発見だ!」とマスコミを踊らせて喜んでいた

  犯罪者と大差のない「発表」が、

  これまで、どれくらい我が国の歴史を攪乱し、

   進歩をはばんできたか、

  これも国民に対する戦犯同様の犯罪であることを

   見逃してはならない。

  だから、

   そんな連中によって無茶苦茶にされることを防いだ、

  天皇陵発掘を許可しなかった宮内庁の方針は、

  かけがえのないものを守った英断で。

  それを罵倒した学者たちは、今更不明を後悔しても遅い。

  彼等こそ真の神道が仏教であることを立証すべきだったのである。

  考古学者は史実を知らなくては素人にも劣る。

  測定具が発達して子供でも時代決定が可能な時代だ。

  史実を知らない発掘屋など、

  存在価値がなくなってしまったのである。