ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2015年7月20日月曜日
群山:帯方郡治
≪群山:帯方郡治≫
帯方郡使が出発した帯方郡の役所の所在地、
いわゆる「帯方郡治(ち)」はどこにあったか、
という謎が解け始める。
それは半島南半を治め、
同時に魏との往来にも便利な場所でなければならない。
車馬が少なく、陸行の困難な時代だから、
半島の中央部でもだめ、
東でもだめ、
南半の中心に近く、
西の海に出られる港でなければならない。
なぜ港だとわかるか、
それは帯方郡使の出発点を、
ただ「郡より倭に至る」と書くだけで、
「郡からどこの港へいって、そこから船出して…」と
断らないから、
郡(郡治=郡役所の所在地)が出発点で、
そこが港でもあったとわかるからである。
ではそれはどこだったのだろう?。
郡の都だったのだから、地名にもそれが残るはずである。
上記の条件に完全に合う地域に「群山」がある。
群の字が違うが、
そこは海岸で山の群れなどありはしないから、
当て字にきまっている。
とすれば群は郡の名残(なごり)、
山は権力の中心「本山(ほんざん)」とみると、
かっての帯方郡治(ち)の遺跡になる。
そこは大河。
「錦江」の河口にあり、
鹿児島湾の別名「錦江(きんこう)湾」
との密接な繋(つな)がりを語っている。
そこは後(のち)の半島百済喪失の舞台、
架空の白村江とされた場所でもあり、
その北の背後地に半島百済の首都で
王陵のある扶余(フヨ)がある。
南の背後地には大屯山国立公庫地域があって
公孫康の屯有県帯方郡を思い起こさせる。
これ以上の帯方郡治候補地はない。
ではそれが正しいか間違いか、
決定的な史料で判定してみよう。
史料は『魏書東夷傳倭人章』のコースと行程である。
よくご記憶だから原文だけにしておこう。
「郡至倭 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍未 到其北岸」
狗邪韓国 七千余里」。
この中でも最も強力な決め手が距離である。
到着点の狗邪韓国は巨済島だから、
それから約7000×55mの地域に群山があれば、
帯方郡治の位置として正解である。
当時の船は海岸に沿って進み、
毎日、夜には停泊して、翌日、また沖へ漕ぎ出す。
それを計算しながら海岸線を糸で辿って行くと、
ほぼ400Kmある。
7000×55mは 385km。
これに「余里」を足すと、ぴったり一致していることになる。
在来はこの帯方郡治を
今のソウル(京城)付近だとして疑わなかったが、
そこまでだと、
もう200km以上遠くなるから、
少なく見積もっても「一万余里」以上になる。
絶対にソウルでなかったことはいうまでもない。
この講座ではたびたび「定点」の重要さについてお話ししてきたが、
終わりに際して、
さらに強調して梯儁・張政の出発点。
それは『魏書東夷傳倭人章』の出発点でもある位置を
意義あるものにして戴きたかったのである。
こうして帯方郡使の倭国への出発点が確定すると、
私たちの倭人尺は、
『魏書東夷傳倭人章』の距離記事の信頼牲を、
絶対のものにしたということになる。
※出典:加治木義博「大学講義録34:11・12頁」
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