ブログのタイトルは、会社をリタイアし、これからの生涯の趣味として、若いときから日本の歴史(日本書紀・古事記を含む史実の研究)、興味をもっていた。特になぜ「大化の改新(乙巳の変)」なのかの疑問については、我が国の文化の源=メソポタミア文明にまでさかのぼって確かめておく必要があり、オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。私の至福(ひねもす徒然なるままに)は浦和レッズレディース&湘南ベルマーレの応援&歴史徒然のブログUP・ラフレさいたまでの温泉入浴&さいたま新都心コックンへの寄道&昭和歌謡を聞くこと。
2015年7月19日日曜日
平安朝の支配者は邪馬壹国系
≪平安朝の支配者は邪馬壹国系≫
播磨とその隣接地名を分析して、
倭国側と邪馬壹国側の子孫がそれぞれ移動して、
後世には隣りあった地域に住むようになったことが分かったが、
それでもまだ、神戸や宝塚、川西を含んでいた川辺郡が、
但馬、丹波といった北部地域に比べて、
暖かくてよい環境を占めているのはなぜか?
と考える必要が残っている。
このことは何を記録しているのか。
河邊=コウナベだから当て字を変えると
「高国部(コウナベ)」。
これは南海の高族と高句麗とに属した人々である。
そして位宮は、まさにその両方の王だった。
狗奴国は
沖縄語の高(ク)之国で
太古の「高麗人(カリエン)」以来の南海の支配者高氏。
彼らは併せて高句麗の支配者でもあったのだから、
この状態は後世の日本国の発展移動に伴い、
先発の倭国に強引に割り込んだ痕跡なのだ。
後世という証拠はまだある。
それは播磨国の首都・姫路だ。
これは姫児と書くと姫木との関係が見えて、
一層、巴利国らしくなるが、
姫木(ヒメコ)はそのまま
卑弥呼(ヒメコ)と読めるのに対し、
姫路(ヒメジ)はどんなにしても
卑弥呼(ヒメコ)とは読めないし、
位宮=山幸の伝承もここには全然ない。
またより後世にこの地域の国々がどう扱われていたかも問題だ。
平安時代の状態を『倭名類聚鈔』で見ると、
摂津は「国郡部」
筆頭の第五十二「畿内国」に入れてあるが、
播磨国は第五十七の「山陽国」にしか入っていない。
明らかに支配者は倭人側ではなく邪馬壹国側である。
※出典:加治木義博「大学講義録17:28頁」
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