2015年9月30日水曜日

レバノン杉と屋久杉


 ≪レバノン杉と屋久杉≫
 
  ≪スサノオの植樹はフェニキヤ文明の確証≫

  フェニキヤ人は、

  そのずば抜けた思考力と先進文化によって船を造り、

  その新しい移動手段を活用して、

  さらに新しい交易を考案実行し、
  
   富を築き国土を拡大して栄えた。

  その基礎になったのは、

  船材や香料や建築材としての植物の性質を研究して、

  加工し増殖する学術を発展させたことで、

  それが彼等の文化の著しい特徴である。
 
  『日本書紀』にはスサノオの尊が、
 
  子孫は「浮き宝=船」をもたなくてはいけないといって、

  髭や眉毛や体毛を抜いて蒔くと、

  それが種子になって杉や檜や楠などが生えたという話や、

  尊の皇子・五十猛の神と共に、

  樹木の種子を大八州に植えてまわったという話が載っている。

  『旧約聖書』のエゼキエル書に

  「カナン人はレバノン杉で汝の船の帆柱を造り、

   セニルの樅で汝の船板を造り、

   バシヤンの樫の木で汝の楫を造り、

   キティムの檜に象牙を嵌めて汝の甲板を造った」

  と書いてあり、
 
  フェニキヤ人以後、
 
  こうした木材を輸出して稼ぎまくったために、

  今ではレバノン杉は絶滅して見ることが出来ないが、

  フェニキヤ人はまさに文字通りの
 
  「船木屋」だったことを証言している。

  スサは、そのイラン植民地の大都市であり、

  そのスサの王の名乗りをもつスサノオのこの物語は、

  当時世界唯一のフェニキヤ文明が我が国に入って

  造船や植林産業を起こし、

  そのための必須教養として植物学知識が、
 
  説話様式による古代教育に

  新たに加えられた史実の『証拠』なのである。

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:16頁


 ≪スサノオの樹種(こだね)の記事は神話でなく史実≫

 言語以外の証拠はまだある。

 それはスサノオ父子の

 「樹種(こだね)」の子孫である。

 『日本書紀』にある一書には

 「五十猛命が天降った時、

  多くの樹種をもって下ったが、

  韓地には植えず、

  ことごとく持ち帰り、

  筑紫から大八洲中に

  播かない所はなく青山にした」とあり、

  その次の一書に、

  前記のスサノオの「浮宝」の話が載っていて、

  杉と楠は船に…、
 
  檜は家屋に…、

  槇(まき)は死者を葬る棺材にせよ。

  と命が言う。

  この杉と楠と檜と槇は

  今も我が国に現存しているが、

  全て列島古来の野生種ではなく、

  外部から持ち込まれた輸入品を

  栽培し続けていることが判っている。

  『日本書紀』のこの記事が

  真実だという生きた物証なのである。

  それが非常に古い時代の史実だという物証もまた、

  大量に残っている。
  
  それは鹿児島県の屋久島に聳える古代杉の一群だ。

  宮の浦岳登山道の高塚山付近にある縄文杉は、

  その樹齢3000年を超えると測定された古木で、

  ここ以外にそんな樹齢の杉はない。

  1000年以下の杉は「小杉」と呼ばれて、

  それ以上の木が屋久杉と呼ばれるほど老木が多いので、

  この島の杉がスサノオらが

  最初に植林した遺跡だということは間違いない。

  このスサノオの話は神話ではなく史実だったのである。

  その証拠に鹿児島県下には粟野の松尾城址などに、

  杉の巨木が天を衝いて聳えているのが現実に見られる。

  それはフェニキヤ文明の到来が

  3000年以上前であったことを、

  今も立証し続けている動かぬ証拠である。

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:19頁


  ≪移植は三千年以上前、樹種はレバノン杉≫

  今では世界唯一の、3000年を超える屋久杉は、
 
  『日本書紀』のスサノオ植樹の話が実話で、

  3000年以上前にスサから来た王が

  植えたものだったことを疑わせない。

  在来、疑わしい神話の、

  疑わしい架空の「神」とされて来た

  スサノオが、実際には実在していて、

  その伝承通りの植樹をし、

  その木が今も生きているからである。

  ところが垂仁天皇も、
 
  皇子のホムツワケも、

  他のスサノオ伝承に一致する点がある。

  彼等は3世紀の実在者と確認できているから、

  スサノオは一人ではなく、

  「スサの王」という名乗りだったと確定できる。

  それを一柱の神と錯覚し、似た話の分布を理由に、

  それは物語が運ばれてきたのだと史実を

  抹殺し続けてきた「神話学」は、

  根底から再検討されなければならないが、

  それにも増して重要なことは、

