ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2015年8月5日水曜日
建国記念の日
≪建国記念の日≫
今の建国記念の日、
戦前の紀元節の根拠とされたのは、
その即位の年が、
[神武紀]にある
「辛酉(しんゆう)の年だった」という記事である。
これは
「縁起をかついであとでつけたウソの干支(かんし)だ」
というのが今の定説だが、
崇神天皇の三八年もやはり辛酉の年で、
邪馬臺戦争直前の正始二年もまた辛酉年である。
『日本書紀』の
「辛酉記録」の日こそ、
私たち日本人が、
「建国記念の日」として、
尊重しようとしている日なのだから、
ここでいい加減に見過ごしてしまっては、なにもならない。
それは一体いつなのだろう?
それは
[西暦241年1月1日]=
「魏の少帝・芳の正始二年・
辛酉の春・庚申(こうしん)の朔の日(ついたち)である。」
しかし『記・紀』では
神武は戦争が終わったあと即位したことになっているし、
[崇神紀]では戦争は10年にあったことになっていて、
38年がこの「建国記念日」では、
間が伸びすぎていて話が合わない。
この主要ポイント[辛酉]は正確なのだから、
『記・紀』は修正が必要だということになる。
修正すると神武天皇の即位は241年。
戦闘は247年に終わって、
邪馬臺国政権はヒミコの死で滅び、
代わって邪馬壹国政権が誕生したのだから、
[神武紀]が7年後に政権をとったと
書いている記事の正しさが確認でき、
真実の建国史が甦(よみがえ)ったことになる。
※出典:加治木義博「JINMU:36・37頁」
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