2015年7月21日火曜日

吉野(エヌ・エン)ヶ里遺跡


 ≪吉野(エヌ・エン)ヶ里遺跡≫

 三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、

 ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、

 そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、

 という記録が『魏書・韓章』には、

 よくわかるように記録されている。

 短く要点だけお話ししよう。

 「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、

  韓・濊(ワイ)は強盛。

  郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。

  建安(~220年)中、

  公孫康は屯有(トンユウ)県以南の荒地を分けて帯方郡にして、

  公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、

  遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、

  ……倭・韓はついに帯方に属す」。       

 214年に靺鞨(マカラ)が

 南鮮を荒らしたという記事はこのことである。

 そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後漢の領土である。

 その時代には倭国も3韓も、

 その帯方郡の支配下にあったと、ここに明記してあるのである。

 後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。

 しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが

 「帯方郡」の中に入れられてしまった。

 それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。

 卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。

 『魏書東夷傳倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて

 「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、

 『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。

 卑弥呼が女王に共立された当時は、

 公孫氏の帯方、
 
 のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。

 その公孫氏の『燕』もこのあとに書くように

 景初2年、魏に奇襲されて滅んでしまった。

 燕は「エン」、中国訛りでは「エヌ」。

 これに日本で当て字すると「吉野(エヌ)」。

 いま邪馬台国の遺跡だと称している

 佐賀県吉野ガ里(り)は、

 その町村表示が「里(り)」という中国~半島様式で、

 邪馬壹国や旁国の「国」でないことはもちろん、

 ラマヤナの倭国様式でもないから、

 間違いなく「燕」に関連のある漢人または半島人による遺跡で、

 公孫氏時代の役所所在地の跡か、

 あるいは燕の難民居住地遺跡かのどちらかである。

 そこから出土した家屋遺構も小さな村落ていどのもので、

 大屋が数万戸もあった女王国の首都の痕跡ではない。

 そこは『魏書東夷傳倭人章』の地理条件にも全く合わないし、

 また旁国との位置関係も全然一致するものがない。

 ただ1つ確実な遺物はその地名だが、

 それが「燕」を指し、

 中国~半島様式の「里(り)」という村落名を

 今だに名乗っているのは、

 そこが特殊な歴史をもつ外人村落だったから、

 千数百年、

 手付かずで「吉野」と「里」が残されたのだと考えるしかない。

 ところがこの吉野ガ里に至っては、そうした知的根拠は全くない。

 ※出典:加治木義博「大学講義録34:3・4頁」

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