  スサノオ植樹が史実だという確認は、

  屋久杉が外来植物だという確認であり、

  原産地はどこかが問題になる。

  屋久島人は3000年以上前にそれを運べないから、

  運搬者はフェニキヤ人だと特定できる。

  とすれば屋久杉はレバノン原産の杉だと確定している。

  それがどこに移植されようと杉の原産地は他にはない。

  屋久杉はレバノン杉そのものだったのである。

  『聖書』の「レバノン杉」は絶滅などせずに、

  今でも屋久島で見られるのである。

  縄文杉:ウイルソン株の推定樹齢は三千余年。
      根回り32m、直径13m。

  縄文杉
  縄文杉

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:20~22頁


  ≪より高い海人文化だった我が国の古代文化≫

  こうしたウバイド、フェニキヤ、ギリシャなどの

  西方文化の渡来は、

  在来はすぐシルク・ロードによるものと即断されがちであった。

  しかしシルク・ロードの物資は、

  すべてが陸上運輸であって、海運によるものではない。

  その時代も、正倉院御物が証明するように、

  倭国が日本と改称した時代に、

  中国に唐という大消費者国が生まれたからであって、

  フェニキヤの海上貿易時代とは

  2000年ちかくの差があるのである。

  そしてさらにスサの王の目的は海上交通にあって、

  ラクダで砂漠を越えて荷を運ぶことではなかった。

  屋久杉たちは海上を運ばれて釆たのであって、

  乾操で苗がすぐ枯れてしまう砂漠を通って、

  のろのろと運ばれて来たものでは絶対にない。

  我が国の古代文化はより高い海人文化だったのだ。

  乗り物の発達が経済に大きくプラスすることは

  20世紀が証人である。

  そのため排気ガスによる地球壊滅が近付いても、
  
   車を野放しで造り続けているのである。

  太古の船は

  まさに自動車や航空機以上の経済と武力の

  格差を生んだのである。

  それに次いだのが馬やラクダだった。

  それは12世紀のモンゴルによる

  欧州席巻を見れば瞭熱である。

  正倉院御物中にも海上を運ばれてきたものが当然ある。

  展示物を全てラクダで運んだような錯覚を与える

  「シルク・ロード文明展」といった名称は、

  史実を歪める粗雑な表現である。

  「フェニキヤ軍艦」紀元前七百年の頃。二段櫂式。

  どう云うものか一段櫂式は最初から使われていなかった。
 
  フェニキヤ軍艦
  フェニキヤ軍艦

  ※出典:加治木義博・大学院講義録35:29頁



  ≪私達とスメル周辺古代名詞群の関連≫

    語源     日本語化   日本語名  要点
   
  A メソポタミヤ メスボツミヤ 雌母津宮 母系女帝国 

  B メソポ    ミズホ    瑞穂   沖縄発音化
      
  C タミヤ    タミヤ    田宮=民+ia民国(ヤ) ギリシャ語

  D タミヤ    デンク    デンク⇒テング    天狗 漢音

   メソポタミヤ  ミズホタミヤ 瑞穂田宮       瑞穂田の国

  E スサ     ソセ + ン  祖先         本土発音化

  F スサの王   スサ      杉挿之王       屋久杉の王

  G エラム    エラブ     永良部諸島       大隅発音化

  H フジスタン  フジサン    富士山          

  I スタン     スァン       サン           山

  J        フネザン    富子山  船山    海路標識山

  K ボセイドン  ホセイヅン   百済出水・出雲    大隅発音化

          フジイズン              海神の王

  ※出典:加治木義博・大学院講義録37:4頁

 
  ≪解けた「宿祢とは何か?」という謎≫

  このことで、

  もう一つ国史の中で大きな位置を占めている「宿祢」とは、

  どんな意味をもっ名詞かという謎が解けた。
 
  武内宿弥はスサノオで、

  屋久島に初めて杉を植えた人物、

  王であったことは間違いないから、

  古代皇族の名乗りにたくさん見られる

  「足」や「根」の称号で呼ばれても不思議ではない。

  「祢」は、その「根」とみて間違いない。

  では「宿」は何のことか?。

  鹿児島語では杉は「スッ」である。

  そして宿もまた「スッ」である。

  指宿は「イブスッ」と聞こえる。

  「宿祢」も、「杉根」も、

  どちらも「スッネ」である。

  ただ杉根は、

  「杉の木の根っこ」ではなくて、

  「杉の王」を意味していたのである。

  こう解ってみると

  スサノオ=猿田彦=大人弥五郎=武内宿祢の関係は、

  同一とみて微動だもしない。
 
