ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2015年7月21日火曜日
吉野(エヌ・エン)ヶ里遺跡
≪吉野(エヌ・エン)ヶ里遺跡≫
三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、
ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、
そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、
という記録が『魏書・韓章』には、
よくわかるように記録されている。
短く要点だけお話ししよう。
「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、
韓・濊(ワイ)は強盛。
郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。
建安(~220年)中、
公孫康は屯有(トンユウ)県以南の荒地を分けて帯方郡にして、
公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、
遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、
……倭・韓はついに帯方に属す」。
214年に靺鞨(マカラ)が
南鮮を荒らしたという記事はこのことである。
そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後漢の領土である。
その時代には倭国も3韓も、
その帯方郡の支配下にあったと、ここに明記してあるのである。
後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。
しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが
「帯方郡」の中に入れられてしまった。
それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。
卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。
『魏書東夷傳倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて
「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、
『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。
卑弥呼が女王に共立された当時は、
公孫氏の帯方、
のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。
その公孫氏の『燕』もこのあとに書くように
景初2年、魏に奇襲されて滅んでしまった。
燕は「エン」、中国訛りでは「エヌ」。
これに日本で当て字すると「吉野(エヌ)」。
いま邪馬台国の遺跡だと称している
佐賀県吉野ガ里(り)は、
その町村表示が「里(り)」という中国~半島様式で、
邪馬壹国や旁国の「国」でないことはもちろん、
ラマヤナの倭国様式でもないから、
間違いなく「燕」に関連のある漢人または半島人による遺跡で、
公孫氏時代の役所所在地の跡か、
あるいは燕の難民居住地遺跡かのどちらかである。
そこから出土した家屋遺構も小さな村落ていどのもので、
大屋が数万戸もあった女王国の首都の痕跡ではない。
そこは『魏書東夷傳倭人章』の地理条件にも全く合わないし、
また旁国との位置関係も全然一致するものがない。
ただ1つ確実な遺物はその地名だが、
それが「燕」を指し、
中国~半島様式の「里(り)」という村落名を
今だに名乗っているのは、
そこが特殊な歴史をもつ外人村落だったから、
千数百年、
手付かずで「吉野」と「里」が残されたのだと考えるしかない。
ところがこの吉野ガ里に至っては、そうした知的根拠は全くない。
※出典:加治木義博「大学講義録34:3・4頁」
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