2015年7月8日水曜日

沖縄の古代産業「宝貝産業」

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 ≪沖縄の古代産業「宝貝産業」
 ≪沖縄の古代産業「宝貝産業」

 古代の沖縄の人たちは主として中国との交易で生活していた。

 なぜそれが分かるかというと、

 当時の沖縄地域の人口がなんと!

 350万人以上もあったという伝承もあるからである。

 これは狭い島が散らばっているだけの地方の人口としては、

 あまりにも多すぎるようにみえる。

 そんなに多くの人々が、

 どうして生活できたかという疑問が、まず先立つが、

 念入りに調べていくと納得のいくさまざまな事実が、

 次第に浮かび上がってきて立証されるのである。

 柳田国男氏の『海上の道』から引用してみよう(原文のまま)。

 「秦の始皇の世に、

  銅を通貨に鋳るやうになったまでは、

  中国の至宝は宝貝であり、

  其中でも2種のシプレア・モネタと称する

  黄に光る子安貝(こやすがい)は、

  一切の利欲願望の中心であった。

  今でもこの貝の産地は限られて居るが、

  極東の方面に至っては、

  我々の同胞種族が居住する群島周辺の珊瑚礁上より外には、

  近いあたりには、之を産する処は知られて居ない。

  殊に大陸の沿岸の如きは、

  北は朝鮮の半島から馬来印度(マレーインド)の果まで、

  稀にもこの貝の捕れるといふ例を聴かず、

  永い年代に亘ってすべて之を遠方の島に求めて居た。

  単なる暖流の影響といふ以上に、

  浅い岩瀬でないと生息しなかった為かと思はれる。

  今でも南海の産といふ言葉を、

  心軽く使っている人も有るやうだが、

  古くは嶺南の陸路は通じなかったのみで無く、

  海まで降り行けば

  必ず手に入るといふものでは決してなかったのである。

  金銀宝石と光輝を競ふことが、

  かの心理の根源ではあったらうけれども、

  同時に又是を手に入れる機会の乏しさが、

  今日の眼からは考えられぬほどの、

  異常なる貴重視を促したのかと思はれる。

  中国古代史学の発展につれて、

  此点は今後益々確実になって行くことが期待し得られる。

  殷の王朝が中原に進出した背後の勢力は東方に在った。

  所謂(いわゆる)東夷の海の営みの中で、

  今でも既にほぼ明らかになって居るのは、

  宝貝の供給であった」。

 古代のアジアでは「宝貝」は

 単に宝物であったばかりではない。

 それは通貨として

 アジアの政治経済を支配する「力」をもっていたのである。

 沖縄がその供給地だったとすれば

 大きな人口をもっていても不思議ではない。

 そこでこの話の信頼度を確かめるため、

 私(加治木義博)は世界の貝を研究してみた。

 そして『ヒミコ』に書いたような

 成果を挙げることができた。

 柳田さんが書いていることは事実だった。
 
 アジアの全域にわたって、

 沖縄近海産の宝貝が出土している。

 少し修正がいる部分としては、

 その学名が今は変わっていることぐらいである。

 それは「モネタリア・モネータ」という。

 「モネータ」は

 英語の「マネー」の語源であるラテン語で、

 貨幣のこと。

 「お金の中のお金」という名だ。

 日本では和名[キイロダカラ=黄色宝]と呼ばれるが、

 出土品をみると、

 ほかに[ハナビラダカラ=花辨宝]や

 [ハナマルユキ=花丸雪]も使われていたことが分かった。

 もちろん宝貝が通貨として役立ったのは、

 古い時代のことである。

 しかしその需要がはるか後世まで続いていた事実を、

 柳田氏は次のように再録している。

 「伊波普猷(いはふゆう)氏の書かれた

  『子安(こやす)貝の琉球語を中心として』

  といふ一文に、たった一つの例しか挙げていないが、

  宣徳(中国・明(ミン)代の年号)九年(1434年)

  といふ年に、

  明朝廷に輸送せられた琉球の青物目録には、

  海巴(カイバ)五百五十万個といふ大きな数字が見える」。

 「海巴」は明の時代の、宝貝の中国名である。

 宝貝がどんなにたくさんとれるといっても、

 実際に沖縄や奄美の海へいって採集してみると分かるが、

 今では見つけるのに苦労する。

 昔は多かったにしても、

 550万個という数が、どれくらい大きなものか、

 大変な労力と時間をかけて

 集め貯えたものか想像できると思う。

 だがここで重要なのは、

 沖縄がそれだけの宝貝を採集できる土地であり、

 またそれを製品化して輸出していたという事実である。

 ではそうした宝貝産業はいつごろから始まっていたのか?

 それは全島にある「貝塚」が教えてくれる。

 実は宝貝は食べてもおいしい。

 ところが沖縄の貝塚からは宝貝の穀は全く出ない。

 それは貝塚が作られた縄文・弥生時代

 すでに宝貝は貴重な輸出品であって、

 食用にすることが許されなかったことを、

 はっきり物語っているのである。

 柳田氏は沖縄で宝貝が首飾りに使わない事実、

 その理由や歴史を次のように書いている。

 「首飾りの習俗が久しく伝はり、

  是に宗教的関心を寄せ続けて居た社会に於て、

  どうして又あの様に手近に豊富に産出し、

  且つあれほどまで美しく、

  変化の奇を極めて居るといってよい宝の貝を、

  わざと避けたかと思ふばかり、

  利用の外に置いて居たのかといふことが

  説明せられねばならぬ。

  ……余りにも貴重なる宝の貝であった故に、

  それを自分の首飾りにすることのできぬ年月が

  長かった為であろう。

  ……(中国で)東夷といひ又島夷といった方面に於て、

  その最も明かな痕跡(こんせき)を永く留めたのは

  沖縄の諸島である。

  輸送が江准(コウワイ=南中国)の間に限られず

  ……後まで……

  なほ莫大なる輸出をして居たのが、

  この洋上の小王国であった」。

 ではその宝貝を供給して、

 世界経済を支えていたのは、

 どういう人々だったのであろう?。

 私(加治木義博)の『日本人のルーツ』で、

 やや詳しく説明してあるが再録してみよう。

 鎌倉時代の寛元元年(1243)九月、

 長崎県五島列島の小値賀(おじか)島から

 中国へ向け出航した日本商人が、

 台風にあって琉球列島へ漂着(ひようちやく)したときの

 見聞録『漂到流球国記』という文献が今も残っている。

 それにはその筆者の写生がそえられているが、

 そこに描かれた風俗は私が13回にわたり現地調査した

 タイ奥地からミャンマーヘかけて住む、

 カリエン人そのままである。

 ※出典:加治木義博
     「KKロングセラーズ・JINMU:98~102頁」

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