  それはもちろん名乗りの上だけのことで、

  屋久島にレバノン杉を植えたスサノオと、

  壱与=神功皇后を助けた武内宿弥は時代が千年も違い、

  別人であることはいうまでもない。
 
  宿祢と同じものに「足尼」がある。

  こちらはソクニだから大隅人だとソクはスッになる。

  ニもネの大隅語。

  これはスッネという発音を聞いて、

  大隅人が当て字をつけたものということになる。
 
  さらに南九州では

  スッネは「少ない」でもあるから
 
  少名彦名の命でもある。
 
  ※出典:加治木義博・大学院講義録36:22頁

  ≪新教材「勝山古墳出土の木片」≫

  大学講義録31の発送準備が終わった後に、

  奈良の勝山古墳出土の木板に、

  紀元199年の特徴をもつ年輪があり、

  その外側にあったが削られてなくなっている部分も

  最大12年分だから、

  紀元180年から紀元190年にかけて伐採されたもので、

  勝山古墳は我が国最古の前方後円墳である可能性があると、

  例によって関西では特に大きく報道された。

  事前に関係者から情報を受けていたので、

  各紙をとって報道ぶりを比較してみたが、

  愛講者の皆様からも

  お住まい地域の報道状況をお知らせ戴いたので、

  ご関心にお答えしてご好意のお礼に代えたい。

  それが邪馬台国と結びつけられているので、

  「まだヤマタイコクなんて…」と笑ってしまわずに、

  この木片を教材として役立ててみよう。

  ご存じのことだが念のため

  『年輪考古学』を要約すると、

  太陽黒点の盛衰周期などの影響で

  地球気温は年ごとに変動するから、

  樹木の成長は一定していない。

  その年の気温差が年輪の大小になって『記録』されている。

  この記録は屋久杉(ヤクスギ)の切り株など

  1000年を超える樹齢のものの研究で、

  何年は高温で、

  何年は低温だったと判明しているから、

  寒暖に影響され易い樹木なら、

  その年輪の特徴を標準木の年齢と比較すれは、

  その木がいっ切られたか断定できる。

  今回の木板はヒノキで、

  スギに近い針葉樹だから、
 
  比較さえ精密なら、

  その年代は充分信頼できる。

  ※出典:加治木義博・大学講義録32:3頁


  ≪大隅は古代日本の中央で皇居のある首都圏≫

  でも、役人というのは、政府の役人のことで、
 
  たかが神社のお賓銭集めなどの名だとは思えない、
 
  コジつけだとお思いの方があるかもしれない。

  だが八幡様は今、言ったように
 
  応神天皇の「宮城」であり、「政府」だったのである。

  そこに働く職員が、役人の始まりだったのは、

  当然のことなのである。

  4世紀の応神天皇時代に、

  役人という代名詞が

  存在していたということの方が驚きである。

  大隅は、

  日本の「最涯ではなく」

  「中央で皇居のある首都」だった。

  それは頼朝の時代には、

  現代よりさらに強く意識し崇敬されていた地域だった。

  だからこそ頼朝は、

  愛する忠久にその土地を委ねたのである。

  これが理解できれば、八幡領の広大さは不思議ではなく、

  また武力で我が国の支配権を手にした頼朝が、

  天皇の落胤で自分の子である忠久を、

  当時の我が国南端の最涯の地に、

  なぜ送り込んだのか、その理由が明瞭にわかる。

  それでこそ嶋津氏とは何だったか?

  嶋津之庄とは何だったか?

  が、本当に理解できたのである。

  縄文時代にスサの王が移植した屋久杉について、
 
  念のためにつけ加えると、

  邪馬国は上屋久町で屋久島北部。
 
  狗奴国=久の国は南部の屋久町で、

  屋久杉は超古代のスサ

 (今はイランの都市)の王スサノオが、

  はるばる船で運んで来て植えたレバノン杉である。
 
  『日本書紀』には、

  八岐大蛇退治の後の「一書」に

  「浮き宝がないのはいけない」と言って、

  杉と楠とを植えた、と書いてある。

  その移植の時代は、
 
  古代シリヤにあった

  フェニキヤ=船木国(きや)が大船を使って、
 
  造船用のレバノン杉を世界に運んで売り歩くのを主体に、

  貿易で栄えていた時代である。

  だからスサノオノミコトという神名は、

  「スサの王」という名乗りで、

  決して個人名ではなく肩書きである。
 
  その証拠にはるか後世の『新漢書』にも

  「帥升・スイサヌウ」と名乗る倭の国王が、

  漢の都に来たと記録されている。

  ※出典:篤姫を生んだ鹿児島こそスメル八千年帝国の理想郷だった
      『言語復原史学会:加治木義博』
       KKロングセラーズ・162~163頁

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