2015年7月19日日曜日

平安朝の支配者は邪馬壹国系


 ≪平安朝の支配者は邪馬壹国系≫

 播磨とその隣接地名を分析して、

 倭国側と邪馬壹国側の子孫がそれぞれ移動して、

 後世には隣りあった地域に住むようになったことが分かったが、

 それでもまだ、神戸や宝塚、川西を含んでいた川辺郡が、

 但馬、丹波といった北部地域に比べて、

 暖かくてよい環境を占めているのはなぜか?

 と考える必要が残っている。

 このことは何を記録しているのか。

 河邊=コウナベだから当て字を変えると

 「高国部(コウナベ)」。

 これは南海の高族と高句麗とに属した人々である。

 そして位宮は、まさにその両方の王だった。

 狗奴国は

 沖縄語の高(ク)之国で

 太古の「高麗人(カリエン)」以来の南海の支配者高氏。

 彼らは併せて高句麗の支配者でもあったのだから、

 この状態は後世の日本国の発展移動に伴い、

 先発の倭国に強引に割り込んだ痕跡なのだ。

 後世という証拠はまだある。

 それは播磨国の首都・姫路だ。

 これは姫児と書くと姫木との関係が見えて、

 一層、巴利国らしくなるが、

 姫木(ヒメコ)はそのまま

 卑弥呼(ヒメコ)と読めるのに対し、

 姫路(ヒメジ)はどんなにしても

 卑弥呼(ヒメコ)とは読めないし、

 位宮=山幸の伝承もここには全然ない。

 またより後世にこの地域の国々がどう扱われていたかも問題だ。

 平安時代の状態を『倭名類聚鈔』で見ると、

 摂津は「国郡部」

 筆頭の第五十二「畿内国」に入れてあるが、

 播磨国は第五十七の「山陽国」にしか入っていない。

 明らかに支配者は倭人側ではなく邪馬壹国側である。

 ※出典:加治木義博「大学講義録17:28頁」

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